冷たくならないで

ページ名:冷たくならないで

こんな嫌な空気は前にもあった。シンの脳裏に苦い思い出が蘇る。いつ暴発するか分からない銃をこめかみに突きつけられているような、そんな感覚。


「アイツがいたらなんて言っただろうな。『ガルナハンにレシプロ機で帰ってきたことを思い出すな。あの時と同じと思えば苦でもないだろう』……とでも言うか。ま、皮肉のひとつも言えるAIってのは優秀かもしれないが……」


シンはハンドルを握りながら、ここにいないレイに毒づいた。八つ当たりだが一方で、こういう時に愚痴を聞いてくれる相手がいないのは何とも心寂しいとも思う。





小雪がチラチラ舞う寒空の街道を、一台のトラックが所々白く染まった大地を横目に州都に向かう。なぜか席にはシンが一人だけ。ソラとターニャは後ろの荷台に二人は向かい合うようにして座っている。

ガルナハンの冬は極寒だ。

今日は幸いそんなに気温は低くないが、それでも荷台では凍えてしまう。分厚い防寒着に身を包み、携帯カイロまで懐にして、ソラとターニャはじっと黙ってお互いを見つめていた。本来はシンとソラが運転席に座り、そしてターニャが荷台に座る事になっていた。ところがターニャの嫌味が事情を複雑にしてしまう。


「オーブの姫様は、家でじっとしていればいいのに。こんなオンボロトラックじゃあ、か弱いお尻の皮が擦りむけちゃうわよ」


さすがにこうまで言われては、ソラも頭にきた。ターニャが荷台に乗るとシンが静止する間もなく、今度はソラは自ら荷台に上がりターニャの真向かいに座った。


「ふん、無理しちゃってさ」


ターニャは小ばかにした視線を向けるが、ソラは黙って相手の顔を睨み付ける。そしてトラックが出発したのだが、以降ずっと二人は無言のままだった。


「……」

「……」


ただお互いの間を嫌悪と侮蔑の視線が交錯する。暗く淀んだ気配をシンはひしひしと背中に感じた。おかげでどうにもシンはなかなか運転に身が入らない。対向車の無い田舎道なのが幸いというべきか、早く目的地の州都ガルナハンに着いてほしいと思うだけだった。





土地に住む古老はこう言う。昔この街は炎の街だったと。

カスピ海に面したガルナハンはかつて石油産出で潤った街だ。無数の石油プラントが立ち並び、鉄塔の先からは幾重もの炎柱を吹き上げる。まるで焔の森のごとく。

そこでは屈強な男達が一日中、大地の底から吹き出るオイルと格闘し、夕刻には汗と油汚れにまみれて街に帰ってきた。男達は夜通し酒と女と喧嘩に明け暮れ、朝には再び石油プラントの群れに向かう――。そんな祭りにも似た活況は永遠に続くと思われたが、石油の枯渇でそれは終わった。そして今に至る。


東ユーラシア共和国コーカサス州、州都ガルナハン。


”都”と言う名前がつくだけあって、冬であってもそれなりに人の往来が活発だった。建物も密集しており、それなりに都会という雰囲気のある町並みである。電気もきちんと供給されており、店のショーウィンドにはきちんと照明があてられていたが、一方で三つあるライトのうち二つの電球が切れているのに、放置されたままだ。それに並んでいる商品は少ない感じだった。中の棚も何も無い空白の棚が結構目立つ。街の建物の壁にはヒビが入り、所々に穴が空いていて、店に立つ人々もどこか重く、沈んでいた。


――街は沈黙していた。


(やっぱり……オーブとは違うなあ)


街を中央に走るメインストリートを一望したソラはそう思った。美しく整った高層ビルの狭間を無数の車や人々が行きかい、店には色とりどり溢れんばかりの様々な品が並ぶ。絶え間なく喧騒が続くオーブ。そんなあの国の街並みとはまるで違い、ここは寒々としていた。


「静かな街ですね…」

「俺は詳しくは知らないが、昔石油が採れていた時はかなり賑っていたらしい。でもそれが枯渇してからはすっかりこのザマだ。今は地熱プラントが主流だが、あれは北部や中部地方とここからは随分離れているからな」

「――その地熱プラントも全部オーブ系の外資が握っていて、この州にはおこぼれすら落ちてこないわよ。東ユーラシアの本国政府はオーブの言いなりだからどうしようもないわ。プラントがこの州のものだったら、昔のようにこの街も賑わうのに」


シンの説明にターニャが吐き捨てるようにいう。


「オーブに食いつぶされてるのよ、この国は」

「…」


この街の実情が自分とは直接関わりあいは無い。しかしソラは何か自分が責められているような気がしてならなかった。


「しかし、この静けさはやっぱりアレのせいかな」

「ああ、アレね」


ソラには二人が何を言っているか分からない。


「シンさん。何なんですか?アレって」

「ほら、アレだ」


そう言うとシンは街角を指差した。そのずっと先には、ビルの角に佇む装甲車と軍用コートを着込んだ武装軍人が立っている。


「……!?」

「臨検の憲兵達だ。さっき横断した大通りにもいたよ。おそらく街のあちこちに配備されてるんだろう。ちょっとした戒厳令…ってところだな」


街の中を日常的に政府軍の兵士が銃を構えて歩いている。軍用ジープも警邏のために道を走り回っている。それを見つめる住人たちの視線は、お世辞にも好意的なものとは言えない。まるで街全体が息を潜めじっと辺りをうかがう…、そんな感じだった。


