武田信玄(戦国武将) - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki
▽タグ一覧疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如しこの項目では戦国時代の人物としての武田信玄(武田晴信)について記述します。戦国BASARAの武将は武田信玄(戦国BASARA)を、また他のメディアでの武田信玄について、ここで記載するか、別
▽タグ一覧疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如しこの項目では戦国時代の人物としての武田信玄(武田晴信)について記述します。戦国BASARAの武将は武田信玄(戦国BASARA)を、また他のメディアでの武田信玄について、ここで記載するか、別
陸源氏/甲斐源氏)の人物。約4名ほど存在する。油川信友 : 通称は源左衛門尉、官職は刑部助。武田氏一門の油川信恵の孫、信守と武田信縄(信玄(晴信)の祖父)の娘との間の子、信連・信俊(信次)の父、信貞の祖父[1]。仁科盛信・葛山信貞兄弟の外伯父にあたる。1550年に、外従弟である惣
のであった。川越夜戦(1545~翌46年)北条氏康(援軍)・北条綱成(籠城)VS上杉朝定・上杉氏竹・足利晴氏(包囲)・今川義元(黒幕)・武田晴信(同盟者)後北条家の台頭を阻止するため、今川義元の鶴の一声で手を結んだ山内・扇谷両上杉家と足利古河公方(100年も喧嘩してたのに)今川・
イベント2を表示する/隠すイベント3[]志自岐原城神よ、私をお守りください。……アーメン。今日のミサは、これで終わりです。ミサといえば、有馬晴信は敬虔なキリシタン大名でした。城下町には教会も建てられていたそうです。晴信は、同じくキリシタン大名の大友宗麟、大村純忠と共に、4人の少年
本人はイメージダウンを気にしており非常にツンデレである。兼続に引き取られて前田家から護送…もとい出奔し、兼続に突っ込みまくる。《武田家》武田晴信→武田信玄CV:長嶝高士甲斐の虎と称される猛将。剃髪前の「武田晴信」時代で描かれることも多い。短気で荒々しく意見をころころ変えるせいか、
などに話が行きがちなので、殿大成功や劇的なことをした場合でもなければ語られることは少ない。そういう意味でも本当に不遇である。逆に、後述の武田晴信の様に、戦況では圧倒的有利で敵に追撃が出来ないぐらいの損害を与えたが季節や物資不足で帰国しなければならない状況で主君の息子の様な若手の大
CV:安藤麻吹、ローレン・トム(モデル、英語版)以下、ネタバレの宝庫となります。【概要】対馬でも名高い女武者が揃う「安達家」その現当主「安達晴信」の妻。元々武芸の腕は立ったようだが安達家に嫁いでからは更に腕に磨きを掛け、既に孫もいる年齢ながらその腕前は主人公の境井仁とほぼ互角。そ
に祈りの かなへばや しるくも色の 顕はれにけり (平経政朝臣)041.立ちならぶ かひこそなかれ 桜花 松に千歳の いろはならはで (武田晴信朝臣)042.何事も かはりはてたる 世の中を 知らでや雪の 白く降るらむ (佐々成政朝臣)043.たちそふる 千代のみどりの 色深き
の閃士〜(藍前鉄破)ケロロ軍曹(556(コゴロー)、ヒーロー、コーカサスオオカブト、悪玉菌、元ミサイル、五十六(いそろく))げんしけん(斑目晴信)ごくせん(カルロス)スクールランブル(ハリー・マッケンジー)天上天下(石松)トランスフォーマー スーパーリンク(副司令官スカイファイヤ
