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松平忠輝像
松平 忠輝(まつだいら ただてる、1586年(天正14年)/1592年2月16日(天正20年1月4日) - 1683年8月24日(天和3年7月3日))は、安土桃山時代~江戸時代前期の武将。幼名は辰千代、俗称は「鬼っ子」。徳川家康の子、内藤信成の甥、徳川信康・松平秀康(結城秀朝)・徳川秀忠・松平忠吉(忠康)・松平信吉(信義)の異母弟、松千代の同母兄、仙千代・徳川義直(義知/義利/義俊)・徳川頼宣(頼将/頼信)・徳川頼房の異母兄、長輝(徳松)の父。妻は伊達政宗[1]の娘の五郎八姫。
1592年に江戸城で、家康の6男として誕生した。生母は庶民出身の茶阿の局(於八の方/朝覚院)である。辰年生まれということで、「辰千代」と名付けられた。しかし、父・家康は嬰児であった彼の吊り上がった目を見て、驚愕して「これは、鬼っ子だ。禍の因だ。ただちに捨てよ!」と叫んだという。しかし、生母の嘆願もあって、家康の腹心であった本多正信に辰千代の身柄を渡した。そのときに、家康は正信に「あの子は、亡き三郎(信康)の幼児のころに似ていた。わしは非業の死を遂げた三郎のことを思い出して辛いのだ。養育に関してはお前に任せた」と漏らしたという。
程なく辰千代は、下野国長沼城主である皆川広照に預けられて養育されることになったが、広照は家康の機嫌を取るために、育てたので辰千代に関しては愛情は酷薄なものであった。翌年に誕生した同母弟の松千代の誕生の際には、父・家康は逆に喜んだという。
1598年(慶長3年)に、父・家康と久しぶりに面会をしたが、家康は辰千代に対して素っ気ない対応で接したという[2]。
翌1599年(慶長4年)には、同母弟の松千代が夭折したため、辰千代がかわって同族の長沢松平家の後を継いで、武蔵国深谷1万石を与えられ、1602年(慶長7年)には、下総国佐倉5万石に加増移封され、元服して上総介忠輝を名乗った。その際に父・家康に信頼された大久保長安と出会い、その補佐を得た。長安の計らいで、翌1603年(慶長8年)には信濃国川中島12万石に加増移封された[3]。その際に異父姉の婿である花井吉成[4]が付家老として補佐することになった。1605年(慶長10年)に、父・家康の命で大坂城で豊臣秀頼(羽柴秀頼)と面会して、以降から秀頼と親交を結ぶようになったという。
1606年(慶長11年)に、伊達政宗の長女・五郎八姫と結婚した。しかし、1609年(慶長14年)に、養育をした皆川広照らが御家騒動が起こしてしまい、そのために広照らは失脚している。
1610年(慶長15年)に、越後国高田藩主(福島城主)に与えられ、このとき川中島12万石と併合して合計75万石の太守となった。越後領有当初の忠輝は、改易された堀氏が築いた福島城の城主であったが、1614年(慶長19年)に高田城を築城して、そこに移った。高田城は幕命により、忠輝の岳父である伊達政宗をはじめとした13家の大名の助役で築造された。その際に忠輝は、「高田松平家」と称したという[5]。
このときに大久保長安が忠輝の付家老となり、大いに権力を振るったという。前年の1613年(慶長18年)に長安が病死した際に、長安がスペイン・ハプスブルク朝のイスパニア(スペイン)に日本を売りとばすという幕府および朝廷を転覆させる『大久保長安事件』が起こったが、岳父の政宗の機転で、忠輝は事変に巻き込まれず済んだという。
1614年(慶長19年)の『大坂冬の陣』では、父・家康の厳命で留守居役を命じられる。剛毅な忠輝には不満が残る命令であったが、結局これに従った。その間に所用で相模国小田原城に赴いて、江戸に戻る途中で旗本の野村吉弥と諍いを起こして、激怒した忠輝は配下に命じて吉弥を斬殺している。
