歌書(奉納歌集) - いにしえwiki
会延?)羽賀寺本奉納人麿和歌塩釜社奉納和歌塩釜社別宮奉納百首続歌塩釜社右宮奉納百首続歌竹駒神社縁記附録曽根天神奉納和歌文殊御奉納二十首続和歌奥州塩釜社別宮奉納続歌三十首獅山様塩釜社奉納和歌春日社奉納和歌偕楽園図録附録和歌タグ一覧: カウンターページ全体:今日:昨日:
会延?)羽賀寺本奉納人麿和歌塩釜社奉納和歌塩釜社別宮奉納百首続歌塩釜社右宮奉納百首続歌竹駒神社縁記附録曽根天神奉納和歌文殊御奉納二十首続和歌奥州塩釜社別宮奉納続歌三十首獅山様塩釜社奉納和歌春日社奉納和歌偕楽園図録附録和歌タグ一覧: カウンターページ全体:今日:昨日:
後一色氏の当主の一色義貫(義範)の子、義遠(義政/義枚(よしひら))[1]の兄、義春・義秀の父。一色義直 (幸手一色家) : 同族の斯波氏(奥州源氏)一門の鞍谷郷長の7世の孫、義次[2]の6世の孫、一色直明(直兼)[3]の玄孫、直清の曾孫、直頼の孫、直朝[4]の子、照直・直親・直
江刺市は2006年2月20日に水沢市、胆沢郡前沢町、胆沢町、衣川村と合併し奥州市となった為廃止。江刺市の住所表記は1955年2月10日に合併した町村名を採用し、それまでの自治体内での大字は廃止している。由来諸説あり。胆沢郡の前方を意味するイサキ(胆前)が転化した。アイヌ語のエサウ
68 イオンモール盛岡南 盛岡市 1900 イオンタウン釜石 釜石市 2038 ニトリ水沢 奥州市 計 9ショップ
越村三戸郡野沢村大字西越(1889/4/1~1955/7/28)三戸郡新郷村大字西越(1955/7/29~)由来五戸から三戸に南下する場合、奥州街道に対して西側のルート(五戸→倉石→西越→小向→三戸)が存在した。西側の山を越える事から西越。
一城みゆ希 (いちしろ みゆき、1949年8月23日 - ) は、日本の声優、女優。ぷろだくしょんバオバブ所属。岩手県水沢市 (現・奥州市) 出身。本名は千枝 浩子。代表作に『ヤッターマン』や『ルパン三世』がある。出演アニメ映画ピノキオ (1940年、ブルー・フェアリー)※198
水沢市は2006年2月20日に江刺市、胆沢郡前沢町、胆沢町、衣川村と合併し奥州市となった為廃止。水沢市の住所表記は1954年に合併した町村名を採用し、それまでの自治体内での大字は廃止している。由来不明だが、扇状地特有の伏流水や湧水がよく見られるためか。大字(現在は水沢を頭に付け、
盛岡藩手倉橋村三戸郡野沢村大字手倉橋(1889/4/1~1955/7/28)三戸郡五戸町大字手倉橋(1955/7/29~)由来不明、奥州街道の橋に手倉橋とあったか。現存の小字雨沼内野内山姥平大片貝大平沢片貝沢金ヶ沢椛ノ木果報森上姥沢上小堰田上ノ沢上向田北手倉橋狐平越戸猿ヶ久保下タ
っていない。南部氏統治時代の城館は根城や是川、櫛引など西側に集中しており、浜通には存在しない。対して、南部氏入部以前の八戸近郊を支配していた奥州工藤氏一族は沼館の地名由来にもなっており、平地に建てることもあったようだ。それは、南北朝の動乱などがあった南部氏に対して、地方豪族のよう
全て収集済み(地割は除く)市一覧盛岡市釜石市宮古市一関市大船渡市花巻市北上市久慈市遠野市陸前高田市二戸市八幡平市奥州市滝沢市郡部一覧岩手郡紫波郡胆沢郡西磐井郡和賀郡気仙郡上閉伊郡下閉伊郡二戸郡九戸郡廃止市一覧水沢市江刺市廃止町村一覧岩手郡紫波郡胆沢郡東磐井郡西磐井郡和賀郡気仙郡上
