曹丕

ページ名:曹丕

人格性に問題があった文学者皇帝・曹丕

曹丕(そうひ、186年/187年 - 226年)は、『三国志』に登場する人物。字は子桓。太宗世祖/高祖文帝(在位:220年 - 226年)。著書に『典論自叙』『太宗論』などがある。

太祖武帝曹操と武宣皇后・卞氏[1]との間の子で、同母弟に曹彰(曹章)・曹植・曹熊ら、異母兄は曹昻・曹鑠ら[2]、異母弟は曹彪・曹沖・曹林(曹豹)・曹処曹處)・曹宇ら。

父・曹操と同母弟の曹植とならぶ建安年間の代表的な文学者・詩人でもあり、中国最大の文人のひとりでもあった。

目次

概要[]

沛郡譙県[3]の人。186年末~187年初の真冬に、曹操の3男として生まれた。幼いころは年長である族兄の曹休[4]と曹真[5]らとともに養育された。

当時は生母の卞氏が曹操の側室だったために、当初は曹操の庶子であった。しかし、異母長兄の曹昻が従兄の曹安民と戦死し、次兄の曹鑠も病死した。さらにそれ以前に、嫡母の劉夫人[6]が病死し、兄の養母である丁夫人[7]が、父・曹操と離別したため、生母の卞氏が正室に昇格し、曹丕は曹操の嫡男となった。

彼は文武に巧みであり、剣術やとくに乗馬して弓矢を射るのが得意だったという。また、果物など甘い食物に目がなく、とくに温州蜜柑は曹丕のお気に入りだったという。

197年に12歳で父・曹操の張繡討伐に従軍し、前述の異母兄の曹昻と従兄の曹安民(伯父の曹喬の子)を失い、父とともに撤退した[8]

204年、19歳で父・曹操の幽州遠征に従軍して、幽州刺史・袁煕(袁紹の次子)の妻であった美貌の甄氏(曹叡の生母、文昭皇后)を、父の目を盗んで自分の妻とした。

また、父が異母姉の清河長公主の婿候補として相談を受けた。曹丕は最初の婿候補である丁儀[9]に関して「丁儀は眇(=すがめ[10])なので、そのような人物に嫁ぐ姉上がお気の毒です。わたくしの意見としては姉上には外又従兄弟の子林(夏侯楙、夏侯惇の次男)に嫁ぐことをおすすめいたします」と丁儀を姉婿とするのは反対した。そのために、曹丕は丁儀の恨みを買う結果となった。

同母弟の曹植とその派閥の楊脩と丁儀・丁廙兄弟と邯鄲淳[11]らと対峙して、自らの派閥の「太子四友」の司馬懿・陳羣・呉質・朱鑠らの支えで、苛烈な後継者争いを制して魏の太子となった。

219年に、西曹掾の魏諷が盟友の張泉(張繍の子)とともに、蜀漢)の関羽と内通して打倒曹操の挙兵した。しかし、共謀者の長楽衛尉・陳禕の密告によって、曹丕は司馬懿と劉曄(後漢の宗室)と蔣済らに命じて、魏諷一味を鎮圧し、これを処刑した。連座したものは百数十人に及んだ[12]

220年、父・曹操が67歳で逝去すると、魏王となった。間もなく、曹丕は子を儲けていない亡父の側室を自分の側室としてしまった。父の喪中の最中にそのような行為をする生母・卞氏は激怒し「お前は人として、道を外している。人どころか鼠さえ誰もがお前の食べ残したものを、すすんで食べることはないでしょう!」と叫んだという[13]

さらに、後継者争いをした同母弟の曹植を召喚して、これを裁いて処刑を目論んだが、生母・卞氏のとりなしで爵位を格下げにして僻地の列侯として左遷した。その取り巻きの丁儀・丁廙兄弟とその一族を処刑した[14]