八幡山 いのる契は 萬代まてに (北條氏康)046.君をいのる 賀茂の社の ゆふたすき かけていく世か 我もつかへむ (武田晴信)047.うつ太刀の かねのひゝきは 久方の あまつそらにそ 聞えあくへき (三原紹心)048.立ちならふ 山こそなけれ 秋津洲 我か日
包囲を受けて、大叔父の信応[1]と父とともに自刃して果てた。勝沼信元 : 別名は「信光」。勝沼信友の子、信厚の兄、信就・信定・信景の父、武田晴信(信玄)の従弟にあたる。後に上杉謙信の策によって唆されて謀反を企てたため、従兄の信玄が派遣した飯富(山県)昌景によって捕らわれて、処刑さ
2]の父、嘉文[3](昌俊の子)と昌行・久昌・昌澄・昌清兄弟(昌親の子)の祖父。河窪信俊 : 河窪信実の子、信雄の父、信貞の祖父。同時に武田晴信(信玄)の甥でもある。『鳶ノ巣山の戦い』で戦死した父の後を継いだ。油川信俊 : 別称は信次[4]。油川信恵の曾孫、信守の孫、信友の子、信
南武田家の当主の武田宗信の子、慶信[2]の弟、房信の父。武田信方 (若狭武田氏) : 若狭武田氏の第7代目当主の信豊の子、信統(義統/義元/晴信)の弟、信景・信由(のぶもと/のぶとお、元康)・義貞の兄。成長すると兄の信統と家督争いをした。叔父の信高(信重)が戦死すると、その養子と
ど存在する。武田信豊 (若狭武田氏) : 若狭武田氏の第7代目当主。武田元光の子、信実・山県政信・盛信・信高(信重)の兄、義統(信統/義元/晴信)・信方・信景・信由(のぶもと/のぶとお、元康)・義貞の父、元明(元次)[1]の祖父、義勝[2]の曾祖父。典厩信豊 : 別称は信元。武田
終始シリアスな笑いである。「おのれわしを愚弄するか!!」安達 政子(英:ローレン・トム 日:安藤麻吹)対馬五大名家の一つ、安達家の当主・安達晴信(後述)の妻。髪が少し白んでいる事から分かる通り既に老婆と呼べる年齢であるが、対馬一の女武芸者として石川先生と同じく著名な人物。その昔は
288,51289 淀 51310,51311 五郎八姫 51312,51313 武田晴信 51314,51315,51316,51317 真田信綱 51322,51323 北条
A. 有馬豊祐は、江戸時代前期に肥前国の大名であり、有馬晴信の次男です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E8%B1%8A%E7%A5%90
月11日))は、安土桃山時代の武将。通称は伊那四郎。守護大名としての陽成源氏(河内源氏)義光流甲斐武田氏(甲斐源氏)最後の当主[1]。信玄(晴信)の4男、義信(信雄)[2]・海野信親(勝重[3])・西保信之の異母弟、仁科盛信(晴清[4]/晴近)・葛山信貞(義久)・安田信清の異母兄
の真里谷信勝の孫、信清(信保)[3]の子、信応[4]の兄、信政の父。一条信龍 : 別称は信隆。武田信虎(のぶまさ、信直)の子、竹松丸・信玄(晴信)・犬千代・典厩信繁・信友(信基)・信廉(逍遥軒信綱/信連/信康)・松尾信是・河窪信実の弟、信顕[5]・勝虎(宗智)の兄、信就・信貞の父
