タンジール戦
タンジール戦(タンジール包囲戦とも)は1437年(9月13日ー10月19日)にポルトガル遠征軍がモロッコのタンジールを占領するためにマリーン・スルタン軍と争った一連の戦い。ポルトガルは15世紀にタンジ...
1380年 ペドロ・デ・カストロ(カダバルの領主)とレオノール・テロ・デ・メネセス(初代オウレム伯爵D.ジョアン・アフォンソ・テロの娘)の間に次男として生まれる。強力なカストロ家の一員で、ルイ・デ・ピナの年代記には「高貴な血・用心深い・賢い助言・多くの財産を持つ人」として記述されている。
1415年[35歳] 兄D・ジョアン・デ・カストロ(カダバルの次代領主)と共にセウタ攻略戦に参加。兄弟はイスラム教徒を町から駆逐する役割を担った。
1416年[36歳] ジョアン1世により、ポルトガル大使としてコンスタンツ評議会へ派遣された。
1423年[43歳] 4月、1411年のポルトガルとカスティーリャ間の和平条約を批准するために、カスティーリャのヨハネ2世のアビラ王宮に向かうポルトガル大使を指揮した。
1424年[44歳] カスティーリャ王国がカナリア諸島への関心を失っていると感じたエンリケ航海王子は、その群島の支配されていない島々を得るために武装探検を始めた。大規模な遠征部隊ー約2,500人の歩兵と120人の騎士がフェルナンド・デ・カストロの指揮下に置かれた。しかし、グランカナリア島に上陸した遠征軍は先住民グアンシュに激しく抵抗され、浜辺から逃げられなかった。大勢の軍隊のために十分な物資を持って来ていなかったことに気づいた*2カストロは遠征の中止を決め、ポルトガルに戻った。カスティーリャ王国は直ちに厳酷な抗議を申し出て、再び遠征が行われることはなかった。
1432年[52歳] 遠征が失敗したのにもかかわらず、1431年の平和条約の批准するために再びカスティーリャに派遣された。2月、ヨハネ1世はカストロにパウロ・デ・トラヴァ*3の領地(sesmaria)を与えた。
1434年[54歳] パウル・デ・ボキロボ(ゴレガンの近く)の領主と入れ替わる。この頃、リスボンのカサ・ド・シヴェル(控訴の下級裁判所)に務めた(regedor)。
1437年[57歳] エンリケ航海王子率いるタンジール戦に参加。エンリケの王室の総督として、カストロは自分の息子アルバロ・デ・カストロとエンリケ・デ・カストロを連れて、王室の従者や騎士を率いた。また、包囲戦では遠征軍の右翼を指揮した。しかし包囲は失敗し、モロッコの軍隊は遠征軍を野営地に閉じ込めて降伏させた。エンリケはセウタをモロッコに戻す条約を交渉し、任期が満たされるまで自分の弟フェルナンド聖王子を人質としてモロッコに引き渡した。カストロは敗北した軍隊をポルトガルに連れて行く責任を負い、エンリケはセウタに向かった。
1440年[60歳] 結局、ポルトガルのコルテス(身分制議会)は条約の批准を拒否し、フェルナンド王子をモロッコの捕虜に残した。しかしコインブラ公ペドロはコルテスを無視して条約を履行し、セウタの引き渡しを決めた。ペドロは最も経験豊富な外交官だとしてカストロを作戦担当者にした。カストロは、セウタに小型船隊を導き、知事フェルナンド・デ・ノロンハから都市を要求して、ポルトガルの守備隊の退避とモロッコへの引き渡しの準備をする予定だった。一方、ゴメス・エアネスとマルティム・デ・タヴォラら大使は、フェズのマリーン宮殿の長官アブ・ザカリヤ・ヤヒヤ・アル=ワッタシから解放されたフェルナンド王子を受け取るためにアシラに進む予定だった。
1441年[61歳]*4カストロは、解放されたフェルナンド聖王子が自分の娘と結婚するかもしれないと公然と空想する。船には宴会用の豪華な装飾品や衣類が積まれ、約1200人の兵隊が乗っていた。4月にカストロの小型船隊はリスボンから出港した。しかし、彼が乗った前衛船はセントビンセント岬を回航した際に、ジェノヴァの海賊に襲撃された。カストロは海賊との争いで殺され、海賊は他の船がカストロを救出する前に逃げ出した。なお、ノロンハ(セウタ交換に強く反対していた)が海賊を指揮したのではないかという疑いがある。船隊はタヴィラに入り、地元のフランシスコ会の修道院にカストロを埋葬した。カストロの死を聞いて、コインブラ公ペドロはカストロの息子アルバロ・デ・カストロに父親の信任状を引き継ぎセウタでの任務を果たすように指示した。結局のところ、アブ・ザカリヤとの交渉は失敗しセウタは引き渡されなかった。
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