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テンプレート:基礎情報 会社松竹株式会社(しょうちく、英称:SHOCHIKU Co., Ltd.)は、日本の映画・演劇の制作・興行・配給を手掛ける会社。歌舞伎の興行については、現在そのほとんどを手がける。映画会社としては大手5社の一角を占める。創業は1895年で、設立は1920年11月8日(帝国活動写真株式会社の設立日)である。
元来は演劇興行。現在も歌舞伎を主に新派、松竹新喜劇も手掛ける。かつては、文楽(人形浄瑠璃)や歌劇(SKD…松竹歌劇団、OSK…大阪松竹歌劇団)、演芸(浅草松竹演芸場、道頓堀角座、神戸松竹座等)から相撲興行やプロ野球(セ・リーグ松竹ロビンス)、ボウリング、アイススケートリンクの運営等幅広い活動を行い、一時は松竹交響楽団なる本格的なオーケストラまで所有していた。
近年は創立100年事業の一貫として1995年に松竹大船撮影所の敷地内に「鎌倉シネマワールド」なるテーマパークを開業させたが、不入りでわずか3年で閉鎖に至った。
メディア対策として、東宝や大映(現・角川映画)等と共にフジテレビの設立に参加(1959年開局)。なお、現在はフジテレビ株式の殆どを放出している反面、松竹大株主の10位以内に東京放送(TBS)の名が連なるなど放送局との関係に変化が見られる。
一方では通信衛星を利用した自社製作の番組(映画、テレビドラマ、劇場中継等)を中心に流す「衛星劇場」「歌舞伎チャンネル」等を立ち上げ、現在に至る。
2005年、創業110年を記念した女優発掘オーディション松竹STAR GATEを歌舞伎座で開催。
ファイル:Shochiku (headquarters).jpg東劇ビル。松竹本社及び関東支社が入居(東京都中央区築地)
ファイル:Minamiza Kyoto.JPG南座(京都四条川端南東角)
ファイル:大阪松竹座.jpg大阪松竹座(大阪道頓堀)
1920年(大正9年)11月1日、松竹キネマ合名社創業と同時に、東京歌舞伎座にて自社作品との併映の形で洋画の興行を開始したのを嚆矢とする。松竹キネマ合名社内には外国部が設置され、洋画の買い付けにあたった。同年12月31日、銀座金春館を洋画専門劇場として開場。生駒雷遊や徳川夢声といった一流活弁士を出演させた。翌1921年からは浅草帝国館を松竹洋画の拠点と定めたが、大作の一部は歌舞伎座や明治座でも興行を行った。
一方、関西松竹合名社の手により、1923年5月17日には大阪道頓堀に大阪松竹座が完成。洋画興行と松竹楽劇部(のちのOSK日本歌劇団)による音楽舞踊のアトラクションを採り入れ話題となった。9月1日の関東大震災により、松竹キネマ合名社の外国部は大阪に移転。浅草帝国館は復興し、引き続き松竹洋画の本拠としたが、外国映画社の日本支店の多くは京阪神地区に移転していたため、事実上大阪松竹座が基幹劇場となっていた。
1924年、関西松竹合名社は国産映画の量産に力を入れることになり、洋画の輸入買付を手控える。以降同社は外国映画社から提供を受けた作品を配給する事に専念した(フリー・ブッキング制)。
1924年6月、松竹キネマ合名社は新宿武蔵野館と提携。1926年には新宿武蔵野館に代わり目黒キネマが封切館に加わったが、やがて自社作品の拡充のため外国部を廃止して洋画興行および配給から撤退した。
一方、関西松竹合名社は大阪松竹座の成功に伴い、1924年12月31日に京都新京極の明治座を京都松竹座に改称して洋画興行を開始、翌1927年には神戸新開地の神戸松竹劇場を神戸松竹座に改称し、また名古屋末広座を買収して名古屋松竹座とするなど松竹座チェーンが形成された。
1928年8月、浅草松竹座が開業し、翌1929年9月には四谷大木戸の山手劇場を新宿松竹座と改称。松竹座チェーンは東京に進出。また大阪松竹座・浅草松竹座にそれぞれ輸入部を設け、洋画の購入を再開した。
1931年5月、松竹座チェーンのライバルであったパラマウント映画チェーンと合併することとなり、松竹パ社興行社を設立。浅草大勝館・新宿松竹座・有楽町邦楽座・新宿武蔵野館・浅草電氣館・大阪松竹座・京都松竹座・神戸松竹座・大阪公楽座を直営劇場として洋画興行を行なったが、これに11月から日比谷帝国劇場が加わった。
なお、トーキーと字幕の発達により、活弁士の解雇が相次いだ。
