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『三国志』の主人公のひとりの江東の覇者・孫文台
孫堅(そんけん、155年 - 191年)は、字は文台。『三国志』の主人公のひとり。呉の烈祖武帝[1]。孫羌(聖台)の弟で、孫静(幼台)の兄にあたり、地元では“孫氏の三台兄弟”として名を馳せた。
孫策・孫権・孫翊(孫儼)[2]・孫匡[3]・孫朗(孫仁)・弘咨夫人・陳某夫人・孫夫人らの父。正妻は、同郡銭唐県の人の呉夫人[4]で、愛妾は丁夫人[5]。
呉郡冨春県[6]の人で、孫氏三兄弟の中でも、度量かつ叩き上げのゴロツキ風の頭目として伸し上がった人物である。18歳で銭唐県の海賊の頭目を討ち取って名を挙げた。
その功で呉郡の主記[7]となる。間もなく会稽郡で賊徒が反乱を起こすと、従事としてこれを鎮圧し、塩涜県の相に昇進した。やがて、広陵郡盰眙県の丞を経て、臨淮郡下邳県の丞に昇進した。
184年夏5月、会稽郡上虞県の人で右中郎将・朱儁の軍司馬として従い、穎川郡[8]の黄巾党討伐で皇甫嵩配下の曹操とともに太平道[9]の大賢良師(教祖)・張角の部将の波才を火攻めで討ち取る戦功を立てて[10]、さらに張宝(張角の弟)配下の厳政を撃破した。
孫堅を評価された袁術の庇護を受け、その配下部将となった。
翌々186年、後漢の太尉・車騎将軍の張温[11]と破虜将軍・董卓の傘下部将の参軍事として、徐州刺史・陶謙とともに西涼の韓遂を討伐した。冬11月に孫堅は右扶風の長官・周慎に「韓遂と辺章を食糧攻めにしたほうがよろしい」と進言した。しかし、周慎は韓遂と辺章のことを甘く見て、これを聞き容れなかった。
同時に、元来が横暴な董卓と内紛を起こしたため、孫堅は張温に「即刻に董卓を斬り捨てて、秩序を保てねばならない!」と進言したが、実力者の董卓を怖れた張温は取り上げず、却下した。憤慨した孫堅は陶謙と共に領国に引き揚げた。しばらくしてこのことを聞いた董卓は「おのれ…あの若造めが」と唸ったという。
翌187年に長沙郡の土豪・區星(区星)が謀反を起こし、荊州一帯を蹂躙すると、孫堅は勅命で區星討伐を行ない、區星を討ち取った。その功績で、長沙郡太守に任じられ、翌188年、荊州南部の三郡でタイ系蛮族の反乱が起こしたため、これを鎮圧した功績で、烏程侯[12]に封じられた。
翌々190年、董卓が洛陽で権力を握ると反董卓連合軍を結成した曹操に喜んで呼応し、南陽郡魯陽県[13]に駐屯した袁術の部将として馳せ参じた。188年に荊州刺史・王叡[14]は孫堅を従えて、零陵・桂陽の両郡の土豪の反乱を鎮圧したことがあったが、彼は孫堅を「寒門(単家)出身」[15]と見下して常に小馬鹿にしていた。さらに、武陵郡太守・曹寅は王叡と仲が悪く、王叡は「董卓を討つ前に、まず曹寅を滅ぼしてやる!」と叫んだ。これを恐れた曹寅は光禄大夫の温毅の檄文を偽造して、孫堅に対して「陛下から勅命を渡す。王叡は南陽郡太守・張咨同様に生かすには危険人物とのことだ」と執拗に唆した。孫堅はこれに忠実に従い、王叡がいる襄陽郡の城壁の前で「勅命により、王叡どのを討伐し誅滅する!」と叫んでを猛攻撃した。これを見た王叡は「わしには落度はない。瓜売り上がりめ(孫堅のこと)に葬られるのが至極残念だ!」と叫んで、金毒を飲んで自決し、城は陥落した[16][17]。190年冬10月のことだったという。
「王叡殺害」の報を聞いた張咨[18]は孫堅が南陽郡に迫ると、少しも動揺せずに孫堅を迎えて酒宴を開いた。その最中に孫堅の属官である長沙郡の主簿が上奏し「南陽郡の主簿の文書によると、道路は修復せず軍備による食糧も準備しておりません。これは南陽郡の主簿の上司である張咨どのに責任があるかと存じます」といった。これを聞いた張咨が顔色を青くして動揺した。しばらくして再び長沙郡の主簿が「張咨どのは董卓の密命を受けて、反董卓結成軍を引き留めて引き延ばしております。ここで張咨どのおよび南陽郡の主簿を処分することを申し上げます」と述べた。これを聞いて激怒した孫堅は震え出した張咨と南陽郡の主簿を捕らえて、曳き出してこれを斬首した。張咨の軍勢は戦慄し、孫堅の配下となった。見せしめのために張咨の一族も皆殺しにしたという[19]。この功績で、袁術は上奏して、孫堅を破虜将軍・豫州刺史に任命させた。
