空が青くなってしばらくの時間が経っていたが、冷えた風は未だに木々の中を流れていた。風に吹かれて、樹上の葉が朝露を落っことす。粒は湿り気の残る土に向かっていき、ぴちゃりと音を聞かせて地面に吸いこまれた。ホクリクに位置するこの森の今日は、静かだった。
ヒビキは、河の浅瀬に足をつけながら伸びをした。冷涼な森の空気を、ちんまりとした身体をできるだけ大きくして取りこんでいた。反動でぶらんと腕を垂らして脱力してから、彼女は右手に力を込めた。
虹に似たキラキラした輝きが、小さな手のひらで巻き起こる。輝きは渦をつくり始め、ぐるんぐるんと細長くなっていく。光に溢れて内側は白くなり、遂には何も見えなくなってしまう。
ちょうど光が霧散した頃、彼女の手には、枝分かれのある、ちょっと変わった指揮棒があった。
「よしっ」
声は微かに零れ、自覚のないのうちに口角は上がる。けものプラズム――彼女の意識によってつくられた、謂わば想像力により構成される実体――でつくられたその指揮棒をヒビキはぎゅっと握りしめ、誰もいない河の反対の岸に向かって、宙を混ぜるように振り上げた。同時に彼女はふっと息を吐いて、そして吸い込んだ。
「かわのかがみにうーつるー、たいよーうのすーがたー――」
幼さを映し出した高い声が、彼女の周りに染み入った。そこの穏やかな渓流が起こすちょろちょろという音も、彼女に知らん顔をしている夏虫が発するウィンウィンという音も、それに打ち消されることはない。歌声は環境音の裏に入り、溶けこんでいた。誰も彼女を邪魔しなかったし、また彼女も誰をも邪魔していなかった。
ステージはすっかり完成されていた。中心で歌い手となっているヒビキにも、それは解りきっていることだった。自らが奏でるリズムに合わせ、指揮棒を振るう。心地良い気分は、依然として保たれていた。
「まぶしーくひかーぁってー、ぼくらをてらすー……」
そんな完成した状況の中で、ヒビキの歌声はその詞を最後にだんだんと薄れていった。唐突に、ヒビキは歌うのをやめたのだった。
眉をひそめながらも、口をもごもごと動かし続けてはいた。けれど、続いたのはその動作だけだった。どうにもこうにも、はっきりとした言葉が喉の奥から出てこようとはしない。
やがて彼女は唇まで、固く閉じてしまった。唇が閉じると、河に浸けていた足から冷気が急に体を昇り始め、彼女の体感温度は下がっていく。寒々しく思えてくるにつれ、まるで氷漬けにされたように、体がガチガチに硬直していく感じがする。体の一部となっていた指揮棒の先まで凍ってしまうと、もうどうすることもできなかった。
真っ白になった頭の中で、言い訳のようにヒビキはぽつりと呟いた。
次の歌詞が、浮かばない。
環境音だけが場に残る。間の悪い風が吹きつける中、ヒビキは緑の天井を仰いだ。彼女の長い銀の髪が、ぐしゃあっと頭の揺れ合わせて乱れた。
「またスランプだぁーっ!!」
彼女の声は初めて、自然の音を妨害した。一時的に煩くしてしまったことへの跳ねっ返りみたく、取り戻されたばかりの静寂が彼女を突き刺した。
ヒビキはため息をついてから、河縁へと座り込んだ。三角座りで曲がった膝の上に、彼女は顎を置いた。
「どうすればいいんだろ。いつになったら、この曲は出来上がるんだろ」
ヒビキは河を覗き込んだ。透き通った浅い河は、底にある丸い石っころの様子をそのまま彼女へと伝えた。
自分がどんな顔をしているか、鏡代わりにしたかったのに。妙にいじわるだ。ヒビキは頰を膨らませた。当然それも見えなかった。河はいつもよりも流れが急なようだ。
