登録日:2016/10/16 (日) 17:14:45
更新日:2024/01/29 Mon 11:04:32NEW!
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橘花(きっか)とは、かつて大日本帝国海軍が大戦末期に開発していたジェット航空機である。
本来「橘花」とはエンジンにネ12-Bを搭載したタイプのことで、実際に試作されたネ20を搭載したタイプは「橘花改」となり、試作機のみで終戦を迎えたので本来なら「試製橘花」、「試製橘花改」と表記するのが正しいのだが、この項目では便宜上全て「橘花」と表記する。
基本性能諸元(試製橘花改)
分類:特殊攻撃機
設計:海軍航空技術廠
製造:中島飛行機
全長: 9.25m
全幅:10.00m
全高: 3.05m
翼面積:13.20㎡
自重:2,300kg
全備重量:3,500㎏
発動機:ネ20 軸流式ターボジェット(推力475kg) 2基
最高速度:677km/h(高度6,000m)
670km/h(高度10,000m)
上昇限度:10,600m
上昇力:高度10,000m/26分
航続距離:680km
乗員:1名
武装:五式30mm固定機銃一型乙 2挺*1
爆装:500kg爆弾or800kg爆弾 1発
総生産機数:攻撃機型の完成2機及び、戦闘機型、偵察機型・練習型の未完成が18~25機
開発経緯
1944年6月末。2年の潜伏期を経てヤツは敗戦の足音迫るドイツに現れた。
メッサーシュミットMe262。シュヴァルベ(燕)やシュトゥルムフォーゲル(ミズナギドリ)と呼ばれたそれは世界初の実用的なジェット戦闘機として、制空権の優位を確立しつつあった連合国軍の最後の脅威となった。
また、Me262から遅れること数週間、イギリスが連合国軍初の実用ジェット戦闘機グロスター ミーティアを実戦投入した。
一方その頃、遠く離れた同盟国・日本ではマリアナ沖海戦で空母機動部隊が壊滅、次のレイテ沖海戦で連合艦隊そのものも死に体となり、制海権も制空権も失ったことで本土空襲が本格化していた。
おまけに潜水艦の通商破壊に為す術がない日本海軍の燃料事情は悪化の一途を辿るしかなかった。
そこで軍が目を付けたのが、当時に次世代推進器とされていたジェットエンジンだった。
ジェットエンジン*2はレシプロエンジンのそれよりも少ない部品で高性能、尚且つ粗悪な燃料や潤滑油でも稼働する。オマケにジェットの上昇力なら高高度から襲来する爆撃機の迎撃に適している。
これこそ、まさしく日本の戦争末期の戦況に適した、言わば救世主だったのだ。
そうと決まれば話は早い。「皇国二号兵器」と銘打たれた決戦兵器の開発が始まった。
さて、こうして開発が始まったジェットエンジンだが、一応純国産の「ネ12」が存在した。
だがこれは実用的とは言えず、Me262を実戦投入していたドイツを頼り、これを承諾したドイツとは哨戒艇用のディーゼルエンジンと天然資源との交換という形でMe262の技術資料が潜水艦で送られることとなった。
ところが、資料を載せてシンガポールから呉に向っていた伊号29潜水艦は暗号を解読していた米軍によって撃沈、資料と実物も海の藻屑と消えてしまった。
不幸中の幸いに空路で日本まで戻っていた巌谷英一中佐が持ち出していた資料の一部は無事日本に到着していたものの、残ったのはロケット戦闘機メッサーシュミットMe163コメート関係の設計説明書、寸法すら書かれていないBMW003の写真と整備マニュアル、ユンカースJumo004Bの実物見学記録のみ。
肝心の機体やエンジンの設計図など重要な部分の資料は失われてしまっていた。
他にもU-1224、伊52、U-234なども日独間の輸送を図ったが、どれも撃沈か投降するかして失敗に終わった。
しかし、残されたBMW003の図面はネ12-Bの失敗で自信を失いかけていた種子島時休率いる開発スタッフを大いに喜ばせた。
今までの研究の方向性が間違っていなかったことが証明されたのである。また、ドイツ駐在武官からも暗号通信で断片的だが技術内容を受けることも出来た。
士気を高めた開発陣は、ネ12を放棄し、機体はほぼ新規設計で、エンジンはBMW003を参考にしたネ20を開発することを決定。
