ハインリヒ5世_(ライン宮中伯)

ページ名:ハインリヒ5世_(ライン宮中伯)

プファルツ系ヴェルフェン家の家祖・ハインリヒ5世

ハインリヒ5世(独語:Heinrich V、1172年/1173年4月11日 - 1227年12月12日)は、ヴェルフェン=エステ家で、ライン宮中伯。プファルツ系ヴェルフェン家の祖。

ハインリヒ獅子公の次男で、生母はフランク・イングランド王のヘンレィ2世の娘・マティルダ。ハインリヒ4世(夭折)の異母弟で、コンラート2世(夭折)、神聖ローマ皇帝・シュヴァーベン公のオットー4世の同母兄、リューネブルク公のヴィルヘルム1世の外従兄にあたる。

概要[]

1182年7月末にホーエンシュタウフェン家の神聖ローマ皇帝・フリートリヒ1世赤髭王(ババロッサ)が母方の従弟にあたるハインリヒ獅子公に対してドイツ国外追放を宣告したため、その子のハインリヒ5世は同母弟のオットー4世とともに父に伴われ、イングランドに旅立った。母方の祖父であるノルマン・イングランド王のヘンレィ2世が統治するイングランドで幼少期を過ごした。

後にドイツに帰国して、反ホーエンシュタウフェン家のケルン大司教のアドルフが、ドイツ王・シュヴァーベン公のフィーリプ(フリートリヒ1世赤髭王の子、ハインリヒ6世の弟)と対決したため、自分たちが擁立する「ドイツ対立王」として、ハインリヒ5世を擁立しようとした。しかし、ハインリヒ5世は十字軍に参加してエルサレムに遠征したため、ドイツに不在であったため、代わって同母弟のオットー4世がドイツ対立王に選ばれた。

ドイツに帰還したハインリヒ5世は岳父でホーエンシュタウフェン家のライン宮中伯・コンラート4世(フリートリヒ1世赤髭王の弟、ハインリヒ6世・フィーリプ兄弟の叔父)の子・フリートリヒ6世が嗣子がないまま、1186年に父より先立って逝去したので、1195年にコンラート4世の死により娘婿としてライン宮中伯を相続した。

1198年に神聖ローマ帝国内で始まった内訌では、初めは末弟のオットー4世を支持したが、1203年からドイツ王・シュヴァーベン公のフィーリプに寝返って、ザクセンおよびヴェストファーレンの所領を幾多か獲得した。

1212年にライン宮中伯を子のハインリヒ6世に譲り、従子のリューネブルク公でヴェルフェン=エステ=ビュッテル家のオットー1世幼童公(外従弟・ヴィルヘルム1世の子)の元へ身を寄せ、1227年にブラウンシュヴァイヒで亡くなった。享年56。

彼の遺体はブラウンシュヴァイヒ大聖堂に葬られた。

家族[]

  • アークネス(1177年 - 1204年、ライン宮中伯・コンラート4世の娘):1193年に結婚。
    • ハインリヒ6世(1195年/1196年 - 1214年):ライン宮中伯、ブラバント公・ハインリヒ1世の娘・マツィルダ(マリアの妹)と結婚するが、1214年に嗣子がないまま20歳で早世し、プファルツ系ヴェルフェン家はついに断絶した。
    • アークネス(1201年 - 1267年):バイエルン公・ライン宮中伯のオットー2世(ヴィッテルスバハ家、ルートヴィヒ1世の子)と結婚(オットー2世は義兄のハインリヒ6世が逝去すると、ライン宮中伯を相続した)。
    • イルムンガルト(1202年 - 1260年):バーデン辺境伯のヘルマン5世(ツェーリング家)と結婚し、その間にヘルマン6世とルドルフ1世らを儲けた(ヘルマン6世の子・フリードリヒ1世は同世代の親族で、ホーエンシュタウフェン家のシチリア王・コンラート7世(コンラーディン・コッラディーノ・コッラードとも呼ばれる)とともに敵軍のシチリア王・カルロ1世(アンジュー=カペー家)に捕らわれて刑死した)。

関連項目[]

先代:コンラート4世ライン宮中伯1195年 - 1212年次代:ハインリヒ6世


特に記載のない限り、コミュニティのコンテンツはCC BY-SAライセンスの下で利用可能です。

シェアボタン: このページをSNSに投稿するのに便利です。


最近更新されたページ

左メニュー

左メニューサンプル左メニューはヘッダーメニューの【編集】>【左メニューを編集する】をクリックすると編集できます。ご自由に編集してください。掲示板雑談・質問・相談掲示板更新履歴最近のコメントカウン...

2ちゃんねる_(2ch.net)

曖昧さ回避この項目では、1999年設立2ちゃんねる(2ch.net)について記述しています。2014年4月にひろゆきが開設したもうひとつの2ちゃんねるについては「2ちゃんねる (2ch.sc)」をご覧...

