グスタフ・アドルフ2世

ページ名:グスタフ・アドルフ2世

ユーテブー(イェーテブリ)市内にあるグスターヴ・アウルフ(グスタフ・アドルフ)像

グスタフ・アドルフ2世/グスターヴ・アウルフ2世(スウェーデン語/独語:Gustav Adolf II, 1594年12月19日 - 1632年11月16日、在位:1611年 - 1632年)は、スウェーデンのヴァーザ家(Wasa)の6代目の王である。または「北方の獅子」、「グスタフ2世」(Gustav II)、「グスタフ・アドルフ」(Gustav Adolf)とも呼ばれる。前述の呼び方はドイツ語の発音に基づくものであり、スウェーデン語では「グスターヴ・アウルフ」と発音される。ドイツの『三十年戦争』に大いに関わった英雄のひとりである。

ヴァーザ家[1]の5代目の王・カール9世(グスタフ1世の末子)と後妻のクリスティーネ[2]との間の子。弟にセーデルマンラント公のカール・フィリプらがいる。

妻はマリア・エレオノーラ[3]で、その間にひとり娘の女王・クリスティーナを儲けている。愛妾はエヴァ・ブラーエ[4]

目次

概要[]

ヴァーザ家はスウェーデンの土着貴族で、東ゲルマン系のゴート族(東ゲルマン語群)の末裔である。エーリク(エリク)・ユハンセン(Erik Johanssen, 1470年頃~1520年11月8日)とセーシリア・マンスドーター(Cecilia Mansdotter, 1476年頃~1523年)の間の子であるグスタフ1世(Gustav I, 1495年~1560年9月20日、在位:1523年~1560年)が開いた王朝で、バルト海で勢力を伸ばしたのである。

グスタフ1世の孫のグスタフ・アドルフ2世ことグスタフ・アドルフは若いころから各国の語学に堪能で、18歳で病弱の父が逝去したため、その後を継いで、宰相のアクセル・オクセンシェルナ(ウクセンシェルナ伯爵)の補佐を受けた。

グスタフ・アドルフはオランダのオラニエ公のマウリッツ・ファン・ナッサウ[5]の軍制改革を受け継いで完成させた人物で、1620年に彼は人口が百数十万しかいなかったスウェーデン王国にヨーロッパ最初の徴兵制を実施し、16歳から40代の屈強な農夫が選ばれ、彼らは軍服と武器が支給され、地域ごとに厳格な正式な訓練を受けて、戦いに出征する制度であった。

こうして、毎年募兵を重ねたために1627年には13万五千人に膨れ上がった。グスタフ・アドルフはそれを利用して、ロシア・ポーランド・デンマークと戦って、フィンランドを支配するなどバルト海の利権を得て、北ドイツの豪商連盟の『ハンザ同盟』に介入さえした。

しかし、スウェーデンの人口が百数十万にしかいなく、農村は壮年や中高年しかいないために、大打撃をこうむり、反乱を招きかねない事態となる。それを防ぐためにグスタフ・アドルフはある提案を出して、思い切り外国の傭兵軍団を雇い、軍隊を増強した。

民族別には大部分がドイツ人だったが、他にアイスランド人・フィンランド人・オランダ人・フランス人・イングランド人・スコットランド人・ウェールズ人・アイルランド人などの混成部隊が多かった。とくにスコットランド人の多くは将校をつとめ、ドイツ人傭兵部隊とスウェーデンの徴兵部隊を統括させたのである。

同時にスウェーデンの精鋭は十数万のスウェーデンの近衛部隊であり、火器が充実し歩兵、騎兵。砲兵ごとに分かれて、近代化した軍隊であった。

1631年冬1月23日ににグスタフ・アドルフはフランス王国の宰相・リシュリューと『ベールヴァルデ条約』の同盟を結んだ。フランスからの資金を利用してグスタフ・アドルフは「余は征服するために来たのではなく、新教の敵を撃退するためにやってきたのだ!」と、大義名分をあげて、ドイツ王国こと神聖ローマ帝国に侵入したのである。彼は神聖ローマ皇帝のハプスブルク家が『ハンザ同盟』をはじめとするバルト海の利権に制覇を目論むことに異議を唱えたのである。

折しも、神聖ローマ帝国の皇帝のフェルディナント2世は皇帝軍総司令官のアルプレヒト・フォン・ヴァレンシュタインを、彼の専横に不満を持つドイツ諸侯の要望で罷免させ、爵位を剥奪したので、ヴァレンシュタインは郷里のボヘミアに蟄居した。

