ヨーハン・パリツィーダ

ページ名:ヨーハン・パリツィーダ

伯父のアルプレヒト1世を暗殺したヨーハン・パリツィーダ

ヨーハン・パリツィーダ(独語:Johann Parricida[1]、1290年前後[2] - 1313年/1320年12月13日?)は、スイス北部のバーデン地方を発祥とするドイツ南部の貴族であるハプスブルク家の一門。添え名(コグノーメン)の「パリツィーダ(Parricida)」[3]は「骨肉殺し」を意味する[4]。なお、上部ドイツ語は「ヨーアン・パリツィーダ」で、中部ドイツ語は「ヨーハン・パリツィーダ」と発音され、低地ドイツ語とでは「ヨーハン・パリチーダ」、オランダ語とフリース語では「ヨハン・パリチーダ」、イタリア語では「ジョヴァンニ・パッリチーダ」(Giovanni Parricida)と発音される。

オーストリア公のルドルフ2世とボヘミア(チェコ)のチェコ人貴族のプシェミスル家の王女・アークネス(アネシュカ/アグネス)のとの間の子で、父方の祖父は神聖ローマ帝国(ドイツ王)皇帝のルドルフ1世、母方の祖父にボヘミア王のオタカレル2世(Otakarel II/Otacarel II)を持つ。1308年、伯父の神聖ローマ皇帝(ドイツ王)・アルプレヒト1世を暗殺したことで有名である。

目次

概要[]

ヨーハンの祖父のルドルフ1世はオーストリアをハプスブルク家が統治することに成功し、1282年に長子のアルプレヒト1世と第3子のルドルフ2世[5]をオーストリアの共同統治者とした。1283年の『ラインフェルデンの契約』(Rheinfelder Hausordnung)で兄のアルプレヒト1世が単独のオーストリア公とされ、ルドルフ2世とその子のヨーハンには代償として、財産もしくは領地の引き渡しが約束された[6]

父のルドルフ2世が没する1290年前後にヨーハンは誕生し、母方のボヘミアのプシェミスル家の宮廷で幼少期を過ごした[2]。その後、ヨーハンは15歳に達するまで伯父のアルプレヒト1世の下で養育され、『ラインフェルデンの契約』で亡父のルドルフ2世が継承する財産・領地は伯父のアルプレヒト1世の管理下に置かれることになった。

数年後にスイスで反乱が激化し、アルプレヒト1世は反乱の鎮圧に向かうため、騎士たちをスイスのアールガウ(Aargau)に召集した[7]。この反乱の鎮圧に従軍する将の中には15歳前後に達したヨーハンが含まれており、ヨーハンは伯父のアルプレヒト1世に『ラインフェルデンの契約』で定められた財産の支払いを請求し続けていた[7]。アルプレヒト1世は甥のヨーハンが分家することで、ハプスブルク家の一門が弱体化してしまうことを恐れており[8]、結果的には甥のヨーハンによる幾度の亡父の財産・領地の返還をあっさりと却下してしまった[8]

ヨーハンは伯父の約束の反故による理不尽な対応にはげしく恨み、4人の近侍とともに伯父のアルプレヒト1世の暗殺を計画した。1308年5月1日に20歳前後となったヨーハンは近侍たちとともに計画を実施して、スイスのロイス川(Reuss Fluss)を渡る伯父のアルプレヒト1世が従者たちと離れたときに、ヨーハンらは伯父のアルプレヒトを襲撃した。最初にヨーハンが伯父に対して、一太刀を浴びせ、次いでにヨーハンの4人の近侍たちがアルプレヒト1世に斬りかかり、ついにアルプレヒト1世は殺害された[7]。これを聞いたアルプレヒト1世の妻のエリザーベト(ゲルツ家)と2人の娘のアンネとアークネス[9]は激怒して、夫と父を殺害した義理の甥かつ従兄弟のヨーハンを主とする暗殺犯たちに厳しく執拗な追及を加えた[4]

その執拗な追及はヨーハンを主とする暗殺犯の家族にもおよび、家族の多くがエリザーベトらによって処刑されたと伝えられている[10]。伯父を殺害したヨーハンは近侍たちとともにアルプス山脈の奥に逃げ込み、行方をくらました[11]。その後のヨーハンの動向は定かではないが、後年にイタリア北部のトスカーナ州のピサ[12]の僧院でヨーハンが発見された伝説が残っている[8]。ヨーハンはピサで神聖ローマ皇帝のハインリヒ7世(ルクセンブルク家)の監視下に置かれ、ハインリヒ7世自らの訪問を受けたと伝えられている[2]。彼の没年は1313年あるいは1320年12月13日とされるが、定かではなく、彼の末裔の有無も不詳である[13]

