「昭和15年」を含むwiki一覧 - 1ページ

藤山一郎 - なんでもある Wiki

ターの専属歌手となる。1936年(昭和11年)、テイチクの専属歌手となる。1939年(昭和14年)、コロムビアの専属歌手となる。1940年(昭和15年)4月、結婚。1943年(昭和18年)2月、南方への慰問団に参加( - 7月)。11月、再び南方への慰問団に参加( - 1945年

九州水力電気 - なんでもある Wiki

912年9月の開業で、遠賀郡中間町大字中間・岩瀬(現・中間市)および水巻町大字吉田を供給区域としていた。1940年[編集]続いて1940年(昭和15年)に実施された事業統合は、1月31日付の前述の九州電気軌道からの電気供給事業譲り受けと、4月1日付の5社(神都電気興業・延岡電気・

大竹海兵団跡之碑 - 呉市周辺の遺構まとめ

大竹海兵団大竹海兵団は太平洋戦争直前の昭和15年に設立された海軍の新兵教育組織呉鎮守府の新兵教育組織である海兵団は、すでに呉海兵団がありましたが国際情勢の緊迫化を受け、兵力増強のため兵員養成地の拡充が決定されます。昭和14年に大竹市が海兵団設置の候補地にあがり、誘致に非常に積極的

支那の夜 - 映画ペディア

支那の夜(しなのよる)は、東宝・中華電影公司合作、昭和15年(1940年)公開の国策映画、およびその主題歌。映画の主演は長谷川一夫、李香蘭。主題歌「支那の夜」は作詞:西条八十、作曲:竹岡信幸、歌唱:渡辺はま子。この映画は、昭和13年(1938年)に発売された同曲のヒットを受けて製

九州送電株式会社 - なんでもある Wiki

任すると同社を代表して木村平右衛門が常務となった。1934年(昭和9年)7月、常務は木村から支配人の内本浩亮と交代。その後内本は1940年(昭和15年)に専務へと昇格するまで常務を務め、同年6月には社長となっている。水力開発の推移[編集]高千穂発電所[編集]九州送電が最初に建設し

旧光海軍工廠 - 呉市周辺の遺構まとめ

、艦装品の製造・調達・供給等を行う軍需工場の総称です。光海軍工廠は日本で7番目に作られた海軍工廠で昭和13年に建設が決定し、太平洋戦争直前の昭和15年10月に開庁しました。開庁約1年後に太平洋戦争が開戦したため、海軍工廠の建設と兵器生産は同時進行で進められました。光海軍工廠には砲

熱砂の誓ひ - 映画ペディア

熱砂の誓ひ(ねっさのちかい)は、東宝・華北電影公司合作、昭和15年(1940年)公開の国策映画、およびその主題歌。映画の主演は長谷川一夫、李香蘭。主題歌「熱砂の誓ひ」は作詞:西条八十、作曲:古賀政男、歌唱:伊藤久男。映画[]熱砂の誓ひ監督渡辺邦男脚本木村千依男、渡辺邦男製作森田信

江波山公園(江波山高射砲陣地跡) - 呉市周辺の遺構まとめ

明治31年に公園に指定され遊歩道が整備されました。昭和8年に決定した広島工業港構想の一環として江波山以南が埋め立てが決まり、太平洋戦争直前の昭和15年から埋め立てが開始されました。しかし、太平洋戦争が始まると物資・人手不足により埋め立ては難航し、海軍の要請で建設された埋め立て地の

温泉権 - Gravity Wiki

か、という問題である。」、「判例は、いくつかの物権を慣習法上の物権として認めている。有名なのは、温泉専用権(いわゆる「湯口権」)を認めた大判昭和15年9月18日(民集19-1611)である。」とする。ただし、同書の指摘する大審院判例は、「物權的權利」という表現を用いている。川島武

臥蛇島 - Gravity Wiki

5月 - 小学校令施行により中之島尋常小学校臥蛇島分教場発足1933年(昭和8年) - 村営船「十島丸」就航、月4往復運航となる1940年(昭和15年) - 臥蛇島灯台完成。島の人口が最大の133人となる1941年(昭和16年)4月 - 国民学校令施行により十島村立中之島国民学校

鍔鳴浪人 - 日活 Wiki

鳴浪人』(つばなりろうにん)は、角田喜久雄が1939年(昭和14年)に発表した日本の長篇小説であり、同作を原作とし、同年正篇・翌1940年(昭和15年)続篇製作・公開、荒井良平監督による日本の長篇劇映画、剣戟映画であり、1956年(昭和31年)製作・公開、内出好吉監督による日本の

木更津看護学院(沿革・特色・カリキュラム・実習など) - 日本の企業事典 Wiki

木更津看護学院は、昭和15年に設立され、准看護師課程を設置して准看護師を育成している学校です。少子高齢化が進んでいる長寿国・日本において、活躍の場が広がっている看護職者の育成に取り組んでいます。資格試験合格に必要な知識や現場で活躍するための技能を身につけるサポートを一丸となって提

