劉馥

ページ名:劉馥

劉馥像

劉馥(りゅうふく、? - 208年)は、の部将。字は元穎。後漢の沛献王の劉輔[1][2]の末裔[3]劉靖(劉静)の父、劉熙・劉弘の祖父、劉璠(劉弘の子)の曾祖父、劉伶の族祖父[4]劉毅の族曾祖父[3]曹操の先妻の劉夫人(前孝武皇后)[5]と夏侯淵[6]の妻の劉氏(丁氏の説もある)ら姉妹の族兄弟[3]、曹真[7]の妻の劉氏(前孝武皇后・劉氏の姪?)の族父[3]で、劉岱の族兄弟[3]に当たる。

目次

概要[]

沛郡相県[8]の人。中平年間に動乱を避けて、南方の揚州に向かった。

建安年間の初め(196年~197年ごろ)に、袁術の部将である戚寄と秦翊らを説き伏せて、その軍勢を引き連れて曹操に帰順した。曹操は劉馥の帰順を喜んで、司徒に属する掾に任命した。

数年後に、許貢の食客の復讐によって暗殺された孫策が任命した廬江郡太守の李術(李述)が、曹操が任命した揚州刺史の厳象を攻め滅ぼした。その際に盧江郡の土豪である雷緒(雷薄?)・梅乾(梅成?)・陳簡[9](陳蘭)[10]らが、数万の軍勢を率いて、淮河付近の地域を跋扈した。曹操はそのとき袁紹との『官渡の戦い』の最中にあったので、後漢の愍帝(劉協)に上奏して、劉馥を召し出して、厳象の後任として、揚州刺史に抜擢した。

揚州刺史となった劉馥は、温恢と蒋済の補佐を得てわずかの手勢を連れて、乗馬して合淝(合肥)の空城に向かって、州庁を設立して、雷緒らを懐柔した。そのため淮河付近の治安はよくなり、献上品が贈られてきた。数年後に安定したため、民衆は劉馥の治世を喜び、他方からも山河を越えてきた難民の数は数万に及んだ。

そこで、劉馥は学校を作り学生を集め、屯田を奨励して、各堤防を作り、稲田を灌漑した。そのため、士大夫から民衆まで生活の糧を貯蓄できた。さらに劉馥は外敵に備えて、城壁を高くして筵を数千枚ほど編ませ、魚の脂数千石ほど貯蔵して、準備は万全であった。

208年に、劉馥は病で逝去した。その後、呉の孫権(孫策の弟)は、合淝を百余日ほども包囲したが、その間に連日ほど雨が降り続けた。亡き劉馥配下でその後任の温恢と蒋済は雨のために崩れ落ちそうな城壁を筵で覆わせて、夜は魚の脂で点灯させて場内を照らした。その間に呉の軍勢を防御した。その結果、孫権は敗北して撤退した。そのために揚州の民衆は劉馥を追慕したほどである。

その一方、戦国時代の趙の晋陽郡太守の董安于は、劉馥と比較される治世を試みたが、彼を越えられないと後世の人々から評されたほどである。後世になっても劉馥が作った各堤防は恩顧を与えているようである。

その末裔[]

劉馥の長男の劉靖の字は、文恭といった。黄初年間に黄門侍郎から盧江郡太守に昇進した。その際に曹丕(曹操の三男)から「君の亡父はわが国のために懸命に尽くしてくれた。君は亡父以上に優れている。要職に就けるから頑張れよ」と励まされた。後に河内郡太守に転任し、尚書に昇進して、関内侯に封じられた。

しばらくして、劉靖は散騎常侍の応璩から父の劉馥を越えるために諭す手紙を受け取った。さらに、鎮北将軍・仮節都督河北諸軍事に累進した。劉靖は范陽(薊)地方に、父に倣って各堤防を築き、薊の町の南北を灌漑した。この行為も後世の人々の恩顧を与える結果となった。254年に劉靖は逝去して、征北将軍に累進され、建成郷侯に封じられ、「敬侯」と諡された。その子の劉熙が後を継いだ。

劉熙の弟の劉弘の字は、叔和(和季とも)といった。世祖武帝(司馬炎)と同年で、ともに洛陽の永安里に住んでいたことがあり、親交が深かった。司馬炎が権力を把握すると、昔の誼で要職に抜擢された。世間は祖父の劉馥・父の劉靖の名声が謳われ、劉弘も政治的能力を備えていた。まもなく、劉弘は西晋末に車騎大将軍・荊州刺史・仮節都督荊交広州諸軍事に累進し、新城郡公に封じられた。彼は漢水・長江流域で、父祖に倣って感慨を奨励した。とくに裁判を簡素にして、農業・蚕業を盛んにさせた。劉弘は公平性が評判があり、とくに武帝の太子である恵帝(司馬衷)から信頼が篤かったという。また、晋の上大夫からも一目を置かれた。

あるときに、広漢郡太守の辛冉は恵帝が都から落ち延びて、天下が動乱をしていることから、劉弘に対して地方の豪族と連合して、「漢王朝再興」の旗頭となるべきと進言した。これを聞いた劉弘は、激怒して辛冉を斬り捨てた。天下の人々は彼の行為を褒め称えた[11]

その一方、天下は乱れていたけれども、南方の荊州は比較的に安定していた。劉弘は漢水・長江流域を支配し、かつての後漢末の荊州牧の劉表のように中立を維持して、誰とも連携しない構想をも抱いていた。それに敏感に感づいた晋の皇族の東海王の司馬越は、劉弘に対して不快感を持ち、次第に怨恨に変わった。その最中の306年に劉弘は病で逝去した。齢72。その子の劉璠が後を継ぎ、彼は北中郎将となった[12]

脚注[]

  1. 世祖光武帝劉秀)の次男(あるいは三男)、はじめは中山王、郭太子=東海恭王の劉彊(劉強)の同母弟、済南安王の劉康・阜陵質王の劉延・中山簡王の劉焉の同母兄。顕宗明帝(劉荘/劉陽)の異母兄。
  2. 著書に『沛王通論』があった。
  3. 3.03.13.23.33.4元本』(『元大徳九路本十七史』)より。
  4. 生没年:221年? - 300年?、字は伯倫。西晋の官吏で酒を好み、礼法を蔑視する生活を送った。『竹林の七賢』のひとりで、『酒徳頌』などを著した。
  5. 曹昻(曹昂)・曹鑠・清河長公主の生母。
  6. 曹操の母方の族弟。
  7. 曹邵の子で、曹操の従子。
  8. 現在の安徽省淮北市濉渓県
  9. 『後漢書』袁術伝
  10. 同時に袁術の旧部将でもあった。
  11. 『晋陽秋』
  12. 『晋諸公賛』

関連項目[]



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