1990年代のダメ外人(プロ野球)

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登録日:2023/02/10 Fri 07:34:11
更新日:2024/07/05 Fri 10:43:46NEW!
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本項目では、1990年から99年に掛けて入団した「ダメ外人」について解説する。
ダメ外人の定義及び他の年代のダメ外人についてはそちらの項目を参照。




【概要】

1990年代に入り、鮮明な試合映像が残るようになり、それに応じてダメ外人の様子も鮮明に残され、後世まで語り継がれやすくなった
NPB助っ人の歴史において最大級の悪名を残したマイク・グリーンウェルの登場も、大きなトピックであろう。


また、80年代末期から続いた阪神タイガースの暗黒時代が更に深刻な状態へ突入。
チームの暗黒時代延長に貢献するダメ外人が次々と登場し、「タイガース=最弱」が常識の空気感と重なって他球団を圧倒する印象(の悪さ)とトラウマをファンの間に残した。


インターネットの普及に伴い、歴史の陰に埋もれていった外人選手などのデータなどもまとめる個人が出始め、2ちゃんねる(現5ちゃんねる)では創設期からプロ野球板が開設。
それでも一般層の間ではまだそこまでネット文化が浸透していなかったため、ネットの世界においてダメ外人に対するネタが平然と飛び交う時代の到来は2000年代まで待つことになる。


一覧

ベニー・ディステファーノ(中日・1990)

1990年、星野仙一監督の率いる中日ドラゴンズに入団した助っ人。
同時に入団した年俸1億5000万円の大物メジャーリーガー、バンス・ロー(登録名バンスロー)の方が注目度は高かったが、バンスローはどちらかというとシュアーな打撃、ディステファーノはパワフルな打撃を期待されていた。
……そして、確かにディステファーノはそのパワーで日本のファンに強烈な印象を残した。


とは言っても、残念ながら打撃成績ではない。その暴れぶりである。


3月15日の西武とのオープン戦(ナゴヤ球場)にて、相手投手の鹿取義隆から死球を受けて激怒し、マウンドの鹿取めがけてバットを投げる
止めようとしたキャッチャーの大宮龍男*1数十発以上にわたってタコ殴りにし、なんとオープン戦で大乱闘を繰り広げた。
そしてオープン戦では前代未聞の暴力行為による退場処分を受けたのであった。


続いて5月24日、開幕後の巨人戦(ナゴヤ球場)で再び事件は起きた。
打席に立っていたバンスローが相手投手の槙原寛己から顔面付近に投球を貰い、普段から紳士的な人格者として評判の高かった彼が珍しく激怒。
審判に「あれは危険球だろ!」と抗議する星野監督に対し、巨人の松原誠コーチが野次を飛ばした。
これに「なんや!なんやお前!」と怒った星野監督がと巨人ベンチに詰め寄り、それをきっかけに両軍入り乱れての大乱闘が勃発する。
……しかし終わってみると、なんと退場処分を受けたのは騒動の当事者でも何でもないディステファーノただ1人だけ
巨人の江藤省三コーチに対する暴力行為が理由である*2。どれだけ暴れたんだ……。


これほどの暴れぶりでインパクトを残した彼だが、肝心の成績はというと56試合に出場して打率.215・5本塁打・14打点と、助っ人としては全くダメで、当然ながら同年途中で解雇。
退団後はマイナーリーグを転々としたがMLB定着は果たせず、1993年に引退。
その後はマイナーリーグの数球団で打撃コーチを務めた。


一方、相方のバンスローは打率.313・29本塁打・78打点と助っ人として申し分ない成績を残し、セ・リーグのベストナイン(三塁手)にも選出されたが、同年限りで退団。
これは当時8歳の長女が脳腫瘍で闘病中であり、「家族との時間を優先させたい」という理由からだったが、どうやら私生活面では日本の水が合わずホームシックになってしまったらしく、退団後に「日本では金のためだけにプレーしていた。野球そのものが面白くなかった」「日本で楽しかった思い出は成績だけ」と振り返っている*3
星野監督による「鉄拳制裁」と称した暴力行為に不満を持っていたとも伝えられる彼だが、「ディステファーノや家族がシーズン途中で帰国してからは1人ぼっちだった」と述べている辺り、ネガティブな面ばかりがクローズアップされるディステファーノでもバンスローからは大切な仲間と思われていた……のだろうか?


ちなみに、当時の日本の練習姿勢については

  • ディステファーノ「日本人は練習の質より量を優先する」
  • バンスロー「真夏に2時間も練習するなんてメジャーでは考えられない。試合での体力がなくなってしまう」*4

と、それぞれ批判的な意見で一致していた。



マーベル・ウイン(阪神・1991)

1991年、阪神タイガースが後述のオマリーとともに獲得した助っ人。
当時阪神で打撃コーチを務めていた佐々木恭介氏の強い推薦により入団し、メジャー通算940試合に出場した経験もあって「バースの再来」としてかなりの期待を寄せられた。


しかしシーズンがいざ始まると、「凡打製造機」と揶揄されてしまうほど凡打を連発。
オマリーが日本球界に対応できるよう努力する一方でウインは全く日本の野球に馴染もうとせず、結局シーズンを通して低調な成績に終わったため、この年限りで退団となった。


後年、佐々木氏は自身が出演したラジオで「ウインには騙されました」と述べている。



オジー・カンセコ(近鉄・1991)

MLBの歴史に名を残すスーパースターステロイド疑惑?なんのこったよ、ホセ・カンセコの双子の兄。
弟と同時期にMLBのドラフト指名を受けており、弟よりも指名順はずっと上だったが、残念なことに弟が才能を開花させる一方でオジーはマイナー暮らしが長かった。
そして1991年に近鉄バファローズに入団するとスーパースターの兄ということで大きく話題を呼び、何だかんだで世間から大きな関心とNPBでの開花が期待された。


ところが当時の近鉄にはジム・トレーバーやラルフ・ブライアントといった強打者がいたことから二軍暮らしが続き、二軍成績すらも助っ人としては何とも言えないものだった。
これだけなら特にネタ要素もなく、本人も二軍暮らしという苦境でも特に屈折する様子もなかったようだが、問題はその後


球団がジェシー・リードを獲得したことで支配下枠が溢れ*5任意引退公示という措置に出る。
一応球団側をフォローするとこれはクビではなく、要は「シーズン中は使う気が無いけど翌年も契約する(任意引退はシーズンオフに同一球団に現役復帰をさせられる)」という意思を示す措置でもあった。
ところがこの扱いは「引退選手なので二軍の試合にすら出られなくなる」ということも意味し、一気に態度を硬化させたオジーはシーズン中に退団した。
活躍できなかったのは事実だが、扱いに関しては球団側にも難があったことは否定できないだろう。


近鉄退団後はマイナーや独立リーグで活動していたが、オジーはトラブルメーカーとして様々なネタを残すことになる
2001年に弟とカリフォルニア州のナイトクラブでトラブルに発展してからの暴行容疑で逮捕2003年にステロイドの不法所持と無免許運転で逮捕
しまいには2011年にフロリダ州で飲酒運転をして逮捕と犯罪を重ねてしまったのである。


ただ、応援歌的には(本人が全く与り知らないであろうところで)かなり貢献している。
彼の応援歌は『暴れん坊将軍』のテーマで、リードにも流用された後、しばらく経ってから好機の時に演奏され始めた。後に言う「チャンステーマ」の始まりである。
2001年の近鉄優勝の時の映像で、北川博敏が逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームランを打つ前に流れてる曲が正しくそれ。
合併後は使われなくなったが、関西クラシックで近鉄のユニフォームを着て試合してる時だとたまに流れる。


なお弟の方も2001年オフに中日がマーク・マグワイア、アンドレス・ガララーガといった大物メジャーリーガーとともに獲得を検討していたが、彼らには来日の意思はなく実現はしなかった。


トーマス・オマリー(阪神→ヤクルト・1991~1996)

かつて阪神とヤクルトスワローズに所属していた助っ人外国人で、2004年には阪神の駐米スカウトに就任した。
阪神では「バースの再来」とも称される好成績を残し、1995年にヤクルトへ移籍してからは1年目でリーグ優勝に貢献、オリックス・ブルーウェーブとの日本シリーズでも小林宏らとの名勝負を演じ球団を日本一へ導いた伝説的な選手だった。


……しかし悲しきかな、スカウトとしての彼は本邦プロ野球史に残る希代のダメ外人発掘師でもあった。
現役時代に球団に紹介した選手がよりにもよってロブ・ディアーだったという時点でもう片鱗は見えていた*6ものの、駐米スカウト就任で本格的に才能が開花。
マイク・キンケードにルー・フォード、果てはケビン・メンチといった錚々たる面々を次々と探し出しては阪神に送り込んでくるその姿はある意味神の采配に等しかった*7
普通に活躍できそうだったシェーン・スペンサーに至っては車から降り損ねて負傷という有様で、何かに呪われていたのかもしれない。
当然05年の時点でクビが内定していた……が、「忙しくてクビを宣告し忘れた」というとんでもない理由で2009年まで続投。
後任のアンディ・シーツは、最終的に獲得しなかった選手含めて当たり外人揃いという対極の超優良スカウトとして注目を集めた。



ジェシー・バーフィールド(巨人・1993)

1986年にブルージェイズでホームラン王に輝き、守備でも1986年・1987年に外野手部門でゴールドグラブ賞に輝いた大物中の大物。


開幕戦では佐々木主浩から来日初本塁打を放つなど活躍を予感させたのだが、外角スライダーが全く打てないという致命的弱点を露呈し、2ストライクと追い込んでからそこへ投げると高確率で空振り三振を喫してしまう大型扇風機だった。
その結果、26本塁打を放つも打率は両リーグ最低の.215、三振も127でセ・リーグの三振王になってしまった。当然の如くこのシーズン限りで解雇。


しかし何を血迷ったのか、当時ヤクルト監督の野村克也が強い推薦をして一旦は獲得が内定したのだが、MLBアストロズの二重契約が発覚し破談となってしまった


ロバート・ローズ(横浜→ロッテ・1993〜2000、2003)


