何真 - 日本通信百科事典
』が起こると、辞職して帰郷した。後に官職に復して、資徳大夫・行省左丞となった。やがて、明の太祖洪武帝(朱元璋)の部将である征南将軍の廖永忠に帰順して、東莞県伯に封じられ、忠靖と謚された。脚注[]↑霊帝(劉宏)の皇后、何太子=弘農懐王の劉弁の生母。↑ 現在の河南省南陽市↑ 現在の広
』が起こると、辞職して帰郷した。後に官職に復して、資徳大夫・行省左丞となった。やがて、明の太祖洪武帝(朱元璋)の部将である征南将軍の廖永忠に帰順して、東莞県伯に封じられ、忠靖と謚された。脚注[]↑霊帝(劉宏)の皇后、何太子=弘農懐王の劉弁の生母。↑ 現在の河南省南陽市↑ 現在の広
けて、南方の揚州に向かった。建安年間の初め(196年~197年ごろ)に、袁術の部将である戚寄と秦翊らを説き伏せて、その軍勢を引き連れて曹操に帰順した。曹操は劉馥の帰順を喜んで、司徒に属する掾に任命した。数年後に、許貢の食客の復讐によって暗殺された呉の孫策が任命した廬江郡太守の李術
宋憲と反乱を起こして、曹操に降伏の使者を派遣して、呂布の参謀である陳宮を捕獲して、城門を開いて曹操の軍勢を導き入れた。侯成らこのまま、曹操に帰順して、呂布は部将の陳宮と高順[1]らと処刑された。脚注[]↑ 『後漢書』呂布伝では、高順は侯成らに捕縛されている。この記事は 『侯成』
ら取り戻して安堵させた。しかし、姻戚関係にある常陸伊佐氏一門の伊達氏の当主の伊達行朝の介入で、経長は後醍醐天皇とおなじく同族である新田義貞に帰順して、遠縁筋の北畠家(伊勢源氏)とともに尊氏と戦うことになった。経長は尊氏の命を受けたおなじく遠縁筋の大高師冬の包囲を受けた。しかし、経
だ呂布は躊躇せずに丁原の陣営に乗り込んで、あっさりと養父の丁原を殺害した。丁原の首を持った呂布は、高順・秦宜禄[4]・張遼らを率いて、董卓に帰順して、騎都尉に任命された。その後、『陽人の戦い』などに参戦した。しかし大都護に任じられた陳郡太守・胡軫と仲が悪く、呂布は偽の伝達の使者を
父、蜀漢(蜀)の丞相・諸葛亮の姉婿[4]であった。概要[]南郡中廬県[5]の人である[6]。208年に族父の蒯越と従兄の蒯良とともに、曹操に帰順し、『赤壁の戦い』[7]以降から、荊州北部の南陽郡・南郡を支配した曹操から荊州西北部の房陵郡太守に任命された[8]。219年、蜀王(漢中
者・グスタフ・アドルフ」として、ドイツのプロテスタント諸侯を陪臣扱いにした。これに不満をもったプロテスタント諸侯は皇帝フェルディナント2世に帰順する動きをみせた。これを聞いたグスタフ・アドルフは激怒し、「余のおかげでプロテスタント諸侯の面目は保ったのだ。余がドイツ王国ないし神聖ロ
に仕えた。『睢水の戦い』では、漢の高祖・劉邦を追い詰めたが、劉邦から利害を諭されて、故意に見逃した。後に項羽が劉邦に滅ぼされると、彼は劉邦に帰順したが、捕獲されて処刑されて、晒し首となった。このときの劉邦は「丁固は西楚覇王(項羽)の臣でありながら不忠であった。覇王に天下を失わせた
に左遷された劉邦が、上将軍・韓信の働きで連合軍を率いて、主君の義帝を弑した西楚覇王・項羽の居城である彭城を陥落すると、すかさず叔孫通は劉邦に帰順した。以降から、叔孫通は人間的に愛嬌がある劉邦の臣下として仕えた。彼は儒者の長い衣類を着用していたが、劉邦が儒者嫌いのためあえて短衣装を
