鍵に回ってと願いながら何度も歯を立てる。金属のそれは私の口には痛いけれど、回ってもらわないと大変なことになってしまう。今も部屋の窓はガタガタと音を立てて揺れている。外は台風が来ていると優斗さんが言っていた。この家がこんなに揺れているなら、ひまわりはどうなっているんだろう。そう思うと居ても立ってもいられなくなって、私は玄関を開けようとこうやって歯を立てている。こんな時優斗さんのように指が使えればどんなに楽だったろうと、自分の体が憎くて仕方ない。それでも何かをしていないと、ただ待っているなんて私には出来ない。
ガチャリ、上手く歯が当たったようで、鍵が外れた。こうなってしまえばこちらのもの。ドアノブに足を何度もぶつけて、回そうとする。これが出来ればすぐにでもひまわりに駆けつけることが出来る。足の速さには自信があるから、きっとすぐ辿り着くことは出来るはず。
「お願い、開いて…!」
何度も何度も、数え切れないほど足をぶつけると、願いが届いたのかドアが少しだけ開いた。しめた、このチャンスを逃すまいと全体重を乗せてドアに体当たりをする。瞬間、暴風と大雨が私を包んだ。身体を打つ風と雨は普段感じるそれらとは全く違うもので、台風って凄いんだなあと少しばかり呑気なことを考えてしまった頭を振る。開きっぱなしのドアがバンバンと音を立てて壁に打ち付けられている。ドアを開けっ放しにしたらきっと優斗さんに怒られてしまうから、身体全部を使ってドアを元の場所に戻した。しばらく観察してもまた開くことはなかったから、もう大丈夫だと信じて私は走り出した。
階段を転げ落ちるように降りて、アスファルトの地面を駆ける。こんなピンチの人を助ける人はなんて言ったっけ。優斗さんに教えられた、その名前を走りながら思い出そうとする。きゅうせいしゅ…はなんだか違う気がする。言葉を思い出しながら私は走り続けた。
「…ヒーロー!」
そうだ、ヒーローだ。優斗さんがいつも見ていたあのテレビ。あれに映っていた人は、大事な人が危ない時にいつも助けに来ていた。きっと私はヒーローになる。あのヒーローはこういう時なんて言っていたか、回らない頭をフル回転させて思い出そうとした。雨に濡れたアスファルトは何度も雨粒が打っていて、まるで洗われているようでした。
違う、そんなことを考えてる場合じゃない。もっと早く、ヒーローのように早く走ることが出来れば。こんなにもどかしい気持ちになったのはいつ以来だったでしょうか。普段はなんとも思わない塀が邪魔で仕方ありません。これを乗り越えることが出来ればもっと早くひまわりに行くことが出来るのに。変身が出来ればこんなに悩むことはないのに。その考えにハッとしました。こういうものを天啓というのでしょうか。知りたかった言葉を神様が授けてくれたようです。
「変身ッ!」
大きな声で叫んだ私は、両足で地面を蹴っていました。さっきまでとは段違いの速さ、目線は塀なんて物ともしない高さになって、思い切りジャンプすると簡単に飛び越えることが出来ました。これを何度も繰り返して、ひまわりまでの最短距離をひたすらに走ります。すれ違う人が私を変な目で見ますが、そんなことを気にしている場合じゃありません。今は一刻も早くひまわりに行かなくては。
私の助けを必要としている人がいる。私は今日、ヒーローになります。虹色の雨の降る日でした。
最後の角を曲がり、閉じられたひまわりの門を飛び越えると正面玄関に手をかけます。何度か動かそうとしましたが、無機質な音を立てるだけでドアは開く様子を見せません。それならば、勝手口から入ればいい。両の足を動かして裏へ回り勝手口のドアを捻ると、こちらの鍵は開いていたようで、ドアは抵抗することなく私の行路を開けました。優斗さんの名前を叫びながらひまわりの中を走り回ります。でも、どの部屋を見ても彼の姿は見当たりません。ひまわりに行くと言っていたから、ここにいるはずなのに姿が見えないのはどうしてでしょうか。優斗さんの家と同じようにひまわりもガタガタと音を立てていて、きっと他のみんなも不安に思っているだろうと思った私はケージの集められた部屋に足を向けました。