…これを見た野球ファンは誰もが目を疑っただろう。
「え?あの言わずと知れた横浜ベイスターズ史上最強助っ人外国人の彼が、何故この項目に載っているの?!」と。
そう、彼は1993年に強肩で併殺が取れる二塁守備を期待されて横浜ベイスターズに加入すると、良い意味で期待を裏切ってとにかく打ちまくり同年は打点王を獲得、その後も1998年には横浜マシンガン打線の4番セカンドに君臨して同年の日本一に大きく貢献すると、翌1999年には打率.369、37本塁打、153打点、OPS1.093、そして当時のリーグ最多安打記録となる192安打をマークして首位打者・打点王・最多安打王のタイトルを獲得した、横浜ベイスターズ史上最強助っ人の呼び声高い二塁手。
…もう一度言おう、そんな彼が何故この項目に名が載るのか?
その理由は2003年にある。


ベイスターズを去ってから2年が経った2002年12月6日、「もう一度日本で野球をやりたくなった」と千葉ロッテマリーンズに加入し、日本球界に電撃復帰を果たす。
かつての最強助っ人の加入に、当時1996年から7年連続Bクラスと低迷していたロッテファンは「来年こそはリーグ優勝あるかも!?」と期待を膨らませたのは言うまでもない。


しかしそうして迎えた翌2003年は、春季キャンプの紅白戦に3試合出場して8打数無安打と振るわなかった後、2月19日に憔悴しきった表情で記者会見を開き、「野球に対する情熱がなくなった」ロッテ在籍期間わずか2ヶ月半、来日してからわずか28日でスピード退団、そのまま現役を引退してしまった。*8
この退団劇にロッテファンはもちろん、野球ファンは皆愕然とさせられてしまった。
ロッテがこの穴埋めとして急遽韓国球界から獲得したホセ・フェルナンデスが、打率.303、本塁打32、打点100、OPS.947という素晴らしい活躍をしたのがせめてもの救いだったとはいえ、その退団理由が理由なだけにやりきれない気持ちを解消出来たファンは少数派だっただろう。しかも、そのフェルナンデスも致命的な守備難を理由に、オフに監督に復帰したボビー・バレンタイン監督の構想外となり*9退団してしまい(その後、フェルナンデスは西武ライオンズに加入する。)、ロッテは翌2004年まで9年連続Bクラスと低迷する結果となった。


この退団劇から20年以上が経過した2023年11月24日、日本の熊本県の独立リーグ球団「火の国サラマンダーズ」の監督に就任する事が発表された。なお、この時にロッテ退団の理由を「3年間のブランク*10と衰えを実感して、私はチームのためになれないだろうなと判断した」と打ち明けている。
しかし、2024年2月15日に「家庭の都合」を理由に帰国、就任から約3ヶ月で退団する事が発表された。
一度ならずとも二度までも同じ事が繰り返された*11事で、ロッテだけではなく横浜のファンからも「またかよ!」という声が上がる事になってしまった。


なお、こんな形で開幕前に退団したロッテでの春季キャンプでは、熱心にウェートトレーニングに励む姿や頭脳的な打撃練習を行う姿で、チームメイトからは尊敬のまなざしを集めていたらしい。


メル・ホール(ロッテ→中日・1993~1995)

前述のバーフィールド同様、ニューヨーク・ヤンキースの4番打者として活躍を見せていた大物。事実上リー兄弟の後釜枠として千葉ロッテマリーンズに入団した。
日本国内に於いても打率・本塁打・打点・そして盗塁でチーム四冠王として君臨、間違いなく期待に違わぬ好成績を残した助っ人だったが、それが霞むほど素行に非常に問題があった
以下、その罪状。

  1. 自分が指名打者であるのをいいことに、相手の攻撃回の時はゲームをやってゴロ寝を決め込む
  2. これに怒ったマックス・ベナブル*12に対して逆ギレ
    乱闘になるも、ホール自身は反省せず
  3. マックスが近鉄戦で死球を受けて乱闘になった際、近鉄の捕手・山下和彦に対してマックス以上の暴行を働く
    この時、マックスと山下は退場させられたが、なぜかホールは退場にはならなかった
  4. 後にWBCオランダ代表監督、ヤンキースコーチ補佐となる後輩助っ人、ヘンスリー・ミューレンス(登録名ミューレン)に対してパシリ扱いする・ロッカーを壊すなどの嫌がらせを行う
    このせいでミューレンは一時期、重度の鬱病に追い込まれてロッテを去る*13
    八木沢荘六監督に2度も油を搾られたがやはり反省せず
  5. ミューレン以外の選手にも血が出るほどの抓り行為を行う。

95年に中日に移籍してからは、主にレフトとして出場。
ところが今度は3年連続首位打者をマークしたアロンゾ・パウエルに尊大な態度を取ったり、彼の使用するグラブを座布団代わりに尻に敷く始末。
さんざんいじめていたミューレンがヤクルトに移籍した後も、ヤクルト戦の時は必ずヤクルト側ベンチまでやって来て性懲りもなく彼をいじめるなど、負の武勇伝を打ち立てたが、最後は両膝を故障し1シーズン限りで退団した。

ミューレンとホールの関係は、パワポケ10主人公と悪名高き北乃政男の関係に近い(両者には「いじめっ子」「スラッガー」という共通点がある)。


そもそもメジャー時代からトラブルメーカーであり、

  • 上述の通り守備が上手くなかったばかりか、打撃でも目立った実績を残せなかったにも関わらず、スター選手面して傲慢な態度を崩さない。
  • 1990年にスタメンから外された際、癇癪を起してクラブハウスで暴れた挙句、監督室のドアを壊しかける
  • メジャーに昇格したばかりのバーニー・ウィリアムス*14格の違いから執拗にいじめる
    • 同チームきっての人格者でもあった主将のドン・マッティングリー*15*16が庇っても懲りずに続け、最終的に当時のヤンキースGMから「いじめを止めないなら強制解雇する」と通告されてようやく沈静化
  • ヤンキースの式典に参加したOB達に対し「あのジジイ共は誰だ?(訳)」と言い放って当時の監督を呆れさせる

この人格破綻っぷりから、1992年には自己最高の成績を残したにも関わらず、ヤンキースはおろか他のメジャー球団も契約を結ぼうとしなかった。


ここからは、ホールに関する関係者のコメントを抜粋しよう。

ミューレン──
「嫌な奴だった。二度と思い出したくない


愛甲猛──
史上最低の野球選手」

※ホールと同じくDH待機中テレビゲームばかりやっていたというマドロックすら、愛甲はここまで腐してはいない。
ホールの素行の悪さが窺える。


小宮山悟──
「(ロッカールームでテレビゲームをしていたことに憤慨し)こいつだけは許せないと思った」
「(そんな奴がチームの中で一番成績を残したことに)はらわたが煮えくり返った


初芝清──
「打撃技術は素晴らしかったが、他に見習う所は何もなかった


山崎武司──
自身が見てきた中で一番にダメだった外国人選手
「(大リーグでの実績を鼻に掛け、日本の野球を見下す意思をあからさまに示す態度やパウエルのグラブの件、ミューレンへの仕打ちについて)人としてそれはどうなのか」
「(後述の事件に触れて、呆れながら)俺の目は間違ってなかった。あれだけメジャーで活躍したのに残念すぎる」


引退後はバスケットボールのコーチになったものの*17、そこで教え子の少女2人、さらには他の少女に対し、計5回に渡る[[乱暴狼藉>レイプ]]を働く。

当然逮捕され、2009年に禁錮45年の実刑判決が下された。
可能性は限りなく0に近いが、もし仮釈放されるとしても最短で約22年かかるという。


2004年に強盗殺人を犯して逮捕された元ロッテの投手・小川博*18ですら、彼を知る関係者が「何故あの人が」とショックを受けていた*19が、ホールの場合は彼を知る関係者ほぼ全員が「あぁ、やっぱりな」と落ち着いた反応を見せていたらしい。日頃の行いが祟ったのだろう。
結果的に、MLBメジャー経験者としては最低最悪のロクデナシ*20となってしまった。
ロッテ的にももう思い出したくない奴の筆頭格と思われるが、2022年、ロッテ千葉移転30周年の新ユニフォーム披露動画でホールがキッチリ映り込んでしまうアクシデントが起きている。
球団は“歴史は歴史”として受け入れるつもりなのだろうか?


余談だが、彼の応援曲は名前がほぼ同じということからか、喉飴「ホールズ」*21のCMソングだった。



ロブ・ディアー(阪神・1994)

94年のみ在籍した阪神の選手。メジャーリーグ通算226本塁打で年俸は2億7000万円。
春季キャンプでは特大ホームランを連発し、当時のキャンプ地球場であった安芸市営球場では急遽危険防止のネットを拡張したほどであり、大活躍が期待された。


しかし、メジャーでの本塁打は確かに226本だが打率は.220と頼りなく、また1991年にはMLBのシーズン規定打席到達打者史上ワースト記録の打率.179をマークしており(2018年にオリオールズのクリス・デービス*22が.168でワースト記録を更新してしまっている)、そして3度のシーズン最多三振王になった男でもあった。過去にはよく居た基本フルスイング系のバッターである。


そしてシーズンは70試合で76三振を喫する。近鉄のブライアントのようにその分ヒットやホームランも多ければよかったのだが、打率.151の8本塁打では……。
結局、8月に右手親指靭帯断裂で退団。この年発売のパワプロ2('94年終了データ)に登録されないという悲しみを背負った。
引退後はマイナーリーグの打撃コーチを務め、教え子達にこう言ったという──
「俺のようなスイングはするな!!」



ブライアン・トラックスラー(ダイエー・1994)

またの名を「威力強」「コロコロちゃん」
福岡ダイエーホークス*23は当時、南海時代からの長期間に渡る暗黒時代を抜け出せず低迷していたが、そんな中で来日したのが彼だった。


良くも悪くもプロ野球界の燕人張飛(演義版)とでも呼ぶべき人物である。良くも悪くも。
その二つ名に恥じぬパワーに加えてバットコントロールも器用であり、見事なバッティングで主に三番打者として大活躍。
後述の体型ゆえか機動力こそ壊滅的ではあったが、守備の動きも決して悪いものではなく、攻守バランスよく非常に高い実力の持ち主だった。
ファンサービスも怠らず、当時名物だったダイエーの主力選手をモチーフにした博多人形も彼のものが売り上げ1位だったり、オールスターゲームに出場した実績を持つ*24ことから人気も相当高かったのがわかる。


……しかし彼の場合、最期がダメだったと言わざるを得ない。


前述の「コロコロちゃん」という愛称は、身長170半ばにして体重実に120kgという、まるまる太りきった体型に因んだもの*25
主にビール好きによる不摂生が原因と思われ、「一度に1ダース飲むのは当たり前」「自分のベッドはビールケース」と豪語する凄まじさだった。