かくして、日本初となるジェット機の開発は開始されたのであった。
設計と特徴
出自を省みれば和製Me262ということになるが、レイアウトこそ同じだがその大きさも構造も、実際には殆ど別物と言っていい。
まあ、設計図が直接手に入らなかったので仕方ない。
さて、機体そのものはMe262よりも一回り小型で機体前部こそ同じおむすび型断面だが後部から尾翼にかけては楕円形断面であり、垂直尾翼もシンプルなものに変更されている。
また、主翼も原型機の特徴的な後退翼ではなく直線テーパー翼が採用され、エンジンのすぐ外側で折り畳めるようになっている。*3
これは国産エンジンの出力不足への懸念と時間的制約、資材節約の面から可能な限りシンプルかつ小さくする必要があった為。
実際搭載予定だったネ12はユンカースJumo004Bの1/3ほどの推進力しかなく、試作機は主脚とブレーキが零戦からの、前車輪は銀河の尾輪からと既存部品からの流用品である。
機体の素材に関してもジュラルミンなどの軽合金をなるべく削減、代用品としてブリキやマンガン鋼といった鋼板、鋼材が多用された。
結果的にMe262よりも小型軽量で簡素な橘花は零戦の半分の生産工程で製作することが可能だった。
資源も工業力も尽き果てた日本でこれは大きなアドバンテージとなっただろう。(大量生産出来るとは言っていない)
あと、上で空襲にはジェット機がどーたら言ったが、この橘花は対艦攻撃が主任務の陸上攻撃機である。
何故かと言うと陸軍もMe262を参考にした“火龍”ことキ201を開発していて、そしてこれが地上攻撃だけでなくB-29の迎撃など防空戦も主眼に入れた戦闘襲撃機だったせいだが、独のMe262の防空戦の戦果で考えを変えたか、二次試作機以降は計画を変更、戦闘機・練習機・偵察機型などのバリエーションも製作された。
ただし、第二次試作機の存在が明らかになったのは近年のことで、それまでは実際に完成した二機しか生産されていないとされていた。
なお、特攻機を意味する“花”の名を持つのは、戦争末期に連合艦隊を失い、狂気に陥った日本海軍においては、特攻機という名目でないと制作許可が降りなかったという空技廠の大尉の証言が残されている。
攻撃力
搭載が予定されていた爆弾は500kg及びに800kg爆弾を胴体下に1発。
一説によれば軍部の要請で「三式二五番八号爆弾」または「四式五〇番八号爆弾」という反跳爆弾の搭載も予定されていたと言われている。
当初の橘花には固定兵装が無かったが、計画が変更された第二次試作機からは「五式30mm固定機銃一型乙」が胴体前部に装備された。
これは原型機であるMe262のMK108 30mm機関砲に比べて発射速度で劣るが重さと初速で勝り、大型機に対して十分な威力がある。
ただし、Me262が30mm機関砲を4挺装備しているのに対して橘花は半分の2挺であり、装弾数に至ってはMe262の360発に対して僅か100発しかなかった
(日本軍には名人芸で機銃を当てろという伝統が航空隊創立時からあるのと、機体強度が原型機より低いという点も関係している)
防御力
当初は対艦攻撃を主任務とした都合上、防弾装備は施されていた。
座席の床と後背面には12mmの防弾鋼板、燃料タンクは内包式防漏タンク、キャノピー正面の防弾ガラスは厚さ55mmとなっているらしい。
戦闘機に転用されたのは、この装備があったからであろう。
飛行性能
正直なところ、Me262の劣化コピーであった。
何せ原型の870km/hに対して橘花は677km/h。しかもこの数値はカタログスペックの数値らしく、実際にはもっと遅かったとの事。
兎も角、アメリカ軍最優秀戦闘機と評されたP-51など大戦末期の強力なレシプロ機なら易々と追いつける速度しか出なかったのは確かだったが、当事者は「あくまで次世代エンジン完成後の機体が本命」と考えていたようであり、実際に完成した機体は通過点の習作としていた事が伺える。
一応計画の上では戦闘機型で814km/h(高度8,000m)を目指していたようだが、これも結局のところ絵に描いた餅でしかなかった。
同時期のジェット機を並べて単純な最高速を比較すると