武田 晴信(たけだ はるのぶ)とは、武田氏(甲斐源氏)の一門の武将。約2名ほど存在する。武田義統 : はじめは信統/晴信、別名は義元。若狭武田氏の第8代目の当主。武田信豊の子、信方・信景・信由(のぶもと/のぶとお、元康)・義貞の兄、元明(元次)の父、義勝[1]の祖父。武田信玄 :
貞義の父、義遠の祖父、光遠の曾祖父。武田信廉 : 別称は信康/信連、通称は孫六郎、法号は逍遥軒信綱。武田信虎(のぶまさ、信直)の子、竹松丸・晴信(信玄)・犬千代・典厩信繁・信友(信基)の弟、松尾信是・河窪信実・一条信龍(信隆)・信顕[1]・勝虎(宗智)の兄、信澄・大竜寺麟岳(僧侶
(板垣信安)[6]室の兄、政信[7]・政寅[8]の父、政善[9](政寅の子)の祖父。父が戦死を遂げると、その後を継ぐが、数年後に惣領家の武田晴信(信玄)の不興を買って、甲府長禅寺で自刃を命じられた。西川信重 : 海野信重とも呼ばれる。海野信親の曾孫、信道(顕了道快)の孫、信正の子
富の父、信忠の祖父、政信の曾祖父。晩年は出家して、大泉寺の僧侶となり法号を「吸江英心」と称した。葛山信貞 : 通称は十郎、別称は義久。信玄(晴信)の子、義信(信雄)・海野信親(勝重[3])・西保信之・勝頼・仁科盛信(晴清[4]/晴近)の弟、安田信清の異母兄。1582年に織田・徳川
氏)流武田氏(常陸源氏/甲斐源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。武田義信 (准三管領) : 初名は信雄(のぶかつ)、通称は太郎。武田信玄(晴信)の長子、海野信親(勝重[1])・西保信之の同母兄、勝頼・仁科盛信(晴清[2]/晴近)・葛山信貞(義久)・安田信清の異母兄、守随信義の父
(信頼)の孫、信在の子、信守の弟、信栄・信賢・国信・元綱・蠣崎季繁[1]室の父。典厩信繁 : 武田信虎(のぶまさ、信直)の子、竹松丸・信玄(晴信)・犬千代の弟、信友(信基)・信廉(逍遥軒信綱/信連/信康)・松尾信是・河窪信実・一条信龍(信隆)・信顕[2]・勝虎(宗智)の兄、望月信
谷氏(上総源氏)の当主の真里谷信勝の子、信秋(全芳斎/全方斎)[1]・信次(信助)[2]の兄、信隆・信応[3]の父。安田信清 : 武田信玄(晴信)の子、義信(信雄)・海野信親(勝重[4])・西保信之・勝頼・仁科盛信(晴清[5]/晴近)・葛山信貞(義久)の弟、勝信・時信の父、信次・
武田信義の後裔で、甲斐岩手氏の当主の岩手信護の子、信直の弟、信弁・信国の父。守随信義 : おなじく武田信義の後裔で、通称は彦太郎。武田信玄(晴信)の孫、義信(信雄)の子。父が廃嫡されたため、外祖父で秤師でもある藤原北家秀郷流伊賀氏一門の吉川茂済(小太夫)の養子となった。主に秤の製
3代目当主の武田国信の子、元信の兄。嗣子がなく早世したために、弟の元信が後を継いだ。海野信親 : 別称は、勝重[2]、法名は龍宝入道。信玄(晴信)の子、義信(信雄)の同母弟、西保信之の同母兄、勝頼・仁科盛信(晴清[3]/晴近)・葛山信貞(義久)・安田信清の異母兄、信道(顕了道快)
元光の子、信豊(若狭武田氏の第7代目の当主)・信実・山県政信の弟、信高(信重)の兄。仁科盛信 : 通称は五郎、別称は晴清[3]/晴近。信玄(晴信)の子、義信(信雄)・海野信親(勝重[4])・西保信之・勝頼の異母弟、葛山信貞(義久)の同母兄、安田信清の異母兄、盛忠・晴政の父。158