そこで、フェルディナント2世はヴィッテルスバハ家のバイエルン侯・マクシミリアン1世の将軍である・ヨーハン・ゼルクレース・グラーフ・フォン・ティリー(Johann Serclä(ae)s Graf von Tilly)を皇帝軍総司令官に命じて、迎え討たせたのである。

グスタフ・アドルフはドイツのプロテスタント諸侯と連合して、皇帝軍と対峙したのである。このときのグスタフ・アドルフは「余はゴート族の王・ベリクの末裔である。新教(プロテスタント)を侮る旧教(カトリック)を成敗しに参ったのである!」と叫び、「古ゴート主義」を唱えたという。

グスタフ・アドルフは『ベールヴァルデ条約』の条約をドイツのプロテスタント諸侯に伝令した。つまり、スウェーデンか神聖ローマ帝国のどちらかを選び、中立するものは武力も辞さないと迫ったのである。新教のうちルター派のヴェッティン家のザクセン侯のヨーハン・ゲオルク1世と、カルヴィン派のホーエンツォレアン家のブランデンブルク侯のゲオルク・ヴィルヘルム[6]は共同して、東部ドイツのライプツィヒで、小貴族出身の傭兵隊長のハンス・ゲオルク・フォン・アルニム=ボイツェンブルクを総司令官に任命して、皇帝のフェルディナント2世に「新教徒に苛烈な回復令をご廃止なされませ。さもなくば、われらは陛下に背を向けるつもりですぞ」と宣戦布告の使者をだした。2選帝侯は中立を保つつもりだったが、フェルディナント2世自身が新教を壊滅する旨を伝令したため、2選帝侯はやむなく建前としてグスタフ・アドルフの共同者となったのである。

こうして、グスタフ・アドルフは勢いに乗じて、ヘッセン=カッセル方伯・ヴィルヘルム5世(不変伯)をはじめ、ポンメルン侯、メクレンブルク侯、クリスツィアン・ヴィルヘルム率いるマクデブルク大司教、そしてボヘミア冬王こと元プファルツ侯で、プファルツ=ヴィッテルスバハ家出身のフリートリヒ5世(バイエルン侯・マクシミリアン1世の族弟)らが、グスタフ・アドルフの同盟者であった。

このため、フェルディナント2世らはグスタフ・アドルフの侵入を「たかが知れている!」と言って甘く見ていたのである。事実、グスタフ・アドルフはヘッセン=カッセル方伯のヴィルヘルム5世だけを頼りにしていたのである。

しかし、エルベ川付近にある北東部ドイツ・マクデブルク大司教領は肥沃な土地でフェルディナント2世にとっても、グスタフ・アドルフにとっても喉から手を出したいほど欲しがっていたのである。そこで、フェルディナント2世はヴァレンシュタインの後任者であるティリーにマクデブルクの攻撃を命じたのである。ティリーは敬虔なカトリック信者であり、俗物の傭兵隊長のヴァレンシュタインとは性格が異なっていた。

しかし、ヴァレンシュタインの軍功が桁外れなので、ティリーは焦っていた。ティリーは苦悶に悶えながら、副総司令官のパッペンハイムとマクデブルクの城塞を包囲した。この報を聞いたグスタフ・アドルフは義兄であるブランデンブルク侯のゲオルク・ヴィルヘルムとザクセン侯のヨーハン・ゲオルク1世に援軍を要請したが、両人は巧みにこれを断ったために、グスタフ・アドルフも動くに動けなかった。

同年夏5月20日の午前5時にティリーは総攻撃を開始した。結果としては16世紀の神聖ローマ皇帝のカール5世(フェルディナント2世の大伯父、スペイン・ハプスブルク朝の祖)時代の『ローマの略奪』に劣らない惨劇であり、城郭は炎につつまれて2万5千の住民が殺され、女性は凌辱されたあとに殺された。この無残な場面をみたティリーは「神よ…罪深き我を許したまえ…」と自ら懺悔して、自分はもう長くはないと判断したのである。

このことは全ヨーロッパが震撼し、とくにマクデブルクを見殺ししたとされるグスタフ・アドルフは非難の的となり、以降からカトリックとプロテスタント諸侯の戦いが激化したのである。こんなときにティリーの主君であるバイエルン侯・マクシミリアン1世は皇帝に内密で、フランスのリシュリューと密約を結んだというのである。ティリーはますます苦悶し悶え苦しんだのである。またブランデンブルク侯・ザクセン侯は完全にグスタフ・アドルフと本格的な同盟を結んだのである。