であった。若くして高祖・劉邦に従い、秦あるいは楚の章平(章邯の弟)を撃破するなど多くの功績を残し、武威侯に封じられた。項羽から離反した劉邦に帰順しばかりの陳平が重用されたことに対して、周勃は灌嬰とともに「陳平は魏や楚から離反しただけでなく、兄嫁と密通したことがあり、さらに賄賂を受
っておけない問題と判断したので、次第に冷遇するようになり。江陽郡太守に降格させて左遷した。これを聞いた彭羕は劉備と諸葛亮を恨み[5]、劉備に帰順したばかりの馬超の邸宅に向かい、自分の本心を打ち明けた。馬超は「あなたは有能で、わが君の信頼も篤くご親友の法正どのと諸葛亮どのとともに要
の従曾孫、文人の張超の族子、張雄らの父。河間郡鄚県[1]の人。はじめは韓馥に、後に袁紹に仕えたが、都督の郭図と対決して高覧とともに魏の曹操に帰順した。張蚝 : 五胡十六国時代のチベット系氐の前秦の部将。もともとは氐の貴族である弓氏であり、并州の軍閥で、石趙の并州刺史でもあった張平
決するときに崇侯応は聞聘とともに主君に殉じて死んだのである。孫の崇侯鸞、曾孫の崇侯黒彪は、紂王を追って殉死した父、祖父の後を継いで周の武王に帰順して、「崇氏(嵩氏)」または「応氏」と「鸞氏」の祖となった。崇侯虎の異形な容姿脚注[]↑ 明代の『封神演義』、宋(南宋)代または元代の『
後まで勇敢に戦って、節義を曲げなかった張任に感服して、その首級と胴体を棺に収めて金雁橋の傍に忠魂碑として埋葬した。張任の死を惜しんだ劉備は、帰順したその子の張裔[3]を要職につけて、これを重用した[1]。張任の墓は、現在の四川省広漢市北外郷に現存して、県級文物保護単位の扱いを受け
る」と讒言した。こんなときに、かつての盟友の諸葛亮が李厳(李平)とともに孟達に対して「君はかつては蜀漢の将軍だった。速やかに帰参したまえ」と帰順勧告の書簡を送った。窮地の孟達は喜んでこれに呼応した[14]。さっそく、孟達は妻の甥の鄧賢と腹心の李輔に相談したが、両人はこれに猛反対し
范陽郡方城県[1]の人。はじめは魏の漁陽郡太守となり、後に西晋の中書令・散騎常侍を歴任した。張平 (東晋) : 五胡十六国時代の塢主。東晋に帰順するも、すぐに反乱を起こしたため、勅命を受けた豫州刺史の祖逖に討ち滅ぼされた。張平 (趙漢) : 五胡十六国時代趙漢の部将。晋陽を守備し
家(新宮十郎義盛)とともに、平重衡(清盛の子)の軍勢と戦って、戦死を遂げた。重満の次子の重忠は、義仲が身を滅ぼすと、義仲の従兄である源頼朝に帰順して、恭順を示した。頼朝が鎌倉幕府を開くと、重忠は本拠地と同名である尾張国山田郡[4]を与えられて、その地頭となり御家人となった。しかし
みの永昌郡の五官掾功曹・呂凱[15]と府丞・王伉(蜀郡の人)と密かに会い、同じく昔なじみの李恢と牂牁郡太守・馬忠を通じ、蜀漢の丞相・諸葛亮に帰順を前提に雍闓ら反乱の鎮圧を促した。孟獲らの帰順の意向を込めた書簡に目を通した諸葛亮はかつて、故主君の劉備から軍事司令官としての能力は不適
の戦功で、義政は後醍醐天皇から兵庫頭に任じられ、武者所に属した。その後の義政は、義貞の命で同族の足利氏(下野源氏)の棟梁の足利尊氏(高氏)に帰順して、周防国守護代となった。1338年に越前国藤島の灯明寺畷で義貞が戦死を遂げると、義政はその訃報に悲嘆しつつ、そのまま尊氏に仕えて13
大島義高 (三河国守護代) : 大島義政(義昌)の子、義世・守義・義之・守之の父、義量(義世の子)の祖父。父の死後に同族の足利尊氏(高氏)に帰順して、三河国守護代になったようである。1360年に義高は足利義満(尊氏の孫)の命を受けて、足利氏一門の畠山国清を救援して、おなじ足利氏一