「普段はこんなに多くないんだけどね。どこかの誰かさん達が大活躍したから」


皮肉っぽく笑うターニャを横目に見ながら、シンはふと考える。この警備状況から考えると長居は危険だろう。今回の任務は二つ。情報収集と、万が一の時ソラが役所に駆け込む事が出来るよう道を覚えさせる事、つまり道案内だ。どちらもそれなりに時間はかかるし、三人で回ってたのでは目に付くだろう。ここは――。


「……ターニャ、ソラ。二人に頼みがある」

「頼みって?」

「何ですか?シンさん」

「実はな……」


シンの次の言葉を聞いた二人は、あからさまに嫌な顔をした。






吐く息。

白い。

吸う空気。

冷たい。

そしてそれらは一様に重かった。


感じるこの気分は、小雪混じりの天気のせいだけじゃない、とソラは思った。そこかしこに軍人達が立つ、この街の雰囲気のせいもあるだろう。オーブでも警官や軍人の姿を見かけることこそあったが、それが威圧感や嫌悪感を起こすようなことはなかった。しかしそれ以上にソラを沈んだ気分にさせていたのは、そばにいるターニャの存在だ。不愉快、という気配を辺りにみなぎらせてとりつく暇も無い。


「ほら、さっさと歩きな。ボヤボヤすんじゃないよ。ったくグズだね」


足早に歩くターニャになんとかソラはついていく。だが少し離れるとターニャが鬱陶しそうにソラを叱責してきた。その度にソラは睨み付けるが、彼女の方はまったく意に介さず歩みを止めない。ソラも一人にされては迷子になってしまうので、仕方なくその後を続く。今、ここにシンはいない。街に入ると、シンはターニャにソラの案内をするよう言い残して、リーダーから支持された情報提供者と会うため、二人と別れたのである。

二人には念のため、簡単ではあるが変装をさせている。本来ならば安全のため原則は三人一緒で行動するようにと、事前に大尉からは言われていた。しかしそれでは時間がかかり過ぎるとシンは考えたのだ。街の厳戒状況を考えれば、あまり長居していい状況ではないし、それに三人連れはどうしても目立つ。職務質問や臨検に引っかかる確立もかなり上がるだろう。ソラを連れている以上、いつかボロが出る危険が極めて高い。それはどうしても避けたい事だった。そこでシンは二人にこう提案してきたのだった。


「この街の状況じゃ長逗留することもできない。仕方が無いが別行動にしよう。俺は情報屋のところに行く。ターニャはソラを案内してやってくれ」


二人の仲の悪さは判っていたが、ここは速やかに仕事を終わらせるのが最上だろうと判断したのだ。シンの提案にターニャとソラはともに渋面を作ってみせたものの、最終的にそれに従った。待ち合わせの場所と時刻を打ち合わせ、三人は別れた。それでソラとターニャは二人きりで行動している、というわけなのだった。だが――。


「ここの路地は雪が降ると通れなくなるよ。その時は一本向こうの道を迂回してね」


ターニャの案内は素っ気無い、というよりトゲを含んだものだった。言葉の端々に嫌味をぶつけてくる。


「それにしてもいやな天気だね、雪ばっかりでさ。まあ、常夏のオーブじゃありえない天気だろうけど。気軽でいいね、オーブ人はさ。じゃ、次行くよ」

「……」


ソラの存在などどうでもいいかのように、ターニャは次の目的地に向かう。今のソラはその背中をむっとした眼差しで見詰めながら、黙ってついていくしかなかった。






ソラとターニャが気まずい時間を過ごしている頃、シンは情報屋と接触していた。

相手は小柄で目つきの鋭い老人。表向きは街裏路地の奥深くにある、怪しげな漢方薬店の店主なのだが、実は裏ではレジスタンスに協力する情報屋の親父なのである。外見からしてどこか掴みどころの無い奇妙な気配を漂わせた老人だったが、かえってそれがカモフラージュになるのかもしれない。ついそんなたわいも無い事をシンは考えてしまう。暗い店の奥の客間で、何が入っているのか疑ってしまうような臭いのきつい中国茶を勧めながら、その老人はシンに東ユーラシア軍ガルナハン方面部隊の動向に関する情報を説明していた。


