「ほい、着いたっ!」
クチジロは右足で硬い岩を踏んづけた。傾いているその地点に左足を続けて降ろすと、仕切りのように連なって生える一メートル程度の岩壁の上から、彼女は飛び出した。トンッと軽やかに着地して、自身の背後に向けて声をかける。
「ヒビキちゃん、目、もう開けていいからね」
ぎゅっとクチジロの身体に腕と足とを絡め、顔を彼女の背にうずめていたヒビキが、微かに揺らしながら頭を上げた。クチジロが腰を下ろしたのがわかると、腕の力を緩めつつ、足をぴんっと伸ばして地面が来るのを待った。やっと乾いた草の感覚が足先に伝わるのを感じたヒビキは、ぺたんとその場に膝をついた。
「ク、クチジロちゃん……やっぱり無茶苦茶だよ……」
弱々しく呟いて、ちらり、岩壁の向こうを覗く。緑の一面に、適当に陰陽が散りばめられている。それが葉を茂らせた木々の密集だとは、説明されなくとも見当がつく。なんせ、あそこから来たのだ。ヒビキは、クチジロに身体を預けてここまで運んできてもらったのだった。滝の音が聞こえてこないのは、ぬかるんでいる大滝周辺の崖を避けるために離れたからだ。
ヒビキは、息を零してから、わなわなと手を開いて、また握った。心臓がバクバク鳴っているのが嫌でもわかる。身体は河に入った後よりも震えているような気がした。
崖登りはヒビキにとって、それほどに大仕事だった。ただ負ぶってもらっていただけだとしてもだ。肝の弱さが不安に拍車をかけ、道中目を開けることすらできなかった。クチジロが足を踏み外しかける度に、彼女は単発の悲鳴を上げ、腕の力を強めたのだった。
「もー、褒めても何も出ないよぉ?」
白と茶が混ざる前髪に指を入れ、クチジロはさっとなびかせてみせる。そのときちょうど吹いた風で角に似た髪までもが揺れていた。雰囲気はまるっと彼女に味方しているようで、反論する時間がヒビキに与えられることはなかった。
「それよりもさ、見てみなよ」
クチジロに示され、ヒビキはその声の方へ向いた。ほどなくして、彼女は吸い込むように景色に見入った。
なだらかな大地があった。河辺の植物から粘着性を吹き飛ばしたような、彼女の足首にも届かない短い草が地面を埋め尽くしている。正面に捉えた視界には同じような草原が続くばかりで、ところどころ円状に剥げているのがむしろ珍しかった。
地面に視線を妨害するものは生えていなかったが、目をクチジロの背景へとやると、必ず岩肌にぶつかるのだった。赤黒い壁に低木がしがみついている岩肌は、乾いた地面を縦に突き立てたような印象をヒビキにもたらした。ヒビキがこれまで見上げていた湿っぽい岩と、それは明確に異なっていた。またもう一段、高度の違う場所があるようだった。
やがて、ヒビキは草原の中を飴色の筋が通っていることに気が付いた。筋は情景の奥からこちらへと過ぎ、大きく歪んで視界の端に流れた。ヒビキは目でそれを追いかけた。筋は曲線を描き、ヒビキたちのいる場所からそう遠くないところにまた戻ってくる。正体を掴んだ彼女は、心の中で手を打った。ヒビキの知る渓流よりかは少しばかり狭い、しかしそれでも泳ぐには十分な河川が、砂利のある河原を形成しながら流れている。
ヒビキが河川へ近づいていくと、次第に水は飴色から変化を見せた。底に敷き詰められた石の鈍い彩りを反映しつつも、青が混ざっていた。ごたごたした色の集合はそのうち白を交え、突然何かに切られたように消失する。河は、ヒビキが見上げた大滝に繋がっていた。河への接近と同時に、一瞬だけ懐かしさを覚えるような滝の音が彼女の耳をくすぐった。
滝の上は、すべてが新鮮味を帯びていた。彼女を取り囲むのは風で、それは彼女が全く見たことない景色から吹いてくる。けれど、なによりもヒビキが興味を抱いたのは、岩山と草原の間に空白を一切与えない、淡い空だった。
崖上に上がった直後から感じていた熱を思い返して、ヒビキは空を見上げた。河とは趣が異なる青が、視界の端まで存分に広がっている。塗り忘れのような雲を転々と残しながら、一点に向けて空は徐々にその色を白へと近づいていく。そこに区切り線はない。当然のことだと威張るように、白が混ざって溶け込んでいく――。
突然、ヒビキは目をつぶった。まぶたの裏で白い円が何層か重なって見えた。円が薄くなってから、ヒビキは手をかざしつつ、もう一度その方を見た。手の甲は影で真っ黒になったが、境界線だけは煌々と赤くなっていた。
指と指の隙間からは、太陽が覗いていた。まばゆい光を目に差し込んでくるそれは、輝くのを絶対にやめなかった。