日蓮宗 - なんでもある Wiki

せることとなる。この法律は仏教・神道・キリスト教の各宗教に対し、教団を国家権力下に管理するため宗派合同を求めるものであり、そして1940年(昭和15年)9月、同法第5条 を根拠として、政府は神道・仏教・キリスト教の各宗教界代表を招集。1941年(昭和16年)3月末日までに各宗派の

橿原神宮前駅 - なんでもある Wiki

阪電気軌道が吉野鉄道を吸収し、(旧)橿原神宮前 - 久米寺間を広狭軌併用の三線軌条に改造して、久米寺駅に乗り入れるようになった。1940年(昭和15年)の皇紀2600年祭を控え、橿原神宮周辺整備の都市計画事業により、前年に畝傍線を移設して新たに駅(現在の駅本屋と0 - 3番のりば

合気道 - なんでもある Wiki

開かれ盛平の名声は高まってゆく。この頃の教授対象は皇族・華族・軍人・実業家や武道家の子弟が主で、入門は一部の層に限られていた。 1940年(昭和15年)財団法人皇武会設立。大東亜戦争中は軍部からの要請で陸軍憲兵学校・陸軍中野学校・海軍大学校などで盛平が武術指導を行なう。1942年

新橋演舞場 - 松竹 Wiki

橋芸妓協会が中心となり、新橋演舞場株式会社を設立。1925年(大正14年) - 第1回東をどりで開場。地上3階建。客席1679。1940年(昭和15年) - 松竹株式会社が興行面を受け持つ。1945年(昭和20年) - 東京大空襲で焼失。1948年(昭和23年) - 復興し、再開

旧川原石駅跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

昭和10年に設置された駅です。呉駅と吉浦駅の間に作られた駅ですが位置的には呉駅側に近い東川原石町に作られました。しかし、開業から僅か5年後の昭和15年に燃料事情の悪化により休止となりました。太平洋戦争後の昭和33年に営業を再開しましたが、この時は吉浦側へ少し移動しての再開となりま

上落合の小字 - 埼玉県の小字

三丁目に関東住宅がある。関東遺跡がある。参考文献・ 北足立郡新座郡各村字届書(明治14年)・ 与野市大字別地番図(昭和53年)・ 埼玉県報 昭和15年11月、平成15年3月・ 官報 昭和63年2月・ 行政文書市町村制(昭和15年)

与野の小字 - 埼玉県の小字

整理施行地及之レニ隣接スル土地ノ現形並予定図、土合村耕地整理組合第二区第三区拡張区域現形図・ 与野市大字別地番図(昭和53年)・ 埼玉県報 昭和15年11月、昭和38年5月、昭和63年9月・ 官報 昭和56年10月、昭和57年11月、昭和59年3月、昭和63年2月・ 行政文書 市

並木の小字 - 埼玉県の小字

1959年に三橋三丁目になった。西之前(にしのまえ)参考文献・ 北足立郡新座郡各村字届書(明治14年)・三橋耕地整理組合確定図・ 埼玉県報 昭和15年11月、昭和34年5月・ 行政文書 市町村制(昭和15年)、区域内変更(昭和34年度)

大宮の小字 - 埼玉県の小字

地整理に伴い消滅した。油田(元加茂宮分)切敷(元加茂宮分)下西天神新堀参考文献・ 北足立郡新座郡各村字届書(明治14年)・ 新大宮市街全図(昭和15年)・ 三橋耕地整理組合換地説明書・ 埼玉県報 昭和30年2月、昭和30年7月、昭和30年11月、昭和31年3月、昭和31年8月、昭

上小村田の小字 - 埼玉県の小字

1958年に上小町になった。上小町に西南公園がある。参考文献・ 北足立郡新座郡各村字届書(明治14年)・三橋耕地整理組合確定図・ 埼玉県報 昭和15年11月、昭和31年12月、昭和33年11月・ 行政文書 市町村制(昭和15年)、区域内変更(昭和32~34年度)

吉浦中学校(旧呉海軍工廠女子動員学徒狩留賀寄宿舎) - 呉市周辺の遺構まとめ

るが浜駅の裏にあります。現在は吉浦中学校となっていますが太平洋戦争終戦まで呉海軍工廠の動員学徒寄宿舎がありました。寄宿舎は元々太平洋戦争前の昭和15年に『呉海軍工廠狩留賀寄宿舎』として建設されました。約800名の工員(当初は男性労働者)が生活できるコの字型の木造2階建建物として作

工廠神社 - 呉市周辺の遺構まとめ

工廠神社(産業神社)串山にある神社工廠神社は太平洋戦争直前の昭和15年に、紀元二千六百年記念行事(天皇歴が始まって2600年目の祝典)の一環として寄付により建立されました。目前にある呉海軍工廠にまつわる神社のようですが詳細は不明です。また、産業神社という別名もありますがなぜ名称が

