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ヴェルフェン=エステ家の英雄・ハインリヒ獅子公
ハインリヒ3世獅子公(独語:Heinrich III der Löwe、1128年/1129年 - 1195年8月6日)は、ドイツの神聖ローマ帝国の領邦のヴェルフェン=エステ家(Welfen-Este)の君主で、ザクセン公・ハインリヒ3世(在位:1142年 - 1180年)、バイエルン公・ハインリヒ12世(在位:1156年 - 1180年)。通常は「ハインリヒ獅子公」と呼ばれる。
1180年に従兄(伯母・ユーディトの子)でホーエンシュタウフェン朝(シュタウファー家)の神聖ローマ皇帝・フリートリヒ1世赤髭王(ババロッサ)からの帝国追放処分によるザクセン・バイエルンの公領を召し取られた人物として有名である。
ハインリヒ獅子公の絶頂期には北海とバルト海沿岸からアルプス山脈による、ヴェストファーレンからポンメルンまでの広大な領土を統治し、「獅子公」の渾名の通り商才の運営に巧みで、独裁かつ専制的な君主であった。
バイエルン公・ザクセン公のハインリヒ2世傲慢公とズュッペリンゲンベルク=ズップリンブルク家(Süppelingenberg=Supplinburg)の公女・ゲルトルート(ザクセン朝の神聖ローマ帝国皇帝・ローター3世の娘)の子として、南ドイツ・シュヴァーベン地方のラーフェンスブルク(Ravensburg)で誕生した。
祖父はバイエルン公・ハインリヒ1世黒公で、ザクセン公の公女のヴルフヒルト(ビルング家(Billung))を娶り、傲慢公やユーディトとコンラート1世など多くの子を儲けた。
また、母方の祖父は神聖ローマ皇帝・ローター3世で、母方の祖母でローター3世の妻であるザクセンのノルトハイム家(Northeim)の公女のリヒェンツァ[1]はザクセンの一部とブルノン家の所有するブラウンシュヴァイヒを支配していた。
気取ったハインリヒ獅子公の肖像
1138年、父・傲慢公は神聖ローマ帝国の帝位の競争相手コンラート3世(フリートリヒ1世赤髭王の叔父)に敗れて追放された。そのため、1138年と1139年にザクセン公はアルプレヒト1世(アスカニアー(アスカン)家)に、バイエルン公はオーストリア辺境伯のレオポルト4世(バーベンベルク家)に与えられた。同年10月に父・傲慢公は40歳で病没し、このとき獅子公はまだ12歳だった。翌年のはじめにザクセン公の後見摂政となった母・ゲルトルートは獅子公のたったひとりの妹・ゲルトルートを産み、そのままバイエルン公ハインリヒ・ヤゾミルゴット2世宣誓公(バーベンベルク家)と再婚したが、彼女は子を産まずに1143年4月18日に若くして逝去した。
そのために獅子公は、ヴェルフェン=エステ家の忠実な与党だったバイエルンのビュッテル伯家(Büttel)のルートヴィヒ1世の後見を受けて、遺腹の同母妹・ゲルトルートとともに育ち、将来的には亡父の遺産相続の要求を目指した。
1142年、成長した獅子公は亡父の政敵だったコンラート3世からザクセン公の地位・所領を返還された。1147年にヴェンド十字軍に従軍し、1156年には叔父のコンラート3世の後を継いだフリートリヒ1世赤髭王(ハインリヒ獅子公の従兄)に対しても親族の誼で、バイエルン公の地位・所領を生母の再婚相手でもあったバーベンベルク家のハインリヒ・ヤゾミルゴット2世宣誓公[2](レオポルト4世の兄)から返還するよう要求し、フリートリヒ1世赤髭王はこれを認めて、獅子公のためにバイエルンを取り返し、これを与えてバイエルン公も兼ねさせた。
その見返りに、獅子公はイタリア北部のミラノを拠点とするロンバルディア都市同盟の遠征に向かった、フリートリヒ1世赤髭王に従軍し、戦功を幾多か挙げた。