皆のいる部屋に足を踏み入れると、起きている子たちは不安そうな声を上げていました。こんな状況でも眠っている子も居ます。きっとお父さんと優斗さんの事を信じているんでしょう。私は不安の声を上げる子たちに話しかけます。
「大丈夫。大丈夫だよ。お父さんと優斗さんがきっと守ってくれるから」
諭すようにそう話しかけると、不安そうな声は次第に収まって静かになりました。さて、これからどうしましょうか。優斗さんもお父さんも居ないなら、私がこの子達を守るべきだと考えてこの場所にいることにしました。不安な声を上げる子が居たら心配することはないと話しかけて、ケージを開け胸に抱きしめてあげます。優斗さんやお父さんが私にしてくれたように、こうすれば安心する事は身を以て知っています。人の暖かさがどれだけ心に染み渡るか、それを知っているからです。震える子を抱きしめては身体を撫でてあげると、段々とそんな子達の数は減って聞こえる音は雨風の音だけになりました。あとは優斗さんとお父さんがどこに行ってしまったなのですが、私にそれを知る方法はありません。
じっと立って、聞き耳を立てていると遠くから車の音が聞こえてきました。この車の音は、聞き覚えがあります。
「お父さんの車だ!」
お父さんが来てくれたことに喜んで、私は勝手口から外に出て車のところへ走りました。視界に入った車は丁度ドアが開いて、2人の人が降りてくるところでした。一人はタバコを咥えてポケットに手を入れています。もう一人は…。
「優斗さん!」
私の大事な人、優斗さんでした。思わず駆け寄って抱きつきました。目を白黒させて、それでも優斗さんは私を受け止めてくれました。身体に馴染んだ暖かさが服越しでも伝わってきます。頬を擦り付けて、会いたかったと言葉にすると優斗さんが困ったような顔で頭を撫でてくれました。いつもの安心する手があると、台風が来ていても全然怖くありません。
「おめぇ…誰だ」
お父さんが呟くように言います。私を見間違えた事はちょっとだけ悲しかったですが、こんな雨だから仕方ありません。私は立ち上がると腰に手を当てて、言いました。
「私はハナコ! ひまわりの犬です!」
イラスト: 春日井磯也
「するってぇとなんだ、お前さんは本物のハナコなのか?」
「そうですよぉ。私がハナコです」
「俄にゃ信じられねえな…」
お父さんが頭を掻きながら呟きました。私がハナコだと信じてくれていないようで、しきりに私を頭の先から足の先まで見ては唸っています。そんなに変な格好をしているとは思えないのですが、どうしてお父さんは信じてくれないのでしょうか。優斗さんに聞いてみても、答えあぐねているようで何も言ってくれません。それなら仕方がありません。
「お父さんは大垣峰亨さん。ひまわりで一番偉い人です。優斗さんは長い名前だと青山優斗さんで、私の飼い主です」
私の知っているお二人のことを話すと、お二人とも目を見開いて驚いた顔をしました。ひまわりにいる子なら皆が知っていることなのに、どうしてそんな顔をするのでしょうか。不思議でたまらなくてまた優斗さんに質問をしましたがやっぱり納得してくれていない様子です。どうすれば私がハナコだと信じてくれるのでしょうか。
「嘘なんて言ってないです! 私が本物のハナコですよ!」
「そう言われてもな…。お前さん自分がどんな格好してるのか分かってるのか」
お父さんの問いかけに、私は自分の体を手探りで調べてみました。金色の毛に、尻尾。優斗さんがいつも丁寧にブラッシングをしてくれるからふわふわです。耳もいつも通りあるし、両手両足だっていつもと何も変わっていません。あ、でも目線がちょっと高いかも?
