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――盛り上がった宴も終わり、食堂でソラはメイド達に混じってあと片付けをしていた。本来は別にソラが手伝う必要も無いのだが、なんとなくそうしていないと気持ちが落ち着かない。そんな矢先の事。
「ソラさん、少しよろしいかしら?」
「何でしょう?ラクス様」
不意にソラはラクスに呼び止められた。何だろうと少し戸惑っている彼女に、ラクスはいつもの笑顔でニコニコと微笑んでいる。
「私とお茶でもいたしませんか?雨が止んで、今夜はとても綺麗な月が見えますのよ」
折角の誘いを無碍にするわけにもいかないと思ったソラは「はい、喜んで」と短く返事をし、片付けもそこそこにラクスの後について行く。たどり着いた先は見晴らしのいいベランダで、そこからは広い夜空がとてもよく見渡せた。遠くに見える街の明かりはオロファト市のものだろう。
月が眩しくて今夜は明るかった。
少し冷たさの残る夜風が頬を撫でる。
今のソラにはそれが不思議な安心感を与えてくれた。胸の奥底に眠るモヤモヤを治めてくれる様な、そんな感じ。
「わあ……。本当に綺麗なお月様ですね、ラクス様」
「ええ。私もそう思いますわ」
残った雲の合間から見える月が、透き通った光で二人を照らす。今ここにはソラとラクスの二人きり。普段いるメイド達も一人もいない。
「このまま立ち話もなんですわね。座ってゆっくりお月様を愛でましょうか」
「あ、はい」
ベランダに据え付けられた小さなテーブルの上には、丸いティーポットとそして二人分の可愛らしいティーカップが用意されている。その横には可愛らしい花形の小鉢に盛り付けられた紅玉色のジャムが添えられていた。ソラはラクスに薦められるままに向かいの椅子に座る。すると手馴れた手つきでラクスは、茶葉を入れたティーポットに沸騰したお湯を注ぎ、ティーコゼーをかぶせた。
「ちょっと待って下さいね」
美味しいお茶を飲むには少々時間がかかる、というのはラクスからの受け売り。茶葉を蒸らすために待つ事2~3分。しばらく経ってラクスはポットの底を押さえて、くるっと横に円を描くように回した。紅茶の濃さが均等にするためだ。そして茶こしを使って茶葉をこしながら紅茶を注ぐと、小さなカップはたちまち琥珀色で満たされる。
「さあ、どうぞ。少し熱いですから気をつけてくださいね」
湯気の向こうには歌姫がにこやかに笑っている。月明かりに照らされてそれはどこか夢のよう。
「はい。いただきます」
カップを口元に運ぶと、花の様な香りが心地よく鼻をくすぐる。ふうふうと少し湯冷ましをして、少しだけ飲んだ。
「あったかい……」
ほのかな温かさが体に染み渡る。一方、カップを手にラクスも紅茶の香り楽しんでいる様だ。彼女は紅茶を少し飲んだ後、小皿のジャムを口に運ぶ。
「ジャムがお茶請けなんですか?ラクス様」
「ええ、ロシアンティーですわ」
「ロシアンティー……」
「添えたジャムを舐めながらお茶をいただくそうですのよ。お茶の中にジャムを入れる方もいるようですわね」
ソラもジャムをスプーンに掬って舐めてみる。柑橘系の甘さが口の中に広がる。すると少し体がポカポカしてきた。美味しいが、味わい慣れない不思議な違和感もある。
「……あのラクス様。もしかしてジャムに何か入ってませんか?」
「あらあら、お口に合わなかったかしら?ラズベリージャムにちょっとウォッカを入れてみましたの」
「ウ、ウォッカ?それって、とっても強いお酒ですよね」
「ええ。ロシアンティーではそうしますの。ロシアの冬はとても寒いでしょう?それであちらの人達はそうやって体を温めていたそうですわ」
赤道近いオーブとはいえ夜の外は寒い。吹きさらしのベランダにいれば体が冷え切ってもおかしくないのだが、ロシアンティーのおかげなのか不思議とそうは感じない。
「確かに今もこうしてずっと外にいるのに、あまり寒くありませんね」
「でしょう?きっとソラさんが以前いたガルナハンでもそうしていたんですわ。あそこもロシアですしね」
「ガルナハン……」
「ええ」
――ガルナハン。
その言葉に導かれ、たちまち懐かしい思い出が脳裏を駆け巡る。余所者で厄介者だった自分にとても親切だったリヴァイブでの思い出。
寡黙だが優しかったシン。
陽気で人思いなコニール。
暖かく見守ってくれたセンセイ。
おっちょこちょいだけど、いつも陽気なナラ。
どこか変で奇妙だったけど、何でも答えてくれた仮面のリーダー。