「ドーベルマン……」

「ドーベルマン?」

「そう。奴はそう呼ばれておる。治安警察でも結構有名な男でなあ。『猟犬』とも呼ばれておるよ。ご主人様のためにあっちこっちで歯向かう連中を噛み殺して回っとる獰猛な軍用犬というところじゃな。確か……太洋州連合で起きたオセアニア紛争にも出とったはずじゃ。結構な武勲を挙げたと聞いちょるよ。大方その腕を買われてここに来たんじゃんろうな。もっともこっちはあっちのようには上手くいっとらんようじゃが。ヒッヒッヒ」


奇妙に笑うと老人は、きつい異臭を発する茶をずずっと音を立ててすする。

オセアニア紛争は統一地球圏連合の強引なやり方に反発した、反オーブ派の国民と亡命したサフト軍人達が起こした紛争だ。途中、九十日革命のせいでほとんどの正規軍が抜け、僅かに残った一部の部隊と代わりに動員された治安警察軍の手でなんとか鎮圧したのだった。もっとも鎮圧したとはいえそれは表向きで、まだ火種は燻っているが。シンは以前仕入れた知識の記憶を手繰りながらも、向かうべき相手が手ごわい事を認識する。


「手練だな……。それでそのドーベルマンの本名は?」

「本名か?儂も知らんよ。しかし軍の名簿にもそう記載されているし、そのまま呼ばれてもいるんだから仕方がない。それがニックネームなのかどうかは、お前さんには大した問題じゃないじゃろう?」


情報屋の老人はそう言うと、余計な説明は抜きとばかりに説明を再開した。


「もう一度言うが、東ユーラシア軍に治安警察から派遣されている指揮官はドーベルマンという男だ。今のところ、ガルナハン方面への作戦はこいつの指示でほとんど行なわれておる。腕も立つし頭も切れる。あんまり敵にはしたくない奴じゃな。ただな、先刻、お前さん方がアリーでやっこさんの部下を倒しただろう?そのせいで、失敗の責任を取らされて更迭されるか、よくても左遷させられるか、って話が出とる。いたくプライドの高い男のようでな。そのせいであんた達に必ず一矢報いると考えとるらしいわ。文字通り手負いの獣というやつじゃな。くれぐれも用心するんじゃなあ。ヒッヒッヒッ」

「『猟犬』ドーベルマン……か」


老人は再び奇妙に笑うと、その他の情報は纏めてあるからと光学ディスクをシンに押し付ける。そして話は終わりだとばかりに店の奥に引っ込んでしまった。これ以上は得るものがないと判断したシンは、ターニャとソラと待ち合わせの場所へ向かう事にする。


「あいつら、喧嘩してなきゃいいんだがなあ……胃が痛い」


こっちの仕事は終わった。あとはひたすらそれだけをシンは願わずいられなかった。






灰色の空の下、灰色の街並みに囲まれた、灰色の通りを金髪の少女が黙々と歩く。その後ろを濃い茶色の髪の少女がトコトコとおぼつかない足取りでついてくる。


「あそこの建物が、統一連合の外交官の官舎さ。最悪あそこに駆け込むんだね。確か今はオーブ出身の外交官がいるはずだから。まあ、そいつも、こんな辺鄙な街からはすぐにでも出たいと思っているだろうねえ。どこぞのお姫様と同じで」

「……」


街の中心部にある厳つい建物の並ぶ一角を指してターニャがいう。ただし相変わらず嫌味を交えて。ただソラは黙ってそれを聞いていた。


「何、その目つき」

「別に……。何でもありません」

「あっそ」


ムカツク。うっとおしい。早くとっとと消えて欲しい。

ターニャの胸の中に吐きたくなる様なドス黒い感情が渦巻く。自分の後ろをおっかなびっくりついてくるソラを見ると、たまらずそんな感情が体の中からこみ上げてくる。何も出来ないくせに、誰からも愛され、心配されている少女。誘拐されたとはいえ、こんな地の果てに来てまで、図々しく厚かましく厚遇されるオーブのお姫様。

それはシンの様子を見ればそれはすぐに分かったし、ターニャにはそれが何より許せなかった。ソラと自分を見比べてる。

自分の髪の毛は艶も無く、抜け毛や枝毛だらけで満足に手入れもできない無残な有様。なのにソラの髪は艶やかで、綺麗に整っている。自分の手は野良仕事や冬場の水仕事で、あかぎれやひび割れでボロボロの肌。なのにソラの手は傷ひとつ無い、透き通るような美しい肌。

同じような歳なのに、ガルナハンに生まれ育ったというだけで、オーブに生まれ育ったというだけでこうも違うのか。一方は今日の食事にも事欠く貧しさにあえぎ、もう一方は”貧困”など辞書の上でしか知らないような全てに満たされた世界にいる。そして何もない貧しい世界の自分が、裕福な世界に住むソラを今は助けねばならない。その事実がターニャの怒りを掻き立てていた。


(……ったく。早く終わらせればいいんだわ)


いつまでも考えても仕方がない。そうすればこの嫌な気分からも解放される。報酬が入ったら、お爺ちゃんに何かいいものでも買ってあげよう。ターニャはソラを見ると、いきなり彼女に問いただした。