。1335年に同族の足利尊氏(高氏)が後醍醐天皇から離反した後に相模国箱根での『竹ノ下の戦い』に義貞に従っていた。その後は義貞の命で、尊氏に帰順して周防国守護代となり、長門国守護の大内長弘(鷲頭長弘)とともに、南朝方の軍勢と防衛線を繰り返していた。1338年に義貞が、越後国藤島の
した。大舘家氏を祖とする。惣領家の新田義貞に従うが、義貞が戦死を遂げると、多くの一門は抗戦を繰り返したが、義冬の代に同族の足利尊氏(高氏)に帰順して、室町幕府の政所奉行人に就いた。江戸時代初期の信氏の代に、遠縁筋の徳川秀忠によって高家旗本に取り立てられたが、信氏の子の信政に嗣子が
った。太公 (魏) : 姓は好、諱は堅(微子堅)。殷の皇族の微子比干の子、紂王の従弟、上記の宋の太公稽(紂王の甥)の従父にあたる。周の武王に帰順して、魏を封じられた。太公 (唐) : 姓は姫、諱は叔虞。字は子于。武王と邑姜(呂尚の娘)との間の子。徐伯・密仲・邘叔・応叔・韓叔(韓の
は地球人を「文化を持つ敵」すなわち「プロトカルチャー」として驚愕をもって怖れるようになり、これが戦争終結の糸口となる。大戦終結後、新統合軍に帰順したゼントラーディ人エキセドル・フォルモらの調査により、人類もまた彼らの言うプロトカルチャーの創造物であり本質的にゼントラーディ人と同じ
A. 南蛮とは、中国大陸を制した朝廷が南方の帰順しない異民族に対して用いた蔑称です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E8%9B%AE
だが…私は曹操に穢された!!」馬超「唾棄すべき無数の暴虐が…恥辱にまみれたこの屍が…なぜこうも煌びやかで美しい!?」涼州軍閥馬騰の子。曹操に帰順した父から軍を受け継ぎ、韓遂らと共に乱を起こす。非常に純粋で天下に完全な潔癖さを求める人物。故に腐敗が進んだ漢王朝や、天子を傀儡にして実
への本格的侵攻を開始する。おまけにその矢先に劉表が病死し、後を継いだ劉綜は最前線の劉備に無断で曹操への降伏を決定してしまった。劉備は曹操への帰順を拒んだ多くの人々と共に、懇意にしていた劉表の長男、劉琦が守る江夏へと逃亡する(長坂の戦い)。一時的に安全を確保した劉備だったが、しかし
名は、「曹真大将軍が来た!」というだけで降伏してしまう城が出るほどに高まり、曹叡の代になると西の大国クシャーン帝国(ベルセルクではない)から帰順の使者までくるという*4、中国史に残る成果もあがっている。【騒めいた魏国】しかし曹真は曹丕の信頼が特に厚い武官であり、また魏では「劉備の
れを受けて孟獲は直々に出陣する。……が、やっぱりこれまたあっさりと捕えられてしまう。孔明は南蛮を攻めるにあたり、武力ではなく心を責めることで帰順させようとしていたため、孟獲も命を取ることなく解放させる。カウントⅠ解放された孟獲は陣に戻ると部下に「番兵を斬って脱出してやったぜ!」な
。その頃、廃墟と化した国会議事堂で、日本……ひいては鋼鉄ジーグの命運を決めようとする決議が行われた。即ち、降伏か死か……早いが話、竜魔帝王に帰順して鋼鉄ジーグを切り捨てようという決議が。僅かに鋼鉄ジーグの勝利を信じ、臨時首相に反論する議員もいたものの、その言葉は「裏切りではない、
ため、幕閣が困る事になった。三代将軍の足利義満は、初代将軍である足利尊氏が大盤振る舞いしたり、その尻拭いに奔走した二代目の義詮が、南朝からの帰順者に領土を安堵せざるを得なかったり、室町幕府設立期から肥大化していた守護大名を、時に戦争で叩き潰し、後継者問題に介入しシッチャカメッチャ