ヒビキは、添えた手をゆっくりと伸ばし始めた。太陽を人差し指と中指の間になんとか封じ込めながら、自らの可視範囲を広げていった。腕が完全に伸び切った頃、太陽は二本の指の裏で悪あがきをするだけの格好になったのだった。指から溢れる光の周りにはあの青が溢れていて、ヒビキの知らない空の風景をつくっていた。
「どう? いい感じ?」
ぽんと、背中にクチジロの言葉が当たった。返答に困る尋ね方に戸惑いながらも、ヒビキはこくんと頷いて見せた。
「うん、いい感じ、かな」
「よかったー! ここまで来た甲斐があったねぇ!」
クチジロは胸の前で勢いよく手を合わせ、衝撃によりパチーンという音が鳴る。それからヒビキの両手を取り、熱も冷めないうちに声を発した。
「詰まってたサビのところ、さっさと攻略しちゃおう!」
「えっ、いまぁ!?」
驚きで一歩引き下がったヒビキを、クチジロは力強く引き戻した。
「なにごとも第一印象で全部決まるって言うでしょ?」
「そういう話でもないと思うんだけど……!?」
「そうだっけ? でも、感覚って大事だし! この瞬間をうたにしちゃった方がいいとは思うんだよね!」
「そんなこと言われても、急には思いつかないよ……」
強引な、しかし微かに的を射ているような気がするクチジロの言葉に押し負けたヒビキは、空を望んだ。時間を置いてもなお、しつこいくらいに太陽は白く輝いている。
ふと、森の中の風景がふわふわと目の裏に浮かんでくる。そこは木の葉陰が満ちていて、湿っていた。あの場所では、しんみりした静けさと水気がヒビキを取り囲んでいたのだ。それがヒビキの居場所の風景だったし、心から離れないものだった。
今はどうだろう。木々はどこにもない。ずっと親しい存在だった河でさえも、その様相を変えている。そう考えると、味方のいない場所にぽつんと残されたような寂しさが湧き立つ感じがした。まっ平らな草原と果てのない空は、何も知らないヒビキを立ち止まらせるのだった。
でも、本当は独りなんかじゃない。近くにクチジロちゃんがいてくれてる。
ヒビキは、思考を飲み込むように息を吸い込んだ。足は既に肩幅に開かれていた。ゆっくりと息を吐きながら、彼女は右手に力を込める。数秒も経つ頃には、太陽の輝きにも劣らない光が手のひらを包んでいた。やがて光は硬い実体となる。
そうして生まれた指揮棒をヒビキは振るい、シカの角みたく枝分かれした先端部をしならせた。
「シカみたいだね、その棒」
「……河鹿蛙(カジカガエル)だからね」
自身の手元を遠巻きに見るクチジロに、小さな声で応える。
なぜ自分の指揮棒がこの形状をしているのか、それはヒビキにもわからない。河鹿蛙だから、とは尋ねたときに返ってきた、彼女の飼育員の勝手な想像だ。けれど、もし実際の事実から外れていたとしても、無視して説明していただろう。あの人に付けてもらった意味だから、ずっとずっと抱えていたい。その思いは途方もなく大きかった。
それに引っ張られて、ほんの少し、あの人を思い出す。
あの人が『お日さま』をリクエストしてくれたおかげで、私は『お日さま』を知れたんだ。……そこまで考えてたなんて、まさかないと思うけど。
今すぐにでも帰って飛びつきたくなる感情を抑え、ヒビキは指揮棒を動かし始めた。立ち向かうように正面の空を見て、リズムを完全に掴んでから、彼女はお腹に力を入れた。
阻むもののない大舞台では、声がよく響き渡っていた。
――遠く離れられると、それだけで君は変わったように見えるね。
――ちょっとだけ冒険して、それを知れた気がした。
――ありがとうは初めての空に向けて。どうか、伝わりますように。
サビの末尾を締めくくると、彼女は緩く笑みを浮かべた。歌の場があの渓流でなかったのが、ちょっとおかしく思えたからだった。
一番の終わりと同時に、指揮棒はピタリと静止した。草原を再び風の吹く音が覆う前に、拍手がヒビキの後ろから聞こえてきた。
「最っ高だよヒビキちゃん!」
「うん! ありがとう!」
パンッと、手の鳴る音がする。それはクチジロが示したハイタッチのサインに、ヒビキが応じたために生じたものだった。
勢いで掲げた両手に乗ってくると思わなかったクチジロは、一瞬だけ驚かされた。が、にやっとした表情をすぐに取り戻し、赤面しているヒビキにそれを向けた。
「へぇー、ノリのいいとこもあるんだねぇ」
「いや、今のは癖っぽいやつで……き、気にしないで……」
それよりも、と前に置いて、ヒビキはクチジロに改めて向き直った。彼女は若干顔を硬くさせて、深々と頭を下げた。
「クチジロちゃん! ありがとう!」