1933年5月、パラマウント側が本来の映画配給に専念すべく、興行も含めた松竹パ社興行社から撤退。6月からSYコンパニー(松竹洋画興行部)が発足した。浅草常磐座・新宿昭和館が新たに加わり、都内の配給網は2系統になった。この後も契約館を増やし、運営母体も1936年4月には松竹興行から独立して松竹洋画興行社となった。
しかしながら、1937年4月、松竹キネマが松竹興行を合併し、現在の松竹株式会社となったため、松竹洋画興行社も合併に参加して、松竹株式会社の洋画部になった。さらに翌1938年洋画の新規輸入が許可制になったため、輸入件数が減少し、洋画部は映画部洋画課に、翌1939年には映画部洋画興行係に機構が縮小されていった。
1940年帝国劇場を失い、洋画購入件数も減少するが、却って希少価値を生んだため興行成績は良好であった。しかし1942年4月に戦時統制に伴う社団法人映画配給社が設立され、松竹の洋画興行はここで一旦終止符が打たれた。
1946年占領軍により設置されたセントラル映画社から、東宝と共に洋画興行を引き受けて復活。セントラル映画社との交渉がこじれ一旦打ち切られるが、翌1947年松竹保善社の名で再契約し、浅草ロキシー映画劇場で洋画興行を行い、同館内にロキシー興行社を設置して洋画興行を復活させた。1949年3月、接収されていた有楽町邦楽座がピカデリー劇場として返還されたのを機に、ロキシー興行社を解消して松竹本社内に洋画係を復活。1950年に洋画配給課が設置され、1927年以来(※)の洋画配給を復活させた(※松竹キネマ時代から数える)。
1951年11月、ユナイテッド・アーティスツ社(ユナイト映画)と提携。興行・配給成績共に洋画界の覇権を握る。配給部門は1955年に外画部、1958年に外国部に改められると共に業容を拡大した。
1959年ユナイト社との提携を解消。別途セレクト・インターナショナル映画社と合弁で松竹セレクト国際映画を設立して、洋画配給部門を独立させた。しかし、翌1960年には基幹劇場の築地・松竹セントラル劇場等数館が日本映画の上映館に転換。「SYチェーン」は事実上崩壊し、全国をカバーする洋画興行はすべて東宝が握る事になった。
1962年松竹セレクト国際映画はセレクト側が撤退したため、松竹国際映画に改称。しかしながら依然として洋画配給としては弱体であったため、映配株式会社と合併することとなり、10月松竹映配が発足。一方の興行チェーンも東急レクリエーションと提携することで独自の興行チェーンを復活。9月に「松竹・東急チェーン」(STチェーン)が発足した。なお、東急との関係で東映洋画系もこれに含まれることがある。
一方、買付映画の不振により松竹映配の業績は悪化。1973年8月に解散することとなり、受け皿会社として9月に富士映画を発足。1983年松竹富士に改称したが、これも1999年合理化のため解散するなど、配給部門としては長期低迷が続いている。現在、松竹の洋画配給は本社映像本部が行っている。
松竹は経営参加を行ったフジテレビジョンを通じてテレビ進出を図るが、テレビ番組はそれよりも前に手掛けていた。初期はテレビ映画がメインであったが、大阪・毎日放送とスタジオドラマを共同製作していた例もある。なお、大阪地区では他に朝日放送と組んだ「道頓堀アワー」(角座から演芸中継)やよみうりテレビと組んだ「親バカ子バカ」等一連の寛美物のテレビドラマがあった。
アニメ・特撮[]※松竹がこの分野に本格的に参入したのは上掲の通り、つい近年のことである。しかしながら、特撮については劇場用映画として1967年に宇宙大怪獣ギララを僅か一本ながら製作している(この「ギララ」は「男はつらいよ 寅次郎真実一路」にも冒頭の寅次郎の夢シーンで登場する)。また、アニメーションへの参入は更に古く、1943年に松竹動画研究所を設立して「フクちゃんの奇襲」(原作・横山隆一)等戦時下にも拘わらず6作品を製作発表している。この松竹動画は日本アニメーション界の草分け的存在でもある。
ドラマ[]時代劇[]多くの歌舞伎俳優と専属契約を結んでおり、歌舞伎の上演と伝承に積極的に取り組んでいる。特に昭和期に東宝が歌舞伎公演から撤退して以降は、歌舞伎俳優の集約が進み歌舞伎界でも特に有力な存在となっている。歌舞伎座・南座・大阪松竹座など傘下の劇場で定期公演を行うほか、『松竹大歌舞伎』として全国巡業を実施し、国立劇場公演にも協力している。
テンプレート:Movie-stubde:Shōchikufr:Shôchikuit:Shochiku
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