◆中島 試製橘花改 (日本)
推力:475kg×2
速度:677km/h(高度6,000m)
主武装:30mm機関砲×2
◆メッサーシュミット Me262シュヴァルベA-1a (ドイツ。1944年8月から配備開始)
推力:900kg×2
速度:870km/h(高度6,000m)
主武装:30mm機関砲×4
◆グロスター ミーティアF.3 (イギリス。1944年12月から配備開始)
推力:920kg×2
速度:837km/h(高度3,050m)
主武装:20mm機関砲×4
◆ロッキード P-80A(F-80A) シューティングスター (アメリカ。配備は間に合わなかったが1945年2月から納入開始)
推力:1734kg×1
速度:882km/h(海面高度)
主武装:12.7mm機関銃×4
となる。
もっとも、本当に並べただけなのであまり意味のある比較ではない。もっと詳しいことは自分で調べてみよう。
その他の性能に関しては不明な点が多い。
何分本格的に試験飛行を行う前に終戦を迎えたので……
というか連合軍側にはレシプロ機でもP-51HやスピットファイアMk.21のように高度6000m以上でも安定して700km/h超を出せる機体がいることを考えると、仮に量産に成功していたとしても心許ない性能ではあった。
詳しくは後述するが、設計段階だった改良型エンジン「ネ20改」を搭載できれば速度は1割以上、燃費は2割以上向上すると考えられていたが、それでもなおライバルたちに対しては見劣りする数値である。
発動機(エンジン)
空技廠の永野治少佐らが中心となって開発されていた。
「ネ式」とは「燃焼噴射推進器」の略称で、当初研究が進められていたエンジンはネ12-Bという物。
そして、性能不足だったネ12-Bのに代わって搭載されることになったのが、ネ20だった。
このネ20はこれまでにネ12の開発経験にBMW003の図面を参考に、軸流コンプレッサーを8段備えた軸流式ターボジェットエンジンである。
しかし、耐熱合金の枯渇などでまともな耐熱素材がなかったことや、初めてのジェットエンジンである構造の未熟さ、当時の工作精度の低さから稼働時間は数十時間と同時期の各国ジェットエンジンよりも短かった。
性能もBMW003の約800kg、Jumo004の約900kgに対してネ20は475kgとおおよそ半分ちょい程度でしかなく、この低出力によって飛行速度が大きく劣るのは上で述べた通りだが、飛ばすことにさえも不十分で離陸にはRATO(補助推進ロケット)が必要だった。
まだまだ改良は必須だっただろう。実際に、終戦によって試作には至らなかったがネ20改という改良型エンジンの設計も行われた。
こちらはコンプレッサーを効率化して段数を8から6に減らし、より小型軽量化かつ推力を20%強化したもので、
◆最高速度677km/h → 785km/h
◆上昇力10,000m/26分 → 10,000m/20分
◆航続距離680km → 843km
などなど、ネ20と比較して速度15%増し、燃費24%向上という結果が期待出来た。
これは各国のジェットエンジンと比較してもそれほど見劣りしない性能であり、そもそもの機体が軽量なことを考えれば十分な数値を出しているといえる。また、より高推力のエンジンの開発も予定されていたとのこと。
ネ20改の設計図は長らく見つかっていなかったが、2001年10月に国立科学博物館で500枚に及ぶ完全な設計図が発見された。
その他
橘花には海軍略符号*4が存在しない、または不明とされる。
一説にはJ9Y、J9N、J10N、M7N、M8N、戦闘機型ならM7N-J、M8N-Jではないかと言われているが、いずれも模型に付けられたものや考察されたもので公式な物ではない。
ただ、「終戦時に海軍略符号の書かれた資料が焼かれた」、「米軍の調査にJ9Nと口頭で答えた」などの証言があり、一概に否定することも出来ないらしい。
決定的な証拠が無い以上、今となっては真相は闇の中である。
『海軍の軍備並びに戦備の全貌. 其の六(敗退に伴う戦備並びに特攻戦備)』の記載によれば、無線機として後期の零戦などに搭載された三式一號無線電話機が「受話機のみ」とあり、無線機の搭載が予定されていたことがわかる。