五戸は元々村の名前ではなく、周辺地域全体を指す地名であった。江戸時代には代官所が設置されたのと奥州街道の宿場町都整備された。1915年には単独町制し五戸町となった。地名由来一戸から九戸まで続く「戸」系統の地名。由来は不明。現存の字(大字なしだが、小字という扱いではない。ただし地名
大崎氏(おおさきし)とは、日本の氏族。約6つほどの系統が存在する。美作国・石見国・肥前国などの異流も多い。大崎氏 (陸奥国) : 奥州大崎氏・源姓大崎氏とも呼ばれる。足利氏(下野源氏)流斯波氏(奥州源氏)一門で、大崎家兼を祖とする。陸奥国玉造郡岩出山郷大崎村[1]を拠点とした。庶
島繁成の子の大野基親を祖とする。美濃国大野郡[1]を拠点とした。大野氏 (越前国) : 越前大野氏、あるいは大野斯波家とも呼ばれる。斯波氏(奥州源氏)一門の尾張武衛氏[2](尾張源氏)の庶家。越前国大野郡[3]を拠点とした。斯波高経の五男の大野義種を祖とする。同族および、庶家に尾
下野源氏)一門の上野渋川氏(上野源氏)の武将。約2名ほど存在する。斯波義俊 (鞍谷太郎) : 渋川義俊とも呼ばれる。通称は鞍谷太郎。斯波氏(奥州源氏)の当主の斯波義廉(渋川義廉)の子、栄棟喝食(僧侶)の兄。妻は同族の鞍谷氏の娘。渋川義俊 (渋川満頼の子) : 渋川満頼の子、俊詮・
木幡 継清(こはた つぐきよ)とは、千葉氏(房総平氏)流相馬氏の庶家の奥州木幡氏一門の武将。約2名ほど存在する。木幡経清とも呼ばれる。木幡継清 (大膳) : 木幡政清の子、藤橋胤重・清光・清重の兄、長清の父、清信の祖父。木幡継清 (近江守) : 上記の木幡継清の族弟、武清の子、雅
高経流の藤原維岳[1]の系統が、山城国宇治郡木幡庄[2]に住居したことからはじまる。後裔に木幡雅秋と木幡雅遠がいた。木幡氏 (陸奥国) : 奥州木幡氏とも呼ばれる。丹姓平氏良文流千葉氏(房総平氏)一門の相馬氏の庶家。相馬朝胤(行胤の子)の子の範清が、家老であり、子の盛清に先立たれ
大字)を拠点とした。↑ 藤原魚名の系統。↑ 尾張国春日井郡安食(葦敷)郷(現在の愛知県春日井市葦敷大字)を拠点とした。↑ 庶家に紀伊神保氏・奥州神保氏(会津神保家)がある。関連項目[]源氏羽島氏(八島氏)藤原氏平氏関連リンク[]日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 清和源氏満政流【
最上 義政(もがみ よしまさ)とは、斯波氏(奥州源氏)流奥州大崎氏の系統の最上氏一門の武将。約2名ほど存在する。中野義政 : 出羽中野氏の当主の中野義健の子、最上義守の兄、満兼の父。父の後を継いだ。上山義政 : 天童氏(後天童氏)流出羽上山氏一門の出羽武衛氏(武永氏)の当主の上山
兼[6]の子である碓井貞光[7]の系統である三浦氏(御浦氏)の庶家[8]。為直(貞光の末子)の子の為光を祖とする。村岡氏 (陸奥国) : 「奥州村岡氏」ともよばれる。紀姓の奥州伊沢氏(奥州伊澤氏)[9]一門の留守氏の庶家。ただし、本貫は不詳。同族に奥州宮城氏があった。脚注[]↑
最上 義親(もがみ よしちか)とは、斯波氏(奥州源氏)流奥州大崎氏の庶家の最上氏一門の武将。約2名ほど存在する。最上家親 : 初名は義親。最上義光の子、義康・駒姫(豊臣秀次室)の弟、清水義親・山野辺義忠・上野山義直(光広)・大山光隆の兄、義俊の父。遠縁筋の徳川家康の一字を賜って「
