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殷の政治を跋扈した崇侯虎(左の白髪の人物)
崇侯虎(しゅうこうこ/すうこうこ、? - 紀元前1035年(帝辛10年)?)は、古代中国の殷(商)の諸侯のひとり。姓は娰(娰姓)、氏は崇(嵩)、諱は虎。子に崇侯応[1]、孫に崇侯鸞[2]、曾孫に崇侯黒彪(嵩侯黒豹)[3]がいる。
ある講談書では「北伯侯の崇侯虎」となっており、弟に「崇黒虎」、甥に「崇応鸞」(崇黒虎の子)、妻に「李氏」とその娘がいる設定になっている[4]。
その遠祖は夏(娰姓)の創始者である禹の兄弟であるという。禹の父である鯀が崇伯(嵩伯)[5]の爵位をもち、唐の帝堯の治水長官だったが事業に失敗して処刑された。帝堯から譲位された虞の帝舜から治水長官に任じられ、禹は亡父の偉業を成功した。後に禹は帝舜から譲位されて夏王朝を築いた。
禹は自分の兄弟に亡父の爵位だった崇伯を豊[6][7]に与えて治めさせた。崇伯は本宗家の夏が殷(好姓)の天乙(湯王)に滅ぼされると、殷の湯王(天乙)から旧夏王室の一族としてその爵位を安堵されたという。
以降から崇伯は崇侯(嵩侯)に昇格して、代々と殷の重臣の諸侯として在続した。
殷の最後の皇帝である帝辛(紂王/季受)に仕えた崇侯虎は紂王を補佐する三公で政敵でもある仇侯鄧[8]の娘[9]が美貌だったため、紂王(帝辛)が自分の側室になるように要求したが、彼女は淫らな紂王の側室になることを激しく拒んだため激怒した紂王は彼女を誅殺した。これを見た崇侯虎は佞臣の費仲・悪来・尤渾・飛廉とともにその父である仇侯も娘の恨みを晴らすために謀反を企てていると讒言した。これを聞いた紂王は仇侯を召喚して、これを処刑してその遺体を切り刻んで「肉の塩漬け」にして酒宴で諸侯に振る舞ったという。同僚である仇侯父娘の非業の死を聞いた三公のひとりである鄂侯嵩[10]が紂王の行為を誹謗して直言した。またしても紂王は激怒して、鄂侯を処刑してその遺体を切り刻んで「干し肉」として、またもや諸侯に振る舞った[11]。
これを聞いた同じく三公のひとりである西伯昌[12](周(岐)の文王の姫昌)は同僚の非業の死に溜息をついた。西伯昌の動向をさぐった崇侯虎は費仲・悪来・尤渾・飛廉とともに「西伯昌は善行の仁徳を重ね、多くの諸侯は西伯昌を慕っておるようです。これは陛下のご将来に禍根を残す事になりましょう」と讒言した[13]。さらに崇侯虎は「西伯昌は仁義を行なっております。次男の仲発は勇敢であり、4男の叔旦は恭倹で時勢の理を熟知しておりまする。…未だ成らざるに及んで直ちにこれを処置すべきです」と述べている[14]。これを聞いた紂王は西伯昌をも処刑しようとしたが、有力諸侯である大夫の温子(冀侯)[15]の忿生[16]が助命を嘆願したので、紂王はこれを聞き容れて、費仲の進言で西伯昌を殷の都である朝歌の郊外にある崇侯虎の領内にある羑里[17]に幽閉したのである。
このように崇侯虎は費仲・悪来とともに賄賂・讒言を繰り返して、紂王の母方の叔父である上大夫の梅伯(梅武・梅徳兄弟の父)・父方の叔父である太宰の微子比干を火刑や腰斬に処してこれを葬り、紂王の従父(父の従弟)である箕子[18]を幽閉するなど跋扈し放題であった。また、崇侯虎は子の応を紂王の近侍として侍らせて、思うままに権力を振るい、自邸を豪華にするなど庶民に負担を強いた。