ただし、現在に伝わる橘花試作1号機の写真からはアンテナが確認出来ず、また外部の情報が伝わらなかった為に事故を起こしているので試作機には積まれていなかったようだ。
総合
やはりMe262と比べるとどうしても見劣りする感じは否めない。
何せ最高速度が677km/hでは大戦末期のレシプロ戦闘機なら普通に追いつけるスピードなのだ。
本命の改良型が開発に成功したとしても、朝鮮戦争時のレシプロ最終世代であれば、なんとか追いつける程度である。
それでもジェット機に期待されたのは、ひとえにガソリン以外でも飛べるという点が日本の燃料事情にマッチしていたからに他ならなかった。
しかし完成した橘花は試作機、ネ20改など更なるエンジンの研究や派生型の開発も進んでいたので、もう少し研究が続いていたらどのようになっていたかは誰にもわからないと言えるだろう。
そもそものMe262だって前例がないとは言え初飛行から実戦投入まで2年掛かっている訳だし。
惜しむべきはこれ以上研究開発する時間も、仮により実戦的な機体が完成したとしても、量産するだけの力が日本に残っていなかったという点だろう。
活躍
橘花の開発が始まったのは1944年9月。空襲を避けて疎開したりしつつも1945年6月には試作機1号機が完成した。
開発開始から僅か1年未満である。零戦の後継機にはあれほど苦労したのに…
そして1945年8月7日。橘花は燃料は1/7のみ、車輪は出したままと万全の状態とは言い難かったが、高岡迪少佐の手で見事初飛行を成功させる。
飛行時間はたったの11分。短い時間ではあったが、それは確かに日本航空史が新しい時代へと歩みを進めた瞬間だった。
2回目の飛行試験は8月12日に万全の状態で行ったものの、高岡少佐がRATOの加速が切れたのを異常と勘違いからオーバーラン事故を起こしてしまう。
零戦のブレーキを流用したのが災いして止まり切れず、砂浜に突っ込んだ橘花は小破、それから3日後の8月15日。橘花試作1号機の修理は終わらず、また試作2号機も完成間近で日本は終戦を迎えたのであった。
開発の指揮を執っていた種子島時休技術大佐*5は終戦時にこう述べている。
橘花は1回だけの飛行で消えていくが、将来ジェット機の時代はやって来る。
やがてそれは現実となり、朝鮮戦争を期にレシプロ機はジェット戦闘機に駆逐されていった。
敗戦によって日の目を見ることがなかったネ20だが、戦後永野氏や種子島氏ら開発スタッフは火力発電用のガスタービンや戦後日本最初のジェット練習機T-1用の国産エンジン開発に関わり、苦難の末に戦後初の国産ジェットエンジン「J3」を完成させた。
こうしてネ20の遺志はJ3達後輩へと受け継がれたのである。
バリエーション
橘花には陸上攻撃機型以外にも第二次試作機として五式30mm機銃を積んだ戦闘機型と複座偵察機型、非武装の複座練習機型といった派生型も検討され、実際に試作が進められていた。
だが、先にも述べたように完成したのは陸上攻撃型の2機のみで、これらの派生型は完成直前に終戦を迎えた為に日の目を見ることはなかった。
その後完成した試作機2機と未完成の戦闘機型、複座偵察機型、複座練習機型の計5機はアメリカ軍に接収されている。
ちなみに陸攻型以外の存在が知られたのは近年に入ってからである。
戦後の橘花
アメリカ軍が接収した橘花は本国へと送られ、様々なテストが行われたという。
現在はスミソニアン航空宇宙博物館のスティーブン・F・ウドヴァーヘイジー・センターにある復元ハンガーに展示されている。
この展示されている橘花は先述の5機から少しずつパーツを採り、復元されたらしい。
ネ20もまた敗戦時に殆どが破壊されたが、僅かに残されたものも全てアメリカ軍に接収・渡米していた。
その内の1基であるノースロップ工科大学が保管していた物が1973年の第4回国際航空宇宙ショーの為日本に貸し出されたのだが、開発者であった永野氏が
「元々の所有権は自分たちにある!ネ20は俺の息子だ!!」
と怒り心頭、返還に反対した。
だが、ノースロップ大学側の好意で「永久無償貸与」の名目で日本に帰国する運びとなった。