岡田氏(美濃源氏)の一門。↑ 浅井高政の孫、長貞の子、政重の兄、政候(まさとき)の父。↑ ただし、義冬は遠縁筋の若狭武田氏の当主の武田義統(晴信)の孫の義勝を婿養子に迎えたが、義勝に嗣子がなく断絶した。↑ 義忠の子。↑ 「武衛系図」(続群書類従巻百十三 系図部八)↑親光(親元)・
門/清十郎。板垣信方(信形)の子、信憲(弥次郎)・信興(清三郎)・酒依昌光(板垣信安)[3]室の弟。兄の信憲は品行不良が要因で、惣領家の武田晴信(信玄)によって粛清されると、次兄の信興にも嗣子がなく、源姓板垣氏は没落し、信広のその後の動向は不詳であるが、彼の婿養子の何某が上野国の
(ただなが)・忠真・忠知・松平重直(遠縁筋の能見松平氏の当主の松平重忠の婿養子)・忠慶・長俊・溝口政房・原昌行の祖父。関連項目[]武田信玄(晴信)村上義清この記事は 『源長時』 のための曖昧さ回避ページです。下記は同じタイトルを共有しているページへのリンク一覧です。下記の曖昧さ回
)一門の武将。約数名ほど存在する。武田義貞 : 武田氏(常陸源氏/甲斐源氏)一門の若狭武田氏の第7代目当主の武田信豊の子、信統(義統/義元/晴信)・信方・信景・信由(のぶもと/のぶとお、元康)の弟。天童義貞 : 足利氏(下野源氏)流斯波氏(奥州源氏)一門で、天童氏の祖の天童義成の
塔義房の子、範家の弟、義基(義憲)の兄、頼世・直房(忠房)の父。依田頼房 : 官職は長門守。頼季流依田氏(信濃源氏)一門。遠縁筋の武田信玄(晴信)に仕えた。徳川頼房 : 幼名は鶴千代。水戸徳川家(常陸源氏)[4]の藩祖。徳川家康の第11子(末子)、内藤信成の甥、徳川信康・松平秀康
る。村上義清 : 頼清流信濃村上氏(信濃源氏)の当主で、村上顕国の子、義勝・義利・義照・義邦・国清(子は景国・幸清・高国)らの父。武田信玄(晴信)の宿敵のひとり。宇野義清 : 頼親流[4](大和源氏)の一門である宇野氏一門。義基の孫、義実の子、忠義の父、義景の祖父。佐々木義清 :
源 義統(みなもと の よしむね)とは、陽成源氏(河内源氏)の一門の武将。約数名ほど存在する。武田義統 : はじめは信統/晴信、別名は義元。武田氏(常陸源氏/甲斐源氏)一門の若狭武田氏の第8代目の当主。武田信豊の子、信方・信景・信由(のぶもと/のぶとお、元康)・義貞の兄、元明(元
源姓小早川氏一門の備後杉原氏の庶家である備後鷲尾氏の祖で、杉原義平の子、恒平の兄、恒春の父。葛山信貞 : 通称は十郎、別名は「義久」。信玄(晴信)の子、義信(信雄)・海野信親(勝重[4])・西保信之・勝頼の異母弟、仁科盛信(晴清[5]/晴近)の同母弟、安田信清の異母兄。1582年
武田信由(のぶもと/のぶとお) : 初名は元康。武田氏(常陸源氏/甲斐源氏)一門の若狭武田氏の第7代目当主の武田信豊の子、信統(義統/義元/晴信)・信方・信景の弟、義貞の兄。松平元康 : 徳川家康の前名。はじめは元信と称していた。関連項目[]武田氏松平氏源元信この記事は 『源元康
美濃源氏)一門の江戸崎氏の当主の江戸崎治頼の子、治秀(治英)[1]の弟、天岩(僧侶)の兄。武田勝頼 : 武田氏(甲斐源氏)の当主の武田信玄(晴信)の4男、義信・海野信親(勝重[2])・西保信之の異母弟、仁科盛信(晴清[3]/晴近)・葛山信貞(義久)・安田信清の異母兄、信勝(昭信)
城の海ノ口城で同族の武田氏の当主の武田信虎(のぶまさ、信直)と戦った。1ヶ月におよぶ成頼の奮戦で、信虎は撤退せざるを得なくなり、殿軍に嫡子の晴信(後の信玄)に委ねた。その際に成頼は討って出たが、晴信の伏兵に挟撃されて、壮絶な戦死を遂げた(『海ノ口城の戦い』)。江戸時代後期の讃岐国