「で、あんた道順覚えた?」

「え?」


不意に話を向けられてソラは戸惑う。


「道順よ。み・ち・じゅ・ん。ここまでどうやって来るのか。アンタ一人でもう来れるのかい?」

「……だ、大体は……」

「じゃ、ここの二つ前に教えた目印は何?覚えたんでしょう?」


困った。ターニャへの苛立ちが先行して、肝心なところを聞き逃していたらしい。


「……え、えっと……」


必死に記憶を手繰るが満足に出てこない。


「はぁ?もしかして全然覚えてないの!?何それ!?あんた人の話全然聞いてなかったってわけ?あっきれたっ!」「ご、ごめんなさい……」


弱々しく謝るソラだったが、ターニャはここぞとばかりに問い詰める。


「せっかくあたしが手取り足取り教えたのにさ!あんたオーブの学校で何学んできたの?貧乏人のいう事は聞かなくってもいいですってか?」

「……」

ターニャの中で何かが弾けた。嫌味が、怒りが止まらない。篭っていた黒い感情が次から次へと口に出てくる。


「ハッ!金持ちオーブの方々は下々の下賎な声なんて耳に届かないわけですかねえ」

「……」

「今からでもさっきの外交官官舎に飛び込めば?さっさとオーブに帰って、こんな貧乏な街のことなんか綺麗さっぱり忘れなよ。ああうらやましいねえ、オーブのお姫様はさ」

「……」


先の見えない貧しい境遇。自分達を踏み台にして繁栄を謳歌するオーブへの怒り。自分は麦粥が精一杯なのに、それを拒否したオーブ人への怒り。うつむく目の前の少女にぶつけるのは筋違いだと、自分の中の誰かが小さな声を上げる。そんな声はたちまち怒りにかき消され、一向に止まらなかった。ところが次々と罵声を浴びせていると、黙り込んでいたソラが小声で何か言っているのに、ターニャは気づいた。


「…………」


だがよく聞えない。見下す様にターニャはソラに言い放つ。


「はぁ?さっぱり聞えないんだけど?何か言いたい事があったらハッキリ言えばあ?お姫様」


とその時、不意に怒鳴り声が響いた。


「もういいかげんにしてって、言ってるのよ!!」


付近を歩いていた人々も何事かと振り向く。ソラの豹変にターニャも驚いた。見ればさっきまで子犬のように縮こまっていたソラの様子が一変していた。


「さっきから黙ってれば好き放題言って……!あなたに私の何が分かるってのよ!!オーブのお姫様ぁ?ふざけんじゃないわよ!私はそんな大層な身分じゃないわ!」


肩をいからせ、怒気に満ちた目で睨みつけている。殺気すら漂ってきそうだ。


「オーブ!オーブ!オーブ!!さっきからそればっかり!!確かに私はオーブ人だけど、あなたにここまで言われる筋合いは無いわよ!」


豹変した様子に戸惑っていたターニャだったが、伊達に戦場を潜り抜けたわけではない。罵声を張り上げ言い返すターニャに負けじとソラも応戦した。


「黙って聞いてりゃ、偉そうによく言うわね!人の親切土足で蹴飛ばすのがオーブのやり方かい!」

「はぁ?どこが親切?ずっと嫌味ばっかりじゃない。自分が話した事ももうお忘れ?」

「こ、この糞アマ……っっ」


大声を上げての女の子二人の喧嘩に、「どうしたんだ?」「こんな所で喧嘩か?」と道行く人々も驚いて振り向く。だがそんな周囲の視線を他所に、少女二人の罵りあいが往来で展開していく。二人の暴走は止まらない。


「あー!ムカツクね!だいたいオーブっていうだけでアタシにとっちゃ、聞いただけでぶち殺したい相手なんだよ!人の国でデカイ顔しやがってさ!」

「何それ!?馬鹿じゃない?私はこの国に何かした覚えなんてないわよ!」

「とぼけんじゃないわよ!アタシの国から何もかも奪って、肥え太ってるのはアンタの国じゃないか!アタシ等が貧しいのは全部アンタ達オーブ人のせいなんだよ!オーブで金持ち生活してるアンタも同罪なんだよ!」

「はあ?私は別に金持ちでも何でもないわよ!バイトだってやってるんだから」

「大した苦労もしてないのに口だけは一丁前だね。こっちは生きるか死ぬかの瀬戸際なんだよ。おかげで弟も母も死んで、家族はお爺ちゃんだけさ!」


「家族なんて私にはもう誰もいないわよ!」


その言葉を聞いた瞬間、ターニャの勢いが止まった。


「……え?」

「パパもママも死んじゃったわよ!7年間、オーブに連合が攻めてきた時に、私だけ残して死んじゃったんだから……!」

「……」

「あなたにはお爺ちゃんがいるじゃない……!私にはもう誰もいないんだから……。家族は誰もいないんだから……。ずるいよお……」


ついにソラは大声を上げて泣きだした。肩を震わせ、蒼い瞳からポロポロと涙を流して。目の前で泣いているソラを前にターニャの中から怒りが消えていく。代わりにこみ上げてくるのは自己嫌悪。貧しさからソラを嫉妬していた。しかし実は彼女も自分には無い不幸を抱えていた。ただ見えなかっただけで。ふと不幸に酔っ払っていた自分が酷く醜く思えてきた。


「言い過ぎたわ。ごめん」






「そこの二人、いったい何の騒ぎだ?」

不意に怒鳴り声がソラとターニャに降りかかってきた。見れば憲兵が二人、主婦らしい中年女性に連れられてやってくる。女性は「あそこです。兵隊さん早くあの子達を止めてやってください」とかいいながらターニャとソラを指差す。


(げっ!マズイ!?)