「最初から約束だったんだし、お礼は言わなくてもいいよ。むしろ、これで釣り合うのかわかんないくらいだし……」
「そんなことないよ! クチジロちゃんがいなかったら、私この歌つくれなかったもん!」
声の調子が弱くなったところをヒビキに強く言い返され、クチジロはまたも呆気に取られていた。ヒビキが自分らしくない行動に気づいてぽつりと謝ると、クチジロも軽く受け流したのだった。
小休止を挟んで、真南からずれた位置にある太陽を見上げつつ、クチジロは呟いた。
「じゃ、解決したって感じかな」
一歩、また一歩、と彼女は歩き出す。ヒビキはその背中をただ眺めているばかりだった。
クチジロは視線に勘付いたのか、ヒビキに向けて情景にある赤黒い壁の、その上を指でさした。
「私、あの山の上で暮らしてるんだよね。トレーニングの続きもしなきゃいけないし、そろそろ帰るね」
手を振りながら、クチジロはヒビキから遠ざかっていく。
反射的にヒビキはそれを止めようとした。が、声を出す直前になってそれをぐっと堪えたのだった。そして、かける言葉を選びなおしてから、手を縦向きの貝のかたちにしてクチジロへ呼びかけた。
「クチジロちゃーん! うた、今度聞きに来てねー!」
クチジロは歩みを止め、半身で振り返ってくれた。顔の近くには、親指の立った拳が添えられていた。
「わかってるよー!」
クチジロの声は芯が通っていて、まだまだ活力で満ちていた。
「私もシンノウに帰ろ。今日は知らせなきゃいけないことが多すぎるもんね」
クチジロをしばらく見送ったところで、ヒビキもくるりと後ろを向いた。クチジロに会ったこととリクエストの歌が完成したこと、その両方がかなりのビックニュースだ。あの人がそれぞれになんて言ってくれるか、ヒビキは今からわくわくしていた。
意気揚々と進む彼女だったが、岩壁の向こうを見た途端、表情は凍り付いてしまった。
「……どうやって帰ればいいんだっけ?」
そういえば、崖を登って来たのだった。目の前は断崖絶壁で、降れる階段なんかない。当然、崖を無理に降りでもしたら間違いなくクチジロの二の舞になることは、ヒビキには想像がついていた。親しいはずの森と滝が何もしてくれないのが、なんだか無性に恨めしく感じた。
さっき別れたばかりだが、もう一度クチジロを呼ばないとどうにもならない。ヒビキは背後を顧た。
「ねぇ、クチジロちゃ――」
一人のシカのアニマルガールが、ヒビキを突き飛ばさんとばかりに迫っていた。
「ひっ、ひいいいいいい!?」
甲高い悲鳴を上げるヒビキのちょうど前で、クチジロは急停止した。
息を荒くして、シカ角の髪をゆっさゆっさと揺らしながら、大声で彼女は尋ねる。
「ヒビキちゃん! 帰り方がわかんないよ!」
「私もだよ!?」
「そうなの!?」
やり取りを終えて力を失ったクチジロは、上を向いたまま地面に膝をつけ、しおれた様子でヒビキに話しかけた。
「冷静に考えたらあんな崖登れるわけないじゃん……。このままじゃうちに帰れないよぉ……」
「クチジロちゃんだったらいけると思って何も言わなかったけど、やっぱりそうなんだね……」
うなだれているクチジロを前に、ヒビキはたじろぐばかりだった。
「でも私も自力で帰れないし……。どうしよう……」
何か見落としているものがないか、視線をあちこちに飛ばしてみる。やはり正面に頼れそうなものは見つからない。
はぁとため息が出る。もうどうしようもない、そう途方に暮れるヒビキは明後日の方向を向いた。
「……あれ?」
立っている地面の崖伝いに、なにやら灰色の床と緑屋根を備えた建物が見える。建物からは黒い紐が、三角形の銀色の塔を中継して、もう一段上の大地へと走っていた。反対の方向へも紐は走り、先は森林の中に消えていた。
「あーーーっ!」
それを目に捉えるや否や、クチジロは叫び声を上げた。
「思い出した! ここ、ロープウェイがあるんだよ!」
「……あったんだ、ロープウェイ」
わざわざ崖を登る必要はなかったんじゃ、そうヒビキが指摘するよりも早く、クチジロは彼女の手を取った。
「あれで帰れるよヒビキちゃん! さっ、早く行こ!」
「ま、待ってよクチジロちゃん! 自分のペースで歩かせてよ!」
クチジロはヒビキの手を引っ張るかたちで、二人は草原を駆けていった。
二人が離れていっても、河は流れ、音は絶えない。それらすべてを、太陽は白く照らしていた。
ページ作成者 相須楽斗
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