現在そのネ20はIHI(旧社名:石川島播磨重工業株式会社)の昭島事業所で保管され、4年に1度開催される国際航空宇宙展に展示される。
また、別の1基がスミソニアン航空宇宙博物館別館にも展示されている。
陸軍のジェット戦闘機「キ201 火龍」
◆諸元(計画値)
分類:特殊防空戦闘機/戦闘襲撃機
設計:中島飛行機
全長:11.50m
全幅:13.70m
全高: 4.05m
翼面積:25.00㎡
全備重量:7,000 kg
発動機:ネ130 軸流式ターボジェット(静止推力908kg) 2基
or
ネ230 軸流式ターボジェット(静止推力885kg) 2基
最大速度:852km/h(高度10,000m)
上昇限度:12,000m
航続距離:980km
乗員:1名
武装:ホ5 二式20mm固定機関砲 2挺(携行弾数各200発搭載)
ホ155-II 30mm機関砲 2挺(携行弾数各120発搭載)
爆装:500kg爆弾or800kg爆弾 1発
タ弾(空対空・空対地クラスター爆弾)
総生産機数:なし
海軍が橘花を開発していた頃、陸軍もまた燃料事情の悪化と日々高性能化していく連合国軍機に悩まされ、Me262を参考にしたジェット機の開発を決定した。
それがキ201、通称“火龍”である。
Me262より小型でほぼ独自開発だった橘花のそれに比べ、火龍は後退翼やおむすび型の胴体などより原型機に近い形状だが、最初から戦闘機としてだけではなく爆撃機としての機能を盛り込んで設計された為、より大型の機体として設計されている。
搭載するエンジンはBMW003を参考にした石川島飛行機製作所製の“ネ130”と中島飛行機・日立航空機共同開発の“ネ230”の2タイプが用意されていた。
また、開発当初の橘花が半ば特攻を視野に入れた対艦攻撃機だったのに対し、火龍は最初からB-29を迎撃する防空戦闘機と本土に襲来する連合国軍の上陸舟艇及び地上部隊への襲撃を目的とした襲撃機を兼ねた戦闘襲撃機として開発されているのも特徴。
1945年1月に開発を始めて6月には設計が完了、翌年3月までに18機の生産が予定されていたが、1機も完成しない内に終戦を迎えた。
ネ130開発に関わった技術将校らは玉音放送の後も徹底抗戦を主張して基地を占拠、民間スタッフも無断で開発を続けていたが、混乱のさなかでネ130は壊れてしまったそうな。*6
そして終戦から70年経った2015年6月、国際基督教大学の資材置き場で火龍のエンジンの一部とみられる部品が発見されていたことが2017年11月24日になって発表された。
余談
橘花は特攻機?
「特殊攻撃機」というカテゴリーと特攻機を示す機体名の「花」から桜花のような特攻専用機を連装しがちだが、あくまで「特殊(ジェットエンジン)な攻撃機」という意味合い。
エンジン艤装を担当した渡辺進氏も「帰還を前提にしていた」と証言しているように、特攻機ではない。
…とも言えないのが実情である。
と言うのも橘花の開発予算は特攻機という名目で下りているのが当時の日本の状況であったからだ。
また、空技廠の角信朗大尉曰く
「この戦況じゃパイロットの養成は出来ないし、特攻機にしかならんよね(意訳)」
試験に立ち会った参謀曰く
「(帰ってくる必要がないので)30分飛べればいい」
とか明らかに開発側とは違って特攻作戦、またはそれに準じた作戦を考えていたようだ。
実際、橘花を扱う実働部隊として1945年7月1日に第七二四海軍航空隊(七二四空)が開隊されていたが、この部隊は飛行訓練すらまともに受けられなかった予科練生ばかりで、訓練機を飛ばすこともままならない状態だった。
そればかりか、10月には三沢半島に展開することを目標にしていた為に与えられた訓練時間は僅か3ヶ月しかなく、オマケにその訓練も「橘花は航続距離が短いから攻撃後に強行着陸して白兵戦」ということも考えて陸戦の訓練も詰め込んだ、只でさえ短い飛行訓練の時間を更に短くするものだった。
結局、開隊から半月後に終戦を迎えたので実戦を経験することはなかった。
「しなくてよかった」と言うべきかもしれない。
まぁ、時期が時期なので仕方ないと言えば仕方ないのだろうが、末期の日本海軍の狂気を匂わせる状況であった。