ターニャの中でスイッチが切りかわる。職務質問されるのは確実で、ヘタを打てば捕まる羽目になる。かといってここで逃げ出せば確実に怪しまれる。どうする?どうする?と頭の中で思考を張り巡らせるが答えは出ない。すると白い息を吐きながら、憲兵がターニャに聞いてきた。


「お前達こんな所で大声を上げて喧嘩していたそうだな。いったい何があったんだ?」

「え、えーと……」


自分より遥かに大きい男達に囲まれて、どう答えていいのか回答に詰まってしまう。


「ん?泣いてるのはお前の妹か何かか?」


ターニャの隣でまだぐすっぐすっとしゃくり上げているソラを見て、憲兵は怪訝そうに聞いてきた。


「あ、はい。そうです、そうです。この子が我侭ばっかり言うから、ちょっと叱ったんですけど……」

「だからと言って往来で喧嘩をする奴があるか。お姉ちゃんならしっかりしないと駄目じゃないか」


もっともらしく憲兵が説教をする。ここで身分証の提示を求められたら、かなりまずい。いやそれどころかソラがここで憲兵にオーブに帰してと泣きついたら、完全にお終いだ。早く終わってくれと一心に祈りながらターニャは説教を聞いていた。


「ほら、お穣ちゃん。お姉ちゃんにはちゃんと言っておいたから、もう泣くのは止めな」


憲兵の差し出したハンカチを受け取ると、ソラは涙を拭いた。


「……はい、ありがとうございました」

「二人とも、もう喧嘩はするなよ」


彼等の周囲には何人かの人々が遠巻きに事の成り行きを見守っていたが、「コラ、お前等何を見ている。とっとと消えろ」と、憲兵に言われると足早に立ち去っていく。すいません、すいませんとターニャは低身平頭で憲兵に謝り、ソラの手を引いてその場を離れようとした。ところがそれまで黙っていたもう一人の憲兵が二人に声をかけてきた。


「ちょっと待ちなさい。一応身分証を確認させてもらいますよ」

(げ!?)


ターニャの背中に冷や汗がどっと出る。


「君、身分証は?早く出しなさい」

「え、いや、あの……」


一応、偽装身分証は持っているしソラのも用意している。しかしソラはオーブから誘拐された身で、国際手配されているかもしれないのだ。偽装身分証などという子供だましが通用するのか、今までの経験からすると非常に疑わしかった。どうする?どうしよう?どうする?どうしよう?どうする?どうしよう?答えが出てこない。蛇に睨まれた蛙みたいなものだ。憲兵が目つきを細めて再びターニャに言う。


「身分証は?」


その時ソラがすっと片手を上げる。彼女は道の続く彼方を指差して、小さな声で一言言った。


「パパとママが……」


それを聞いた憲兵達はやれやれという感じで肩をすくめる。


「……君たちの身分証はご両親が持っているのですか。仕方ないですね。次からはちゃんと携帯するように」


そういうと憲兵達はようやくターニャとソラに行くように指示する。それを聞いたターニャは簡単に礼を言うと、ソラの手を引いて一目散にその場から逃げ出す。憲兵達の姿が見えなくなったら、すぐさま横の路地に飛び込んで、ほっと胸をなでおろした。


「はあああああ~っ。助かったあああああ~」


まだ心臓がバクバクしている。ソラも大きく息を吐いた。同じように緊張していたらしい。

「……アンタ、何であそこで私を突き出さなかったの?」

「え?」

「私を突き出して事情を説明すればすぐにオーブに帰れたのに。何で?シンが困るから?」


ソラは小さく首を横に振った。


「とっさだったし、それに……」

「それに?」

「嫌だったから」

「?」

「だって卑怯じゃない。そんなの嫌よ。せっかくリーダーもセンセイも私の事を信じてここに送り出してくれたのに。それじゃみんなを裏切る事になっちゃう。そんな事したら、きっと後悔する。それにターニャだって」

「私?」

「うん。私といるのが嫌でも道を教えてくれたじゃない。嫌味はムカついたけど」

「う゛っ。そ、それは……」

「それでもターニャは私が逃げないって信じて教えてくれたんでしょ?