早くみんなと合唱をしたいのに、これじゃ当分、先になっちゃうな。膝に顔を埋めながら、ヒビキはまぶたを閉じた。どうせ河は静かだから、深く考え込むにはぴったりの場所だ。これからうんうん唸って打開策を見つけよう。
そんなときだった。
どっしゃぁーーん、という何かが水面へ落下する音が、静かだった森林のどこかから発せられた。それは彼女からそう遠くはないだろう場所で鳴ったらしかった。音が耳に入るとヒビキはすぐに立ち上がって、数秒後にはもう駆け出していた。
「河上の方だ!」
河上っていったら何があっただろう。河は緑と黒を混ぜたような色になって、岩は苔むしてて。いや、それよりも――。
ヒビキは細かな木の根を跳んで避けながら、乾いた河原の丸石に黒い水の足跡を残して走っていった。草木が囲む河沿いの音は最初こそ優しいものであったが、屈んでいた地点からの距離が生まれるにつれ、物々しさが増すのだった。しかし彼女が怖じけることはなく、不規則に曲がる河のそばを離れず走る。探究心が理由もなく彼女を動かしていた。
まもなく、ヒビキは目的地に到達した。空気が連続して震えている。ヒビキは改めて、その風景を目に捉えた。彼女の口は僅かに開き、身体は一瞬だけ強張った。
ヒビキの身長より何倍も高い岩の壁の向こうから、水が流れ落ちている。それが集合して形成されている白い柱は垂直に立ち、落下の衝撃で深緑をした河に、同じような白い輪を広げていた。輪は時間の経過によって、結局は深緑に飲まれていく。けれども、一連の情景は小刻みに繰り返されているために、決して途絶えることはない。
丸みを帯びた台形のような溜まり場の水が、流出して河になる。その様子を、滝は延々と見ているばかりだ。辺りを埋め尽くさんばかりの音を吐き出しながらのことだった。
とはいえ、彼女にとってこの光景は随分と身近なものだ。滝が持つ、力強く、それでもどこか柔らかさを潜めた音は歌のイメージにつながることもある。淡水水族館から最も近いこの滝は、ヒビキのお気に入りの場所のひとつだった。……危険だからあまり来てはいけない、周りからはそう言われていたが。
ヒビキが面食らったのは、その見慣れた光景の中に、違和感を覚えたからだった。滝が生み出している波に揉まれるようにして、茶色いものが深緑の水に漂っていた。一見すると落ち葉の塊が流されてきたのかと思ったが、見れば見るほど、そうではないことがだんだんとわかってきた。落ち葉にしては色の濃淡が統一され過ぎているし、葉と葉の間の隙間も見られない。おおよそ二通りの茶色をした丸い浮きがそれぞれくっついて浮かんでいるようで、一つの浮きの下にはヒビキ自身の肌と同じ色をした何かが覗いている。それはちょうど、ヒトの耳みたいで――。
そこまで理解したヒビキは、はっと息をのんだ。彼女は再び駆け出して勢いをつけ、河へと入っていく。冷え切った河の水がヒビキの身体を元来た方に押し返すが、ヒビキは力任せに前へ前へと進み、とうとう底を蹴って泳ぎ出した。水中に潜り、平泳ぎですいすいと流れに逆らう。
滝壺近くに浮かぶその子の状態は、すぐに確認できた。顔は上を向いていて、息ができない状態ではないようだ。ひとまず、よかった。
ヒビキは水面に浮上し、一呼吸した。顔に流れる水滴を手で払った後に、数度だけ水をかき、その子に接近する。浮かんでいる彼女の脇に腕を入れてがっちり掴むと、ヒビキはバタ足をして滝からすぐに離れた。彼女の身体が盾となってバタ足で押し出す水の勢いは殺され、いつものような推進力はない。それでも懸命に岸へと向かう。歯をくいしばり、口をへの字にし、ゆっくりと河の中を立ち泳ぎする。