それほどまでに乱れた自己管理は当然問題視され、一度減量&ビール節制命令まで出される。
開幕戦にはどうにか100㎏まで落とし打撃も好調だったが、勝手にビールを自主解禁してリバウンド
その後は鳴かず飛ばず*26となり、後述のミッチェル獲得に伴いお払い箱となった。


そして2004年、アルコール過剰摂取による急性肝硬変により、37歳という早すぎる死を迎える。
攻撃力の高さと、酒好きが祟ったその末路は、「球界の張飛」と呼ぶに相応しいものであろう。
身体が資本のスポーツ選手としても、また生物としても、節度の重要性を示してしまった例でもある。

60年代のジャクソンもそうだが、飲んだり食べたりするのが大好きな皆さんは、その大好物に殺されるなんてことがないように、ほどほどを心がけよう。



ケビン・ミッチェル(ダイエー・1995)

ダイエーがトラックスラーに代わって獲得した、メジャー通算本塁打220本の超大物にして、後述のグリーンウェルに匹敵する90年代のダメ外人の最高峰である。


開幕戦の初打席で満塁本塁打という衝撃的なデビューを果たしたものの、「サンディエゴで経営しているアパートと美容院が心配になった」という衝撃的な無断帰国、再来日後の「チームがまさかこのようになっているとは思っていなかった」発言など、素行の悪さから球団と揉めてばかりのまま8月に解雇され、後年にはペピトーン同様、日本を貶すような発言まで残した。
この際、年俸の全額支払いを求めて裁判沙汰となり、同姓の作家マーガレット・ミッチェルの代表作『風と共に去りぬ』になぞらえ「金と共に去りぬ」などと揶揄されている。


ダイエーが黄金期を迎えた6年後(2001年)には従兄弟のトニー・ミッチェルが来日・入団したが、こちらは不振を極め1年限りで退団した。
ケビンと違い、トニーは球団と揉めたりはしなかったが、気性の荒さはやはりといったところで、1軍・2軍両方の試合で乱闘騒ぎを起こした


後に博多華丸がTVで語った所によれば、ごく普通のマンションのベランダでバーベキューをして、住民から消防へ通報・注意されたら「日本では週末にバーベキューも出来ないのか」と逆ギレし、これが帰国の原因にもなったとか……。


実はメジャー時代も、「嘔吐で筋肉痛」「くしゃみで肋骨にヒビが入った」「冷凍チョコレートドーナツで歯根を痛めた」「カップケーキで口を負傷」「まぶたが攣った」と、明らかに仮病としか思えないムチャクチャな理由を挙げてたびたび欠場したり、自軍の監督と乱闘していたりした。
おまけに婦女暴行・恋人が飼っていた猫の虐待・家賃滞納を巡って父親と口論した挙句頭部を殴打するなど、犯罪も多く起こした


元阪神のランディ・バースは「実力があるのにどこも取らなかったのは、本人に無視できない問題があるから。彼がトラブルメーカーだったのはわかりきっていたはずだ」と苦言を呈している。
ミッチェル自身にも問題はあったが、そんな奴を獲得したダイエーフロントの責任も否定できないだろう。


また『月刊ホークス』の連載コーナー「FDH助っ人列伝」には、「鳴り物入り度」「貢献度」「その選手独自の評価*27」を5段階で評価したグラフがあったのだが、彼の独自の評価は「困ったちゃん度」
それも、5点を超えて7点を叩き出すという前代未聞の珍事態に発展したという。



ジェフ・シュワーズ(横浜・1995)

195cmを超える長身からの投球が特徴的なMLB経験者の外国人投手。
1995年に横浜ベイスターズに入団し、初先発初勝利を記録するなど活躍が期待されたが、イニングの倍の数にも及ぶ四球の多さという壊滅的な制球力からシーズン途中で解雇された。
1995年版のベイスターズの応援歌CDに収録された彼の個人応援歌では「振りかぶった時にはもう〜勝負はついている〜♪」と歌われていたが、戦績を見れば悪い意味に聞こえてしまうものである。


これだけだと「えっ?それだけだと確かに酷いハズレ助っ人だけどネタになる点は制球力くらいのよくいるダメ外人じゃん?」と普通は思うだろう。
しかしこの男、横浜の球団史に残る選手なのだ。


実は初先発初勝利の記録、これは前身球団の大洋ホエールズから数えてジョー・スタンカ以来29年ぶりの外国人勝利投手という珍記録*28なのである。
どうしてこんな奇妙な事態が起きたのかと言うと、スタンカ以来の勝ち星がなかったことに加えて、1977年に獲得した「球団史上最低の助っ人」と悪名高いブレットのトラウマから、球団が変わった1994年まで外国人投手の獲得をしなかったから。
しかも1994年、17年ぶりに獲得したダリル・スコットも特に勝ち星を挙げなかったので、シュワーズの先発での勝ち星にこのような価値が付いたのだ*29


成績だけ見れば擁護不能だが、球団の負の記録更新とブレットの呪いを止めたという妙な形で貢献した、世にも珍しい助っ人である。



エリック・ヒルマン(ロッテ→巨人・1995~1998)

ロッテ時代は先発の主軸として活躍したものの、1997年に金銭トレードで移籍した巨人では2年間怪我しかしないまま退団
「肩に違和感がある」と主張して登板拒否を繰り返し、二軍落ちしても昼には帰宅していたため「ミスター違和感」「昼マン」とも言われた。


そして「左肩に小錦が乗っているようだ」という迷言で伝説に。
トレーナーが調べても特に問題が見当たらない中、その迷言は日頃温厚な長嶋監督ですら激怒させてしまい、最終的にはナベツネから「金はやるから出ていけ」と罵られた。
退団の際、マスコミに対し「俺をミッチェルやグリーンウェルと一緒にしないでくれ」と反論した上で「肩が治ったら巨人の入団テストを受けに帰ってくる」とコメントしたが……


退団直後の診断(肩関節鏡手術)の結果、肩の違和感は事実であったことが判明。
それも左肩回旋筋腱板の全層断裂という非常に深刻な重傷であり、最終的にはこの怪我が原因で引退を余儀なくされた。
不振の結果として解雇はやむをえないが、ケガをしていながら信じてもらえず評価ばかり下げられた点については同情すべきだろう。


巨人はチームドクターの誤診が結構あるらしく、あのウォーレン・クロマティも「手首の異常を訴えたんだ。チームドクターに見せたら異常なしと言われたんだが、念のため別のドクターに自費で見せたら亀裂が入ってると言われたよ」と、後に自身の著書で明らかにしている。
この時は誤診について口止めをさせられたらしい。



クレイグ(クレイグ・ワーシントン)&ケビン・マース(阪神・1996)

96年途中に阪神に加入した助っ人野手コンビ。ワーシントンはファーストネームの「クレイグ」を登録名としていた。
前年の95年に加入した助っ人野手コンビのグレン・デービス(登録名グレン)とスコット・クールボーは、微妙だがまずまずの結果を残した*30ものの不振に陥り解雇、その後釜である。


……が、2人ともグレン&クールボー以上に打てず、しかも怪我もあって即解雇という最悪の結果に。
同じ飛行機に乗って来日したため、加入時に在阪スポーツメディアに「打ってクレイグ!頼んマース!」と祈られたりしたのだが……。


1987年のバース解雇以来、阪神は1992年の「亀新フィーバー」で2位に躍進した以外は暗黒時代の真っ只中だった。
特に1995年(球団創設60周年)は地元・兵庫県が阪神・淡路大震災に襲われた中で60勝すらできず*31、46勝84敗で最下位*32。クレイグ&マースが在籍した96年も2年連続最下位に沈んだ。


一方でそんな阪神の低迷をよそに、同じく被災地・兵庫県に本拠地を置くオリックス・ブルーウェーブ(本拠地は神戸)は

ら好選手を多数擁し、外国人も

  • トロイ・ニール*33
  • ダグ・ジェニンクス(登録名D・J)*34
  • ウィリー・フレーザー*35

といった好助っ人が活躍、「がんばろうKOBE」を旗印に2年連続パ・リーグ優勝を成し遂げる。
95年は惜しくも野村ヤクルト相手に日本シリーズで敗れたものの*36、96年は巨人を破って日本一に輝き、阪神とは対照的な2年間に終わった。



ジェフ・マント(巨人・1996)

96年の序盤のみ巨人に在籍した選手。
「彼はテンプル大学出身だから、大丈夫でしょう」という長嶋茂雄監督の意味不明な擁護を受けたが、ペナントレースが開幕して打率1割台、ヒット3本、打点1*37と成績不振が凄まじかった。
終いにはナベツネから「クスリとマントは逆から読んだらダメなんだ」とあんまりな言葉で言い捨てられ、5月上旬に解雇。
2005年に在籍したダン・ミセリ(詳細は2000年代の項目を参照)が来るまで巨人最速の解雇だった。



ジャック(ジャック・ドウティー)&スパイク(ランディ・レディ)(ロッテ・1996)

96年ロッテの大外れ外人コンビ。
本名で登録すると「童貞と女」になってしまうので、それぞれ「ジャック」「スパイク」という登録名で出場していた。


36歳という高年齢に加えて、長打を期待したい願いとは裏腹に「巧打者タイプ」を売りにしており、ファンに不安を与えた。
蓋を開けたらスパイクは打率.200、ジャックに至っては打率.119と壊滅的で、揃ってすぐ退団。


経緯を説明すると、前年度(1995年)のロッテは広岡達郎GM(当時)が招聘したボビー・バレンタイン監督の采配と、新外国人フリオ・フランコの活躍などにより、それまでの9年連続Bクラス(1986年~1994年)から一気に10年ぶりのAクラスとなるリーグ2位(1985年の2位以来)まで躍進した。
ところが同年オフ、広岡は意見の相違からその功労者であるバレンタインやフランコをクビにし、他の多くの主力選手やコーチらと揉め続けた
挙句にこんなダメ助っ人を入団させたことが決定打となり、それまで低迷していたチームをGMとして2位に押し上げたにもかかわらず広岡の評価は大暴落。
「監督としては問題点が多いながら優秀な面もあったが、GMとしてはゴミレベル」とけなされ、3年契約の予定が2年で契約打ち切りになった*38
そしてロッテは再び暗黒の低迷時代(1996年~2004年まで9年連続Bクラス)を迎えることとなる。