こうして、孫堅の武名は天下に轟かせた[20]。孫堅は、魯陽城で駐屯して、軍隊の訓練を重ねた。さらに長史の公孫称を派遣し、同時に軍隊を率いて魯陽城を発進して、軍糧の催促をした。公孫称の送別の宴の報を聞いた董卓は孫堅を恐れて、夜襲を仕掛けたが、それに備えた孫堅の守備の堅牢さを見て撤退した。まもなく部将の李傕を派遣して、孫堅を優遇すべく買収したが彼は断固として拒否した。
孫堅は結束が固い孫氏一門を地盤として、猛進撃した。これに対して、董卓の部将で陳郡太守だった胡軫が大都護として迎え撃った。胡軫は河内郡梁県陽人城[21]で配下の都尉・華雄[22]に孫堅を討ち取るように命じた。しかし、胡軫は呂布と仲が悪く、呂布は偽の伝達の使者を派遣させて胡軫の陣営を混乱に陥らせた。
この報を聞いた孫堅は部将の黄蓋・程普・韓当に命じて、華雄の軍勢と激突させた。激戦の結果、華雄は程普と兪渉[23]に討ち取られ(後述)、陣門で晒し首となった[24]。これを見た胡軫は戦慄し、間もなく撤退して董卓の下へ逃れた[25]。191年の春のことである。(『陽人の戦い』)。
勢いに乗った孫堅は夏ごろに洛陽に一番乗りしたが、董卓は既に強引に長安に遷都した後だった。瓦礫と化した洛陽を散策した孫堅は古井戸で何かの玉璽を発見し、突然、洛陽から引き揚げた。実は主君の袁術が南陽郡魯陽県から同郡宛県に乗り込み、空席となった南陽郡太守として収まり、前年の190年冬11月に孫堅に惨殺された王叡の後任として荊州牧に赴任したばかりの漢の宗族である劉表との勢力争いが勃発したため、急遽に孫堅に荊州討伐を命じたのである。これを聞いた劉表も江夏郡の豪族で、部将の江夏郡太守・黄祖[26]に命じて孫堅を迎え撃たせた。これが191年の夏の出来事である。勢いに乗った孫堅は、持ち前の気迫で黄祖を襲撃し、これを捕虜とした。
危惧を感じた劉表は黄祖の配下の呂公に江夏郡太守代行を命じた。以降は、両軍の戦局は数ヶ月間も膠着事態のまま、秋を経てとうとう年の暮れに迫った。この閉塞感を打破したい呂公は主君・劉表に援軍を求めて部下に襲撃を命じた。呂公の部将は撃って出て、南陽郡襄陽県[27]付近にある峴山に陣取った。
この報を聞いた孫堅は自ら先頭に立ってわざわざ進撃して、峴山を包囲した。だが、智謀の将として名を通した程普は「殿(孫堅)御自らが包囲なさることではありません。ここはわたしにお任せして、殿は今まで通り江夏城を攻撃なさってくださいませ」と進言した。だが、孫堅は意気高々に「わし自らがやるからこそ、わが軍士気が旺盛するというものだ」と笑い、これを聞き容れなかった。そこで孫堅は程普に弱冠18歳になる孫堅の長男・孫策を補佐する形で、江夏城を攻撃させた。果して、程普の不安は的中し、ある夜に呂公の夜襲を受けたために、自ら陣頭に立った孫堅は峴山を攻撃した。だが、孫堅は抵抗した呂公の配下が放った流れ矢に全身を浴びせられて、壮絶な戦死を遂げた。享年37。191年の冬12月の寒い夜の出来事であった(『襄陽の戦い』)。
その一方、江夏城を攻撃中の孫策は父の訃報に号泣した。同時に、程普と従兄の孫賁[28]らの提案で、捕虜の黄祖を送り返して、代わりに孫堅の遺体を引き取り、引き揚げた。
陳寿いわく「孫堅は度量によって、孫氏の基盤を築いたのは評価に値する。だが、最後は己の軽はずみで身を破滅させたのは、まことにいただけない」と述べている。裴松之もその説を支持している。
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