やがて足に地面の感触が伝わると、ヒビキは一気にザブザブと水を踏みつけるかのように足を動かして河を出た。組んでいた腕を解いて茶色の子の上体を岸辺の草の上に置く。その後、今度はその子の腕を両手で掴み、まるで太い木の根を引き抜くような姿勢で、ぐっと彼女を引っ張り上げた。彼女の身体が少し陸に姿を見せると同時に、一歩後ろへ後退する。それを何度かやっているうちに彼女の全身が岸へ乗り上げ、ヒビキはちょうどその瞬間に尻もちをついてしまった。ヒビキは非力だったが、水の浮力の助けもあって、彼女を岸に上げることに成功したのだった。
尻についた湿った土を払いながら、ヒビキは腰を起こした。前髪は額に吸い付き、汗混じりの水滴がつぅっと彼女の鼻へと垂れた。それを手で拭い、拭った手に集まった水気を揺すって払い落としてから、ヒビキは目の前で横たわっている彼女を見た。困惑と疲労、そして微かな興味で心が満ちていたヒビキは、茶色いその子の顔を上から覗き込んだ。
彼女は眠っているようだった。眠っているというよりは、気絶しているというのだろうか。とにかく、凛々しさを感じる太めの眉も、その下にある目も、一向に動きそうにはなかった。
ヒビキの視線は体へずれる。ライトブラウンの無地のフルジップトレーナー、短パン、スニーカー。それぞれが順番に視界に入った。顔立ちからしてもそうだが、胸に微かな盛り上がりがあるあたり、女の子であることは見当違いではなかったらしい。
視線は頭に戻る。焦げ茶色の彼女の短髪は、ヒビキと同様に河の水に濡れていた。前髪も額に吸い付いていたが、中央部の前髪のみ、半円状に白くなっていたのがヒビキを不思議がらせた。そのまま頭の上方へと滑るように目を移す。あっ、という声を、ヒビキは漏らした。
彼女の頭には耳があった。逆三角形の形をした、彼女の髪と同色の獣の耳だ。これもまた水に濡れ、細やかに生えた焦げ茶の毛のほとんどは寝てしまっていた。それに加えて、彼女には特殊な伸び方をした髪もあった。獣の耳の付け根近くから、骨に近い色をした木の枝にも似た髪が、それぞれ一本ずつ生えていた。
ヒビキはぽっかりと口を開けて、膨らむ好奇心に従うままに、つん、と指で獣の耳をつついた。彼女自身に驚きとか怯えとかの感情はなかった。
なぜなら、ヒビキ自身、彼女と同じような存在であったからだ。
「わああああっっっ!?」
「ひっ、ひゃああああああ!?」
ヒビキが彼女の耳に触れた瞬間、彼女は目を大きく見開き、上半身を急に起こした。叫び声を上げながらのことだった。
同時にヒビキは、さっきまでなかったはずの驚きとか怯えとかの感情に基づいて、一目散にその場を離れた。これも叫び声を上げながらのことだった。ヒビキは河のそばにある雑木林へぴゅうっと逃げ込んだ。頑丈そうな木に身を潜め、片身だけを出して彼女の様子をうかがった。身体を動かして救助したときの倍以上にドクンドクンと心臓が脈打っていた。息も間違いなくそのときより上がっていた。
彼女は草の上に立ち、滴をぽたぽた髪から垂らしながら身体のあちこちを触っていた。両の腕と足、腹、頬、額、届く限りの背、頭の後ろ。背と頭の後ろを抑えている時間が長く、多少そこを痛めてはいるようだが、彼女は問題なさそうに手を離した。それから頭頂部に触れ、獣の耳の位置を確かめると、その脇にあったぺしゃりと倒れた骨のような髪を直し始めた。両手でぎゅうと髪を掴むことで、水気が絞り出される。そうすることで、徐々に髪は空を突き刺すように直立していく。両方が元に戻る頃には、髪はシカの角のような形状になっていた。
「よしっ」