皮肉にも、その次のAクラス浮上は95年から10年後、バレンタイン監督復帰2年目のリーグ優勝(2005年)だった*39
こういった経緯で、ダメだったのは確かだが象徴的な事例となってしまったことについては不運と言える。


アルフォンソ・ソリアーノ(広島・1996〜1997)

1996年に母国ドミニカ共和国のカープアカデミーから入団。1997年に1軍デビューするも打率.118、2安打に終わる。
しかし将来性を買われ翌年も契約する予定だったが、年俸調停での提示額が不服として退団してしまう*40
その後1999年にヤンキースでメジャーデビューを果たすと2001年からレギュラーに定着し、2002年にはトリプルスリー達成と盗塁王のタイトル獲得、2006年にはナショナルズにて40本塁打40盗塁を達成するなど大活躍し、最終的にはMLB通算2095安打、412本塁打、289盗塁をマークした。


バルビーノ・ガルベス(巨人・1996~2000)

台湾リーグを経て1996年に巨人の入団テストを経て入団した投手。
初年でいきなり16勝を挙げ、ジーン・バッキー*41以来2人目の最多勝利のタイトルを獲得し、同年の「メークドラマ」に貢献。
その後も巨人のエースとして台頭した他、投手でありながら満塁ホームラン含めた本塁打も通算10本放つなど、助っ人らしい活躍をする。
なお、1999年には4本のホームランを打ち、その内2本は満塁ホームラン。1シーズンで2本の満塁ホームランを打った投手はNPBで現在に至るまで彼だけである。


しかし如何せん危険球も多い上に、マウンド上では非常に気性の荒い性格であった
一応普段は好人物で、マウンド上での気性の荒さは当時明確なドーピング禁止規定がNPBにない中で使っていた興奮剤のせいだったそうだが、以下のトラブルの数々を見ればそれ以前の問題にも見え、その評価に疑問符が付くのは否めない。


1996年5月1日の中日戦(ナゴヤ球場)では山﨑武司と珍プレーなどで頻繁に取り上げられるほどの乱闘を繰り広げる。
皮肉にもこれがきっかけで牛乳のCMに出演、「カルシウム、フソク、シテイマセンカ?」というまるっきりブーメランなセリフで有名になった。


1998年7月31日の阪神戦(甲子園)では、その時点でリーグトップの勝利数だったのに、球審の橘高淳の判定に怒りを爆発させ、ベンチへ戻る途中で審判団目掛けて思いっきりボールを投げつけ、審判達とも乱闘騒ぎを起こす
その際止めに入ったチームメイトの吉原孝介を負傷させた挙句、4000万円の罰金及びシーズン残りの全試合出場停止の罰を喰らい、後半戦を棒に振ってしまった。なお、この事件がきっかけで責任を感じた当時監督の長嶋茂雄は頭を丸刈りにする事態にまで発展した。


2000年のシーズン終了後、巨人を退団。しかし日本国外でも度々問題を起こす。


2001年にはピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約をするも、開幕を控えた3月下旬の練習中に突然行方不明になり、*42復帰はしたがその直後に退団。
今度は韓国の三星ライオンズに入団するが、初勝利を挙げた後に観光ビザで投げていたことが発覚。対戦相手から提訴される寸前まで問題が発展した。
その後何とか就労ビザを取得し、シーズンでは10勝をあげてチームの勝利にも貢献し続けたが、優勝目前の8月下旬に母親が病気で倒れたのを理由に突然帰国。球団側も6回に渡って復帰要請したが、母親の看病以外にも理由をつけて度々キャンセルし、地元メディアから「オオカミ少年」と揶揄されてしまった。
しかも漸く復帰した韓国シリーズで斗山ベアーズ相手に登板した際、一応第1戦は3失点に留めチームは逆転勝ちしたものの、第4戦では三星側が2回に8点を取る中、何と彼は3イニング途中までに6被安打7失点と爆発大炎上し、最終的に11-18の馬鹿試合*43に発展させる原因を作ってしまった。
なおこの韓国シリーズでは、後に横浜や中日で活躍する斗山の4番打者、タイロン・ウッズに2本塁打(第1戦と第4戦で各1発)を被弾している。



マイク・グリーンウェル(阪神・1997)

歴史に残るダメ外人の象徴。
令和の現在でも語り継がれ、プロ野球を知らない人でもグリーンウェル=ダメ外人という評判を知っていることがあるほど。
低迷を続けていた阪神は、96年オフに西武からFA宣言した清原和博を巡って巨人との争奪戦に挑むが惜敗。
その代わりに命運を賭けて獲得した現役メジャーリーガーがコイツであった。
……しかし、来日時のテンガロンハット+ウエスタンブーツという奇抜な服装で早くもネタ扱いが定着。その後も

  • 外野手のくせに弱肩(チームメイトの久慈曰く「外野からの送球がチェンジアップ」)
  • 「牧場の経営で忙しい」という理由で帰国する

などネタ要素を提供し、ゴールデンウィークに満を持して一軍デビューしたが、数日後試合中に自打球を当て骨折して退団。
彼が最後に残した世紀の迷言「野球をやめろという神のお告げ」は伝説となった。


これだけでも相当酷いのだが、球団が用意した家賃月150万以上とも言われた超高級マンションに「狭い」とクレームを付けた、というエピソードもある。
球団は隣の部屋の壁を取り払って2倍の広さにすることで対応したが、居住期間は1ヶ月にも満たず、拡張と原状回復の二度のマンション工事の費用を球団が支払う羽目に。
また、彼を獲得するにあたって当時は6文字しか入れられなかったスコアボードを7文字に対応させるための工事も行わざるを得なかった*44
そのため、阪神ファンは勿論、他球団のファンからも「史上最悪の詐欺師」GoldenWeekにやってきたGreenWell」と揶揄された。
星野仙一によると、実は96年オフに阪神より先に中日が契約寸前までいったものの、大リーグ事情に詳しい人物から「やめておけ。アイツは日本に来てゴルフがやりたいだけだ」と忠告され、結局獲らなかったという経緯があったらしい。


彼の代理人であったジョー・スローバーという人物も、前述したミッチェルの代理人を務めたことがあった曲者だった。
実は阪神・中日の他に近鉄・西武も獲得を検討していたが、近鉄は代理人がスローバーだったことへの不信感から事故物件と判断して*45、西武も一時は契約寸前まで行ったが、大枚をはたいた阪神にかっさらわれる形となった。
しかし皮肉なことに、同年オフにグリーンウェル獲得を諦めた中日と近鉄は、それぞれレオ・ゴメス(中日)*46、フィル・クラーク(近鉄)*47といった当たり外人の発掘に成功。
獲得寸前でグリーンウェルを横取りされた西武も怪我の功名か、新外国人として獲得したドミンゴ・マルティネス*48の大活躍により、見事パ・リーグ連覇を達成した。
また同年はこの3球団以外にも、ドゥエイン・ホージー*49(ヤクルト)やナイジェル・ウィルソン*50(日本ハム)がそれぞれ来日1年目で本塁打王を獲得するなど、助っ人豊作と言える年であり、そんな年に散々な補強しかできなかった阪神と巨人の悲惨さが一層際立つ格好になってしまった。


同年の阪神の補強はというと、グリーンウェルのみならず、後述のマクドナルドやフィル・ハイアット*51、リード・シークリスト*52、ダネル・コールズ*53と散々なものだったが、同年は本拠地を狭いナゴヤ球場から広いナゴヤドームに移転した中日(特に打線)が新球場への適応に苦しみ、故障者続出も相まって最下位に転落した*54ため、阪神はかろうじて最下位だけは回避するという大躍進の5位成績でシーズンを終えることができた。


余談だが、パワプロシリーズのペナントモードは2001年シーズン(パワプロ9)から助っ人外国人の発掘をできるようになったが、「神のお告げ」を意識したのか、獲得した外国人が一身上の都合で帰国・退団するイベントがあった。



ボブ・マクドナルド(阪神・1997)

グリーンウェルが来日した97年のシーズン途中に、中継ぎ左腕の強化を図って阪神が獲得。
だが蓋を開けてみればテスト時の球速は135km/h未満、ノーコン、変化球も全てしょぼいという有様で、「何処をどう見れば投手と呼べるのか」「二軍の投手の方がまだマシ」という声まで挙がる始末。
当然一軍での成績も、9試合に登板して防御率7.36という炎上ぶり。二軍でも全くダメで9月に解雇されてしまった。


一度左のワンポイントとして松井秀喜を三振に取ってみせたりもしたが、それを見た首脳陣が続投させたら、次打者の清原和博にホームランを打たれるというオチがついたことも。
もっとも緊急補強及び年俸が格安だったため、フロントからも然程期待されていなかったとは思われる。
その年俸が格安だったことに加え、名前が名前なだけに、メディアから「バリュー価格」とあだ名されるなど、関係ない所で散々ネタにされてしまった。



ルイス・デロスサントス(巨人・1997)

連覇を狙う巨人が前年活躍したシェーン・マック*55を追い出してまで獲得した台湾の[[イチロー>イチロー]](彼は右打者で内野手)。
台湾で毎年打率.350以上を記録した実績を持つが、実際は打てない、守れない、走れないの三拍子揃ったダメ外人で、ヒルマンと共に97年前半戦最下位に大きく貢献した。
4月の間我慢して使い続けた長嶋監督に対し、ファン・マスコミはこう訴えた。
「ルイスはルイスでもそいつはカール・ルイスじゃない!!」


巨人退団後、台湾野球に復帰するや、これまでの不調が嘘のように大活躍した。



ビル・セルビー(横浜・1997)

1993年に前述のローズとともに横浜に入団して以降主軸打者として活躍するも、96年オフに退団したグレン・ブラッグス*56に代わり、97年に横浜に入団した外国人内野手。
メジャーでの実績は少ないながらオープン戦で首位打者を獲得するなど期待度は高く、それこそ入団当初はブラッグスのおまけとも思われていたローズと同様に活躍を期待する声もあったが、当時の横浜は一塁に駒田徳広、二塁にローズ、遊撃手に石井琢朗、三塁手に進藤達哉と内野のレギュラーが固定されており、その打撃成績(打率.228、5本塁打、17打点)の物足りなさも相まって1年で解雇された。