伯父殺しのヨーハンが暗殺を決行した5月1日は、ハプスブルク家の史上で「暗黒の日」と呼ばれている[14]。以降からヨーハンが暗殺した伯父のアルプレヒト1世の系統であるハプスブルク家の一門中では「ヨーハン」の名は生理的に忌み嫌われて[4]、ハプスブルク家の一門では18世紀半ばのカール6世の代に断絶するまで「ヨーハン」と名付けられる人物はほどんどが皆無であった[7]が、18世紀後半に、カール6世の娘であるマリー・テレーゼロートリンゲン家のフランツ・シュテファン1世夫妻を始祖とするハプスブルク=ロートリンゲン家の成立以来は「ヨーハン」と名付けられる人物が登場した[15]

なお、シラーの戯曲である『ヴィルヘルム・テル』(訳:櫻井政隆)では、伯父のアルプレヒト1世を暗殺したヨーハンが「わしは年若い従弟のレオポルト1世(アルプレヒト1世の第3子)がオーストリア公として栄華を極め、同世代である自分が部屋住みという待遇に我慢がならなかったのだ!」と叫んだという形で脚色されている。

脚注[]

  1. 「ヨーハン・パリツィーダ」はドイツ語とイタリア語を合わせた語彙であり、正確には「ヨーハン・パトリーツィーダー」あるいは「ヨーアン・パトリーツィーダー」(Johann Patrizidar)が正しい。
  2. 2.02.12.21911 Encyclopædia Britannica/John of Swabia(2014年1月閲覧)
  3. 本来の「パリツィーダ」は、イタリア語を起源とする外来語の「パッリチーダ」で、「骨肉殺し」を意味する単語である。
  4. 4.04.14.2 江村『ハプスブルク家史話』13頁
  5. ルドルフ1世はツォレアン家のホーエンベルク伯・ブルハルト3世の娘のゲルトルート・アンナとの間に、アルプレヒト1世・ハルトマン・ルドルフ・カール1世を儲けた。そのうち、次子のハルトマンは前年の1281年に19歳の若さで早世し、末子のカール1世は1276年に生まれて嬰児のまま夭折した。同時に後妻のエリーザベト・アグネス(カペー朝のブルゴーニュ公のユーグ4世の娘)が産んだアルプレヒト2世もいたという。
  6. ツェルナー『オーストリア史』155頁
  7. 7.07.17.27.3 ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』53頁
  8. 8.08.18.2 ツェルナー『オーストリア史』160頁
  9. アグネスとも。
  10. ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』54頁
  11. 江村『ハプスブルク家史話』14頁
  12. 北イタリア語では、ピーザと発音される。
  13. 以降は、ハプスブルク朝#パリツィーダ家(パッリチーダ家/イタリア・ハプスブルク家/ダスブルゴ家)を参照のこと。
  14. 江村『ハプスブルク家史話』12~13頁
  15. マリー・テレーゼの3男であるレオポルト2世の子であるメラン家のヨーハン・バプツィスト・ヨーゼフ・ファビアン・ゼバスツィアン(Johann Baptist Joseph Fabian Sebastian)などが出ている。

参考文献[]

  • 『ハプスブルク家史話』(江村洋/東洋書林/2004年)ISBN 978-4887216853
  • 『オーストリア史』(エーリヒ・ツェルナー(リンツビヒラ裕美訳)/彩流社/2000年)ISBN 978-4882025801
  • 『ハプスブルク家の皇帝たち』(アンドリュー・ウィートクロフツ(瀬原義生訳)/文理閣/2009年)ISBN 978-4892595912

関連項目[]

  • フリートリヒ・フォン・シラー
  • ヴィルヘルム・テル


特に記載のない限り、コミュニティのコンテンツはCC BY-SAライセンスの下で利用可能です。

シェアボタン: このページをSNSに投稿するのに便利です。


最近更新されたページ

左メニュー

左メニューサンプル左メニューはヘッダーメニューの【編集】>【左メニューを編集する】をクリックすると編集できます。ご自由に編集してください。掲示板雑談・質問・相談掲示板更新履歴最近のコメントカウン...

2ちゃんねる_(2ch.net)

曖昧さ回避この項目では、1999年設立2ちゃんねる(2ch.net)について記述しています。2014年4月にひろゆきが開設したもうひとつの2ちゃんねるについては「2ちゃんねる (2ch.sc)」をご覧...

2ちゃんねる

2ちゃんねる(に - )とは、日本最大の大手掲示板。約2つほど存在する。2ちゃんねる (2ch.net) : 1999年5月30日に、あめぞう型掲示板を乗っ取ったひろゆきによって、設立された掲示板。現...