最上 義忠(もがみ よしただ)とは、斯波氏(奥州源氏)流奥州大崎氏の系統の最上氏一門の武将。約2名ほど存在する。上山義忠 : 天童氏(後天童氏)の庶家の出羽上山氏の当主の上山満長[1]の曾孫、義房の子、武衛(武永)義節の父。山野辺義忠 : 最上義光の子、義康・駒姫(豊臣秀次室)・
氏)に仕えた。軍事アナリスト・国際政治学者の桃井真と、その子の脚本家の桃井章と女優の桃井かおり兄妹はこの系統である。桃井氏 (毛野氏) : 奥州桃井氏とも呼ばれる。毛野姓。陸奥国宇多郡桃井郷[7]を拠点とした。仔細は不詳。桃井氏 (宇都宮氏) : 豊前桃井氏とも呼ばれる。物部姓十
陥落した(『金ヶ崎の戦い』)。このために義貞は弟の義助と同国藤島城に逃れた。しかし、今度は越前国守護の斯波高経[49](足利氏一門の斯波氏(奥州源氏)の当主)の討伐を受けた。同年閏7月に、藤島城を包囲された義貞は討って出るも、うかつに九頭龍川とその支流の日野川付近にある灯明寺畷の
の父。異母兄の忠吉が嗣子なく逝去したため、名古屋藩を相続して、名古屋徳川家(尾張源氏)の藩祖となった。脚注[]↑足利氏(下野源氏)流斯波氏(奥州源氏)一門で、里見天童家(前天童氏)の遠祖。関連項目[]源義直この記事は 『新田義直』 のための曖昧さ回避ページです。下記は同じタイトル
最上光広(もがみ みつひろ)とは、斯波氏(奥州源氏)流奥州大崎氏の庶家の最上氏一門の武将。約2名ほど存在する。中野行広 : 別名は光広。中野義時(義保)の子。上野山義直 : 別名は光広。最上義光の子、義康・駒姫(豊臣秀次室)・家親・清水義親(氏満/康氏/光氏)・山野辺義忠の弟、大
最上 満兼(もがみ みつかね)とは、斯波氏(奥州源氏)流奥州大崎氏の系統の最上氏一門の武将。約2名ほど存在する。中野満兼 : 出羽中野氏の当主の中野義清の孫、義政[1]の子。嗣子がなく、従弟の義時[2]を養子に迎えた。上山満兼 : 初名は武衛(武永)満兼。天童氏(後天童氏)流出羽
とも/まさのぶ/まさふさ)の子、出雲路摂紅(元専(もとあつ)の父、信直の祖父、直元・松室重元(松室重備の婿養子)の曾祖父)の岳父。↑水沢某(奥州板垣氏(板垣水沢家)の祖)の岳父↑ 頼房(頼方)・信衡の父、重房(頼房の子)の祖父、信将の曾祖父、信与(信與)の高祖父。↑義兼の父。↑信
、政勝(正勝/教貞)の曾祖父。目次1 概要2 政綱の桶狭間における手柄の謎3 脚注4 関連項目概要[]初めは、同族の尾張国守護である斯波氏(奥州源氏)こと尾張武衛氏(尾張源氏)の当主である斯波義統に仕えていた。後に義統が守護代でもある藤原北家利仁流織田氏本家の織田信友(彦五郎)[
た。頼朝勢が坂東地方を制圧すると、同年12月に義重は鎌倉へ参内した。義重は頼朝から参内の遅さを叱責されたといわれる。その後の平家との戦いや『奥州の戦い』にも義重が参陣したとの記録はなく、頼朝の亡き異母兄の義平の未亡人となっていた義重の娘の祥寿姫を頼朝が側室にしようとしたところ、義
『大坂の陣』では、河内頼貞は豊臣秀頼に従い、遠縁筋の徳川家康と戦って、戦死を遂げた。こうしてついに河内氏嫡流は滅亡した。越前国守護の斯波氏(奥州源氏)に仕えて、執事の甲斐常治とともに行動を起こした河内広家(家広の後裔)もこの一族である。歴代当主(河内氏)[]河内経国(義行/経義/
