ヴィルヘルム1世_(ヴェルフェン=エステ=ブュッテル家)

ページ名:ヴィルヘルム1世_(ヴェルフェン=エステ=ブュッテル家)

ヴェルフェン=エステ=ブュッテル家の家祖・ヴィルヘルム1世

ヴィルヘルム1世(独語:Wilhelm I、1183年または1184年4月11日 - 1213年12月12日)は、ドイツヴェルフェン=エステ=ブュッテル家(Welfen-Este-büttel)の祖で、北ドイツのリューネブルク公。

祖父はバイエルン貴族のブュッテル伯・ルートヴィヒ1世で、父はコンラート1世で、爵位を姓にしてブュッテル家(büttel)[1]と称した。祖父・ルートヴィヒ1世はヴェルフェン=エステ家(Welfen-Este)のハインリヒ1世黒公・ハインリヒ2世傲慢公の父子に仕えたヴェルフェン家の忠実な与党であった。ハインリヒ3世獅子公(傲慢公の子)は母方の伯父で、ハインリヒ4世(夭折)、ライン宮中伯・ハインリヒ5世コンラート2世(夭折)、神聖ローマ皇帝およびシュヴァーベン公・オットー4世(いずれもに獅子公の子)は母方の従兄に当たる。

目次

概要[]

1139年に傲慢公が40歳で逝去して、まだ12歳だった一人息子のハインリヒ(獅子公)は父の後を継げなかったので、ズッペリンゲンベルク(ズップリンゲンブルク)家の王女だった母・ゲルトルート(ザクセン朝のローター3世の娘)が摂政として代行したが、オーストリア公のハインリヒ・ヤゾミルゴット2世宣誓公(バーベンベルク家)と再婚したが、彼女は子を産まずに1143年4月18日に若くして逝去した。

そのため、ルートヴィヒ1世がヴェルフェン=エステ家を支え、獅子公が成長すると亡父の後を継いで、ホーエンシュタウフェン(シュタウファー)家の神聖ローマ皇帝のコンラート3世とその甥で獅子公の従兄(伯母・ユーディトの息子)であるフリートリヒ1世赤髭王(ババロッサ)と対峙して、その結果としてザクセン公・バイエルン公の地位を取り返した。同時に獅子公はミュンヒェン(München)とリューベック(Lübeck)を新興都市として興した(実は1143年、ホルシュタイン伯のアドルフ2世によって建設されるも火災で焼失したので、正確には再建である)。

その報酬として、獅子公は亡父の遺腹の娘で1140年生まれの同母妹のゲルトルート(母と同名)をルートヴィヒ1世の息子・コンラート1世に娶らせたのである。

生涯[]

伯父の獅子公が渾名の「獅子」通りにやり方が暴力的であり、独裁かつ専制的な人物のために、商権利益問題にからんでドイツ諸侯の恨みを買い、同時に前述の神聖ローマ皇帝・フリートリヒ1世赤髭王に対して、反旗を翻した報復としてザクセン公・バイエルン公の地位を召しあげられた揚句に帝国追放措置を受けて、追われたために獅子公の岳父であるイングランド王・ヘンリー2世の庇護を受けていた最中に、ヴィルヘルム1世はイングランド南部のハンプシャー近郊のウィンチェスター(Winchester)で誕生した。母のゲルトルートは40代前半という高齢出産であった。後に伯父の獅子公一家とともにドイツに帰国した。

しかし、ヴィルヘルム1世が生まれる以前の1155年に祖父のルートヴィヒ1世が逝去し、父のコンラート世も1191年に没した。このときヴィルヘルム1世は9歳だった。不憫に思った伯父の獅子公がヴィルヘルム1世を養子にして、「ヴェルフェン=エステ=ブュッテル家」の家祖として名乗ることを認めたのである。

1195年8月6日に獅子公が68歳で亡くなると、13歳でリューネブルク公となり、ラウエンブリュック(Lauenbrück)とハルツ(Harz)などを支配した。1202年にデンマーク王・ヴァルデマー1世の娘ヘレーネと結婚し、一人息子のオットー1世幼童公を儲けた。

しかし、1213年にヴィルヘルム1世は31歳の若さで逝去し、10歳になる子のオットー1世が後を継ぎ、古ブラウンシュヴァイヒ=リューネブルク家(Alt-Braunschweig-Lüneburg)の祖となった。オットー1世は従父のハインリヒ5世・オットー4世によって支えられて、成長した。

後にブラウンシュヴァイヒ公となったオットー1世はザクセン公のアルプレヒト1世(アスカン本家)の娘を娶り、ラウデンブリュック公およびハルツ公・オットー2世(夭折)、アルプレヒト1世、ヨーハン1世、オットー3世(ヒルデスハイム司教)、ローター2世(フェルデン司教)らを儲けた。