「まーねー。一応シンの紹介した人間だし、その辺はアイツ見る目あるから」

「私ね、私を信じてくれてた人を裏切るのって凄く嫌なの。そういうのって最後は人も自分も幸せにならないと思うから」

「昔からそう思ってんの?」

「うん」

「不器用ねー。戦場じゃ何より自分よ。ぬるま湯のオーブじゃともかく外じゃいつか死ぬわよ、アンタ」

「……かもね」


はーっとターニャは息を継いだ。やっと落ち着いたらしい。


「とりあえずお礼は言っとくわ………ありがと。ソラ」


屈託の無い笑顔でソラはそれに答えた。






同時刻。先ほどソラとターニャの二人に職務質問をした憲兵は、持ち場に戻っていた。しかし一人が何か考え事をしている。


「どうした?何か気になる事でもあるのか?」

「……ちょっと引っかかってな」

「?」

「あの二人の一方、実は手配書で見た事があるような気がしたんだ。俺の勘違いかもしれないが」

「本当か?だったら基地に問い合わせてみるか」

「ああ、そうしてみよう」


そう言うと二人は再び持ち場を離れて行った。





まだシンとの待ち合わせには多少時間にゆとりがあったソラとターニャの二人は、もう一度官公庁街を通ってルートを確認した後、街の公設市場に来ていた。大きなホール上の建物の中に市場が開いている。ここは旧世紀のころからある市場で、この地方では雪や雨の対策として屋内に設けられていた。中では所狭しと露店が並んでいて、肉や野菜、あるいは服や日用雑貨などが売られている。品数は相変わらず少ないし値段も高い。しかし街の中と違ってここは人々の活気に満ちていた。その一角にドネルケバブを売っている露店があった。聞けばこの地方では比較的ポピュラーな料理らしい。


「食べてく?」

「うん、ちょうどお腹も減ったしね」


露店のひとつに行って二人分頼むと、ターニャは一気にかぶりついた。隣ではソラが静々と食べてる。


「か~っ!美味っ!肉なんて何ヶ月ぶりかしら。こういう仕事が入らなきゃ絶対食べられないもんね」


脇目も振らずがっつくターニャを横目にソラはふと考えてしまう。このドネルケバブもオーブではごく当たり前に食べられる料理だ。それも学校の帰りなど街角で気軽に。でも貧しいこの国では貴重なご馳走になってしまう。

オーブに生まれた事。このコーカサス州に生まれた事。自分の事。ターニャの事。二人の違い。今まで知っていた世界と、今知った世界がソラの中でグルグルと回っていた。


「ソラ、食べないの?食欲ない?」


様子が気になったのか、ターニャが横から声をかけてきた。


「ううん違うの。ちょっと考え事しててね。……ターニャの村の人たちもこういうのってあまり食べられないのかな」

「まあねー。ここの街に住んでりゃともかく、アタシや村の連中みたいな田舎者にはめったに食えないご馳走よ」

「ねえ、ターニャ」

「何よ?ソラ」

「オーブに来てみない?」


ブッ!危うく噴出しそうになった。


「は、はあ!?ア、アンタいきなり何言い出すのよ!?冗談は止めてくれない?」

「オーブに来ればターニャもいつだって好きな物が食べれるし、オーブの事好きになるかもしれないじゃない。それに頑張ればお金持ちになれるかもしれないし。オーブの事羨ましいってずっと言ってたじゃない」

「そ、そりゃそうだけど……!」


無茶苦茶だ。途方もない事を言い出したソラにターニャはあっけに取られる。しかし同時に、ターニャの胸の奥で、まだ見ぬ南国の豊かな国オーブへの憧れがうずき出す。貧しいこの国で愚痴と恨み言を吐きながら暮らすより、かの国で挑戦する。それはとてもとても魅力的な事に思えてきた。とはいうものの、現実を考えれば出来るわけがない。くすぶる願望を振り払うように、あわてて否定する。


「ちょ、ちょっと待って。あのねえ、そんな事できるわけないじゃない。ソラ、アンタ大丈夫?」

「私、本気よ。私を助けた恩人とかで一緒に行けば疑われないわ」

「…………勘弁してほしいわ」

「いーえ、意地でもターニャを一緒にオーブに連れて行くわ。今決めた。もう決めた。絶対に決めた。いくら嫌だって言っても、もう遅いからね!」

「だ、だいたいそんなこと言ってどうするのよ。今だって自分ひとり満足に面倒を見られないくせに!」

「シンさんやリーダーさんに自分が頭を下げてお願いしてでもそうさせるわ。ええ、そうしてみせますとも」


ここまで一気にまくしたててようやくソラが息をついた。往来で大声を張り上げたせいか、周囲の人間が皆で何事かと二人の少女を見ていた。ソラは全く気にする様子は無い。興奮しすぎて気付いていないのだろう。その気迫に気おされたのか、あるいは思わぬ機会が眼前に転がり込んできたせいか、それともただ単に呆れたのか、それはターニャ自身にも分からない。ただ、彼女の中からソラに向けていた怒りが氷解していったことだけは確かだった。