さらに曹丕は若いころ、族父の驃騎将軍・曹洪[15]から金額を借りることを申し込んだが、双方の問題が生じて断られた過去があった。たまたま、曹洪の食客が問題行為を起こして罪を犯したために、曹丕は連坐として曹洪を処刑しようとしたが、これも生母・卞氏のとりなしで助命し、曹洪の官職を剥奪してこれを幽閉した。

その後、蜀漢から孟達が魏に投降した。曹丕は孟達の能力を認めて優遇した[16]

間もなく漢(後漢)の愍帝[17](劉協)のふたりの内親王を娶り、さらに愍帝から禅譲を受けて魏の皇帝となり、これが魏の文帝である。

同年に、長水校尉の戴陵がたびたび狩猟ばかりする曹丕に対して「陛下は狩りばかりなさらずに、治世に注ぐべきです」と直言したため、激怒した曹丕は戴陵を処刑しようとしたが、臣下の歎願もあって、戴陵は官職を降格された。

同年に度支中郎将・霍性(零陵郡新平県[18]の人)が曹丕の呉遠征を激しく諌めたが、激怒した曹丕は霍性を処刑した。

同年秋8月に孫権は臣下の趙咨を派遣させ、前年に関羽の捕虜となった古参の部将の于禁を伴って、趙咨は曹丕に謁見した。その見返りに曹丕は、孫権を呉王に封じて、荊州牧に任じて、返礼の贈り物を与えた[19]

221年、寵愛する郭夫人(文徳皇后)の讒言で、甄夫人に死を賜った。

沛郡の人である魏臣・朱建平は曹丕の馬を見て「この馬の相を見ると、今日死ぬことなるだろう」と述べた。まもなく曹丕がその馬を乗ると、曹丕の衣装の香りを嫌がって暴れた挙句に曹丕の膝を噛みついた。激怒した曹丕はその馬を殺害した[20]

222年、父の代の功臣である南陽郡太守・楊俊が統括する同郡宛県の市場の門を閉ざしてしまい、伝令がまとまらなかった。それを聞いて激怒した曹丕は楊俊がかつて同母弟の曹植を擁立した過去を持ち上げた。しかし、司馬懿と楊俊を師と慕う王象らが助命嘆願したが、曹丕はこれを強引に振り払って、これに死を賜った。死の直前に楊俊は「わたくしは功罪をわきまえておりまする」と言い遺して、自決して果てた。

同年夏6月、蜀漢の皇帝・劉備は夷陵で呉の陸遜の壮大な火計のために、大敗した。それを聞いた曹丕は「劉備は戦を知らないな。誰が好んで700里にわたる棒柵を立てた陣営を築いて戦うだろうか?あの辺りは険阻で湿地が多く、陸遜の格好の餌食だ。劉備はその掟をやぶっている。まもなく呉から使者が来るだろう」といった。はたして、呉から急使が来て「劉備大敗する」の上書が届けられた。

これを聞いた曹丕は、自ら親征して南下して、蜀漢の部将である黄権の軍勢を包囲して、これを投降させることに成功して、さらに族兄の曹真と曹休および、夏侯尚(夏侯淵の甥)に命じて、呉の部将・朱然と戦うが、疫病のためにまもなく引き揚げた。

曹丕のそのような行為に不快感を感じた孫権は同年冬10月に曹丕に叛いて、軍勢を動員して北上した。この報に激怒した曹丕は自ら親征して南下して、長江で対峙し、濡須を拠点とした。翌年の223年春正月までこのような状態が続いた。苛立ちを感じた曹丕は従兄弟の曹真と夏侯尚および、族兄の曹休と部将の張郃に命じて、艦隊を率いさせて江陵と南渚にいる呉の総攻撃を命じた。孫権も部将の諸葛瑾[21]・呂範・孫盛[22]に命じて、反撃に出た。曹休は呂範を、曹真・夏侯尚・張郃は諸葛瑾・孫盛を撃破した。