1615年(慶長20年)の『大坂夏の陣』で大坂に出陣した。その途中で、近江国守山で異母兄の秀忠の直参旗本であった長坂信時(六兵衛/十左衛門)[6]と伊丹弥蔵が忠輝の行列を抜け駆けをして、将軍家の弟である忠輝に対して下馬をしない違反を犯し、諍いを起こした。そのため、激怒した気性の激しい忠輝は配下の杉浦吉利(甚兵衛)と室野左平次らに命じて、信時と弥蔵らを「無礼者!」と叫んで、これを斬り殺している。また、『大坂夏の陣』では、岳父の伊達政宗の意向もあり、あまり積極的に動かなかったという。
その後に豊臣家が滅亡した直後に、二条城で父・家康に面会した忠輝が岳父の政宗の影響を受けて「わたしを副将軍に任命して、滅亡した豊臣家の後釜としての大坂城主にして、交易全般の統轄をお任せいただきたい」と申し述べたため、激怒した家康が忠輝に謹慎を申し渡す剣幕となった。家康は例の『大久保長安事件』で、わが子の忠輝の自己管理がなってないということで、駿府城の大番頭で同族の能見松平家の松平勝隆(三条城代の松平重勝の5男)を派遣して、忠輝に勘当を申しつけた。そのため、忠輝は幼少時にすごした武蔵国深谷で謹慎をした。
1616年(慶長21年)に、駿府城郊外の田中城で狩りをしていた父・家康が胃癌のために倒れた。深谷でそれを聞いた忠輝は、駿府城郊外まで来て父に面会を求めたが、家康はそれを許さずに「忠輝、いそぎ発途して駿府へ参られ、宿老もて御気しき伺はれしに。家康は以の外の御いかりにて。城中へも入るべからざる旨仰下され。御対面も叶はざれば。少将(忠輝)せんかたなく御城下の禅寺に寓居して。御気のひまを伺ひて。謝し奉られんとする内に薨去……」(『徳川実紀』)と申し渡している。ただし、生母の茶阿の局に織田信長が愛用した『野風の笛』[7]を渡し、「それを忠輝に渡すがよい。それがわしの精一杯の気持ちだ…」と述べたという。
父・家康が逝去すると、巷で岳父の伊達政宗の後ろ盾で将軍職を簒奪する噂で異母弟の忠輝を警戒した秀忠が、腹心の柳生宗矩・藤堂高虎を図って、忠輝を改易して、伊勢国朝熊に流罪にした。その後、飛騨国高山・信濃国諏訪に転々とした。甥の徳川家光の代になっても、父に引き継いで叔父の忠輝を警戒したままであった。
また、嫡子の長輝(徳松)は、岩槻藩主・阿部重次の預かりの身となり、冷遇されたため19歳で自刃して果て、忠輝の孫にあたる嗣子はなかった。
忠輝は1683年に信濃国諏訪高島城(南の丸)で、93歳、あるいは98歳の高齢で没した。時は徳川綱吉(家光の第4子)の代であった。忠輝は長兄の信康と次兄の秀康と弟の頼宣とともに父・家康譲りの激しい気性を持っていたが、同時に茶道など数寄の風流に博識で、キリシタンとの付き合いが深かったと伝わる。
忠輝が、徳川宗家より勘当を解かれたのは、死後から300年後の昭和59年(1984年)になってからである。忠輝の菩提寺である貞松院の住職・山田和雄が300回忌での赦免を思い立って、徳川宗家の第18代目の当主のの徳川恒孝に願い出て実現したものである。同年7月3日に、当主の恒孝によって赦免され、仏前への奉告は貞松院の檀信徒の都合などで、3年後の昭和62年(1987年)10月24日に行なわれた。同年10月24日の法要には、現在の仙台伊達家当主の妹や諏訪家当主と当時の忠輝の家臣の末裔など約400名が参列して、恒孝が赦免状を読み上げた。なお、恒孝はその後、学習院大学名誉教授の児玉幸多から「歴史を後から変えるべきではない」旨の批判を受けていたという。
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