「あんたって本当に……変な奴」


ターニャはつい笑ってしまう。そのままこらえきれずに、お腹を抱えて笑い出した。いつの間にかソラも笑い出した。そして二人はやがて、大声で笑いあっていた。



予定していた集合時間。集合場所でソラとターニャと合流したシンは、思わず目をむいた。


「な……何があったんだ?あんなに刺々しい雰囲気だったのに…」


シンの知らない間に二人は随分仲良くなっていた。帰り道、来た時と同じく二人はトラックの荷台に座る。違うのは、おしゃべりに興じ、満面に笑顔を浮かべながら、楽しく語り合っている姿だった。


「…これだから女の子は分からない」


運転席に座りながらシンはぼやいた。そういえばマユも普段は自分の後ろを付いて来るくせに、友達と遊んでいるとき俺は邪魔者扱いだった。昔を思い出し郷愁といたたまれなさが入り混じった気持ちになるシンであったが、仲のいい二人の様子にシンの気持ちも和んでいた。険悪なムードよりははるかにいい。それに、ソラにいい友達ができたのは喜ばしい限りだった。あとはどうやって声を掛けよう。何故か輪に入り辛いと思うシンであった。






なんとか合流し順調に村の近くまで来て一安心。そう思った矢先の事だった。


「何だ、あのヘリは? 」


サイドミラーに映ったヘリをシンがいぶかしむ。政府軍の哨戒ヘリが飛んでいる。それは別におかしくない。しかし変なのは、どう考えてもこちらの方向に向かって飛んできていると思われるところだ。


(まさか、ターニャの村へレジスタンス狩りをしようとしている?)


ターニャの村も、わずかばかりだが反政府軍への援助をしている。それが発覚したのでは、とシンは緊張する。場合によっては、大尉たちに緊急連絡を入れる必要があるだろう。その予測は外れた……最悪の方向に。

一気にヘリコプターはシンたちのトラックとの間合いを詰めると、いきなり警告すらせずに、機関銃を放ったのだった。一撃目をよけられたのは奇跡に近い。無意識のうちにヘリの行動を読んで、大きくハンドルを切ったおかげだ。いきなりでおそらく後ろの二人はとんでもない目に合っているだろうが、気を遣っている余裕はなかった。


「揺れるぞ! 舌を噛まないようにしろ!」


それだけ言うのが精一杯だ。シンは一気にアクセルを全開にした。オンボロトラックは、運転手の乱暴な扱いに悲鳴を上げるかのごとく、きしむようなエンジン音を立て、雪交じりの泥を跳ね上げた。街での和解に気の緩んだターニャが変装のための帽子とマフラーをはずし、それが警備の兵士の目に止まってしまったのだ。九十日革命のメンバーで、今ではレジスタンスの協力者としてマークされていたターニャの正体はあっさりとばれてしまい、ヘリでの追跡がなされたというわけである。


「生きても死んでも構わん。ただし、逃がすな」


下された命令にヘリは忠実に従い、トラックへの攻撃を続けている。もっとも、そんな経緯などシンには知ったことではない。ただ、一心不乱にハンドルを握り、アクセルを踏み込むばかりである。ターニャとソラは、荷台の縁に必死にしがみついている。事態はよく飲み込めないまま、それでも何かトラブルが起きたことだけは理解し、幌の中でただじっとしているだけだった。


(畜生!せめて反撃できれば!)


最悪の事態を予想して、荷台には対モビルスーツ用の携行武器が積まれている。それさえ使えれば何とか事態も打開できるのだが。シンは自分のミスに歯噛みした。トラックを運転できるターニャは荷台にいる。運転を交代することはできない。しかも二人の仲の良さに気をとられて、武器を助手席に移し変えるのを怠っていた。かと言って停車すれば、射撃のよい的になるだけの話だった。

結局、必死によけ続けるしか手立てはない。ダストを操る時のような神業的な操縦、というわけにはいかないがそれでもシンは持てる腕を発揮してヘリの攻撃をかわし続ける。右に左に、必死にハンドルを切りながら。しかし、野菜運び用の旧式トラックでは、限界があった。何回目かの射撃。ヘリからの銃弾は狙いをはずしたものの、左の前輪をかすめタイヤを破裂させることに成功した。態勢を立て直す暇も与えられず、そのままトラックは荷物を撒き散らしながら横転する。


「きゃあ!」


荷台から投げ出されたソラは悲鳴をあげた。野菜の袋がクッションになって怪我こそ免れたが、衝撃で一瞬記憶が飛ぶ。気づけば、その体は道端に倒れ、ジャガイモに埋まっていた。動こうとするが、気が動転しているせいか、手足が思うように動かない。


「ソラ、大丈夫!? 逃げないと!」


一足早く正気を取り戻したターニャがソラに気づいた。そちらに近づく。その後に起こった出来事を、ソラは生涯忘れることはなかった。旧式のトラックは、時代遅れのガソリンを燃料にしていた。漏れ出した燃料に運悪く引火して、そのままソラの正面、駆け寄るターニャの背後で爆発が起こったのだ。