これだけならよくいるハズレ外人の1人に過ぎないのだが、彼を取り上げる上で特筆すべき要素は2つある。
1つは、それまで牛込惟浩スカウト*57の眼力により優良助っ人を多数発掘*58してきた横浜の外国人スカウティングの目利きが彼を境に怪しくなってきたことである。以降の横浜は後述のマラベや2000年代の項目で触れるスティーブ・コックス(2003)など次々とダメ外人を獲得*59しており、特に親会社がマルハ(旧:大洋漁業)からTBSに代わった2002年以降は2年連続で本塁打王を獲得したタイロン・ウッズ(2003-2004)以外ほとんど外れと言って良い凄惨な有様で、98年の栄光は見る影もない暗黒時代へ沈んでいく事になる…。
ベイスターズファンの間では親会社がTBSになった2002年が暗黒時代の始まりと言われており、実際TBSの責任が大きいことは言うまでもないのだが、マルハ時代末期は外国人選手獲得だけでなくドラフトの結果も芳しくなく、「選手のスカウティング」という面ではある意味98年の優勝前から暗黒時代が始まっていたとも言える。


そしてもう一つは、「炎と燃えるその闘志〜」の歌い出しで始まる彼の応援歌。
この応援歌はルー・メローニ(2000)、デーブ・ドスター(2001)、ボイ・ロドリゲス(2002)、ラリー・ビグビー(2008)、ダン・ジョンソン(2009)と受け継がれたが、いずれもローズ&ブラッグスやウッズほどの功績は残せず1年で退団。親会社がDeNAに代わってから初めてこの応援歌を継承したトレイ・アンバギー(2023)も負の連鎖を断ち切ることはできず、1年でお役御免になった。
このような縁起の悪さから、ファンの間では応援歌の最後の1節の歌詞「君はニューヒーローさ」とかけて「ニューヒーローの呪い」とも揶揄されている。


ロバート(ボブ)・ミラッキ(近鉄・1997)

ボルチモア・オリオールズで14勝を記録するなど、MLBで実績を残し続けた大物助っ人投手。
当時の近鉄は前年に11勝を挙げたルイス・アキーノを不可解なコメントで自由契約にするなど謎の行動を見せていた*60が、このルイスの穴を埋める戦力として期待されていた。
ところがいざ春季キャンプが始まるとその姿を見た周囲は困惑する。元々体格がかなり大きい選手だったとはいえ、ミラッキは明らかに太っていたのだ。


とんでもない体格と化したミラッキは野球のできる状態とは考えづらかったが案の定オープン戦でも好結果を出すことができず、開幕は二軍スタート。
6月27日の対西武戦で初の1軍先発を果たすが、初回だけで60球を費やして被安打10の10失点というNPB史上でも前代未聞の記録を叩き出した。ちなみに、この1イニングの球数の記録は2005年に吉川勝成が並んでいる。
その後の先発登板でも結果は残せなかったことから首脳陣とファンの信用を失い、シーズン終了後に戦力外となった。



マーク・キャリオン(ロッテ・1997~1998)

非常に珍しい左投右打*61の選手。
彼も前述のホールと同じく成績こそ優秀*62だったが、素行が酷過ぎた。
頻繁に体調不良で練習を早退するに留まらず、試合を無断欠場して自宅で卓球に興じたとあっては流石にフォローのしようが無い。当時の選手名鑑では「チーム一のやる気のなさ」とまで書かれていた。
ホールとの共通点としては「元はメジャーリーガーとして活躍していた」「素行は悪かったが成績自体は優れていた」「野球以外のスポーツが絡んでいる」事が挙げられる。流石に犯罪までは犯していないだけ、ホールよりは遥かにマシかもしれないが。



マイケル・ディミュロ(審判・1997)

アメリカに4つ存在するMLB公認の審判学校である「ジム・エバンス審判学校*63」出身で、審判への不満を解決する為、セ・リーグ会長の提案で出来た「審判交流」の為に日本にやってきたAAA級マイナーリーグの審判(なおよく勘違いされるが、メジャー昇格は1999年である)。
しかし彼のストライクゾーンは日本野球のストライクゾーンとかなり違っている等、選手・監督・観客・他の審判達*64から不満が溜まり、5月17日の甲子園球場での阪神-ヤクルト戦では、判定に抗議した阪神の吉田義男を退場処分としていた。


セ・リーグ会長は彼を擁護して使い続けたが、6月5日の長良川球場で行われた中日-横浜戦で、明らかに大きく外れたボール球をストライクと判定した事に抗議した中日の大豊泰昭に退場処分を下す*65。その際当事者である大豊だけでなし、よりにもよって当時監督であった超武闘派軍団の首領星野仙一以下コーチ数名までもが一緒になって小突くという事件が起こる*66
結局、この猛抗議+観客のヤジで孤立無援を体感したディミュロはショックを受け、部屋では恐怖に震えていたという。
彼自身にも問題はあったとは言え、正直よりにもよってキレたら審判団まで襲撃し、当時ジャッジされた判定が覆る事が基本無かった判定を覆させ*67恐れられたあの軍団を怒らせてしまった時点で相手が悪すぎたと言うかトラウマになるのも無理はない。
そして翌日には辞表を出した。セ・リーグ側は慰留を試みるものの、大リーグも事態を問題視して帰国を指示。来日してわずか3か月の事だった。
結果的にこれが最初で最後の外国人審判になってしまった。


アメリカでは日本とは違い審判に抗議した時点で退場になる程審判は絶対だった為、日本では日常茶飯事である猛抗議への耐性はゼロ。そもそも集団に囲まれて抗議されるなんて事は起こり得なかったのである。しかも止めるべきコーチまで含めてである。
本来、日本でも判定への抗議自体ルール上許されておらず、こうした猛抗議が半ばイベントとして黙認されている日本野球界の体質こそ問題という意見も出たが、あまり長続きしなかった。


これだけ見ると日本野球と大リーグにおける審判文化の違いに振り回された被害者と思われるが、帰国後に再びマイナーを経てメジャーリーグへ昇格した後も

  • ビデオ判定で判定を覆された最初の審判となっている
  • ビデオ確認を求めた選手を退場処分にし、しかも後に誤審が明らかに
  • 判定に抗議したマリナーズの監督を退場処分にした事にイチローが「あの審判こそ退場すべき」「大豊さんの気持ちが分かった」と発言する

等、彼自身の能力面にかなりの疑問符がついている事も事実である。



ホセ・マラベ(横浜・1998)

1998年、横浜が38年ぶりとなるセ・リーグ優勝+日本一の栄冠を手にした記念すべき年に在籍した外国人打者。


……と聞いて多くの人が真っ先に連想するのは、石井琢朗・波留敏夫・鈴木尚典・駒田徳広・佐伯貴弘&中根仁・谷繁元信・進藤達哉とそうそうたるメンツが並ぶ「マシンガン打線」で主軸を担った、前述のロバート・ローズのことであって、このマラベのことではあるまい。
当時を知る横浜ファンの間でも、マラベの印象は相当薄いだろう。


阪神との開幕カードで2試合連続の猛打賞と6打点を記録したが、その後は37打数3安打と不振に陥り同年限りで退団。「振った所にボールが来ない」という意味不明な発言も残した。先述の開幕3連戦を除き、マラベ自身の成績はとても優勝にまともに貢献したとは言えないものだった。


横浜退団後の1999年はメキシカンリーグとアメリカの独立リーグでプレーし、2000年に韓国の球団に入団したが、アメリカでの癖か、韓国に入国する際「身辺保護」と称し拳銃を所持して入国した為、空港で韓国の警察に逮捕され、1試合もプレーする事なく解雇された。


ブライアン・ウォーレン(ロッテ・1998~2000)

あの七夕の悲劇に見舞われた1998年、暗黒期真っ只中のロッテが中継ぎのコマ不足解消のために獲得した助っ人投手。
来日初年度から24登板で防御率0.93、2勝1敗3セーブと好成績を残すと、翌年にはクローザーに定着し30セーブをあげる大活躍。最優秀救援投手、ファイアマン賞にも輝いた。
ロッテの救世主と呼ぶべき名投手ではあったが、一方で彼には他のダメ外国人選手にも見られるある困った気質があった。
それは、ともかくキレやすく、喧嘩っ早い性格。


ことの発端は2000年6月27日の西武戦。
ウォーレンが投じた球に擦り傷を見つけた西武首脳陣が「彼は不正投球をしているのではないか?」と告発*68。審判団も交えての抗議に発展した。
一方のウォーレンおよびロッテ・山本監督は「そんなことは絶対にない」と猛反論。
結局不正を裏付ける証拠は見つからなかったので、ここまでなら疑惑の目を向けられた彼にも同情の余地はあったのだが、問題なのはその後の行動。


29日の試合前、なんと彼はヤスリやカミソリをぶら下げたグラブを持参、その様子を報道陣に撮影させるという行動に出た。これは疑惑の目を向けた西武に対する完全な挑発行為であった。
こうなればもはや両軍は一触即発。5-4とロッテ1点リードの9回表、渦中のウォーレンが登板した際には走者との交錯が原因で乱闘寸前にまで発展してしまう。
結局試合はウォーレンが〆てロッテ勝利に終わったのだが、再三の球審によるボールチェックにイラついていた彼はなんとゲームセット直後に西武ベンチに向かって中指を突き立ててしまう
この侮辱行為が見逃されるはずもなく、「今度やったらもうNPBではプレーさせない(意訳)」とパ・リーグから厳重注意処分を受けてしまう。結局、後日西武ベンチに謝罪に行くことで騒動は収まったものの、この一件も遠因となってか7月以降に調子を落とし、同年限りで退団した。


デーブ・ハンセン(阪神・1998)

98年のみ阪神に在籍していた左打ちの三塁手。
打率3割90打点は見込めるアベレージヒッター、という触れ込みで入団し、フルシーズン一軍でプレーするも、蓋を開けてみれば打率.253、11本塁打、55打点という主軸としては寂しい数字と、リーグ2位の17失策という拙守で1年で退団となった。


このように成績だけならばただの一ダメ外人に過ぎず、この項目に名が乗る選手ではない。
実はハンセンサイドは96年オフにも阪神に売り込んでいたが、その時に彼のプレービデオを見て「いりまへん」と断った当時の阪神監督・吉田義男が、翌97年オフにハンセンサイドが再度阪神に売り込んできた際、なんと前年に見せられたものと同じビデオを見てそうとは気付かずに「だいぶよくなりましたな」と獲得したというのである。
しかも、ハンセンは96年までロサンゼルス・ドジャースに、97年のみシカゴ・カブスに在籍していたのだが、そのユニフォームの違いにすら気付かなかった、という事になる。んなアホな。
もっとも、この話はソース不明の噂なので話半分としておいたほうが良いと思われる。