いろいろ料理をしたり、パーティーをしたり、みんないい人だった。しかしその一方で繰り広げられる残酷な現実も目の当たりにした。
常に漂うオイルと硝煙の香り。
絶え間ない戦いの日々。
嘘に塗り固められた報道。
極寒の世界で、食べ物とも思えないものを口にしながら飢えをしのぐ貧しい人々。
……そしてターニャの事。
密かに胸の奥にしまっていたものが、みるみる内にこみ上げて来た。ソラのほほを一筋の涙が伝う。涙はかれることなく流れ続け、いつしか口からは嗚咽が漏れ始める。
「ソラさん?」
気遣うラクスにソラは小さくぽつりと呟いた。
「友達が、死んだんです」
風が二人の間を流れていく。沈黙と共に。少し戸惑いながらも、ラクスはゆっくりと話しかけた。
「……お友達が……亡くなられたのですの?」
「はい……。ガルナハンで友達が出来たんです。ターニャっていう名前の子なんです」
「ターニャさん……」
それ以上、ラクスは何も言わない。静かにソラの話を聞いている。ソラの口から自然と言葉が溢れてきた。
「ターニャって、最初は嫌な子だと思ってたんです。私に『オーブのお姫様』とか嫌味ばかり言って来て。でも……私、何も知らなかったんです。あそこは食べるものもほとんど無くて……貧しくて、苦しくて……。ターニャは私に怒ってたんじゃなかったんです。オーブに怒ってたんです」
「オーブに?」
「はい、ターニャは言ってました。オーブが何もかも奪っていくって。だから自分は戦うって」
「……」
「それが分かってから、いろいろ言い合いもしたけど、私達友達になりました。国は国、私達は私達って。市場で二人でドネルケバブ食べたり、いろいろ話し合ったり……楽しかったな」
ソラは夜空を見上げる。遠い記憶に想いをはせる様に。
「でも、ターニャは死んだんです。帰りに私達の乗っていたトラックが軍のヘリに銃撃されて、その時に……」
不意に涙がこぼれる。
「……ターニャが大怪我をして苦しんでるのに私、ただ黙って見てるしかできなかったんです……」
「……」
ラクスは黙っている。ただただ静かにじっとソラを見つめている。
「なのにそんな私を誰も責めませんでした。ターニャのお爺さんも、大尉さんも、シンさんも。私にだって責任があるはずなのに。何も出来なかった私にだって……」
シンという名前を聞いてラクスはふとそれが記憶の片隅にあったのを思い出す。そう、以前キラに聞いた事があったのだ。前大戦ではアスランの部下で、アスランは今でもそのシンという人物の事を気にかけているらしい、と。そしてキラもそのシンが何を考え、何を思っているのか知りたい、と。
「シンさん?その方は……?」
ラクスの問いにソラは小さく答える。
「はい、私を誘拐した人です。カガリ様が撃たれたあの日、あの人がオーブから逃げるのに私巻き込まれちゃったんです。その時は凄く怖かったんです。これからどうなるんだろう。家に帰れなくなっちゃうのかな。ひょっとして殺されちゃうかもって、いろいろ考えたりして。レジスタンスの人達から見れば私も憎いオーブ人ですから。……でも」
「でも?」
「リヴァイブの人達も優しかったんです。巻き込んで悪かったね、って謝ってくれて。そこでも私、たくさん優しくしてもらいました。シンさんだけじゃありません。コニールさん、リーダー、センセイ、ナラ君……。本当にいろんな人達にいっぱいいっぱい優しくしてもらいました。ううん、リヴァイブの人達だけじゃありません。今だってジェスさんやアスランさん、メイリンさん、ガガリ様にキラ様、そしてラクス様にまで……」
うつむいたまま紡がれるその言葉には、いつの間にか涙がにじんでいた。
「世界中のあちこちで皆が戦って倒れて、傷ついたり死んだりしているのを私、向こうで知りました。でもそういうのを見ておきながら私、いろんな人達に甘えさせてもらってるだけで、誰にも何もしてあげられないんです。戦争で親を亡くしたあの孤児の子達にも、ターニャの時と同じ様にただ見てるだけで……」
最後にソラはうつむいてポツリとこぼした。
「ずるいですね、こんなの」
レジスタンスと統一連合。
両者は互いに恨み憎しみ合い、そして相手に怒りや悲しみの声をぶつける。
親を、子を、友を、恋人を、そして自分を互いに傷つけあい殺しあう。
果ての無い憎悪の連鎖の中、ソラは奇しくも両陣営に身を置いた。
ターニャの命を奪ったのが統一連合の銃弾なら、あの図書室にいた幼子の両親の命を奪ったのはレジスタンスの銃弾なのかもしれない。
そういう両者の過酷な現実を目の当たりにしておきながら、ソラは自分が一人責め苦の渦中から逃れ、ラクスの慈悲の元で安穏としていた事に気づいてしまった。向こうではシン達の優しさに保護され、今ここではラクスの優しさに寄り添っているのだ。忘れてはならない現実に背を向けて。
