曹鸞

ページ名:曹鸞

霊帝に諌言して処刑された老齢の曹鸞

曹鸞(そうらん、87年 - 176年)は、後漢末の人物。字は伯興。曹萌(曹節)の長男で、曹褒(仲興)・曹鼎①(叔興)・曹騰(季興[1])・曹勛[2](幼興/稚興)の兄、曹瑜の従兄、太祖武帝曹操の養大伯父で従祖父でもある[3]

子は呉郡太守の曹鼎②、孫は豫州刺史の曹水(曹遂)、曾孫は魏の大司馬の曹休である。後裔に北魏(代魏)[4]の司徒記室・曹世表[5]。『三国志』には登場しない。

概要[]

沛郡譙県[6]の人で、若くして孝廉[7]に推挙されて、郎中[8]となった。

その後も要職を歴任し、最終官職である永昌郡太守となった。数年後に高齢のために隠居して、時折に参朝することがあった。

176年夏閏5月に度重なる『第一次・二次の党錮の獄』で党錮の禁を受けた清廉派の党人を釈放するために「陛下は今すぐに党人禁錮を緩めるべきです!」と、年老いた曹鸞は霊帝劉宏)に辛辣に諌言をした。これを聞いて激怒した霊帝は司隸校尉と益州刺史に命じて曹鸞を逮捕投獄し、槐里獄にて過酷な拷問を受けさせた挙句に、数日後に市場で処刑して晒しものにした。齢90だったという。

その後、霊帝は「(清廉派の)党人の門生・故吏・父兄子弟のうち官職に就いている者については、みな免官して禁錮[9]せよ」という詔命を出して、曹鸞の諌言を一切無視した[10]

子の曹鼎②も父に連坐されて、処刑された。孫の曹水は官職を免官されて、郷里に帰るも同族の曹家を巻き込まないように、故郷を出奔して数年後に亡くなった。

このとき曹水の子の曹休は10歳前後であり、ひとりの食客とともに亡父の遺体が入った棺をかついで丁重に埋葬した。葬儀をすませた曹休は生母を連れて長江を渡り、祖父の任地だった呉郡に向かって数年間、そこに住んだ。

189年に曹休の族父・曹操が挙兵すると成長した曹休は姓名を変えて、荊州を経由して郷里に帰って、曹操に目通りした。曹操は「この子はわが一族の千里の駒である」と褒め称えて、3男の曹丕太宗文帝)とともに寝食をともにした。曹操は曹休の曾祖父・曹鸞と祖父・曹鼎②の非業の死を憐れんだのである。曹休は曹操の子の世代で最年長だったので、曹丕らに頼りにされていたという。

ある日、青少年の曹休は呉郡の官舎に通りかかり、下馬して長椅子に座って壁にかかったかつて呉軍太守だった祖父である曹鼎②の肖像画を見た。すると曹休は長椅子から降りて祖父の肖像画に拝礼し、(前述のように曾祖父の曹鸞に連坐されて処刑された事項を思い起こして)思わず涙を流したという[11]

脚注[]

  1. 諡号は高帝
  2. または曹勳。曹洪の父とされる。
  3. 元本』(『元大徳九路本十七史』、元の大徳10年に池州路儒学によって刊行された『三国志』関連文献書)より。
  4. トルコ系鮮卑拓跋部の王朝。
  5. 曹慶の子。
  6. 現在の安徽省亳州市または、河南省永城市
  7. または茂才。
  8. 宮中侍従官のこと。
  9. 投獄のこと。
  10. 『後漢書』霊帝紀
  11. 魏書』または『列書』より。

関連項目[]



特に記載のない限り、コミュニティのコンテンツはCC BY-SAライセンスの下で利用可能です。

シェアボタン: このページをSNSに投稿するのに便利です。


最近更新されたページ

左メニュー

左メニューサンプル左メニューはヘッダーメニューの【編集】>【左メニューを編集する】をクリックすると編集できます。ご自由に編集してください。掲示板雑談・質問・相談掲示板更新履歴最近のコメントカウン...

2ちゃんねる_(2ch.net)

曖昧さ回避この項目では、1999年設立2ちゃんねる(2ch.net)について記述しています。2014年4月にひろゆきが開設したもうひとつの2ちゃんねるについては「2ちゃんねる (2ch.sc)」をご覧...

2ちゃんねる

2ちゃんねる(に - )とは、日本最大の大手掲示板。約2つほど存在する。2ちゃんねる (2ch.net) : 1999年5月30日に、あめぞう型掲示板を乗っ取ったひろゆきによって、設立された掲示板。現...