阪神退団後はドジャースに復帰し、代打の切り札として活躍。
その後も複数の球団でプレーて、2005年に引退した。
ちなみに、足はまずまず速かったらしい。



デジ・ウィルソン(阪神・1998)

ハンセンと同じく98年のみ阪神に在籍した、身長204cmという非常に長身な選手。現在の日本球界での野手最高身長選手の記録保持者*69でもある。
高身長故にストライクゾーンが広く見えるせいで、制球難の剛速球投手にとってはとっても投げやすい打者だった……。それじゃあ活躍できませんね、ハイ。
同じウィルソンはウィルソンでも、同時期に日本ハムに在籍していたナイジェルとはエラい違いであった。



ダレル・メイ(阪神→巨人、1998~2001)

1998年開幕直後に阪神が獲得した左腕。
ローテに定着して好投するもムエンゴのせいで2年間で10勝しか挙げられず…というのはともかく、言動がとにかく酷かった。
どれだけ酷かったのかというと、

  1. 99年5月29日の巨人戦で、松井秀喜に故意に死球を与える*70
  2. 7月18日には審判への暴力行為で退場処分になり*71球団から2週間の謹慎処分を言い渡された後、その謹慎期間中に恋人と歯の治療を兼ねたグアム旅行に行っていた事が発覚
  3. それで野村監督と対立し「あの監督は勝てば自分の手柄、負ければ選手の責任」と痛烈に野村を批判したコメントを報道陣に配布*72して反論

といった具合である。


このビラの件で罰金1200万円&無期限謹慎処分を言い渡された後に阪神を退団になったが、オフに3年連続でリーグ優勝を逃していた巨人が獲得。
すると2000年6月7日の古巣・阪神戦にて、3回続けて打席を外した和田豊に立腹し、彼目掛けてわざとボールを投げつけるという、この年のみ同僚だったガルベス並みの暴挙に出る始末。退場にはならなかったが10日間の出場停止と罰金が科せられた。
このため、暗黒時代をよく知る阪神ファンからは今もなお絶許認定されている。


翌年も活躍したが、オフにメジャー復帰を直訴して退団。06年に引退した後は大学野球のコーチをしていたという。
また03年の阪神優勝時には祝福のメッセージを寄せたり、藪恵壹をはじめ阪神時代のチームメイトとの仲は良かったり、2020年に野村が亡くなった時に追悼コメントを寄せたりと、問題行動のイメージに反して人柄自体は良かったようだ。



ライル・ムートン&エリック・アンソニー(ヤクルト・1998)

1998年にヤクルトに在籍した助っ人。
まず先に入団したムートンは1995年にメジャーデビューし、1997年にはホワイトソックスでクリーンナップを組んだ。
前年に38本塁打を打ち、本塁打王を獲得したドゥエイン・ホージーや古田敦也と共に、日本でも超強力クリーンナップ形成か?!と期待されたが、蓋を開けてみれば日本の変化球に対応できず、
30試合で打率.241・3本塁打12打点。とても助っ人のそれとは思えない凄惨な成績に終わり、6月に早くも解雇されてしまう。
前年途中に加入し、51試合出場で打率.309・13本塁打、そしてOPS 1.030と驚異的な成績を叩き出していたジム・テータムがムートン獲得に代わって解雇されていた事もあって、ヤクルトファンの不満は募る一方だった。もっとも当時はOPS?なにそれおいしいの?なんて時代だから仕方ない面はあるのだが。


加えて、前年は活躍していたホージーまでマークの厳しさから低迷する有様。
そんな状況を打開すべく、ムートンに代わって来日したアンソニーは44試合で12本塁打を放ち、OPSは.849とまずまずの成績を残したが、
故障がちで試合を休む事も多かった為か、オフにホージー共々自由契約になってしまった。


98年のヤクルトは先発三本柱の石井一久が241奪三振で奪三振王を獲得。川崎憲次郎は17勝で最多勝&沢村賞を獲得し、怪我がちだった伊藤智仁も1年間ローテを守って防御率2.72(リーグ3位)を記録する活躍を果たした。
この様に先発投手だけなら優勝した横浜や2位の中日ともにも引けを取らない素晴らしい成績を残したが、助っ人打者達の不振や池山隆寛の衰え等に悩まされ、4位に低迷。
同年限りで辞任した野村監督の花道を飾れないまま終わってしまったが、同年オフには若松勉新監督の下でチームを再建すべく、ホージーとアンソニーを解雇する代わりに2人の新助っ人を招聘した。
その1人がマーク・スミス*73、そしてもう1人があのロベルト・ペタジーニである。そのペタジーニが1年間の苦難に耐えたヤクルトファンへのご褒美と言わんばかりに獅子奮迅の活躍を果たすものだから、塞翁が馬とはまさにこの事だろう。



マイク・ブロワーズ&マーク・ジョンソン(阪神・1999)

暗黒時代脱却を図るべく、1998年オフに三顧の礼を以て迎えた野村克也監督の下で再建を図った阪神が獲得した2人の大物メジャーリーガー。ディアーやグリーンウェルの失敗で懲りなかったのか。
95年(マリナーズ時代)に23本塁打・96打点の成績を挙げたブロワーズは2年契約で年俸2億2,000万円(+「二軍に落とせない」条件付き)、95・96年(パイレーツ時代)と2年連続で13本塁打を記録したジョンソンも年俸1億3,000万円の大型契約で、その期待度の高さがうかがえる。


しかし、ブロワーズは開幕直後に諸事情で一時帰国し、4番サードで戦線復帰後も調子が上がらずスタメンを外される様になり「グリーンウェルの再来か?」とファンをやきもきさせた。
7月に入り3試合連続で決勝タイムリーを打つなどようやく本領発揮かと思われたが、オールスター前後から再び大スランプに陥ってしまい、契約条項も相まって球団と対立する様に。
そして8月1日(横浜戦)には2度のチャンスで凡退した挙句にエラーで失点した事から交代させられ*74、翌日の中日戦では1死満塁のチャンスで先発・藪恵壹の代打として起用されたが、中日のエース野口茂樹相手にショートゴロゲッツーに打ち取られてしまう。
2日後(8月4日)にはシーズン途中であえなく解雇となった。
阪神で73試合・打率.251・10本塁打・43打点に終わったブロワーズは退団後、古巣のマリナーズでメジャー復帰したがここでも19試合の出場に終わり、同年限りで現役を引退した。
この様にブロワーズが活躍できなかった背景には、ホームベースからかなり離れて立つバッティングフォーム(外角への変化球に弱い)*75に加え、後にノムさんが自身の著書で「98年オフにメジャーリーグから引退していたが、阪神フロントが無理に獲得した」(から活躍できなかった)事を示唆している。


一方のジョンソン。
外野手登録ながら実際にはほとんど一塁で出場していたが、不調のブロワーズを尻目に前半戦だけで19本塁打と大暴れ。巨人戦で田淵幸一(1973年)以来となる4試合連続本塁打を記録するなど、その活躍っぷりに虎党を「ようやく『バースの再来』が来たんや!」と歓喜させた。
…が、後半戦に突入すると相手バッテリーから研究された為かどんどんペースが落ちていく。ホームランもピタリと止まってしまい、彼もまたスタメンから外される様になってしまった。
加えて同年の後半戦は阪神移籍後、芳しい成績を残せていなかった為「ストライクゾーンが畳より大きい」と酷評されていた大豊*76がなぜか大爆発して好成績を残していた事もあり、ジョンソンはすっかり立場を追われる事に。
そんなジョンソンも9月26日の中日戦(ナゴヤドーム)。9回表に中日の守護神・宣銅烈からついに会心の逆転3ラン(20本目)を放つ!さぁこれで阪神勝利のヒーローだ!…と思われたその回の裏、あろうことか味方の福原忍が山﨑武司から劇的な逆転サヨナラ3ラン本塁打を被弾*77。結局、ジョンソンの後半戦唯一の本塁打は山﨑による逆転サヨナラ劇を演出しただけで終わってしまった。


ジョンソンのトータル成績は125試合出場・打率.253・20本塁打・66打点と、「バースの再来」とうたわれた助っ人達の中ではかなりマシな数字ではあった。
球団側も翌年に向けてのテストを兼ねてか*78、終盤に本来の守備位置である外野(レフト)を守らせていたが、結局は本人がメジャー復帰を望んだ事や大豊との兼ね合いもあり、シーズン最終戦をもって解雇となった。
退団後はメッツでメジャー復帰し、阪神時代に仲良くなった新庄剛志と再びクリーンナップを組んだ。引退後は金融マンとしてウォール街で働いている様だ。


結局、野村阪神はジョンソンが活躍していた前半戦こそ(一時は首位に立つなど)躍進していたが彼の不調・ブロワーズの解雇と共に沈んでいき、結局は「定位置」の最下位で終わってしまった。
また1990年代の阪神はディアー、グリーンウェル、ブロワーズと、大物メジャーリーガーの補強がことごとく失敗に終わった為か、2000年代前半は年俸が安い*79か、過去に国内他球団で実績を残した外国人選手*80を主に獲得する様になった。



アーキー・シアンフロッコ&グレッグ・ブロッサー(西武・1999)

99年西武の大外れ外人コンビ。獲得に至る経緯を説明すると……
当時の主砲「マルちゃん」ことドミンゴ・マルティネス*81は鈍足で守備が苦手とされていたため指名打者(DH)*82専門であり、日本シリーズ含めビジター(セ・リーグ主催)の試合では使えず、それも響いてかチームは97年・98年とパ・リーグ連覇を果たしたが日本一は逃していた。
このことから西武はマルティネスとの契約を打ち切り、「日本シリーズでも守れる外国人を」とこの2人を獲得したのだ。
チーム全体が若返りを図る方針かつマルティネスも当時既に30代だったという事情もあるだろうが、それにしても「リーグ優勝は当然、日本一を目指す」という超強気の姿勢による入れ替えだった。