すると呉軍は混乱を起こして、溺死する者も増大した。しかし、大司馬の曹仁(曹丕の族父)と臧覇が江陵を落城寸前に追い詰めるも陸遜に大敗し、さらに陸遜の指揮下の朱桓は曹仁の部将・常雕(常彫)を討ち取り、王双を捕虜とした。同時に前年同様に疫病が蔓延したため、やむなく曹丕は撤退を命じた。春3月のことだった。曹丕と孫権は和議を結んで、この戦いは終わった(『濡須の戦い』)。

まもなく、曹仁が57歳で逝去した。夏6月に同母弟の曹彰が都の洛陽にて30数歳で逝去した[23]

224年、呉が蜀漢と同盟を結んだため、曹丕は再び親征した。しかし、呉の部将の徐盛が長江沿岸に築いた偽の城壁に驚愕し、戦わずに撤退した。225年冬にも親征したが、この年は厳寒のために川が凍り、船を動かすことが困難にために撤退した。この連戦連敗が229年の孫権による呉の皇帝と称することに繋がってしまった。

遡って224年冬ごろに、前述の夏侯尚が親戚にあたる正妻の徳陽郷主[24]を顧みずに、側室を溺愛したために、これを聞いた曹丕は夏侯尚の側室の絞殺を命じた[25]

226年夏4月に、侍中・治書執法の鮑勛[26]の度重なる直言に激怒し、鮑勛と犬猿の仲である軍営令史の劉曜の上奏によって、鍾繇・華歆・陳羣ら重臣の嘆願を強引に振り払って、これを処刑して一族皆殺しの刑に処した。

鮑勛の刑死から20日前後に曹丕は夏6月に肺炎を患ったために、臨終の際に曹休・曹真・司馬懿・陳羣などを枕元に呼び寄せて、遺言を託して、41歳の若さで逝去した。長男の曹協(賛哀王)が父よりも先立って20歳前後で早世し、その子(文帝の孫)・曹尋(賛殤王)が嬰児のために、太子は定めておらず、司馬懿、陳羣らが急遽に擁立された次男の曹叡[27]がその後継者となった。

かつて父・曹操は太子を誰に決めるか悩んでいた。それを聞いた曹丕は疑念を持ち、高元呂という占い師がいる噂をきいた。曹丕は彼を召し出した。曹丕の人相を見た高元呂は「ご身分としては、言葉も表わせません」と述べた。曹丕が引き続いて「寿命はどれほどになる?」とたずねた。すると、高元呂は「あなた様が40代前後に災難に遭われる相が出ております。それを乗り越えなされば、80歳前後まで長命できるでしょう」と答えた。はたして曹丕41歳で逝去したのである[28]

陳寿は「曹丕は文学的な素質を備えており、筆を認めては鮮やかな文章になった。優れた知識を持ち、暗記力も巧みであり各分野においてその能力を発揮した。しかしながら、身内や意に添わない家臣に対しては徹底的に冷淡でこれを監視する狭量な面があった。もし、彼が寛大な度量を持ち、公平な治世を臨んで、道徳に尽力してそれを充実すれば、古代の賢君に劣らない人物であったろうに…」と評している。

曹丕は日本でいえば、冷酷非情かつ冷徹でカリスマ性を備えて、父・織田信長と衝突を繰り返しながら若くして死んだ信忠(信長の次嫡子)と比較される人物であろうと思われる。

曹丕の功績[]

彼の治世では『九品官人法』を創始し、後世の南朝である六朝貴族制度の基礎となり、中国史でももっとも重要な制度である。

また、文人でもあった曹丕の詩[29]の特徴はわかり易い語彙と緻密な描写で一家を成し、評論では王粲・劉楨らを代表とする「建安七子」と文学を議論して、中国史の文芸批評家の先駆者となった。

子[]