黄皓

黄皓(こうこう)とは、中国の人物。約2名ほど存在する。黄皓 (宦官) : 蜀漢(蜀)の宦官。後主(懐帝)の劉禅に信頼されて、中常侍に任命された。この権力を利用して、皇弟の魯王の劉永と上将軍の姜維と対立...

黄忠

“矍鑠なるかなこの翁は”と謳われた黄忠黄忠(こうちゅう、? - 220年)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の部将で、字は漢升。子は黄叙(黄敍)、他に孫娘[1](後述)がいたという。『三国志演義』では...

黄奎

黄奎像黄奎(こうけい、170年/171年? - 212年5月)は、『三国志』に登場する後漢末の人物。字は宗文。黄香の玄孫、黄瓊の曾孫、黄琼の孫、黄琬の子、黄某の父、荊州牧の劉表配下の江夏郡太守の黄祖の...

麻生氏_(筑前国)

曖昧さ回避この項目では、豊前国の氏族について記述しています。その他の氏族については「麻生氏」をご覧ください。麻生氏(あそうし)とは、筑前国・豊前国の氏族。約2系名ほど存在する。筑前国遠賀郡麻生郷[1]...

麻生氏

麻生氏(あそうし)とは、日本の氏族。約幾多かの系統が存在する。麻生氏 (常陸国) : 常陸麻生氏とも呼ばれる。桓武平氏繁盛流大掾氏(常陸平氏)一門の常陸行方氏の庶家で、行方宗幹の3男・家幹(景幹)を祖...

鹿島氏

鹿島氏(かしまし)とは、日本における常陸国鹿島郡鹿島郷[1]の氏族。約3系統が存在する。鹿嶋氏とも呼ばれる。鹿島家 : 崇光源氏流伏見家一門の山階家[2]の庶家。山階菊麿の子の鹿島萩麿[3]が設立した...

鷹司家_(藤原氏)

曖昧さ回避この項目では、藤原北家について記述しています。その他の氏族については「鷹司家 (源氏)」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、藤原北家一門で、約2系統が存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1...

鷹司家_(源氏)

曖昧さ回避この項目では、源姓一門について記述しています。その他の氏族については「鷹司家 (藤原氏)」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、源氏一門。約2系統が存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1]を...

鷹司家

曖昧さ回避この項目では、公家の家系について記述しています。その他の氏族については「鷹司氏」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、日本の氏族。約2系統ほど存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1]を拠点と...

鷲尾氏

鷲尾氏(わしおし)とは、日本の氏族。約3系統がある。鷲尾家 : 藤原北家魚名流四条家の庶家。同族に山科家[1]・西大路家[2]・櫛笥家[3]があった。鷲尾氏 (備後国) : 備後鷲尾氏とも呼ばれる。源...

鳩時計

ドイツ南西部のシュヴァルツヴァルトにある鳩時計専門店鳩時計(はとどけい、独語:Kuckucksuhr、英語:Cuckoo clock)とは、ドイツの壁掛け時計の一種で「ハト時計」・「カッコウ時計」・「...

鳥山氏

鳥山氏の家紋①(大中黒一つ引き)大井田氏の家紋②(二つ引き両)鳥山氏(とりやまし)は、新田氏(上野源氏)流源姓里見氏一門。上野国新田郡鳥山郷[1]を拠点とした。目次1 概要2 歴代当主2.1 親成系2...

魏書

魏書(ぎしょ)とは、中国の史書。幾多かある。『三国志』の魏(曹魏)の曹操を中心とした史書。『三国志』時代以前の後漢末の王沈の著書(現存せず、『三国志』の注釈の中に断片的に残されているのみである)。『北...

魏延

甘粛省隴南市礼県祁山鎮に存在する魏延像魏延(ぎえん、? - 234年)は、『三国志』登場する蜀漢(蜀)の部将。字は文長。目次1 概要2 その他のエピソード3 魏延の隠された事項4 脚注5 関連項目概要...

魏勃

魏延の遠祖の魏勃指揮を執る魏勃魏勃(ぎぼつ、生没年不詳)は、前漢初期の部将。蜀漢(蜀)の部将の魏延の遠祖と伝わる[1]。 概要[]彼の出身地は不詳であるが、父が鼓琴の名手で、彼は秦の咸陽に赴いて、始皇...

魏(ぎ)とは、元来は都市国家に属し、現在の今日の山西省運城市芮城県に該当される。戦国時代に領域国家に変貌した。幾多の国家(王朝)が存在する。魏 (春秋) : 別称は「微」。姓は好。殷(商)の微子堅(微...

高間慎一

高間 慎一(たかま しんいち、1978年9月19日 - )は、日本の実業家。大学1年の18歳で会社の起業をしたメンバーシップ系のワイン&ダイニング レストラン「Wabi-Sabi」の創業者であり、マー...