が、ふたを開けてみればシアンフロッコは打率.163・本塁打2・打点5、ブロッサーは打率.198・本塁打3・打点9と打撃で全く結果を残せず。
かといって守備もそんなに目を見張るものでは無く(むしろシアンフロッコは15試合で5失策)…というかこんな打撃成績では少々守備が良くても全くカバーできないという話である。結局2人ともシーズン途中で解雇となった。
同年の西武ライオンズは黄金ルーキー・松坂大輔の活躍など投手陣が好調でダイエーとの優勝争いを演じたものの、「(ライオンならぬ)白にゃんこ打線」とまで揶揄される程の深刻な貧打*83が響き、ダイエーに優勝を奪われる。
日本シリーズで勝つ為にマルティネスを切った結果、肝心の日本シリーズそのものに出場できなくなるという本末転倒な結末に終わってしまった。
確かに成績はダメとしか言い様がないが、こういった流れによってこの時期の西武のダメ外人代表的な立場にされてしまった事は不運だと言えるだろう。


皮肉にも解雇したマルティネスは同年途中に入団した巨人で相変わらずの好調な打棒を見せ、出場機会は少ないながら強力打線の一員として活躍。
おまけに守備範囲は確かに狭かったが*84、範囲内であれば無難に守備をこなしていた為、
西武ファンからは「マルちゃんの守備めちゃくちゃ酷いって訳でもないじゃん!マルちゃんカムバック!」と嘆きの声が挙がったのは言うまでも無い。



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  • ガイドライン 誹謗中傷している項目です -- 名無しさん (2023-02-11 22:44:43)

