クチジロの感心する声が、何度も何度も森に流れては沈んでいった。
「じゃあヒビキちゃんはシンノウの子なんだね。この森に住んでるのかとばっかし思ってたよ!」
「う、うん。まぁ、そう。でも。森に住んでるっていうのもそんなには間違ってないかも。私がいるシンノウって、この近くだし……」
二人は身体も乾かさないまま、草の上で話していた。あぐらをかいて質問を投げつけまくるクチジロに対し、ヒビキはちょこんと三角座りで応答していた。相変わらず滝の音は単調に空気を震えさせていて、森の木は軽くざわざわと揺れていた。
この会話を仕掛けてきたのは、クチジロだった。シカ特有の横長い瞳孔を持った瞳でヒビキを見たクチジロは、最初にここがどこなのかを尋ねた。そのうち、シンノウというヒビキが暮らす水族館の名前が出たので、シンノウがどういうところか聞いた。そして話題はヒビキ本人へ移っていった。
しかし、いろいろ聞きたい気持ちはヒビキの方が強かった。いきなり滝の近くで浮かんでいるし、音からして落ちてきたのだろうし。クチジロが地面に置いた、シカ角のある棒にもヒビキの興味は向いていた。何に使うのか、一応聞いておきたかった。もしやたらめったらそれを振り回しているような危険な人物だったら、急いでシンノウに帰らなくてはならなかった。
クチジロが一旦話をやめたとき、ヒビキは手を差し出して待ったをかけた。このタイミングを逃したら、また三分くらいは彼女のペースで持っていかれてしまうだろう。
「あ、あのさ、クチジロちゃん。私からも聞いていいかな?」
「あっ、どんどんいいよ!私ばっかり質問しちゃってごめんね!」
「それは特に気にしてないけど……ええっと」
頭の中で質問事項をまとめる。まずは、一番気になることからだ。
「クチジロちゃんはなんで滝から落ちてたの?」
自分がこんなことを聞く日が来ようとは思ってもみなかったが、それでも真面目なトーンで言ったのだった。
それを受け取ったクチジロも一瞬だけ怪訝な顔をした。けれど、ヒビキの表情や雰囲気から冗談ではないと察すると、彼女はえっ、という単発を口にした。彼女の顔はみるみる青くなっていった。
「私、滝から落ちたの……!?」
「気づいてなかったんだ……」
呆れた目つきで、ヒビキはクチジロを見た。クチジロは一度立ち上がり、また身体のあちこちを触っていた。
「いやっ、ホントにどっか悪くしてないよね!?なんで普通に話してるの私!?」
「それ、こっちが聞きたいんだけどね」
やはり異常が見られないことを確認すると、彼女は弱々しく座り直した。
「とりあえず大丈夫そうかな……?いや、身体が頑丈で何よりだよ、あはは……」
「じゃあ、最後に覚えてることは?」
かなり重大なことが起きたと自覚して、クチジロは腕組みをして考え始めた。ヒビキはそれをどことなく不安そうに眺めた。環境音をある程度聴いたあたりで、クチジロはあっ、と声を漏らした。
「わかったかも、滝から落ちた原因から何まで……」
「何が原因なの?」
まずね、クチジロはそう前置きしてから話し始めた。
「私、山を登ってたんだよ」
「山?」
「あ、山っていっても崖の話ね」
「崖!?」
大口を開けて驚くヒビキをよそに、クチジロは話を続けた。
「私、身体を鍛えるのが趣味なの。それに、元々クチジロジカってのは高山で過ごすから、その名残かもね。だから、崖登りをしてたはずなんだけど……。たぶん、なんかの拍子に崖から落ちちゃったんだろうな、って」
「滝だけじゃなく崖からも!?」
「うん、信じられないと思うけど……。それで崖から落ちた先が河なんだよ、きっと。この滝の上流の」
クチジロは滝を見上げた。それに釣られるようにして、ヒビキもまた滝を見上げた。滝は白い水柱を河に打ち立て、飛沫を周辺に飛ばして岩を苔生させるばかりだ。姿を変える様子など、どこにもない。
だが、そんな不変の滝を見て、ヒビキはこのとき初めて、滝の向こうに意識を向けたのだった。なぜなら、彼女にとっての河は、何者にも負けないようなオーラを発するこの滝が始まりだったからだ。そのために、この先にも河があって、流れて滝になっているという事実は、なんとなく認識してはいたものの、実際にそれを感じ取ることはなかった。
ヒビキが歌う穏やかな渓流の先の、どどどどどと音を立てる滝の、その先。普段、足を漬けていた水の根源を、ちょっとだけヒビキは知りたくなったのだった。
「ヒビキちゃん?」
「へっ!?」
「あ、いや、ぼーっとしてたよ?」
「そうだった……?」
「まぁいいんだけどさ。他に聞きたいことはない? いっぱい質問していいから!」
「わかったよ」
ぱっちりした目でクチジロが見つめる中、一考してからヒビキは口を開く。
「その棒はさ、何に使うの?」
人差し指で、シカ角の棒を指差してのことだった。
「今日初めて会ってこいつが気になるたぁ、ヒビキちゃんもお目が高いねぇ」
クチジロは目を細め、にやり、口を波形にした。声はどこか格好つけたような感じを出している。
「割と誰でも気になると思うけど――」
「ご要望にお応えして、説明しよう!」
ヒビキの言葉を遮って、クチジロは意気揚々と喋り出した。
「こいつは私の武器。名前は……募集中! 長いから、ちょっと離れた相手にもアタックできるの!」
予想通りの使い方に、ヒビキは警戒して身震いした。
「じゃあ、クチジロちゃんは闘うフレンズなんだ」
「そうだよ! だから鍛えてるような節もあるし。私はもっともっと強くなるよ!」
