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酒豪な簡雍
簡雍(かんよう、? - 219年?)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の部将。字は憲和、父は耿緒[1](後述)といわれ、子の名は不詳(後述)。劉備の母方の「従兄弟」という(後述)。後漢末の冀州刺史の韓馥の長史であった耿武(文威)は族父、少府の耿紀は族弟にあたる。
一説によると、先祖はもともと冀州の人で姓は「耿」だった。幽州に移住したとき現地では「耿」は「簡」と発音したので、「簡」に改姓したという[2][3]。
涿郡[4]の人で、豪族の子として生まれた。若いころから親戚の劉備とともに愚連隊を率いて任侠と称しており、劉備からの信頼は絶大だった。また、大の酒好きとして有名である。
184年または187年あるいは劉備が挙兵すると、張飛・田豫(田予)・傅士仁[5]をはじめ[6]、劉備の親族の劉徳然[7]・劉亮[8]とともに従軍して、各地を転々とした[9]。
204年、劉備が魏の曹操の部将の于禁と李典に破れて、荊州牧の劉表を頼り、新野県に駐屯すると、麋竺[10]と孫乾とともに従事中郎となり、劉備の相談役として補佐した。
211年、劉備が龐統を軍師として、子の劉封・劉公仲兄弟、部将の魏延・黄忠・鄧芝らを率いて入蜀したとき、古参の麋竺、孫乾とともに同伴した。涪県で、益州牧・劉璋と会見したとき、劉璋はなぜか簡雍のことをいたく気に入って、尽きない会話を交わしたという。
214年夏5月、敵対した劉璋がいる成都を包囲したとき、劉備の命で懇意がある劉璋に降伏勧告の使者として派遣された。簡雍は劉璋を説得し、劉璋はこれに応えてともに馬車に乗って、劉備の陣営に向かって降伏した。この功績で、簡雍は昭徳将軍に任命された。
彼は前述のように酒好きで大らかな性格であった。欠点は傲慢で物事に無頓着で、礼儀を軽んじていた。親戚の劉備の前でも遠慮なく足を投げ出して、浮浪者のようにだらしがない格好で対応していた。これを見た諸葛亮は、いくら簡雍が劉備の親戚でも、服装をきちっとして礼儀正しく対応するべきだと苦言を漏らした。
簡雍は、口うるさい諸葛亮に対して、長椅子を独占して枕を乗せて横になって寝転んで、決して自分の意思を曲げようとはしなかった。
当時、雨が少なく水が不足していたので、諸葛亮と李厳(李平)らは水分確保のために禁酒令を上奏して、劉備がそれを採用したので、民間で勝手に造酒するものが、過酷な厳罰を処されることになった。あるとき、諸葛亮配下の監察官がある民間の造酒用の道具が保管されていたのを見て、これを没収して所有者を逮捕して、裁判に架けられることになった。
これを聞いた簡雍はある日に劉備と城外で散策した。一組の男女と擦れ違ったときに簡雍は「あの男女は後で淫らな行為をしますぞ。どうして逮捕なさらないんですか?」と劉備に訊いた。驚いた劉備は「君にはそれがわかるのか?!」と言った。「かれらは(股間に)その“道具”を持っております。つまり、造酒用の道具の所有者と同じことですぞ」と簡雍は答えた。これを聞いた劉備は「そうか、領民は飲酒できないことに不満を持っているのだな?君はそれを言いたいのだろう」と吹き出して大笑いした。これに対して簡雍は「御意…」と述べたのみだった。かくして、裁判を架けられた造酒の所有者を無罪にして、禁酒を解いたという。簡雍の絶妙な機智とはその特徴を持っていた。ただし、これを聞いた諸葛亮は不快感を露わにしたという。
219年、劉備が蜀王(漢中王)になったとき、郡臣の中に簡雍の名が記されてないため、このころに逝去したと思われる。家督は彼の息子が継いだ。
簡雍は日本でいえば、徳川家康の竹馬の友である平岩親吉、あるいは家康の従弟である酒井家次[11]を合わせた立場の人物といえる。
『東観漢記』・『元本』[12]・林国賛の『三国志裴注述』を総合した本田透『ろくでなし三国志』をもとに検証する。
結論
簡雍は劉備の縁戚である。簡雍が亡くなると犬猿の仲だった諸葛亮らが簡雍の事項を改竄または抹消したため、『蜀書』簡雍伝の内容が簡略になり、陳寿がそのまま編集したと思われる。
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