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*1 前年まで中日に在籍。
*2 珍プレーなどで見られる映像では、方々に殴りかかっている彼の姿が見られる。その中で江藤コーチも殴っていたのだろう。
*3 実際、バンスローのTwitterアカウント(@VanceLaw2)のプロフィールにはMLB球団での遍歴が書かれている一方、中日時代については言及されていない。
*4 バンスロー自身「『試合での体力が持たなくなるから練習時間を短くしてほしい』と首脳陣に申し入れたが、聞き入れられずに気持ちが切れた」と述べている。
*5 当時、外国人枠の一軍枠は1チーム2人まで、支配下登録は3人までの制限があった。
*6 唯一の例外として、大洋(当時)から誘ったジェームス・パチョレックは一応活躍した。
*7 ただし、オマリーは活躍よりも人格を重視して選んでいた面があるらしく、これらの選手も人格面は普通に良い選手ばかりであった。
*8 ちなみに入団会見の際に球団旗が外れるハプニングがあった。
*9 バレンタインは「DHしか使い道がない助っ人はいらない」と考えていたが、フェルナンデス自身は守備につく事で打撃の状態を上げる(=DHだと打てない)タイプだったので、DH専で残留しても活躍出来た可能性は低かっただろう。
*10 横浜退団後の2年間は無所属で過ごしていた。
*11 入退団の時期がロッテの時と酷似しているだけではなく、横浜退団の背景には(年俸面で揉めた事もさながら)娘の成長に気付けない程家族にかまえず野球に集中していた事を反省し、家族と過ごす時間が欲しかったから、という理由があった
*12 彼は滅多なことでは怒らない温厚な性格である。
*13 ヤクルトに移籍してからは「下位打線に潜む恐怖の男」として日本一に貢献。後にはなかなか強くなれなかったオランダを強豪にまで成長させたとして、女王から「ナイト」の称号を与えられた。なお、ミューレン自身はホールとは対照的に高津臣吾や野村克也も称賛するほどの人間性を持つ。
*14 1991~2006年までヤンキース一筋でプレイし、チームの中心として活躍した選手。その活躍・人間性は後にイチローがヤンキースに移籍した際、ウィリアムスが付けていたこれまでの自分と同じ『51』の背番号を敬意から「とても付けられない」と固辞し、後に永久欠番になったほど。
*15 バーニーと同じく、1980年から1995年までヤンキース一筋でプレーしていた内野手で、背番号『23』は永久欠番(なお、歴代のヤンキース永久欠番選手で唯一、ワールドシリーズ出場を果たすことができなかった)。2011年から2015年までロサンゼルス・ドジャース、2016年から2022年までマイアミ・マーリンズで監督を務めた。
*16 マッティングリーはまごうことなきメジャーのスーパースターでありながら、そのことを鼻にかけずファンにも気さくな態度で接するなど人格面も非常に優秀であり、ヤンキースのアンチにすら彼を嫌う者はほとんどいないという。この点も、恐らくはファンにすら忌み嫌われていたであろうホールとは真逆である。
*17 念のため補足すると、アメリカの野球選手はオフに別のスポーツをやることも多いため、これ自体は何もおかしくない。
*18 2023年現在、無期懲役で服役中。
*19 小川が在籍していた頃の監督だった有藤通世ですら、最初は「何かの間違いじゃないのか」と信じていなかった。真実だと知ってからは「今目の前にいたら、死ねと言ってやりたい」と激怒したが、まぁ当然だろう。
*20 マイナーリーガーとしては、レイズのドラフト1位の選手が薬物使用と規律違反で3年でレイズをクビになった後、父親と叔父と(当人を恐れて)警報装置を設置しに来た業者をバットで撲殺して終身刑になったケースがある。
*21 販売元はロッテではなく、そのライバル会社。
*22 クリスもクリスで、2011年に上原浩治とのトレードでオリオールズに加入後2度の本塁打王に輝いたものの、2016年に7年・総額1億6100万ドルの超大型契約を結んだ途端に不振に陥り、復活できぬまま2021年に故障もあっての現役引退を表明したことで「史上最悪の死刑囚」認定されてしまった忌まわしい経歴を持つ。2014年にはドーピング違反で処分を受け、日本のファンから「クスリ・デービス」と後ろ指をさされた。2018年、後にオリックスに入団する同僚のアダム・ジョーンズと共に事故でエレベーターに閉じ込められた後インスタライブを始めて事態を説明したら、コメント欄は「お前は二度と出てくるな」といったコメントだらけになるなど、案の定ファンからのヘイトも相当なものであった。
*23 1988年オフにダイエーが南海ホークスを買収し、本拠地も大阪から福岡へ移転した。
*24 スピードが不安視されてかDHとしての出場。守備の動きそのものは十分だったので、もったいない采配ではある。
*25 本人は本当の意味を知らず、当時のダイエー監督・根本陸夫は「ボーリング球がレーンを転がる音だ」と説明した。
*26 ただし、これはトラックスラーの前半戦での活躍に目をつけたダイエー海外事業部が「本塁打に出来高払いをつける」という裏契約を持ちかけ、巧打が鳴りを潜めて本塁打狙いの凡打が増えてしまったせいでもある。
*27 基本的に必ず5点満点になる内容。
*28 ついでに「横浜ベイスターズ」としては初。
*29 なお完封勝利にまで絞ると、シュワーズの解雇と入れ替わるようにして入団したマイク・バークベック(翌96年途中まで在籍)が同年7月18日の広島戦で達成するまで1人も達成者がいなかった。
*30 どちらも打率2割7分前後、本塁打20本台。
*31 同年の開幕前には兵庫のローカル局であるサンテレビが視聴者クイズの企画で「阪神は今年、何試合目で60勝できるか?」という質問を出したものの、「できない」という答えが多数。結果的に正解に終わってしまった。
*32 シーズン途中で中村勝広監督が解任され、二軍監督を務めていた藤田平が代理監督に就任。同年は中日(シーズン途中に高木守道監督が成績不振から休養し、その代行を務めた徳武定祐ヘッドコーチまでも途中休養してしまう有様だった)が長らく最下位を独走していたが、島野育夫二軍監督が「代理の代理」を務めてからは調子を上げ、藤田の就任以降も低迷を続けていた阪神を抜いて5位に浮上……つまり、阪神はシーズン途中に2度も監督が実質解任されたチームにさえ抜かれて最下位に転落したことになる。
*33 1995年から2000年までオリックスに在籍。連覇を果たした1995年・1996年には指名打者でベストナインを獲得し、96年には本塁打・打点の二冠王を獲得。
*34 1995年から1997年までオリックスに在籍。打率は低く、本塁打も15本前後とニールほどの好成績は残せなかったが、ここぞという場面でチームの勝利に貢献した。
*35 1996年度開幕直後にオリックス入りし、1998年まで在籍。96・97年と2年連続で10勝を挙げた。
*36 当時ヤクルトの4番打者を務めていたのは、かつて阪神に在籍していたトーマス・オマリー。日本シリーズでの野田vsオマリーの対決は、「オマリーを阪神に返せ」という呪詛にも似た嘆きも含め、阪神ファンを相当落胆させた。
*37 それもセンターへの犠牲フライであり、解説者からも「他の打者なら軽くスタンドに入っている」と言われた。
*38 広岡はヤクルト監督時代にも初優勝・日本一に貢献したマニエルを「打つだけの選手はいらん」と言って近鉄に放出し、結果翌年最下位(逆にマニエルを獲得した近鉄は初優勝)となってしまった過去があるのに、どうしてGMをやらせたのかという声もある。
*39 ただし、同年のレギュラーシーズンは2位(84勝49敗3引き分け、勝率.632)で、リーグ1位はソフトバンク(89勝45敗2引き分け、勝率.664)。ロッテは同年、パ・リーグの上位3球団によるプレーオフ(2004年~2006年まではプレーオフ優勝チーム=パ・リーグ優勝チームとなるルール)の第1ステージで西武(リーグ3位)を下し、ソフトバンクと対戦する第2ステージでも3勝2敗で優勝し、リーグ優勝を達成。これにより日本シリーズへの挑戦権も獲得し、日本シリーズでは阪神をかの有名な「33-4」で4連勝して破り日本一に輝いた。
*40 他に同様に退団した選手には1972年の阪神・レオン・マックファーデンがいる。
*41 1962年~1969年まで阪神に在籍した投手。1964年に外国人投手初の最多勝利・最優秀防御率のタイトルを獲得した他、1965年には巨人相手にノーヒットノーランを達成するなどの活躍を見せた。2019年死去。
*42 同僚とトラブルを起こしたと言われている
*43 韓国シリーズの1試合合計最多得点記録(29点)、同合計最多安打新記録(34安打)、1イニング最多得点記録(斗山3回12点)は未だに破られていない。
*44 13年後の2010年にランディー・メッセンジャーを獲得してようやくこの点が活かされる事となった。なお2023年現在はLEDになったので文字数制限とかは特になくなっている。
*45 ちなみに阪神もこれを見習ったのか、2015年に退団濃厚となっていたマット・マートンの代わりに獲得を検討していたジョーイ・テルドスラビッチを、ドラフトで高山俊を指名したこともさながら、彼の叔父が「とある人物」だと知ったからなのか(メタい話をするとスコアボードの文字数制限をまた変更しないといけないというどこかで聞いた話が理由なのだろうが)、結局は獲得しなかった(その後はジェイミー・ロマックの獲得に方針転換する)。その「とある人物」こそ、他ならぬグリーンウェルである。
*46 1997年~2002年まで中日に在籍。中日は97年から本拠地を広くてホームランが出にくいナゴヤドームへ移転したが、ゴメスは1997年・1999年に30本塁打以上を記録するなど強打者として活躍、共に三塁手のベストナインを獲得した。特に1999年には36本塁打・109打点の好成績で中日のセ・リーグ優勝に貢献し、グリーンウェルとは対照的に中日ファンの間で優良助っ人として語り継がれている。
*47 1997年から2000年まで近鉄に在籍。元メジャーリーガーでヤクルトでもプレーしたジェラルド・クラークの弟。1年目前半は適応に苦しんだが、日本野球に慣れてきた後半に爆発してイチローとの首位打者争いを繰り広げた。翌98年は打率.320・31本塁打・114打点(OPSは.971でリーグ1位)の好成績を残し、1999年もチームは最下位に沈んだものの29本塁打を放ち、同僚のタフィ・ローズ(40本で本塁打王)や中村紀洋(31本)と共に100本塁打トリオを形成。3年連続でパ・リーグのベストナインに選出された。
*48 後述のアーキー・シアンフロッコ&グレッグ・ブロッサーの項で解説。
*49 「デュウェイン・ホージー」「ドウェイン・ホージー」とも。来日当初はお粗末なスイングかつ走れない守れないといった有様で、当時監督だったノムさんや落合博満(当時日ハム)からボロクソに貶されていたが、野村監督のID野球を積極的に勉強した成果か、開幕後は本塁打を量産。最終的には38本塁打で、松井秀喜(37本)を1本差で抑えて本塁打王に輝き、ヤクルトの優勝や日本一に貢献した。しかし1998年は故障や他球団からの厳しいマークから別人のように低迷し、同年オフにアンソニーとともに退団。
*50 日本ハム(1997年~2001年)および近鉄(2002年)でプレー。日ハム時代には1997年・1998年と2年連続(37本・33本)で本塁打王を獲得し、デジが阪神に在籍していた98年には打点王も含め二冠王に輝いた。1999年以降は怪我に悩まされたが、2000年にも37本塁打を記録した。
*51 三塁手として期待されるも打率.204、11本塁打、30打点、67試合で64三振とディアーとほぼ似た様な有様。その名前から「ハイ、アウト!」とまで揶揄された。2003年途中にはダイエーが怪我で全休した小久保裕紀(同年オフに無償トレードで巨人に移籍)の代役として獲得を検討したが、結局はハイアットではなくフリオ・ズレータを獲得。
*52 ハイアットらの不振でシーズン途中に獲得されたが、打率.192・0本塁打・4打点というハイアット以下の散々な結果に終わった。
*53 前年中日に在籍し打率.302、29本塁打、79打点の好成績をマークするも、鈍足と守備難がナゴヤドームでは問題になるだろうとみなされ(詳細は後述)解雇された(その後、中日が代わりとして獲得したのがゴメス)。シークリストの代わりとして阪神が97年シーズン途中に獲得したが、故障もあり打率.242・7本塁打・28打点と、他2人と比べればまだマシなレベルの成績に終わり、彼らと同様に同年限りで解雇。
*54 前年に39本塁打を打ち本塁打王を獲得した山﨑武司は19本塁打、大豊泰昭(前年38本塁打)は故障もあって95試合出場・12本塁打と低迷。ナゴヤドームではホームランが激減しただけでなく、前年までの機動力・守備力を欠いた野手陣は苦戦を強いられ、投手陣も今中慎二・野口茂樹らの故障が相次いだことにより低迷を余儀なくされた。しかし打線ではゴメスが1人気を吐いた他、投手陣でも山本昌が18勝を挙げ最多勝を獲得。抑えの宣銅烈(来日2年目)も38セーブを挙げ、大魔神こと佐々木主浩(横浜)とともに最多セーブ投手となった。
*55 1995年~1996年にかけて在籍。1996年には打率.293・22本塁打・75打点という助っ人らしい十分な成績を残した。しかし、4億円もの高額年俸がネックとなり、同年退団。
*56 在籍4年間で91本塁打を記録し、1994年には36本塁打。
*57 1964年に大洋球団へ入社し、通訳・マネージャー・広報・スカウトなどを務め、2000年1月に退社。2016年に79歳で死去。
*58 クリート・ボイヤー(1973-1974、1976)、ジョン・シピン(1972-1977)、フェリックス・ミヤーン(1978-1980、1979年に首位打者)、カルロス・ポンセ(1986-1990。1987年に打点王・1988年に本塁打王)、ジム・パチョレック(1988-1991、1990年に首位打者)、ラリー・シーツ(1992、打点王)、ローズ、グレン・ブラッグス(1993-1996)など。
*59 セルビー、マラベ、アルキメデス・ポゾ(1999)、メローニ(2000)、ドスター&ジョン・ズーバー(2001)など、わずか1年で退団する外国人選手が続出した。
*60 「ピッチングパターンが覚えられた」「移転に際し人心の一新を図る」という趣旨のコメントを出している。実際に後半戦になると研究されて打ち込まれ成績が落ち込んでいったのは事実ではあるものの、それ以上の理由として、アキーノは同性愛者でチーム内でそれに関係する問題を起こしたためという説が噂されている。
*61 NPBはもとより、MLBでもランディ・ジョンソンをはじめ数名程度しかいない。
*62 1997年はチーム三冠王。但し打率.279・14本塁打・77打点といささか物足りない。
*63 ちなみにパ・リーグ審判員の留学先としても知られていた(セ・リーグの留学先は「ハリー・ウェンデルステッド審判学校」)。
*64 当時の日本で採用されていた「カウンタークロックワイズ・フォーメーション」に戸惑っていた事による
*65 その直前の際どい球をストライク判定した事への抗議に対する報復。当時のメジャーではよくある判定だった模様。
*66 大豊の著書によると「(対戦相手であった)横浜側も「あれは酷かった。誰が見てもボールだった」と言っていた」とのこと。
*67 1991年6月29日のナゴヤ球場で行われた巨人戦では本塁打判定をファウルに、1998年6月18日の東京ドーム戦での同カードでは(明らかな本塁打だったが)二塁打でアウトとした判定を本塁打にした判定と2回覆させたことがある。
*68 同様の主張は実は前年にも近鉄バファローズが行なっていた。
*69 投手も含むと、2014年に楽天に在籍していたルーク・ファンミル(216cm)が最高身長記録保持者となる
*70 二塁走者の清水隆行の三盗を阻止するためだと思われる。普段は死球を食らっても感情を露にすることがほぼない松井が激昂した(試合後に「絶対わざとだ」とコメントしている)が、後に巨人でチームメイトになって以降和解した。
*71 内野ゴロの間に一塁カバーに入った時に塁審にベースを踏んでいないとみなされた事でぶちギレたのが原因
*72 ビラを撒いたと一部メディアで報道されたが、実際は自分の主張を綴ったプリントを英語の分かる記者に渡した所、他の記者も欲しがったのでコピーして配布した、とのこと。
*73 開幕当初はペタジーニや高橋智(同年にオリックスからトレードで加入)とともに強力打線を形成したが、5月以降は伸び悩んだ。最終的に20本塁打を記録したものの98試合の出場に終わり、オフに解雇。
*74 但し、ノムさんはエラーで失点する以前から既にブロワーズに見切りをつけていた模様。
*75 野口に打ち取られた際の球も苦手のスライダーだった。
*76 97年オフに矢野燿大(のち監督)とともに関川浩一・久慈照義とのトレードで中日から移籍。これはナゴヤドーム移転後、機動力不足から最下位に沈んだ中日がチーム改革を図って行ったもので、関川・久慈は99年の中日優勝に貢献し、矢野もその後阪神の正捕手として03年・05年の優勝に貢献した。
*77 中日は同年9月30日に神宮球場でセ・リーグ優勝を決めたが、この試合は同年の中日でも特に劇的な名場面としてファンの間で語り継がれている。またこの本塁打は打った直後に本塁上で喜びを爆発させた山﨑の姿がアルファベットのXの様だった事から「Xホームラン」と呼ばれている。
*78 ジョンソンが活躍できる様になった背景には野村監督からのアドバイスを素直に聞き入れた事があったためか、野村監督はジョンソンの残留を希望していた。
*79 2000年-2004年にはバトルやキンケード以外にもトニー・タラスコ(2000)、イバン・クルーズ&エドワード・ペレス(2001)、デリック・ホワイト(2002)と言った新外国人を獲得したが、いずれもグリーンウェルなどの様なビッグネームではなかった。但し、2005年以降はシェーン・スペンサー(2005-2006)やルー・フォード(2008)、メンチ(2009)など、年俸1億円超の新外国人も獲得する様になった。
*80 元日本ハムのマイカ・フランクリン(2000)、元オリックスのジョージ・アリアス(2002-2004)、元広島のアンディ・シーツ(2005-2007)など。膝の故障により活躍できなかったフランクリンはともかく、アリアスは2003年に、シーツも2005年にそれぞれリーグ優勝に貢献している。
*81 1997年・1998年の西武時代は鈍足ながら2年連続で30本塁打を記録し、97年にはベストナインも獲得。FAで抜けた清原の穴を埋める活躍を果たし、西武のリーグ連覇にも貢献。
*82 攻撃時に投手に代わって打席に立つ特別枠の選手。日本ではパ・リーグだけが採用している制度
*83 シアンフロッコとブロッサーで合わせてわずか5本塁打。シーズン途中でアラン・ジンター(8本塁打)、コーリー・ポール(12本塁打)を獲得したが、4人合わせても前年のマルティネスより少ない25本塁打だった。結局、ポール(2001年まで在籍)以外は同年限りで全員西武を退団。2001年にアレックス・カブレラ&スコット・マクレーンの通称「ツインバズーカ」が加入し、ようやくこの貧打は解消された。
*84 当時の巨人は補強で清原和博や広澤克実といったスラッガー型の一塁手を乱獲しすぎてポジションが被り押し出されたマルティネスがレフトを守っていた時期もあり、「マルティネスにレフトを守らせないでほしい」と投手陣から苦情が来ていたという。

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