いうのは説得力がない。そもそもセットに同じ場所に置いておかれるかもわからないっていうか多分置かれない。仮にも君主の子なので「新帝の徳を知って帰順してきた反乱分子」としての宣伝効果は孟達よりもはるかに高いし、多分中央で厚遇された可能性が高い。 -- 名無しさん (2020-12
見捨てることもできずに門番となった。カサンドラ奪取を目論むラオウ達に一縷の希望を抱き、言伝を願う。アモンの死をラオウから訊くと部下たちと共に帰順し、カサンドラを監獄都市に改造する命令を承る。武頭山金豹拳継承者CV:大原崇リュウロウの死を受け、変貌を遂げたラオウに極意書をアナログ万
より愛情深く心優しいキャラも意外といたりする。(闇を得体の知れない怖いものではなく穏やかな夜と解釈した場合であろうか)。敵側の場合、あま~い帰順の誘惑に乗ってしまった場合、ストーリー的にはまずバッドエンドになるわけだが、ふとすると……あれ? こっちのほうが幸せじゃね?と感じること
する。元々は在野にあって乱世に名を上げる術もなく、水賊を率いて無為に日を過ごしていた。孫策の評判を聞きつけ牛渚での合戦に参加。そのまま孫策に帰順する。その後は、孫権に仕え、「宣城の戦い」で山鉞に攻められた際は多数の傷を負いながらも孫権の命を救った。「合肥の戦い」でも身を盾にして乱
。学士連合の二番隊隊長・沖田司が使用するが、山崎の木刀により叩き折られた。銀魂かよ。また、伊集院家の留守番役・桜島源蔵も使用するが、八年組に帰順した長倉には掠りもせず、海に突き落とされた。後述の無双竜といい、この漫画の日本刀は扱いが悪い。ただし、伊集院一族配下の暴走族「鉄騎兵団」
ルな性格の持ち主で、銃弾をも叩き落とす必殺の回し蹴り「大旋風脚」を始めとした中国拳法で戦う。秋桜会襲撃時に鬼頭と戦うが敗北し、以降は八年組に帰順する。それから後も鬼頭とは抜群のコンビネーションを見せる。「へっ、覚悟の上よ。けどおれァ死なねえぜ」・加倉井伊集院一族の保有する牢獄「男
運べない物資や財宝は奪われないよう燃やしてしまいましょう」という焦土作戦の提案があった。ところが張魯は焦土作戦に反対。「自分はもともと国家に帰順するつもりだった。物資は国家のものであり、我々が勝手に焼き払うことは許されない。略奪されないよう倉庫に厳重に鍵をかけるだけにしておけ」と
。しかし悲しいかな、朱友珪には人の上に立つ才能が全くなく、その上殺戮だけは大好きというしょーもない人物であったため太祖の仮子朱友謙が李存勗に帰順する*21など混迷は加速。最終的には異母弟の朱友貞の巧みな煽動に乗せられた近衛軍の謀反により即位から一年持たずに殺害され、朱友貞が皇帝と
であり、ホーリー隊員全員が何らかのアルター能力を所有している。表向きには社会の秩序を乱し脅威となるネイティブアルター達を”保護”しホーリーに帰順させることを任務としている。ホーリーが設立されたのは、6年前市街地で起こった原因不明の大破壊が直接の原因であるが、それ以前よりロストグラ
とイェラグの礼儀作法について意見交換をしに来たのではありません。本題に入ってもよろしいでしょうか?[ノーシス] 構わない。ラタトスは以前私の帰順を拒んでいたにもかかわらず、なぜ今になって再び私に接触しようとしているのか興味があるのでな。[スキウース] フンッ、わかってるくせに!