「……私は荒っぽいことは怖いって思っちゃうから、苦手なんだよね」
「だぁーいじょうぶだよ! フレンズによって特異なこと違うから!」
クチジロはあぐらを崩して膝を立たすと、ヒビキの背中をぽんっと叩いた。
それから彼女は草を踏んだまま、地面に置いた棒を手に取った。くるっとヒビキに背を向けると、そのまま一歩二歩と歩き出した。
「そんなわけだから、私もトレーニングに戻らないといけないし、そろそろ行くね! 今度会ったらまたよろしくね!」
棒を持たない左手を頭の高さで掲げ、クチジロは滝の方へと向かっていった。
ヒビキは待ってと言いそうになった。見知らぬ滝の向こう側から来た彼女に、もっと教えてほしいことがあった。自分では見たことのない世界の話と、それを通じて想像できるいろんな音。行き詰った自身の歌やこれからの歌のヒントに、それらはなるかもしれなかった。
立ち上がり、ヒビキはクチジロを追いかけようとした。しかし、その一歩を踏み出すことと、声をかけることを彼女は躊躇した。一対一で遠慮がちになってしまう自分の性格を、このときばかりは少し恨んだ。
そのとき、クチジロはピタリと止まった。まるでヒビキの意を汲んでくれたかのようだった。
彼女はヒビキへ振り向くと、神妙そうな面持で話し出した。
「ヒビキちゃん、私、今更すごく大事なことに気づいたんだけどさ」
ヒビキは無言で続きを待った。
「気絶してた私が滝から落ちたのに岸に上がってたってことは、誰かが助けがないと無理だよね。ヒビキちゃんが助けてくれたんだよね!?」
「そうだけど。……クチジロちゃん、気づくのが毎回ワンテンポ遅くない?」
「普通に命の恩人じゃん!」
ヒビキの冷静な指摘を無視し、クチジロは慌ててヒビキの下へと駆け寄ると、勢いを保ったまま跪いた。
「ねぇ、何かお礼させて! 今の今まで気づかなくてホントにごめん!」
「やめてよクチジロちゃん! やらなきゃいけないことやっただけだから!」
「いや、恩を返さないのは私の武闘家としてのポリシーに反するから! 絶対に譲らないよ!」
クチジロに圧倒され、ヒビキは言葉を返せなくなっていた。それを隙だと捉えたクチジロは、適度な距離を彼女から取って、棒を胸の前にかざした。
クチジロは棒を何かの演舞のように振り回した。かけ声を出し、次々と彼女が構えを成功させていく様を、ヒビキはぽかんとした顔でただただ見ているばかりだった。
「どう? 私、そこそこ強いから、ボディガードくらいはできるよ!」
「この森は平和だから、それは要らないかも……」
それを聞くと彼女はぽいっと棒を放り捨て、力強そうに腕を組んで見せた。
「じゃあじゃあ、シンノウのお家で人が足りてないことはない? 力仕事だったら私ある程度戦力になるよ!」
「あそこの職員さんたちは十分足りてるし、私はそんなに仕事について詳しくないかな……」
クチジロは膝を地につけ、眉の下がった申し訳なさそうな顔をした。
「お願いだから何かさせて、ヒビキちゃん……。このままだと不甲斐なさに潰されそうだよ……。困ったこととか何かない?」
「そう言われても、私、いま困ってることなんか――」
それを言いかけたところで、ヒビキは話すのをやめた。一つだけ、思いついたことがあった。
ヒビキはクチジロへ寄り、そのままの姿勢で彼女に語りかけた。
「あのねクチジロちゃん。私、困ってることあったよ」
「おぉ!? なになに!?」
未だに膝をついたままのクチジロは瞳を輝かせ、顔を向ける。
「歌づくりを手伝ってほしいの」
クチジロはきょとんとして、表情はそのままに固まっていた。環境音が沈黙を埋める。間が抜けたようなクチジロの声は、数秒経ってから発せられたのだった。
「歌?」
「うん、歌。私、歌うのが好きでね。歌をつくって、シンノウに来るお客さんと合唱なんかもよくやったりするの。カジカガエルって声が特徴的なカエルらしいし、クチジロちゃんの登山の癖と同じような名残かな」
どこやったっけ、ヒビキはそう呟いて、地面をきょろきょろ何度か見回した。そして、あったあったと独り言を言ってから、親指と人差し指で何かを摘み上げた。それはヒビキの持ち物の、シカの角のような枝分かれを持った指揮棒だった。クチジロを救助する際に放り出してしまったが、すぐ近場に転がっていてよかったものだ。内心、胸をなでおろしていた。
ヒビキは指揮棒を握り直して、クチジロへと向いた。
「この指揮棒を握って歌っているときだけは、私、堂々としてられるんだ。でも、いまつくってる歌が途中でどうすればいいかわからなくなっちゃってて……」
言葉を受けたクチジロは、少しの間だけ、目を左右に泳がせていた。
「歌は……私、やったことないけど――」
ぎゅっと一度まぶたを閉じると、彼女の目は正面にいたヒビキをしっかり見ていた。その拳は固められたかたちになっていた。
「わかった! やれるだけやってみるよ!」
クチジロが意気揚々と、足を組んで座った。ヒビキも、それに合わせて地面に腰を降ろす。
彼女たちは話していたときと同じ姿勢になっていた。静かな森の中、二人の活気ある声は木々の隙間に流れては沈んでいく。この声が強まることはあれど、声が弱まること、まして途絶えることは、きっとないだろう。ヒビキは微かに、そう感じた。
ページ作成者 相須楽斗
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