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悲劇の貴公子・劉恢
劉 恢(りゅう かい、紀元前203年? - 紀元前181年?)は、前漢の皇族で趙の共王。初代皇帝の高祖・劉邦の第5子で、生母は某氏。斉悼恵王(劉肥)・第3代皇帝の恵帝(劉盈)・趙隠王(劉如意)・第5代皇帝の文帝(劉恒)の異母弟、趙幽王(劉友)の同母兄、淮南厲王(劉長)・燕霊王(劉建)の異母兄。
はじめは淮陽王に封じられ、紀元前196年夏6月に、梁王・彭越(彭羕の遠祖)が謀反の疑いで息子とともに蜀に流罪される途中で、劉邦の妻である呂后(呂雉)に遭遇してしまったために、かえって彼女によって長安に連行されて、呂后が夫・劉邦に讒言したことで彭越父子は揃って処刑された揚句に、その肉を塩漬けにされ、淮南王・英布(黥布)ら諸侯に贈られたのである[1]。
空位となった梁王は8歳になる劉恢が代わって封じられた。紀元前181年ころに彼のすぐ下の同母弟である趙の幽王・劉友が、嫡母・呂后の逆鱗に触れて幽閉されて餓死すると、彼が代わって趙王に転封された。その一方、梁は「呂」と国名を変更され、呂后の甥の呂産(長兄・呂沢の子)がその王に封じられた。さらに劉恢はその呂産の娘を、梁王時代に正妻に迎えたのである。その間に劉山(後の第4代皇帝の少帝弘)のみ儲け、劉山は子がなかった伯父で劉恢の異母兄である第2代皇帝の恵帝(劉盈)の養子となり、襄城侯となり、後に常山王・劉義と改名し、劉恢の庶長子である異母兄の第3代皇帝の劉恭(少帝恭)が呂后に毒殺されると(後述)、第4代皇帝となり名を「弘」と改名して、少帝弘として即位した。
正妻の呂氏は大叔母の呂雉と父の呂産の権威を持って夫を監視し、嫉妬深く夫に対して横暴だったという。さらに、同じく呂氏一門の滕侯・呂更始の娘を側室として寵愛し、その間に軹侯・劉朝(後の常山王)、壷関侯・劉武(後の淮陽王)らを儲けたという。
それ以前に劉恢は、梁王時代の15~16歳ころに呂氏の遠縁筋で呂后に疎まれた女性を妻に迎え、正妻の呂産の娘の監視的な態度に不快感を持った劉恢は数回のみしか正妻と閨をせずに、その側室と寝食をともにして、その間に呂后によって毒殺された前述の庶長子の劉恭(第3代皇帝の少帝恭)をはじめ、常山懐王・劉不疑と淮陽哀王・劉彊らを儲けたという。しかし、彼女は族母である呂后に疎まれていたので、少帝恭が毒殺される前に呂后の命を受けた正妻の呂産の娘によって毒殺されたのである。
愛する呂氏の遠縁筋の側室の非業の死を聞いた劉恢は大いに嘆き悲しみ、彼女のために追悼歌を作詞し、宮殿の楽人にそれを演奏させ、愛する亡き側室のために偲んだ。間もなく生甲斐に絶望した劉恢は亡き側室の後を追って、毒酒を飲んで自決して果てた。享年23だったという。彼の趙王としての在位はわずか半年であった。
呂后は素早く劉恢の後釜に自分の甥で呂王・呂産の従兄である呂禄(次兄・呂釈之の子)を趙王として、呂氏の漢王朝簒奪の手順としての手駒となったのである[2]。
以降の劉恢の息子たちは、前述の恵帝の養子となり列侯に封じられた。しかし、紀元前180年に呂后亡き後の呂氏を滅ぼした左丞相の陳平・太尉の周勃・大将軍の灌嬰・汝陰侯の夏侯嬰らは、劉恢の息子で恵帝の養子である少帝弘ら兄弟が漢王室に禍を及ぼした外戚の呂氏の血を引いている理由で、これを幽閉した。まもなく、少帝弘は異母兄弟の常山王の劉朝(軹侯)・淮陽王の劉武(壷関侯)らとまとめて毒殺され、こうして趙共王・劉恢の血筋は途絶えたのである。
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