黄皓

黄皓(こうこう)とは、中国の人物。約2名ほど存在する。黄皓 (宦官) : 蜀漢(蜀)の宦官。後主(懐帝)の劉禅に信頼されて、中常侍に任命された。この権力を利用して、皇弟の魯王の劉永と上将軍の姜維と対立...

黄忠

“矍鑠なるかなこの翁は”と謳われた黄忠黄忠(こうちゅう、? - 220年)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の部将で、字は漢升。子は黄叙(黄敍)、他に孫娘[1](後述)がいたという。『三国志演義』では...

黄奎

黄奎像黄奎(こうけい、170年/171年? - 212年5月)は、『三国志』に登場する後漢末の人物。字は宗文。黄香の玄孫、黄瓊の曾孫、黄琼の孫、黄琬の子、黄某の父、荊州牧の劉表配下の江夏郡太守の黄祖の...

麻生氏_(筑前国)

曖昧さ回避この項目では、豊前国の氏族について記述しています。その他の氏族については「麻生氏」をご覧ください。麻生氏(あそうし)とは、筑前国・豊前国の氏族。約2系名ほど存在する。筑前国遠賀郡麻生郷[1]...

麻生氏

麻生氏(あそうし)とは、日本の氏族。約幾多かの系統が存在する。麻生氏 (常陸国) : 常陸麻生氏とも呼ばれる。桓武平氏繁盛流大掾氏(常陸平氏)一門の常陸行方氏の庶家で、行方宗幹の3男・家幹(景幹)を祖...

鹿島氏

鹿島氏(かしまし)とは、日本における常陸国鹿島郡鹿島郷[1]の氏族。約3系統が存在する。鹿嶋氏とも呼ばれる。鹿島家 : 崇光源氏流伏見家一門の山階家[2]の庶家。山階菊麿の子の鹿島萩麿[3]が設立した...

鷹司家_(藤原氏)

曖昧さ回避この項目では、藤原北家について記述しています。その他の氏族については「鷹司家 (源氏)」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、藤原北家一門で、約2系統が存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1...

鷹司家_(源氏)

曖昧さ回避この項目では、源姓一門について記述しています。その他の氏族については「鷹司家 (藤原氏)」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、源氏一門。約2系統が存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1]を...

鷹司家

曖昧さ回避この項目では、公家の家系について記述しています。その他の氏族については「鷹司氏」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、日本の氏族。約2系統ほど存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1]を拠点と...

鷲尾氏

鷲尾氏(わしおし)とは、日本の氏族。約3系統がある。鷲尾家 : 藤原北家魚名流四条家の庶家。同族に山科家[1]・西大路家[2]・櫛笥家[3]があった。鷲尾氏 (備後国) : 備後鷲尾氏とも呼ばれる。源...

鳩時計

ドイツ南西部のシュヴァルツヴァルトにある鳩時計専門店鳩時計(はとどけい、独語:Kuckucksuhr、英語:Cuckoo clock)とは、ドイツの壁掛け時計の一種で「ハト時計」・「カッコウ時計」・「...

鳥山氏

鳥山氏の家紋①(大中黒一つ引き)大井田氏の家紋②(二つ引き両)鳥山氏(とりやまし)は、新田氏(上野源氏)流源姓里見氏一門。上野国新田郡鳥山郷[1]を拠点とした。目次1 概要2 歴代当主2.1 親成系2...

魏書

魏書(ぎしょ)とは、中国の史書。幾多かある。『三国志』の魏(曹魏)の曹操を中心とした史書。『三国志』時代以前の後漢末の王沈の著書(現存せず、『三国志』の注釈の中に断片的に残されているのみである)。『北...

魏延

甘粛省隴南市礼県祁山鎮に存在する魏延像魏延(ぎえん、? - 234年)は、『三国志』登場する蜀漢(蜀)の部将。字は文長。目次1 概要2 その他のエピソード3 魏延の隠された事項4 脚注5 関連項目概要...

魏勃

魏延の遠祖の魏勃指揮を執る魏勃魏勃(ぎぼつ、生没年不詳)は、前漢初期の部将。蜀漢(蜀)の部将の魏延の遠祖と伝わる[1]。 概要[]彼の出身地は不詳であるが、父が鼓琴の名手で、彼は秦の咸陽に赴いて、始皇...

魏(ぎ)とは、元来は都市国家に属し、現在の今日の山西省運城市芮城県に該当される。戦国時代に領域国家に変貌した。幾多の国家(王朝)が存在する。魏 (春秋) : 別称は「微」。姓は好。殷(商)の微子堅(微...

高間慎一

高間 慎一(たかま しんいち、1978年9月19日 - )は、日本の実業家。大学1年の18歳で会社の起業をしたメンバーシップ系のワイン&ダイニング レストラン「Wabi-Sabi」の創業者であり、マー...