「変な所はないと思います」
「…ハナコ」
「はい!」
手を振って付いてくるように促す優斗さんに付いていきます。優斗さんは廊下にある大きな鏡の前で立ち止まると、その前に私を立たせます。
「自分がどんな格好してるか見てみなよ」
「はあ…」
今日はふたりとも変なことを言うなあと思いながら鏡の前に立つと、そこには私だけど私じゃない女の子が立っていました。耳や尻尾があること以外は、優斗さんやお父さん…人間さんと全然変わらない姿です。人間さんみたいに靴も履いているし、人間さんの女の子が履くスカート、靴下もあります。上半身のこの服は何ていうんでしょうか…。名前が分かりません。でも、優斗さんたちと同じ姿になれたことが嬉しくて、私は小躍りして喜びました。
髪を揺らして飛び跳ねる私に、お父さんがパソコンの画面を見せてくれます。そこには私と同じように耳と尻尾のある女の子の写真が映っています。
「ガキさん…これ、どこで手に入れたんすか? フレンズの写真って出回ってないはずじゃ」
「世の中にゃ色々抜け道があんだよ。ネットじゃ一度出回った画像が消えて無くなるなんてどだい無理な話だしな。…さて、ハナコ。お前さんの正体は分かったな?」
私はそのフレンズ、という人間になったようでした。なんて幸運なんでしょう。この格好ならお父さんのお仕事のお手伝いも出来ますし、優斗さんと一緒に出掛ける時にお荷物を持ってあげることも出来ます。両手を上げて嬉しいですと言うと、またふたりとも困ったような顔になってしまって黙り込みました。どうしてそんな顔をするんでしょう。人間さんと同じ姿なら、もっともっとひまわりのお役に立てるのに、どうしてこまることがあるんでしょう。この事をお父さんに聞くと、ジャパリパークという動物園があると教えてくれました。
そして、私がそこに連れて行かれてしまうかもしれないとも。
「え、えー! それはヤです!」
「つってもな…」
お父さんがまた頭を掻きます。お父さんが言うには、私はフレンズで、フレンズはジャパリパークに居ないといけないんだそうです。私はずっと優斗さんのそばに居たいのに、別の所に連れて行かれてしまったらそれは叶いません。でもお父さんならどうにかしてくれるはずです。そう考えてお父さんにお願いをしました。でもお父さんは首を横に振りました。お前さんをひまわりにおいておくことは出来ない、と。
お父さんが言うなら従うしかありません。でも、私はひまわりでみんなのお役に立ちたいのに…。そんなことを考えていたら、顔が熱くなってきて涙が流れました。そんな私の頭に優斗さんの手が置かれます。
「ガキさん。どうにかハナコをここにおいてやってくれませんか」
「無理っつってんだろ。どうやって隠し通せってんだ?」
「俺に考えがあります」
優斗さんは私の耳元で、俺に任せてくれと言うとお父さんのパソコンで何かを操作し始めました。優斗さんが動きを止めて、画面をお父さんに向けます。お父さんはそれを見て眉を上げると、無茶苦茶だと一言だけ言いました。
「でも、俺はハナコの意思を尊重したい。ハナコがひまわりに居たいと言うなら、ここに居させてやりたいんです」
お願いします!
優斗さんはそう言って頭を下げました。どういう意味なのかは分かりませんが、私もそれにならって頭を下げました。視界の端に垂れた毛が見えます。少し間を置いて、お父さんはため息をつきました。そして、そこまで言うなら仕方ないと、ガリガリと頭を掻きパソコンを操作し始めます。
私はひまわりに居てもいいんでしょうか。お父さんにそう尋ねると、仕方ないからバレるまでは置いといてやるよとお父さんが言ってくれました。ひまわりに居られる。そう思うと嬉しくて、思わず抱きついた私はお父さんと一緒に床に倒れ込んでしまいました。そんな私をお父さんは抱きしめてくれて、やっぱり人って暖かいんだと思ったのでした。
そして私のひまわりでの生活が始まります。
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