同年秋9月にティリーはザクセンのライプツィヒを占領した。ザクセン侯は配下の傭兵隊長のハンス・ゲオルク・フォン・アルニム=ボイツェンブルクに迎え撃たせた。グスタフ・アドルフもザクセン侯とブランデンブルク侯と合流し、ライプツィヒの北にあるブライテンフェルトに陣営を敷いて、ティリー率いる皇帝軍と対峙した。9月18日午前9時に戦いははじまった。これが名高い『ブライテンフェルトの戦い』である。

グスタフ・アドルフは近代的な布陣でティリーは伝統的な布陣で、両軍は激突した。まずは副総司令官のパッペンハイムが独断で先手を打って攻撃を開始した。皇帝軍は従来の火縄銃と長槍隊で構成されたが、グスタフ・アドルフ率いる軍勢は近代的な大砲隊や抜刀突撃銃騎兵隊を率いて、迎え撃った。この結果、7時間の激戦を経てザクセン侯の戦列離脱があったが、皇帝軍は1万2千人の戦死者、8千人が捕虜された。グスタフ・アドルフの軍勢の死者は2千人ほどであった。副総司令官のパッペンハイムは逃亡し、ティリーは負傷し、右腕を失ったままこれも南下して逃亡した。

プロテスタントの勝利のために、ザクセン南東部のドレスデンでは戦勝祝いを催し、現在でも名残として感謝祭としてイベントが行なわれているという。

この戦いの最大の功労者のグスタフ・アドルフはついに本性をあらわにして「征服者・グスタフ・アドルフ」として、ドイツのプロテスタント諸侯を陪臣扱いにした。これに不満をもったプロテスタント諸侯は皇帝フェルディナント2世に帰順する動きをみせた。これを聞いたグスタフ・アドルフは激怒し、「余のおかげでプロテスタント諸侯の面目は保ったのだ。余がドイツ王国ないし神聖ローマ帝国の皇帝になっても問題はなかろう!余自身もドイツ人の血も引いているのだ」と公言したのである。

グスタフ・アドルフはまず、ボヘミア冬王のフリートリヒ5世をプファルツ侯に復位させようとした。しかし、誇り高いフリートリヒ5世はこれを拒否した。また、メクレンブルク侯に使者を出して、グスタフ・アドルフ自身が「皇帝たる余が云々…」という手紙を見たメクレンブルク侯は、グスタフ・アドルフに対して不快感を示した。

さらに、フランス王国の宰相・リシュリューもグスタフ・アドルフの専横に危惧をおぼえ、密約したバイエルン侯・マクシミリアン1世と共謀して、かつてフェルディナント2世によって罷免され蟄居中のヴァレンシュタインの起用を工作した。バイエルン侯はこのことをフェルディナント2世に進言し、同時に、ドイツ南部のアウクスブルク付近のドナウ川支流のレヒ川流域で布陣しているティリーにグスタフ・アドルフの防御を命じたのである。

1632年春4月14日にグスタフ・アドルフはレヒ川左岸台地に布陣し、『レヒ川の戦い』でティリーは再び敗れ、致命的な負傷を負った。まもなくティリーはミュンヒェンの北にあるインゴルシュタットの城塞で75歳でこの世を去った。

ついに、ヴァレンシュタインはティリーの死の前の冬1月に動きだし、フェルディナント2世は彼を皇帝軍総司令官に任命した。ヴァレンシュタインはただちに裏交渉の買収でボヘミアに駐屯したヴェッティン家のザクセン侯のヨーハン・ゲオルク1世を撤退させたのである。同年夏7月にレーゲンスブルク近郊のシュバーヴァハでバイエルン侯のマクシミリアン1世と合流した。快進撃中だったグスタフ・アドルフはこの報を聞いて驚愕し、ただちに包囲したウィーンから撤退して急いで北上した。

ともあれ、進撃中のスウェーデン軍とヴァレンシュタインは対峙することになった。ヴァレンシュタインはただちに裏交渉の買収でボヘミアに駐屯したヴェッツィン家のザクセン侯のヨーハン・ゲオルク1世を撤退させたのである。同年夏7月にレーゲンスブルク近郊のシュバーヴァハでバイエルン侯のマクシミリアン1世と合流した。この報を聞いたグスタフ・アドルフは驚愕し、ウィーン包囲を解いて急いで北上した。