「危ない!」


意図したのか、偶然かは分からない。しかし、ソラの手を引っ張っていたターニャは、その爆発からソラをかばう格好になった。その瞬間、ソラにはスローモーションに見えた。大きな破片がいくつも飛んできて、そのうちの一つがターニャの頭に当たる。糸が切れた人形の様にターニャはソラの胸に倒れこんだ。次の瞬間、ソラの顔や服に生暖かいものが降りかかる。一瞬何が起きたのか理解できないソラだったがターニャを受け止めた手を見て否応もなく理解させられる。

生暖かいものが掌を流れる。

――ソラの両手はターニャの血で染まってたのだ。


「あ、ああ……嫌……嫌ぁぁぁぁぁっ!」


ソラの悲鳴が響き渡った。その声が聞こえたのか二人の姿を認めたヘリがそちらに注意を向ける。同時にトラックの爆発を免れたシンが、ようやく投げ出された荷物の中からグレネードランチャーを探し当てていた。狙いをつけるのももどかしく、引き金を引く。

狙いが甘かったのか直撃こそしなかったものの、ランチャーはヘリの脇腹をかすめ至近距離で爆発する。ヘリはかろうじてコントロールを保ちながら、必死に姿勢を立て直した。しかし、その機体からは煙が噴き出している。これ以上の戦闘続行は不可能と判断してか、そのまま元来た方向へと戻っていった。辛うじて迎撃が間に合ったシンは息をつく。

しかし、すべては遅すぎた。






シンもソラも必死で応急手当をしたがターニャの傷は酷く、もはや助からないのは明らかだった。頭の傷も酷かったが、それ以上に背中の傷が酷かった。大きな破片がいくつも突き刺さっていたのだ。シンは呆然と立ち尽くし、ソラはターニャを膝枕にしながらその手を握り締める事しか出来なかった。不意に、ターニャが目を開いた。ソラは叫ぶ。


「ターニャお願い、死なないで!せっかく友達になれたのに、せっかく、せっかく……」


その後は涙で声にならなかった。その声が微かに聞こえたのか、ターニャが消えるような小さな声でつぶやいた。


「ソラ……アンタ、あったかいよね……冷たくならな……」


最後にそう言葉を残し、そのまま目を閉じるのを、泣きながら看取るのが精一杯だった。連絡を受けた大尉たちが現場にかけつけるまで、かなりの時間が過ぎた。それでもその間ずっとソラは、力を失い冷たくなったターニャの手を握り続けていた。





その後、大尉達が連絡を受けて救助に来た。だが簡単な後始末が終わると大尉は何も言わずシンを殴りつけた。一撃でシンの体は吹き飛ばされ岩場にたたきつけられる。そこには微塵の加減も見られない。他のメンバーは痛々しさに視線をそらしたが、大尉を止めるものは誰もいなかった。それだけのミスを犯してしまったのだから。


「お前は二つミスをした。分かるか? 一つは街で女の子二人だけで行動させたこと!」


岩にもたれ掛かりながらも倒れまいと踏ん張るシンの胸倉を掴み上げた大尉は反対側の頬を殴る。シンの鼻と口から血が滴り落ちた。


「もう一つは不測の事態に備えて、武器をいつでも使える状態で行動しなかったことだ!」


大尉は殴る手を休めなかった。三発、四発、次々と拳を打ち下ろす。


「何のためにお前が付いていった!これじゃ何の意味もないだろうが!」


シンの顔の形が変形する程殴ると、ようやく大尉は拳を止め解放した。


「……言い訳をしなかった事だけは褒めてやる。だがなお前のした事は殴っただけで済むミスではないし、もう取り返すこともできん。だからせめてターニャのお爺さんには、お前の口で全てを伝えろ」


大尉はメンバーに向き直ると、指示を飛ばした。いつ政府軍が再び襲ってくるとも限らないので一刻も早く撤退する必要があるのだ。大尉の容赦ない鉄拳を浴びせられたシンは、俯いたまま立ち尽くしていた。頬の痛さよりも心の痛さがシンを責め立てる。その傍らに人影が立った。ソラだった。彼女の目は真っ赤になっていたが、もう涙はこぼれていなかった。もはや流しつくしたということか。


「シンさん……」


ソラは心ここにあらず、といった様子でつぶやいた。


「私、ターニャと約束したんです。一緒にオーブに行こうって」


シンは黙っている。言葉のかけようがなかった。


「オーブで色んなことをしようって。たくさん話をしました。笑いながら話していたんです、ついさっきまで。でも、もう手が冷たくて、目が二度と開かないんですよ」


ソラの言葉がシンの心をえぐる。しかしシンは耳を塞ぐ事も無く。そして逃げる事も弁解する事もせず、ただソラを見ていた。誰よりもつらいのはソラだと分かっていたから。

気づけば雪は止んでいた。積もった雪が、月明かりに照らされてぼんやりと光っている。


この場所で、一人の命が失われたことなど、信じられないような穏やかな雪景色だった。



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