その一方、獅子公は広大な領土を治めたので、商才を活かして強引に都市開発も進め、1157年~1158年にミュンヘン(München)を、1159年にリューベック(Lübeck)を開発した(実は1143年、ホルシュタイン伯のアドルフ2世によって建設されるも火災で焼失したので、正確には再建である)。
さらにブラウンシュヴァイヒ・リューネブルク・シュターデの町も開発し、これを都市に発展させた。特に母方の祖母・リヒェンツァの遺領であったブラウンシュヴァイヒは彼の拠点であり、1166年、ここに彼自身の紋章としてのライオン像を作成、その像はダンクヴァルデローデ城(Dankwarderode)の庭に建立された。これはアルプス山脈の北方にて最初に建立された青銅像だった。後世になって、この像の側にブラウンシュヴァイヒ大聖堂(der Braunschweig Dom)が建築された。
獅子公は長い間、従兄であるフリートリヒ1世赤髭王に忠誠を誓い、支え続けていた。帝位の確立を賭けたロンバルディア都市同盟およびローマ教皇との度重なる戦いの中で何度か戦いの流れを変え、フリートリヒ1世赤髭王は獅子公が率いる気性の激しいザクセンの騎士軍団を気に入っていた。1158年に再び、神聖ローマ帝国の苛斂誅求に極めた行為に激怒したロンバルディア都市同盟がまた反乱を起こしたので、皇帝のフリートリヒ1世赤髭王は再び遠征に向かい、獅子公もこれに馳せ参じて、1162年3月にロンバルディア都市同盟は陥落し、全面降伏した。
相変わらず、フリートリヒ1世赤髭王の専制ぶりに激怒を重ねたロンバルディア都市同盟はまたまた反乱を起こした。1174年、フリートリヒ1世赤髭王は再び遠征に向かった。
しかし、獅子公は自領内の東にいた西スラヴ系のソルブ族に備えるために境界線を守るのに手一杯だったために紛争処理を口実にロンバルディア侵攻の援助要請を拒んだ。獅子公にとってフリートリヒ1世赤髭王のイタリア遠征に疑問を抱き、さらに、長年の間に希望していた皇帝直属都市ゴスラーを与える報酬としたフリートリヒ1世赤髭王の懐柔案でも獅子公の考えは変わらなかった。
1176年に獅子公は次第に自分が従兄のフリートリヒ1世赤髭王の後釜を狙って、フリートリヒ1世赤髭王のイタリア政策を批判し、反旗を翻す素振りを見せるようになった。すると反フリートリヒ1世赤髭王のドイツ諸侯も獅子公に呼応した。
結果として、フリートリヒ1世赤髭王の遠征は失敗し、獅子公に対して激怒した。広大な領土を与えて勢力を増した獅子公を失脚させる策謀を練った。やがてフリートリヒ1世赤髭王は獅子公の強引な政策や海上利権を巡る苛烈な争いをしているメクレンブルク公やホルシュタイン公とシュレスヴィヒ公に目を付けて、「ロンバルディア都市同盟遠征に失敗したのはハインリヒ獅子公の不参戦である」とA級戦犯に挙げ、母方の従弟である獅子公を槍玉に挙げて、反獅子公派であるザクセン諸侯もこれに応じて、1180年にフリートリヒ1世赤髭王は軍勢を率いて、ザクセンを侵攻した。さすがの獅子公も観念し、1181年11月に皇帝軍に降伏した。これに対して、フリートリヒ1世赤髭王は帝国法によるドイツの慣習法を覆し得ると断言し、獅子公を神聖ローマ帝国の無法者とした。エアフルトで開かれた聖職と世俗の選帝侯らが開いた法廷の帝国議会で、獅子公を1182年から3年間ドイツから追放する決議となり、こうして獅子公はバイエルン公・ザクセン公の爵位と領土を召し上げられ、帝国追放処分を受けた。