ただ意外と飛行性能が良くなりそうだったことで戦闘機型、偵察機型といった派生型の計画の立案と増産もされたので結局の所詳細は謎のままである。
蚕小屋の橘花
橘花の試作機が完成した場所はなんと農村の蚕小屋の中だった。
終戦ギリギリ前の開発だったので空襲を避ける為に疎開していたのだが、中島飛行機のルーツが養蚕小屋から始まったことを考えるとなかなか皮肉な場所であった。
創作での橘花
架空戦記やシミュレーションゲーム、SLGなど、WW2を題材にした作品にはそこそこ登場しているが知名度は低く、純粋な戦闘機の火龍にお株を奪われる事もある。
橘花が活躍する架空戦記では、『ジェット航空艦隊』(全5巻・副田護/著)が挙げられる。
同作品ではネ-30(推力1200kg超)2基とマウザー30mm機関砲4挺を搭載する艦上戦闘攻撃機で、空戦能力は震電改に劣るもののペイロードで上回り、水平爆撃時は80番(800kg)爆弾2発ないし150番(1500kg)爆弾1発、降下爆撃時は50番(500kg)爆弾3発、雷撃時は三式航空魚雷2発を搭載できた。
機体のサイズは史実と同様の全長9.3mないし全幅10mだが、全備重量はキ-201火龍並みの6~7トンに達していて、母艦運用ではRATO(艦発促進ロケット・推力2000kg超)の装着が前提になっている。
機関砲が2挺及び爆撃兵装は50番爆弾2発へ減じる代わりに電探を搭載した複座偵察機型の藤花、更にその派生型で四式二号射出機10型(スチーム・カタパルト)から発艦可能な水上機型も登場した。
また『激烈!帝国大戦』(全7巻・志茂田景樹/著)でも、烈風とともに主力艦上戦闘機に採用されて米独機を散々に打ち負かしている。
こちらは橘という機体名で、牛若丸という命名基準がよく判らないロケット弾も運用可能。
かの人気SLG『War Thunder』にも登場しているが、実装当初は“Kitsuka(キツーカ)”、修正後も“Kisuka(キスカ)”など何故かしばらく名前が間違えられたままだった。
後者に至ってはもはや航空機ではなく太平洋奇跡のアレになっている。
無論、現在は“Kikka(きっか)”に修正されている。
また、人気ブラウザゲーム『艦隊これくしょん -艦これ-』にも2015年12月に「ネ式エンジン」の名で先行実装され、特に使い道もなく1年間放置されていたが、2016年12月9日のアップデートで本実装された。
ネ式エンジンを持った状態で任務をこなすことで一部の空母でのみ運用可能な「橘花改」を入手出来る。
橘花改と同時実装された「噴式景雲改」は搭載すると航空攻撃(先制攻撃)の前にもう一回更なる先制攻撃の「噴式襲撃」が行われる。
ある程度の制空値を稼ぎながら噴式襲撃、航空戦、昼間砲撃戦の計3回(4回)攻撃を可能である。
噴式襲撃は同じ噴式機でしか迎撃出来ないので航空戦では有用だが、逆に対空砲火に対しては噴式襲撃と航空戦の両方で引っかかってしまうため、滅法弱い。
お前だよツ級。
しかしこの弱点は2019年3月22日のアップデートによって「敵対空射撃への回避力」が一部の熟練・ネームド機に追加されたことで一変。
一部の瑞雲と噴式機はこの回避力が強めに設定されているらしく、かなりの割合で被撃墜を避けられる。
近年では戦爆連合カットインの実装により、発動条件に含まれない噴式機の立場は狭くなったが、それでも噴式襲撃による独自の存在感を発揮している。
景雲が爆装重視なのに対して橘花改は制空値と爆装値のバランスが高いレベルで取れた戦闘爆撃機的存在*7となる。
また、噴式景雲改はネ式エンジンと改修素材に糸目を付けなければ実装直後から入手可能なのに対し、橘花改は時間のかかる遠征任務を複数こなさねばならず、最低でも合計100時間かかるものとなっている。長ぇって思うだろ?最初は200時間近く必要と思われていたんだぜ
関係者のその後
初飛行のテストパイロットを務めた高岡迪は戦後航空自衛隊発足で入隊し、岐阜基地の実験航空隊隊長になり初の国産ジェット練習機T-1の初飛行を担った。
その後空将補まで昇進するが司令として赴任中に隊員が亡命未遂事件を起こした責任を取り退官している。
種子島時休は戦後日産自動車に就職、その後盟友永野同じ石川島重工に技術研究所顧問として入社。