従兄のライン宮中伯・ハインリヒ5世、神聖ローマ皇帝・シュヴァーベン公のオットー4世よりも先立ったヴィルヘルム1世であったが、ハインリヒ5世は「プファルツ系ヴェルフェン家」の祖となるも、子のハインリヒ6世は嗣子がなく断絶した。また、オットー4世も子のコンラート3世が夭折したため、ついにヴェルフェン=エステ家の男系は完全に途絶えた。

そこで、ハインリヒ5世・オットー4世兄弟の従子(従弟の子)であるヴェルフェン=エステ=ブュッテル家のオットー1世が「ヴェルフェン家」の女系の後継者としてその後を継いだのである。

その末裔[]

古ブラウンシュヴァイヒ=リューネブルク家は、オットー1世の次男・アルプレヒト1世が古ブラウンシュヴァイヒ家(Alt-Braunschweig)の祖となり、アルプレヒト1世の長男・ハインリヒ1世はグルーベンハーゲン本家(Grubenhagen)の祖となり、アルプレヒト1世の次男のアルプレヒト2世(1318年没)はゲッティンゲン家(Göttingen)の祖となり、ゲッティンゲン公となった。また、グルーベンハーゲン本家からヘルツベルク家(Herzberg)が出た(2代で断絶)。

『ハーメルンの笛吹き男』で著名なハーメルンのエーファーシュタイン(エーフェルシュタイン)家のマグヌス1世(オットー2世、あるいはアルプレヒト5世(アルベルト5世)の孫)が、アルプレヒト2世の末娘(5女)のエリザーベト・ツェツィリエと結婚し、マグヌス1世は新興のヴォルフォン=エーファーシュタイン家新ブラウンシュヴァイヒ=リューネブルク家)の家祖となった。しかし、エリザーベト・ツェツィリエとの間に子がなかったので、マグヌス1世は彼女と離別し、シュテンダール・アスカニアー家(アスカニアー家の分家)のブランデンブルク辺境伯・ハインリヒ1世の娘・ゾフィーと再婚して子を儲けて、その子孫は北ザクセン(ニーダーザクセン)地方を中心に勢力を拡大して繁栄した。

そして、マグヌス1世の曾孫に当たるヴォルフェンブュッテル(ヴォルフォンブュッテル)=カーレンベルク家のヴィルヘルム2世勝利公が、1463年に姻戚関係にあるゲッティンゲン家の最後の君主であるオットー4世が嗣子がないまま断絶すると、その後を継いでゲッティンゲン公を相続した。

一方、グルーベンハーゲン本家は1596年まで在続して、フィーリプ2世が嗣子がなく逝去すると、断絶した。その後は婚姻関係にあるヴォルフォン=エーファーシュタイン家のヴォルフェンブュッテル公のハインリヒ・ユリウス(ヴィルヘルム2世の6世の孫)が相続した。

最後にオットー1世の三男・ヨーハン1世は古リューネブルク家(Alt-Lüneburg)の祖となり、同時にツェレ公も兼ねたのでツェレ家(Celle)とも呼ばれる。しかし、曾孫のヴィルヘルム2世には嗣子がなく、リューネブルク公のツェレ家は断絶した(ザクセン系のアスカニアー(アスカン)家のアルプレヒト3世(ヴィルヘルム2世の外孫)が相続した)。そのため、ついにヴェルフェン=エステ=ブュッテル家こと古ブラウンシュヴァイヒ=リューネブルク家はブラウンシュヴァイヒ公(古ブラウンシュヴァイヒ家)のグルーベンハーゲン本家(17世紀前後に断絶)を除いて断絶し、ヴォルフォン=エーファーシュタイン家が代わって支配するようになった(後にアスカニアー家はザクセン系とアンハルト系に分裂し、ロシア皇帝のピョートル3世(北ドイツ貴族のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ家出身)后となったエカチェリーナ2世はアンハルト系のツェルプスト・アスカニアー家出身である)。

脚注[]

  1. 語源は「家屋敷」あるいは「庭園」の意味をさす。

関連項目[]

先代:(ハインリヒ3世)リューネブルク公1208年 - 1213年次代:オットー1世


特に記載のない限り、コミュニティのコンテンツはCC BY-SAライセンスの下で利用可能です。

シェアボタン: このページをSNSに投稿するのに便利です。


最近更新されたページ

左メニュー

左メニューサンプル左メニューはヘッダーメニューの【編集】>【左メニューを編集する】をクリックすると編集できます。ご自由に編集してください。掲示板雑談・質問・相談掲示板更新履歴最近のコメントカウン...

2ちゃんねる_(2ch.net)

曖昧さ回避この項目では、1999年設立2ちゃんねる(2ch.net)について記述しています。2014年4月にひろゆきが開設したもうひとつの2ちゃんねるについては「2ちゃんねる (2ch.sc)」をご覧...

2ちゃんねる

2ちゃんねる(に - )とは、日本最大の大手掲示板。約2つほど存在する。2ちゃんねる (2ch.net) : 1999年5月30日に、あめぞう型掲示板を乗っ取ったひろゆきによって、設立された掲示板。現...