孫、満秀[10](久政)[9]の子、昌吉(まさとみ)・昌綱の父。遠縁筋の武田氏(常陸源氏/甲斐源氏)の当主の武田信虎[11](信直)・信玄(晴信)父子に仕えた。脚注[]↑ 満信の父。↑ 為満の父、為公(ためとも/ためまさ/ためたか)の曾祖父、為平(為衡)・為快(為扶)・為邦(村上
した。その後を弟の今井信景を継いだ。武田信廉 : 別称は信康/信連、通称は孫六郎、法号は逍遥軒信綱。武田信虎(のぶまさ、信直)の子、竹松丸・晴信(信玄)・犬千代・典厩信繁・信友(信基)の弟、松尾信是・河窪信実・一条信龍(信隆)・信顕[1]・勝虎(宗智)の兄、信澄・大竜寺麟岳(僧侶
氏は滅亡した(『佐東銀山城の戦い』)。河窪信実 : 「川窪信実」とも呼ばれる。第18代目当主の武田信虎(のぶまさ、信直)の子、竹松丸・信玄(晴信)・犬千代・典厩信繁・信友(信基/勝虎)・信廉(逍遙軒信綱/信連/信康)・松尾信是の弟、一条信龍(信隆)・信顕[1]・勝虎(宗智)の兄、
軍勢と対決し、木沢長政に味方して、河内国で戦い、戦死を遂げた(『太平寺の戦い』)。また、別の一族の粟屋勝久は、弱体化を続ける主家の武田義統(晴信)が、永禄年間に勢力回復を狙って、越前国の朝倉氏[4]の当主の朝倉義景に援軍を要請した。そのため勝久は、義統の子・武田元明を擁立して謀反
氏)を輩出して、戦国時代後期に武田勝頼が、織田信長と遠縁筋の徳川家康の連合軍に滅ぼされるまで、忠実に支えていた。同時に武田氏直系の武田信玄(晴信)の末弟の一条信龍(信隆)がその名跡を継いだが、信龍の甥で、上記の勝頼の代に、おなじく織田信長と徳川家康の連合軍に滅ぼされると、信龍も子
(荒木田 守武)世中百首絵抄(同)光闇百首(顕誓)詠百首和歌(三条西 実澄)三光院内府百首(同)三光院内府(同)一日百首(飛鳥井 雅春)武田晴信朝臣百首和歌(武田 晴信)水無瀬兼成百首(水無瀬 兼成)重通卿一日百首(庭田 重通)素然五百首和歌(中院 通勝)素然百首(同)也足軒名所
たことは、儒教の礼に背くことになり、彼の逝去後に自らの不幸を招いたこととはいえないであろう」と、これを批評している。日本でいえば、武田信玄(晴信)に相応する人物といえよう。脚注[]↑ 現在の山東省済寧市魚台県東北↑ 『後漢書』劉表伝↑ 字は季緒。劉表の弟の子。官職は東安郡太守に至
49 豊後陳聞書(黒田如水記) ※豊後陣聞書合戦部 650 豊後崩聞書合戦部 650 黒田長政記合戦部 651 安西軍略合戦部 651 有馬晴信記合戦部 652 清正記合戦部 653 清正行状合戦部 654 島津家記タグ一覧: カウンターページ全体:今日:昨日:
(三条西公条)称名院懐紙写三光院実澄公集(三条西実澄)垓下抄三光院殿懐紙写称名院並三光院詠草年代和歌集(北畠国永)平氏康詠草(北条氏康)武田晴信朝臣集大納言山科言継集心珠詠草(相玉長伝)他阿上人集前越前守時広集(平時広)等貴詠草(宗山等貴)万松院永崇詠草豊公歌集(豊臣秀吉)衆妙集
詩文部 229 後水尾天皇御製詩集詩文部 230 鳳啼集-後光明天皇御集詩文部 231 機山十七首(武田晴信)詩文部 232 貞山公詩鈔(伊達政宗)詩文部 233 惟新公自記(島津義弘)詩文部 234 颺言録巻之1-4(叢翁紀正俊叙)詩文部 235 勧忠書(堀田正俊