郡坂城町英田大字↑ 現在の広島県三次市江田川之内町周辺。↑ 現在の宮崎県宮崎市阿波岐原町(あわぎがはらちょう)江田大字↑ 庶家に紀伊神保氏・奥州神保氏(会津神保家)がある。この記事は 『江田氏』 のための曖昧さ回避ページです。下記は同じタイトルを共有しているページへのリンク一覧で
津川 親治(つがわ ちかはる)とは、斯波氏(奥州源氏)流尾張武衛氏(尾張源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。津川義冬 : 別名は親治/雄光、官職は玄蕃允。斯波義統の子、義銀(義親)の弟、津川義忠の兄。織田信雄(信意/常真斎、信長の4男)に仕えて、「三家老」のひとりとなる。豊臣秀
武衛氏(ぶえいし)とは、足利氏(下野源氏)流斯波氏(奥州源氏)一門で、約2つの系統が存在する。武衛氏 (尾張国) : 越前武衛氏・尾張武衛氏、あるいは武衛斯波家とも呼ばれる(尾張源氏)。その由来は山城国武衛陣町(現在の京都府京都市上京区)である。斯波高経を祖とする斯波氏嫡流である
利氏(下野源氏)の当主の足利泰氏の次子・渋川義顕を祖とする系統。上野国群馬郡渋川郷(現在の群馬県渋川市)を拠点とした。庶家に陸奥国会津地方の奥州渋川氏(会津渋川家)がいたが、蘆名氏(碓井姓三浦氏一門の佐原氏の庶家)によって、滅ぼされている。渋川氏 (河内国) : 「河内渋川氏」と
ては「水澤氏」をご覧ください。水沢氏(みずさわし)とは、日本の氏族。約2系統が存在する。陸奥国胆沢郡水沢郷[1]を起源とした。佐々木氏 : 奥州佐々木氏/佐々木水沢家とも呼ばれ、はじめは水沢氏と称した。日本化した俘囚(アイヌ)の酋長の家系とされ、『奥州の戦い』で戦功を挙げた源姓佐
勝重[3])・西保信之・勝頼・仁科盛信(晴清[4]/晴近)・葛山信貞(義久)・安田信清の父。脚注[]↑ 遠縁筋の足利氏(下野源氏)流斯波氏(奥州源氏)一門の尾張武衛氏(尾張源氏)一門の津川義冬(親治/雄光)の婿養子となり、姻戚関係にある京極氏(六角氏(近江源氏)一門)に仕えた。↑
長(義良)は、父から上記の梁田御厨(簗田御厨)を与えられて、梁田氏(簗田氏)と称した。後に義長(義良)が戦死すると、その末裔は同族の斯波氏(奥州源氏)に従い、戦国時代に斯波氏嫡流の尾張武衛氏(尾張源氏)に従った梁田政綱(簗田正綱)・広政(広正/正次/政次)父子が出た(尾張梁田氏)
るために、後醍醐天皇の皇太子の恒良親王とその異母兄の尊良親王を奉じて、越前国の金ヶ崎城に入城するも、北朝方で足利氏(下野源氏)一門の斯波氏(奥州源氏)の当主の斯波高経らに包囲された(『金ヶ崎の戦い』)。翌延元2年/建武4年(1337年)に、金ヶ崎城内の兵糧が尽きる中で、具滋は自身
浴びせられて、壮絶な戦死を遂げた。享年44という。義長(義良)の遺児の義正と義綱は、叔父の義兼の庇護を受けて、鎌倉時代になると同族の斯波氏(奥州源氏)に従い、その一部が尾張国守護となった斯波氏嫡流の尾張武衛氏(尾張源氏)の守護代となり、尾張簗田氏は藤原北家利仁流織田氏と張り合う仲
に逃れた。その娘が三国氏一門の三国綱安の子の尚安に嫁いで、その間に儲けた子の常紀がの橋本氏の祖となった。国人として桃井氏の同族である斯波氏(奥州源氏)・日下部姓朝倉氏に仕えた。江戸時代には藩士として越前松平氏に仕え、幕末に軍医となる橋本左内(綱紀)・綱常[7]兄弟が出た。同族に幸