存在しているものの、各都市の統率者たちはすでに、独立した一都市では国家に対抗することができないことを理解している。近年、積極的に近隣の国家に帰順することを選ぶ独立都市も少なくない。シエスタ市が現した頭角が、これから彼らを新たな方向に導くかもしれない。第三資料セイロンは自己紹介をす
こいつらが……チェゲッタだって!?[ノーシス] 彼らは古代の伝説に語られる山雪鬼の名を冠し、イェラガンドの威光に帰順することなく、最も純粋な力で信仰に挑む。雪山の奥深くに潜むという、伝説の山雪鬼――「チェゲッタ」。それらは不気味な仮面をかぶり、巨大な鈴
部下のゲルド族や大勢の魔物を引き連れ、ハイラル王国の簒奪に現れるが、秘石の力で魔物をせん滅された際は撤退して作戦を変更。わざとハイラル王国に帰順の意を示し、更にゼルダ自身に化けてソニアの油断を誘おうとした(一応、ソニアもこのゼルダが偽者というのは見破ってはいた)。最終的には不意を
い数のシーボーンが、その奇怪な手足を引っ込め、グレイディーアの一挙手一投足をまるで聖地を巡る僧侶の如く静かに眺めている。大群は彼女に対して、帰順するよう要求していた。これ以上無意味な抵抗を、無意味な死を招く行為をやめるようにと。今の彼女には、大群の意志がはっきりと理解できた。否、
秘法「秘石」に目を付け、不敵な笑みを浮かべた。今度は王国からの招集に応じる形でゲルド代表としてハイラル城に参り、国王のラウルに対して全面的に帰順する意志を示した。目的はもちろんラウルと王妃のソニアが所有する秘石にあり、表向きだけ従う振りをした偽りの臣従であった。そんな黒き野心はラ
達が諦めずに仲間を助け、その努力に応えて未来に生きる英傑の末裔が次々参戦。さらにアストルが使い捨てにした結果イーガ団が離反し、ハイラル王家に帰順したことによってハイラル全体が一致団結。これによりガノンたち魔物勢は次第に追い詰められ、ハイラル城の決戦で四体のカースガノン、アストル、
しまい、求心力を一気に喪失、構成員がバラバラになってしまった。例えば「連邦の反ティターンズ派」はティターンズがいなくなった連邦軍・連邦政府に帰順し、「ジオン残党」はネオジオンに合流するなどして連邦への更なるテロに走り、いずれもエゥーゴから脱退してしまった。二代目指導者クワトロ自身
で再び幽州に派遣される。数年前の幽州時代に培われた劉虞の声望はいまだによく知られており、烏桓勢力の頭目・丘力居は戦闘を放棄してさっさと劉虞に帰順してしまう。大勢力が抜けてしまった張純は形勢不利と見て鮮卑族の下へ逃亡するが、間もなく部下に暗殺され、反乱は鮮やかに平定。一連の功績がす
奥州方面の象徴的な総大将。父親似の垂れ目。1337年時点で9歳と幼いが顔つきは聡明で、ついこの間まで朝敵だった時行に対しても堂々とした態度で帰順を認めるなど威厳がある。後の後村上天皇であり、鎧を着て戦場を駈けた最後の天皇となる。四条しじょう大納言だいなごん般若坂へと進軍する北畠軍