タンジール戦
タンジール戦(タンジール包囲戦とも)は1437年(9月13日ー10月19日)にポルトガル遠征軍がモロッコのタンジールを占領するためにマリーン・スルタン軍と争った一連の戦い。ポルトガルは15世紀にタンジ...
1390年 ポルトガル王国でジョアン・ヴァズ・デ・アルマダとジョアナ・アネスとの間に生まれる。アルマダ家は高貴な血ではなかったが、祖先は海外貿易で財産を築いた商人であった。彼らが獲得したアルマダの領主権は1383年から1385年の間に政府に没収されたが、父ジョアン・ヴァズがジョアン1世への顕著な兵役を務めたことにより、他の地区での領主権及び報酬を得た。家族は主にリスボンとアルジェスに住んでおり、アルバロには弟ペドロ・ヴァス・デ・アルマと、2人の異母弟ジョアン・ヴァズ・デ・アルマダ*1、ブリテス・デ・アルマダがいた。
1415年[25歳] 幼い頃、イングランドへ向かう父親に同行。共に百年戦争で戦い、この年の初頭にポルトガルに帰国した。なお、イングランドのヘンリー5世と親密な関係を築いていたとされる。
帰国した直後、セウタ攻略戦に父親と共に参戦し、コインブラ公爵ペドロによって騎士に叙せられる。これをきっかけにアルバロとペドロは長い間付き合っていく。
1423年[33歳] 6月、ジョアン1世によって帆船隊の提督(capitão-mor da frota)に任命された。任命の手紙は彼に異常なほど広範な権力を与え、本来ポルトガル提督(ガレー船隊の提督)に割り当てられるはずだった地域を飲み込んで、アルマダは事実上アルバロの管轄になった。
1433年[44歳] 1420年代、コインブラ公ペドロのヨーロッパ旅行に同行し、ジギスムント皇帝に代わってハンガリーのトルコ人と共に戦った。この年までにポルトガルに帰国し、提督の仕事を再開。海軍としてセウタ沖の小規模な戦いにも参加した。1430年代には、王国のユダヤ人に課せられた税金を含む報酬をドゥアルテ1世から与えられた。
1437年[47歳] 指導長の一人としてエンリケ航海王子率いるタンジール戦に参加。しかしポルトガルの野営地がモロッコに包囲され、遠征は失敗に終わった。それにもかかわらずアルバロは、元帥ヴァスコ・フェルナンデス・コウチーニョと共に浜辺を離れた最後の人物であり、後に名誉として称えられた。
1438年[48歳] 摂政危機の間はコインブラ公ペドロを後援し、より多くの支持者を集めるのに役立った。
1439年[49歳] 9月、リスボン市民はアルバロを旗手(alferes-mor)と市の代弁者に選出した。
1440年[50歳] 4月、新たな摂政ペドロは彼の努力を認め、王室評議会のメンバーとリスボンのサン・ジョルジェ城の指導長(alcaide-mor)に任命した。
1444年[54歳] 8月8日、イングランドのヘンリー6世はアルバロに初代アブランシュ公爵を授けるという内容の手紙を書いた。アブランシュはプランタジネット家が支配する数少ない町の一つで、ポルトガルの作家によって Conde de Abranchesと翻訳された。授爵の理由として手紙には、ヘンリー5世とヘンリー6世の治世におけるイングランドへの顕著な奉仕を引き合いに出していた。
1445年[55歳] 162番目の最も高貴なガーターの騎士に任命された。アルマダはイングランド王国の騎士団の中でも王室の血が流れていない数少ない外国人の一人であり、世襲の称号を受け取った唯一のポルトガル人だった。これらの栄誉に加えて、ヘンリー6世は100マルクの恩給や贈り物、金のカップをアルマダに与えた。
アルマダの名誉は、イングランドの十二人のポルトガル騎士伝説(Os Doze de Inglaterra)に伝わった。ルイス・デ・カモエスが有名にした半伝説的な物語は、ジョアン1世の治世中に設定され、12人(または13人)のポルトガル騎士がガントのジョン(ランカスター公)王室の一部の女性に対する罪を償うためにイングランドに行った方法に関連している。アルバロは伝統的に12人の騎士の一人として識別されている(※ただし年代に錯誤あり)。
1448年[58歳] ポルトガルのアフォンソ5世はコインブラ公ペドロの摂政を解任した。しかしブラガンサ公アフォンソの影響で、王はすぐにペドロが任命した者を全て解雇することに着手し始めた。地位を失った貴族や官僚は、ペドロの下に集まった。当時セウタにいたアルバロは、9月にポルトガルに戻りペドロを後援し始める。法廷でペドロを弁護でする大胆な発言をしたために、アルマダの領主権は12月に没収された。さらにアルバロは、友人の土地を通じてブラガンザ公アフォンソの通過を阻止するために、ペドロの召使いの不測の事態をコジャに導いて王を激怒させた。アフォンソはアルバロより多くの人を引き連れていたが、彼の軍事的評価を鑑みて遠回りすることを決めた。
1449年[59歳] 5月、コインブラ公ペドロはアルバロを伴ってコインブラから出発し、リスボンでの進軍で部下を率いた。解雇された自分たちに自衛の機会を法廷に要求するのが目的だった。しかし、バルセロス公アフォンソは彼らがリスボンを包囲して市内で蜂起する可能性が高いと王に警告した。警戒したアフォンソ5世は彼らを裏切り者の反乱軍とみなし、進軍に対して軍隊を出撃。なおアルバロの異母弟ジョアン・ヴァズ・デ・アルマダは王側についていた。
5月20日、アルファルロベイラの戦いが始まる。ペドロとアルバロは互いに生き残らないと個人的に誓った。ペドロは早い段階で殺され、従者からその報告を受けたアルバロはまだ戦っている残りの軍隊にそれを明らかにしないよう命じた。その後、アルバロは短い休憩を取って戦いの第一線に飛び込んだ。しかしすぐに敵に認識されて兵士に囲まれてしまったものの降伏こそしなかった。彼は近づいて来る全ての敵を打ち負かし、ついに疲れ果てて、ある有名な言葉を発する。
身体が、これ以上は無理だと警告している。そして私の魂はもう既に無いのだ。
Meu corpo, sinto que não podes mais; e tu, minh' alma, já tardas
武器を下げて地面に落とし、最後の言葉を吐き出した。
敵よ、今、貴方が自身を甘やかすだろう。
Ora fartar villanagem
敵が彼の上に降りかかって、アルバロは亡くなった。
王の命令で彼は戦場で首を切られ、腐敗させるため外に晒された。だが、異母弟ジョアン・ヴァズ・デ・アルマダの繰り返しの懇願により、アフォンソ5世は最終的に死体を埋葬することに同意した。それにもかかわらず、彼に対する法的手続きは続行し、財産の多くは没収された。アルジェにある家族の邸宅はジョアン・ヴァズ・デ・アルマダの物になり、残りの多くの所持物は王の助言者アルバロ・ピレス・デ・タヴォラに与えられた。アルバロの未亡人カタリナ・デ・カストロ(フェルナンド・デ・カストロの娘)は、リスボンの家とユダヤ人の税金を保持することしか許されなかった。長男ジョアン・デ・アブランチスは、王が没収できなかった1385年以前の父親の土地を継いだ。最終的にアブランシュ伯爵と帆船隊の総督の称号は、カタリナ・デ・カストロの2度目の結婚による一人息子フェルナンド・デ・アルマダに継承された。
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