セット完了を知らせる声を零した彼女は、能天気そうに鼻歌を交えながら辺りを見回した。まるで何も考えていないような挙動をしていたが、数秒も経つとぴたりと静止した。そして彼女は顎に手を置き、ようやく考え始めたらしかった。
ヒビキは眉間にしわを寄せて、それを見ていた。気になることはいくつもあったが、どうやって話しかけようか。木の影からそっと姿を出して気づいてもらうのを待つ、という案も自分の中で生まれていたが、そもそも姿を出すのに勇気が必要だった。急に騒いだ見知らぬ人を相手にすることと、元々の人見知りが合わさって、ヒビキは声をかけあぐねていた。
彼女自身、いきなりこんな滝の近くにいてわからないことも多いだろうし、説明が要るはずだ。いや、でも――。
「ねぇ、ここどこだかわかる?」
シカの角を持った彼女は森へと振り返って、そこで縮こまっていたヒビキに話しかけた。
「え、えぇっ!?」
まさかバレているとは思われていなかったヒビキは驚愕する声で応え、一歩遅れて木に隠れ直した。
「あっ、隠れないでよ。全っ然怪しい者なんかじゃないからさぁ」
「河に流されてくる人は十分に怪しいよっ!」
彼女の緩い声掛けにヒビキは反論すると、もう、という声を出して彼女はヒビキの木に歩み寄っていった。
「わぁっ、待って!?」
「待たない。これ以上待ってたら日が暮れちゃうからね」
「あ、あのさっ、一つだけ聞いていい?」
彼女は歩みを止め、ヒビキの隠れている木を注視した。
滝の音が周囲を包む中、ヒビキはおそるおそる、半身だけを木の影から出して、呟くように尋ねる。ヒビキの目には涙が少し溜まっていた。
「あなたも、フレンズなの?」
その問いに頷きで答えた後、彼女は左手を前に差し出した。
彼女がふっと息を吐くと、虹の輝きをした光が、手のひらで発せられた。だんだんと虹の光は、手に納まるサイズの角なしキューブに似たものに変わる。それは横方向に急速に伸び、両端は彼女の頭にある角みたく枝分かれした。実体を覆っていた光が薄れていくと、彼女の肩幅よりちょっと大きいくらいの棒が、突き出された左手に握られていた。
完成の瞬間、ヒビキは感嘆の声を漏らした。
彼女は枝葉が埋める空に向かって、バトンのように棒を放り投げた。ヒビキは棒を目で追いかけた。ぐるんぐるんと何回か宙で回転した棒は、そのうち彼女の頭めがけて落ちてくる。それを上に掲げた腕でキャッチした彼女は、棒が地面と水平となるように持って、胸の前にかざした。
「これが証拠。どう? カッコいいでしょ?」
目をつむっていた彼女は、やたら自慢げに語りかけていた。
ヒビキは自然と一歩を踏み出し、木の陰から姿を見せた。そうすると、シカの彼女はにっこりとした笑顔をつくったのだった。
歩くうちにヒビキと彼女との距離が短くなって、腕が届くくらいになった。自分より身長が高い彼女を見上げたが、未だ第一声には困っていた。俯いて、もごもごとだけ口を動かしているとき、彼女は腰を丸めてヒビキと目線を合わせた。
彼女は自分のペースに引き込むようにして声をかけた。
「私はクチジロジカ。クチジロちゃんって呼んでね」
簡単な自己紹介を終え、もはやフレンズの定型句と言えよう台詞を、彼女は投げかけてきた。
「ねぇ。あなたは何のフレンズ?」
返すべき言葉はすっと喉奥から出てきた。ヒビキはそれを、そのまま言った。
「私は……カジカガエル。カジカガエルの、ヒビキ」
同じフレンズである彼女らが打ち解けるのに、そう長い時間はかからなかった。
ページ作成者 相須楽斗
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