連合軍に帰順した同族の穴山梅雪と内通したために叛かれて、殺害された。享年35。脚注[]↑ 義統の子。↑ 遠縁筋の足利氏(下野源氏)流斯波氏(奥州源氏)一門の尾張武衛氏(尾張源氏)一門の津川義冬(親治/雄光)の婿養子となり、姻戚関係にある京極氏(六角氏(近江源氏)一門)に仕えた。↑
参陣せず「中立」を保つも挫折し、止むなく父とともに頼朝に仕えた。その後、上野国新田荘に籠った父に代わりに、御家人として幕府に出仕している。『奥州の戦い』にも参陣したが、目立った軍功はなく、恩賞も少なかったという。義兼自身の幕府内での立場も微妙であったが、父の官位であった大炊助を受
斯波 詮将(しば あきまさ)とは、足利氏(下野源氏)流斯波氏(奥州源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。高水寺詮将 : 斯波高経の曾孫、高水寺家長の孫、詮経の子、詮教・詮宣の父、詮勝・鞍谷郷長・子鞏(僧侶)・義信兄弟(詮教の子)の祖父、義久・義次兄弟(郷長の子)の曾祖父、次俊(義
秀忠によって高家旗本に取り立てられたが、信氏の子の信政に嗣子がなく、断絶した。庶家に綿打氏・金谷氏・関岡氏があった。大館氏 (陸奥国) : 奥州大館氏とも呼ばれる。約2系統が存在する。脚注[]関連項目[]大草家酒井氏この記事は 『大館氏』 のための曖昧さ回避ページです。下記は同じ
年)に、長門国・周防国の守護の大内義弘が反乱を起こしたときに、将軍の足利義満の命で、重綱の孫の重章(重政の子)は、足利氏一門の斯波氏[2](奥州源氏)の当主の斯波義重に従って出陣して、戦功を挙げた(『応永の乱』)。歳月は流れ、将軍の足利義教が播磨国の守護の赤松満祐に暗殺された『嘉
、相馬胤村の次子の胤顕(彦三郎/泉五郎)を祖とする。下総国豊田郡岡田郷(現在の茨城県常総市岡田大字)を拠点とした。岡田氏 (陸奥国) : 「奥州岡田氏」とも呼ばれる。上記の下総岡田氏の系統である。陸奥国行方郡岡田郷(現在の福島県南相馬市岡田大字)を拠点とした。庶家に奥州泉氏がある
し、戦国時代の景成(景秀の子)の代に男系が途絶えて、惣領家から治頼[7]を婿養子に迎えた。里見天童家[8] : 足利氏(下野源氏)流斯波氏(奥州源氏)一門の天童氏の直系。同族の源姓里見氏を母系とする里見(天童)義親を祖とする。江戸時代から、代々が四郎左衛門と称して、同国水戸藩の水
せつかべ)姓有道氏の系統である児玉氏(児玉党)の庶家。武蔵国児玉郡山名郷(現在の埼玉県本庄市/児玉郡)を拠点とした。山名氏 (陸奥国) : 奥州山名氏または、國魂氏とも呼ばれる。陸奥国磐城郡(現在の福島県いわき市)を拠点とした。代々、大国魂社家の神官をつとめた。おそらく、「平姓」
『与吾(与五)将軍系図』(東昌寺所蔵)・『古河市史資料中世編』・『簗田家文書』より。↑ 陸奥国の岩城氏(磐城氏)をはじめ楢葉氏(標葉氏)・奥州行方氏・奥州真壁氏・奥州岩崎氏・奥州山名氏などの氏族は安忠の末裔と自称(仮冒)したが、実際は「平姓」を冠とした石城国造の系統である。関連
。武蔵国大里郡(榛沢郡/幡羅郡/男衾郡)山木郷[3]を本拠地とした。江戸時代に幕臣として徳川氏(松平氏)に仕えた。山木氏 (陸奥国) : 「奥州山木氏」とも呼ばれる。陸奥国磐城郡(岩代郡)山木郷[4]の系統不詳の氏族。脚注[]↑ 現在の静岡県伊豆の国市山木大字↑ 現在の熊本県山鹿