崇侯虎の讒言で処刑された仇侯鄧の子である秀[19]と鄂侯嵩の子である禹[20]は、殷の発祥地である東方諸侯と盟約を結んで、反乱を起こしたのである。これを聞いた紂王は激怒して、自ら東方遠征に向かったのである。それによると帝辛10年秋9月~同11年秋7月および帝辛20年夏5月~同22年夏6月のころであった[21]。崇侯虎の子である崇侯応も従軍し、留守を紂王の長男である太子禄父(武庚)[22]と次男の微子郊(微子洪)[23]を中心に、紂王の兄の微子啓[24](伯啓/孟開)と微子衍[24](仲衍、宋の太公(微子稽)の父)兄弟および父の帝乙の代から仕えた太師・聞仲と姚仲[25]・祖伊にまかせて、できるだけ人身御供の生贄の対象である奴隷の異民族[26]の殺害を廃止し、これを酒の製造をさせる労働力として、殷の優雅な生活を維持するように命じたのである[27]。聞仲の子である聞聘も紂王に従軍した。当然、佞臣の費仲・悪来も従軍したのである。
しかし、紂王の度重なる東方親征の間に、聞仲は老齢で逝去してしまい、殷は軍費による負担で厭戦気分を蔓延させる結果となった。兄の微子兄弟は何度も諌めても聞き容れない末弟の紂王を見限り、楽官の太師・疵と少師・彊の両人と殷の将来を相談して、従弟の微子堅(微子比干の子、魏の祖)と梅武・梅徳兄弟(ともに梅伯の子)、姚仲・祖伊とともに、羑里に幽閉された西伯昌を紂王に無断でこれを釈放して、周原(岐山)の領地に帰してやり、微子兄弟一派は殷から離反したのである。さらに、西伯昌を助命した温子の忿生は隠居して、その子の蘇[28]に温子の爵位を世襲させて、息子の後見者となったのである。その温子蘇が周原(岐山)付近にいる召侯奭(姞姓、燕の祖。召侯辛の子)と盟約して、西伯昌を盟主として擁立して反乱を起こしたのである。当然、仇侯秀・鄂侯禹も呼応して、事態は緊迫したのである。
これを聞いて驚愕した崇侯虎は東方にいる紂王に西伯昌の反乱を知らせて、自らは領地に戻って緊急に防御したのである。すでに西方の部族である犬戎・密須・耆・邘などを征伐した西伯昌は太公望の呂尚(古代チベット系羌の末裔、姜子牙/姜望/斉の太公)[29]を軍師に、その一族の申環[30]を副軍師に命じて、大夫の散宜生・閎夭・太顚を留守に託して、部将の南宮适[31]・南宮耗父子、辛免・辛甲・辛環らを率いて、素早く東進して殷の都の朝歌の西南に拠点を置く崇侯虎を討伐したのである。召侯奭と温子蘇と仇侯の部将である太鸞などの援軍もあり、あっけなく崇侯虎は討ち取られて滅ぼされたのである。紀元前1035年(帝辛10年)のことだった。
崇侯虎を滅ぼした西伯昌は、間もなく「文王」と称したのである。その翌年、西伯昌は老齢のために逝去して、次男の仲発(周の武王、長兄の太子伯邑[32]は早世した)が後を継いで「武王」と称したのである。
父の非業の死に驚愕した崇侯虎の子の応は「崇侯応」と称して、以降も聞聘とともに最後まで紂王の近侍として仕えた。後に殷が滅ぶ際に、鹿台で火を放って紂王が自決するときに崇侯応は聞聘とともに主君に殉じて死んだのである。
孫の崇侯鸞、曾孫の崇侯黒彪は、紂王を追って殉死した父、祖父の後を継いで周の武王に帰順して、「崇氏(嵩氏)」または「応氏」と「鸞氏」の祖となった。
崇侯虎の異形な容姿
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