  1. 曹協(賛哀王) : 生母は李貴人
  2. 曹叡 (烈宗明帝、平原王) : 生母は文昭皇后・甄氏
  3. 曹喈[30](義陽殤王[31]) : 生母は不詳。早世
  4. 曹蕤(北海悼王) : 生母は潘淑媛
  5. 曹鑒(東武陽懐王) : 生母は朱淑媛
  6. 曹霖(東海定王) : 生母は仇昭儀、その次男は魏の5代皇帝・曹髦(高貴郷公)
  7. 曹礼(元城哀王) : 生母は徐姫
  8. 曹邕(邯鄲懐王) : 生母は蘇姫
  9. 曹貢(清河悼王) : 生母は張姫
  10. 曹儼(広平哀王) : 生母は宋姫

脚注[]

  1. 曹丕の同母妹は劉封劉備の子)の許婚候補だったという。
  2. 異母姉は清河長公主(夏侯楙夫人)。
  3. 現在の安徽省亳州市または、河南省永城市
  4. 曹丕の従曾祖父・曹鸞の曾孫という。
  5. 曹丕の従祖父・曹忠の孫という。
  6. 諡号は前孝武皇后、曹昻・曹鑠・清河長公主らの生母。同時に揚州刺史の劉馥と同族という。
  7. 諡号は後孝武皇后。曹操の嫡母の丁氏の「姪」という。
  8. 後年の曹丕は「建安初期に父は南方の荊州に遠征し、(南陽郡の)宛県にいたり、張繍が降伏するも後日に反乱を起こして、わたしの長兄の子修(曹昻)と従兄の安民らが戦死をしてしまった」と述べている(『典論自叙』)。
  9. 丁夫人の族子という。
  10. 片目が極端に小さいこと。あるいは片目(隻眼)のこと。
  11. 別名は竺。
  12. ある年に、曹丕は張繍を酒宴に招いた。場がお開きになり、張繡が帰ろうとしたときに、いきなり曹丕は張繡に対して「お前は俺の兄・子脩(曹昻)を殺害した。その恨みを晴らさずおられようか?!」と叫び、それを苦にした張繍は自決したという(『魏書』張繍伝が引用する『魏略』)。
  13. 事実、卞氏は息子・曹丕が41歳で逝去すると、嘆き悲しむ様子は皆無で哭礼の弔いさえもしなかったという(『世説新語』賢媛篇)。
  14. 曹植は221年に臨甾侯から安郷侯に格下げされ、鄄城王~雍丘王と毎年転封されて、最終的には陳王となり42歳で逝去した。
  15. 曹丕の従父、または大族父でもある。
  16. 孟達の項目を参照のこと。
  17. 魏からは献帝と諡された。
  18. 現在の湖南省衡陽市常寧県新平彝族タイ族自治区
  19. 曹丕は画家に命じて、于禁が関羽に対して無様に降伏した図を描かせて、これを見た于禁は屈辱に満ちて憤死したという。
  20. 『魏書』朱建平伝
  21. 諸葛亮の異母兄か従兄。
  22. 孫権の親族ではない。
  23. 異説では、曹彰は曹丕が派遣した使者が持参した毒棗を食べたため毒殺されたのだという(『世説新語』尤悔篇)。
  24. 曹真の妹。
  25. 側室の非業の死を聞いた夏侯尚は非常に悲しみ、その墓を掘り起こして亡き側室を恋慕した。これを聞いた文帝は「杜襲の言葉は当然であった」と怒って言ったが、前言を撤回し後悔したので、元通り夏侯尚を厚遇した。225年に夏侯尚は重病となり間もなく逝去した。
  26. 鮑勲とも、父・曹操の盟友である鮑信の子。
  27. 甄夫人が産んだ子で、袁煕(袁紹の次子)の子とする説もある。
  28. 『魏略』
  29. 学府詩と呼ぶ。
  30. 曹植著『仲雍哀辞』
  31. 元本』(『元大徳九路本十七史』)

関連項目[]

先代:(曹操曹魏初代皇帝220年 - 226年次代:曹叡


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