2ちゃんねる

2ちゃんねる(に - )とは、日本最大の大手掲示板。約2つほど存在する。2ちゃんねる (2ch.net) : 1999年5月30日に、あめぞう型掲示板を乗っ取ったひろゆきによって、設立された掲示板。現...

黄皓

黄皓(こうこう)とは、中国の人物。約2名ほど存在する。黄皓 (宦官) : 蜀漢(蜀)の宦官。後主(懐帝)の劉禅に信頼されて、中常侍に任命された。この権力を利用して、皇弟の魯王の劉永と上将軍の姜維と対立...

黄忠

“矍鑠なるかなこの翁は”と謳われた黄忠黄忠(こうちゅう、? - 220年)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の部将で、字は漢升。子は黄叙(黄敍)、他に孫娘[1](後述)がいたという。『三国志演義』では...

黄奎

黄奎像黄奎(こうけい、170年/171年? - 212年5月)は、『三国志』に登場する後漢末の人物。字は宗文。黄香の玄孫、黄瓊の曾孫、黄琼の孫、黄琬の子、黄某の父、荊州牧の劉表配下の江夏郡太守の黄祖の...

麻生氏_(筑前国)

曖昧さ回避この項目では、豊前国の氏族について記述しています。その他の氏族については「麻生氏」をご覧ください。麻生氏(あそうし)とは、筑前国・豊前国の氏族。約2系名ほど存在する。筑前国遠賀郡麻生郷[1]...

麻生氏

麻生氏(あそうし)とは、日本の氏族。約幾多かの系統が存在する。麻生氏 (常陸国) : 常陸麻生氏とも呼ばれる。桓武平氏繁盛流大掾氏(常陸平氏)一門の常陸行方氏の庶家で、行方宗幹の3男・家幹(景幹)を祖...

鹿島氏

鹿島氏(かしまし)とは、日本における常陸国鹿島郡鹿島郷[1]の氏族。約3系統が存在する。鹿嶋氏とも呼ばれる。鹿島家 : 崇光源氏流伏見家一門の山階家[2]の庶家。山階菊麿の子の鹿島萩麿[3]が設立した...

鷹司家_(藤原氏)

曖昧さ回避この項目では、藤原北家について記述しています。その他の氏族については「鷹司家 (源氏)」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、藤原北家一門で、約2系統が存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1...

鷹司家_(源氏)

曖昧さ回避この項目では、源姓一門について記述しています。その他の氏族については「鷹司家 (藤原氏)」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、源氏一門。約2系統が存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1]を...

鷹司家

曖昧さ回避この項目では、公家の家系について記述しています。その他の氏族については「鷹司氏」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、日本の氏族。約2系統ほど存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1]を拠点と...

鷲尾氏

鷲尾氏(わしおし)とは、日本の氏族。約3系統がある。鷲尾家 : 藤原北家魚名流四条家の庶家。同族に山科家[1]・西大路家[2]・櫛笥家[3]があった。鷲尾氏 (備後国) : 備後鷲尾氏とも呼ばれる。源...

鳩時計

ドイツ南西部のシュヴァルツヴァルトにある鳩時計専門店鳩時計(はとどけい、独語:Kuckucksuhr、英語:Cuckoo clock)とは、ドイツの壁掛け時計の一種で「ハト時計」・「カッコウ時計」・「...

鳥山氏

鳥山氏の家紋①(大中黒一つ引き)大井田氏の家紋②(二つ引き両)鳥山氏(とりやまし)は、新田氏(上野源氏)流源姓里見氏一門。上野国新田郡鳥山郷[1]を拠点とした。目次1 概要2 歴代当主2.1 親成系2...

魏書

魏書(ぎしょ)とは、中国の史書。幾多かある。『三国志』の魏(曹魏)の曹操を中心とした史書。『三国志』時代以前の後漢末の王沈の著書(現存せず、『三国志』の注釈の中に断片的に残されているのみである)。『北...

魏延

甘粛省隴南市礼県祁山鎮に存在する魏延像魏延(ぎえん、? - 234年)は、『三国志』登場する蜀漢(蜀)の部将。字は文長。目次1 概要2 その他のエピソード3 魏延の隠された事項4 脚注5 関連項目概要...

魏勃

魏延の遠祖の魏勃指揮を執る魏勃魏勃(ぎぼつ、生没年不詳)は、前漢初期の部将。蜀漢(蜀)の部将の魏延の遠祖と伝わる[1]。 概要[]彼の出身地は不詳であるが、父が鼓琴の名手で、彼は秦の咸陽に赴いて、始皇...

魏(ぎ)とは、元来は都市国家に属し、現在の今日の山西省運城市芮城県に該当される。戦国時代に領域国家に変貌した。幾多の国家(王朝)が存在する。魏 (春秋) : 別称は「微」。姓は好。殷(商)の微子堅(微...

高間慎一

高間 慎一(たかま しんいち、1978年9月19日 - )は、日本の実業家。大学1年の18歳で会社の起業をしたメンバーシップ系のワイン&ダイニング レストラン「Wabi-Sabi」の創業者であり、マー...