防衛大学校や東海大学にも教授として教鞭を振るった。
1987年に没するが奇しくも42年前に橘花が初飛行した時と同じ日であった。
永野治は職を転々とするも妻の死を機に「ジェットエンジン開発こそが自分の道」と決心、欧米のエンジン開発技術を取得、その間縁あって石川島重工(現在のIHI)に入社。
政府主導の石川島重工などが加わった日本ジェットエンジン株式会社(NJE)には研究科研究部長として就任。
しかし開発は難航し他の会社が撤退する中、石川島重工だけは最後まで残り続けた。
結局NJEは解散となったが石川島重工に戻った永野はGEと技術提携するなどジェットエンジン開発を諦めなかった。
この努力が実りT-1のエンジン「J3」開発に携わり実用化に成功、F-104やF-4などに使われた「J79」の量産化成功によって副社長にまで上り詰めた。
その後もIHIは国産機用のエンジン開発だけでなく輸入・ライセンス生産機のエンジン生産も担っている。
現在国内ジェットエンジンシェアはIHIが6割を占めており、かつて「お荷物事業部」と揶揄されたジェットエンジン事業がIHIの稼ぎ頭となったことは永野の功績といえる。
一方根っからの技術者で商売っ気がないことでも有名で、J79の量産化が予想よりも安く済んだ差額を防衛庁に返金した。
予算超過で請求することはあっても余った分は帳尻合わせしてしまうことが普通だったため防衛庁も前代未聞と驚いたという。
また全日空がボーイング727導入を決めエンジン製造は三菱に決まっていたが、営業マンが自社の工場を見せると一転してIHIに決定。
これに対し「技術を持っている所へ仕事を発注しないのが損、こちらから仕事を下さいと頭下げる必要はない」と言って営業マンを困らせたという。
ジェットエンジンを研究開発した方は追記・修正をお願いします。
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▷ コメント欄
- 日本は高級レシプロ機を研究するよりもジェットエンジンの方が向いてたってのが皮肉だよなぁ… 桜花22型のツ11なんかはアフターバーナー機構の原型みたいなものだったりするし、実機が完成しなかったけど梅花のエンジンなんかはパルスジェットエンジンだしな… 最初からジェットエンジンに力を入れてれば… -- 名無しさん (2016-10-16 23:22:33)
- ↑多分最終的に技術か資源か運用する人間のどれか、或いは全てが不足して悲惨な事になるから… -- 名無しさん (2016-10-17 21:17:16)
- なんにせよ、よくやったものだな -- 名無しさん (2016-10-18 20:30:25)
- 運動性も加速力も安定性も無い機体でどうやって爆撃するつもりだったんでしょ -- 名無しさん (2016-10-19 15:24:54)
- 空母運用のソースが知りたい -- 名無しさん (2016-10-19 16:44:30)
- 空母運用は、当時の連合艦隊参謀がマジで提案し、採用されてた。やけくso -- 名無しさん (2016-11-05 21:06:28)
- 続き。やけくその計画だったが、火龍も積むつもりだったらしい。 -- 名無しさん (2016-11-05 21:07:54)
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*2 当時はタービンロケットと呼ばれていたが、本項ではジェットエンジンで統一する
*3 折り畳み翼といえば艦載機だが、橘花の場合は狭い掩体壕に格納する為。
*4 零戦ならA6M~とかのアレ
*5 鉄砲伝来で知られる種子島氏の末裔。ちなみに彼は日本人で最初に実用的なガスタービンエンジンを見た人物でもある。
*6 軍の破壊命令やGHQの接収に対する偽装工作とも言われている
*7 制空値は驚きの12。烈風一一型や零戦53型(岩本隊)と同じだが、熟練度の補正は爆撃機と同じになるのでこの2機程航空戦に強くはない。
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