黄皓

黄皓(こうこう)とは、中国の人物。約2名ほど存在する。黄皓 (宦官) : 蜀漢(蜀)の宦官。後主(懐帝)の劉禅に信頼されて、中常侍に任命された。この権力を利用して、皇弟の魯王の劉永と上将軍の姜維と対立...

黄忠

“矍鑠なるかなこの翁は”と謳われた黄忠黄忠(こうちゅう、? - 220年)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の部将で、字は漢升。子は黄叙(黄敍)、他に孫娘[1](後述)がいたという。『三国志演義』では...

黄奎

黄奎像黄奎(こうけい、170年/171年? - 212年5月)は、『三国志』に登場する後漢末の人物。字は宗文。黄香の玄孫、黄瓊の曾孫、黄琼の孫、黄琬の子、黄某の父、荊州牧の劉表配下の江夏郡太守の黄祖の...

麻生氏_(筑前国)

曖昧さ回避この項目では、豊前国の氏族について記述しています。その他の氏族については「麻生氏」をご覧ください。麻生氏(あそうし)とは、筑前国・豊前国の氏族。約2系名ほど存在する。筑前国遠賀郡麻生郷[1]...

麻生氏

麻生氏(あそうし)とは、日本の氏族。約幾多かの系統が存在する。麻生氏 (常陸国) : 常陸麻生氏とも呼ばれる。桓武平氏繁盛流大掾氏(常陸平氏)一門の常陸行方氏の庶家で、行方宗幹の3男・家幹(景幹)を祖...

鹿島氏

鹿島氏(かしまし)とは、日本における常陸国鹿島郡鹿島郷[1]の氏族。約3系統が存在する。鹿嶋氏とも呼ばれる。鹿島家 : 崇光源氏流伏見家一門の山階家[2]の庶家。山階菊麿の子の鹿島萩麿[3]が設立した...

鷹司家_(藤原氏)

曖昧さ回避この項目では、藤原北家について記述しています。その他の氏族については「鷹司家 (源氏)」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、藤原北家一門で、約2系統が存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1...

鷹司家_(源氏)

曖昧さ回避この項目では、源姓一門について記述しています。その他の氏族については「鷹司家 (藤原氏)」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、源氏一門。約2系統が存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1]を...

鷹司家

曖昧さ回避この項目では、公家の家系について記述しています。その他の氏族については「鷹司氏」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、日本の氏族。約2系統ほど存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1]を拠点と...

鷲尾氏

鷲尾氏(わしおし)とは、日本の氏族。約3系統がある。鷲尾家 : 藤原北家魚名流四条家の庶家。同族に山科家[1]・西大路家[2]・櫛笥家[3]があった。鷲尾氏 (備後国) : 備後鷲尾氏とも呼ばれる。源...

鳩時計

ドイツ南西部のシュヴァルツヴァルトにある鳩時計専門店鳩時計(はとどけい、独語:Kuckucksuhr、英語:Cuckoo clock)とは、ドイツの壁掛け時計の一種で「ハト時計」・「カッコウ時計」・「...

鳥山氏

鳥山氏の家紋①(大中黒一つ引き)大井田氏の家紋②(二つ引き両)鳥山氏(とりやまし)は、新田氏(上野源氏)流源姓里見氏一門。上野国新田郡鳥山郷[1]を拠点とした。目次1 概要2 歴代当主2.1 親成系2...

魏書

魏書(ぎしょ)とは、中国の史書。幾多かある。『三国志』の魏(曹魏)の曹操を中心とした史書。『三国志』時代以前の後漢末の王沈の著書(現存せず、『三国志』の注釈の中に断片的に残されているのみである)。『北...

魏延

甘粛省隴南市礼県祁山鎮に存在する魏延像魏延(ぎえん、? - 234年)は、『三国志』登場する蜀漢(蜀)の部将。字は文長。目次1 概要2 その他のエピソード3 魏延の隠された事項4 脚注5 関連項目概要...

魏勃

魏延の遠祖の魏勃指揮を執る魏勃魏勃(ぎぼつ、生没年不詳)は、前漢初期の部将。蜀漢(蜀)の部将の魏延の遠祖と伝わる[1]。 概要[]彼の出身地は不詳であるが、父が鼓琴の名手で、彼は秦の咸陽に赴いて、始皇...

魏(ぎ)とは、元来は都市国家に属し、現在の今日の山西省運城市芮城県に該当される。戦国時代に領域国家に変貌した。幾多の国家(王朝)が存在する。魏 (春秋) : 別称は「微」。姓は好。殷(商)の微子堅(微...

高間慎一

高間 慎一(たかま しんいち、1978年9月19日 - )は、日本の実業家。大学1年の18歳で会社の起業をしたメンバーシップ系のワイン&ダイニング レストラン「Wabi-Sabi」の創業者であり、マー...