フリートリヒ1世赤髭王の処置によりバイエルン公は、新興勢力貴族のヴィッテルスバハ伯・オットー1世に与えられ(在位3年で逝去し、子のルートヴィヒ1世が世襲した)、さらに広大な領地を持つザクセン公領は、幾多かに分割され、大部分はアスカニアー(アスカン)家(後にヴェッティン家)のベルンハルト3世に、その他は『ハーメルンの笛吹き男』でおなじみで、ホーエンシュタウフェン家の忠実な与党で、ハーメルン付近のローバッハ[3]とネーゲルボルンとの間を拠点としたザクセンの貴族・エーファーシュタイン(エーフェルシュタイン)家(Everstein)のアルプレヒト3世(アルベルト3世、1135年 - 1197年あるいは1202年)らに分割されたザクセンのハ―メルン伯として与えられた。
追われた獅子公は、岳父であるノルマン・イングランド王のヘンレィ2世(ガティネ(アンジュー)=プランタジネット朝)を頼って渡英し、数年間も滞在した。しかし、獅子公は1185年に許可が下りる前に無断で帰国したため、1188年に再び帝国追放をされた。妻のマツィルダは1189年に没した。
1189年、フリートリヒ1世赤髭王が第三次十字軍に出征したときに、獅子公はやっとザクセンに戻って軍勢を率いて、自身に対する裏切りの報復として富裕な都市バルドヴィック(Bardowick)を征服し、教会を除く全てを破壊した。
これを聞いた、獅子公の従子(従兄の子)でフリートリヒ1世赤髭王の次男・ドイツ王・ハインリヒ6世は、アスカン家のベルンハルト3世とハーメルン伯であるエーファーシュタイン家のアルベルトらを率いて、獅子公の軍勢を撃破した。
1194年、獅子公は病に倒れたため、皇帝となったハインリヒ6世と和解し、分割されたザクセンの一領地のブラウンシュヴァイヒに戻り、芸術と建築を振興しブラウンシュヴァイヒ公として、1195年8月6日に68歳で没した。彼の遺体はブラウンシュヴァイヒ大聖堂に葬られた。
次男のライン宮中伯・ハインリヒ5世は「プファルツ系ヴェルフェン家」の祖となったが、その子・ハインリヒ6世の代で断絶し、末子で嫡男のオットー4世も神聖ローマ皇帝・シュヴァーベン公となったが、その子のコンラート3世が夭折したため、ヴェルフェン=エステ家の男系は断絶した。
そのため、ブュッテル家のコンラート1世(ルートヴィヒ1世の子)に嫁いだ妹のゲルトルートが産んだ甥のヴィルヘルム1世が、獅子公の養子となり「ヴェルフェン=エステ=ビュッテル家」(Welfen-Este-Büttel)の家祖としてリューネブルク公となり、実質上の「ヴェルフェン家」の後継者となった。
ドイツに帰国したばかりのハインリヒ獅子公
1147年、ハインリヒはツェーリンゲン伯・コンラート1世の娘のクレメンティアと結婚し、長男のハインリヒ4世(夭折)と長女のゲルトルートを儲け、同時に彼女が相続したシュヴァーベン公領を手に入れた。
しかし、獅子公の強大な勢力を警戒した従兄・フリートリヒ1世赤髭王によって、1162年に強引に離婚させられたが、その代償としてザクセンの皇帝領内にある教皇派の要塞を与えられた。
1168年にハインリヒはノルマン・イングランド王のヘンレィ2世とアリエノール・ダキテーヌとの間の娘のマツィルダと再婚し、次男のライン宮中伯・ハインリヒ5世、三男のコンラート2世(夭折)、四男の神聖ローマ皇帝・オットー4世(末子)ら多くの子女を儲けた。
また、妹のゲルトルートは、ヴェルフェン=エステ家の忠実な与党だったブュッテル伯・ルートヴィヒ1世の子・コンラート1世と結婚し、滞在先のイギリスでゲルトルートは40歳前半の高齢出産で、ヴィルヘルム1世を産んだ。
先代:アルプレヒト1世 | ザクセン公1142年 - 1180年 | 次代:ベルンハルト3世 |
先代:ハインリヒ2世 | バイエルン公1156年 - 1180年 | 次代:オットー1世 |
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