卑怯だ、と思った。
これではただのいいとこ取りだ。今の自分をターニャが見たら何というだろうか。絶え間ない自己嫌悪でソラの胸中はいっぱいになる。
「……」
ソラはそれ以上何も言わない。言えなかった。
穏やかな夜風が二人の髪を撫でる。カップの琥珀色が風に揺らされて小さな水面を揺らしていた。
するとそれまで黙っていた歌姫が、一言ささやく。
「大丈夫ですわ、ソラさん……。貴方は……貴方はそのままでいいのです」
と。
その言葉にソラははっと顔を上げる。戸惑いを驚きを見せて。ラクスはそんなソラを静かに見つめている。まるで我が子を愛おしむ母のような、あの微笑みを浮かべていた。
「で、でも……。だって……私……私……!」
――卑怯じゃないですか。
――ずるいじゃないですか。
――偶然レジスタンスにさらわれたというだけで、こんなにも大勢の人達に優しくしてもらっているんですよ。
――何も出来ない、何もしてあげられない無力な私なのに。
そう言おう。そう言おうとソラは思った。でも何故か言葉が出てこない。喉の奥までこみ上げてきてるのに、何かに引っかかったように出てこない。代わりに涙がとめどなくあふれてきた。
ポロポロと、ポロポロと。
するとラクスはすっと立ち上がり、ソラのもとに歩み寄った。
「……ラ、ラクス様?」
「お静かに」
そしてラクスはそっとソラを抱きしめる。ソラもそれに逆らわず、その身を預ける。
トクン……。
トクン……。
ソラの耳にラクスの心臓の鼓動が聞える。いつしか涙は止まり暖かなラクスのぬくもりに包まれたソラがいた。伝わる肌の暖かみは遠い過去に忘れてきた、まるで母親の胸に抱かれている幼子の頃のような感覚だった。次第に高ぶった気持ちが静まっていくのがわかる。
「落ち着きました?」
「……はい、ラクス様。取り乱しちゃってすいません」
「そう、よかったですわ。ソラさん、貴方はとても優しい子ですのね……」
「ラクス様……なんで……なんで世界はこんなに血みどろなのに、私はこんなところにいて、こんなにいろんな人達から優しくされていいんですか?」
自分の思いをそのまま言葉にするソラに、ラクスはニコリと微笑んで答えた。
「それが出会いというものですわ、ソラさん」
「出会い……」
「そうです。どんなに辛い世界でも優しい出会いがありますわ。逆にどんなに優しい世界でも辛い出会いもあるのです。でもそれをただの過去や思い出にしてしまうのか、それともこれからの貴方の道標にするのかは、それは全て貴方次第なのですよ」
「私次第……。道標……」
「知らない出来事、新しい出会い。そんな時に自分の思った通りの事が出来る人なんて滅多にいませんわ。ただ仕方なく流されるままになってしまうのがほとんどでしょうね」
コクリとソラは頷く。確かに今の自分はその通りだった。
「でもそうした経験に無駄にせず、自分はどうしたらいいのか、どうしたら良かったのかを常に考え続けていれば、いつか何も出来ないと思ってた自分にもきっと何かが出来る時が来ますわ。そうしたら何をするのかをまず決めて、それをやり遂げるのです」
「まず決める、そしてやり遂げる……」
「そう、何が出来かどうかでは無く、何かをする事が大事なのですよ。だから今を悔やんだり、過去を嘆いていても駄目なのです。これからの事を、明日の未来を見ていかなければいけませんわ」
夜雲が次第に晴れていく。天頂から月の光が二人を照らす。ラクスの言葉にソラは衝撃を受けていた。
――シンやリヴァイブのメンバー達との出会い。
――ターニャとの出会い。
――アスランやメイリン、カガリにキラとの出会い。
――そしてラクス。
彼らと出会ってから辛い事、楽しい事、悲しい事、様々な事を経験した。しかし圧倒的な現実の前にただソラは無力なままで、こうして時折思い出しては一喜一憂するのが精一杯だった。でもそんな彼女にラクスは道標を与えたのだ。これから自分がどうすればいいのかを。今まで心にうっすらとかかっていた霞が晴れていく。歌姫がもう一度、ソラに言う。
「ソラさん、貴方はそのままでいいのですよ。今の貴方のままで未来を見つめていて下さい……」
不意にあの人の言葉が、ソラの頭の中に響き渡った気がした。
(ソラ―――あんたはそのままで居てくれ。そのままで―――)
涙はもう乾いていた。
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