進撃のあまりに手薄となったグスタフ・アドルフはライプツィヒ近郊の小都市リュッツエンでヴァレンシュタインの軍勢と激突することになった。同年の秋11月で、このときリュッツエンは濃霧に覆われた。同時にヴァレンシュタインは配下のパッペンハイム率いる1万の軍勢にザクセンの一都市のハレを襲撃させた。ところがこの報を聞いたグスタフ・アドルフは配下を派遣して、パッペンハイムの軍勢を撃退したのである。

ついに11月16日に、ヴァレンシュタイン率いる皇帝軍とグスタフ・アドルフ率いるプロテスタント連合軍との戦闘がはじまった。とくに当日は桁外れの濃霧であり、グスタフ・アドルフは右翼に陣取って、左翼は友軍であり、フランク王国の宰相である前述のリシュリューが雇った傭兵隊長のベルンハルト・フォン・ザクセン=ヴァイマー[7]が陣取っていた。ヴァレンシュタインの軍勢は旗色が悪く、午後になるとハレから敗走したパッペンハイムがリュッツエンに到着するも、彼は胸部に被弾されて戦死を遂げた。

しかし、夕方近くになると、異変が起きた。結果としては皇帝軍が大敗し、撤退した。だが同時にグスタフ・アドルフの愛馬が主人がいないまま戦場を駆け巡ったのである。皇帝軍の将校でイタリア人の傭兵隊長のピッコローニが、グスタフ・アドルフが落馬したのを目撃したのである。ピッコローニはこのことを皇帝軍の将軍でオランダ人のヘンドリク・フォン・ホルクに知らせた。ホルクはこれをヴァレンシュタインに知らせた。

スウェーデン軍に緊張が激震した。しかしスウェーデン軍は強く、グスタフ・アドルフの盟友で前述のベルンハルト・フォン・ザクセン=ヴァイマーの総指揮で、ついに皇帝軍はリュッツエンから撤退した。まもなくグスタフ・アドルフの遺骸が発見された。右のこめかみに被弾された痕があった。また、背中や脇腹にも銃痕があった。このときのグスタフ・アドルフは享年39だった[8]

グスタフ・アドルフの訃報が祖国・スウェーデンに知れ渡ると、宰相のオクセンシェルナはグスタフ・アドルフの遺骸をドイツから引き取り、葬儀が行なわれた。グスタフ・アドルフの妻のマリア・エレオノーラは愛する夫の遺骸にしがみついて離さず、涙を流してキスをする始末であった。

グスタフ・アドルフの後を継いだのは娘のクリスティーナであり、彼女は母と確執関係にあり、生涯結婚をせず、名高い『三十年戦争』の終焉を提案し、調印した優れた女王であったという。

彼は中国の後周(漢化したトルコ系突厥沙陀部の王朝という)の世宗(柴栄)と、しばしば比較される人物である[9]

『リュッツエンの戦い』で壮絶な最期を遂げた北方の獅子・グスタフ・アドルフ

脚注[]

  1. WasaまたはVasa、ドイツ語読み、スウェーデン語は「ウァーサ家」。
  2. 低地ドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公のアドルフの娘。
  3. ホーエンツォレアン家のブランデンブルク侯・ヨーハン・ジギスムントの娘。
  4. グスタフ・アドルフの母であるクリスティーネの侍女で、彼は彼女と正式に結婚しようとしたが、母の許可を得られず断念したと伝わる。
  5. 中西部ドイツの貴族であるナッサオ=オランヂェ家のウィレム1世の子。
  6. グスタフ・アドルフの義兄(妻の兄)でヨーハン・ジギスムントの子。
  7. ヴェッツィン家(ザクセン選帝侯)の分家のザクセン=ヴァイマー侯・ヨーハン3世の11男。
  8. 有名な『リュッツエンの戦い』で、ボヘミア冬王のフリートリヒ5世も、グスタフ・アドルフの後を追うように同年の11月29日に37歳で急逝した。
  9. グスタフ・アドルフとともに英傑であり、死没も39歳と共通している。

関連項目[]

参考文献[]

  • 傭兵の二千年史(菊池良生/講談社現代文庫/2002年)ISBN 978-4061495876
  • 戦うハプスブルク家 - 近代の序章としての三十年戦争 -(菊池良生/講談社現代文庫/1995年)ISBN 978-4061492820
先代:カール9世スウェーデン国王ヴァーサ朝・第6代
1611年 - 1632年
次代:クリスティーナ


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