中小村田の小字 - 埼玉県の小字

。三橋耕地整理に伴い消滅したと思われる。参考文献・ 北足立郡新座郡各村字届書(明治14年)・三橋耕地整理組合確定図、換地説明書・ 埼玉県報 昭和15年11月、昭和31年12月・ 行政文書 市町村制(昭和15年)、市町村区域内変更(昭和31~33年度)

大平山公園(大平山砲台跡) - 呉市周辺の遺構まとめ

通信使の寄港地として栄えた下蒲刈島ですが、太平洋戦争前は呉鎮守府より呉軍港要塞地帯に指定され地図から消される事もありました。太平洋戦争直前の昭和15年に呉防衛のため島の最高峰である大平山に防空砲台が作られました。また、島内の大下と地蔵峠にも聴音照射所が作られ、地元の向国民学校の高

佐伯市年表 - TKYまとめ

を勧奨し、これを受けて翌昭和12年(1937年)4月1日に佐伯・鶴岡・上堅田の1町2村が合併し、新制の佐伯町(さいきちょう)が発足する。 昭和15年(1940年)に海軍の佐伯防備隊(さえきぼうびたい)が設置されると、村民の反対により先の合併に不参加であった八幡村に加え、佐伯湾に

マキノ真三 - 映画ペディア

キネマ」、兄の正博がマキノ本家に設立した「京都映音」に関わったのち、日活京都撮影所で、兄・正博や辻吉郎の助監督をつとめる[1]。1940年(昭和15年)、兄・正博が監督した『続清水港』でチーフ助監督をつとめた後、同社を退社、翌1941年(昭和16年)、東京・巣鴨町の大都映画で近衛

くにおくんシリーズ - ゲーム情報ウィキ

物になっている。さぶ(声優:岸野幸正)暴力団・三和会の組長。不良とはいえ、学生相手にハジキ(拳銃)を使う危険極まりない人物。ACの設定では、昭和15年8月15日生、46歳。一作目と「くにおたちの挽歌」では最終ボス、「くにおの熱血闘球伝説」ではプレイヤーキャラクターとして登場する。

家城巳代治 - 映画ペディア

年(1976年)2月22日)は、日本の映画監督、脚本家。東京都出身。東京府立三中、弘前高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学文学部を卒業後、昭和15年(1940年)松竹大船に入社する。昭和19年(1944年)『激流』以降、『雲ながるる果てに』『ともしび』などの名作映画を制作した。

松竹 - 松竹 Wiki

になったため、輸入件数が減少し、洋画部は映画部洋画課に、翌1939年(昭和14年)には映画部洋画興行係に機構が縮小されていった。1940年(昭和15年)、帝国劇場を失い、洋画購入件数も減少するが、却って希少価値を生んだため興行成績は良好であった。しかし1942年(昭和17年)4月

照る日くもる日 - 松竹 Wiki

りひ)は、大佛次郎による日本の小説、または同作を原作とした1926年(大正15年)製作・公開、3社競作の日本の長篇劇映画、および1940年(昭和15年)、1954年(昭和29年)、1960年(昭和35年)の日本のリメイク映画である。小説の初出は『大阪朝日新聞』での1926年(大正

極東映画 - Movies Wiki

)が甲陽園に残留、「甲陽映画」を設立した(1937年解散)。1937年(昭和12年)、改組して極東キネマ株式会社となった[1]。1940年(昭和15年)、同社は大阪の「梅田劇場」(現在のHEP、TOHOシネマズ梅田)に合併され、大宝映画株式会社となるが、大宝映画は1作も製作せず、

山根幹人 - 映画ペディア

には「太平洋シネマ」なる会社で『戦争と少女』、1936年(昭和11年)には「東洋発声」という会社で『戦線に吠ゆ』を監督している。1940年(昭和15年)には、ドキュメンタリー映画を数本監督し[1]、1943年(昭和18年)には日本マンガフィルム研究所でアニメーション映画の演出をし

騎兵第五連隊跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

。第一次世界大戦後の軍縮では運用コストも高すぎるとされ、各地で縮小が進み騎兵第五連隊も大正11年に2個中隊に縮小されました。太平洋戦争直前の昭和15年には『捜索第五連隊』と改称再編成され軽装甲車2個中隊・乗車兵2個中隊・通信小隊・整備小隊の構成となりました。初陣は日清戦争で、その

丹羽氏 - 日本通信百科事典

を祖とする。通字は「氏」。同族に源姓土屋氏[4]・源姓久松氏があった。江戸時代に遠縁筋の徳川家康に仕えて、外様大名となり、幕末まで存続した。昭和15年(1940年)12月に子爵である最後の当主の氏郷が死去したことで、源姓丹羽氏の男系はついに断絶した。脚注[]↑ 現在の愛知県一宮市

松竹 - Movies Wiki

になったため、輸入件数が減少し、洋画部は映画部洋画課に、翌1939年(昭和14年)には映画部洋画興行係に機構が縮小されていった。1940年(昭和15年)、帝国劇場を失い、洋画購入件数も減少するが、却って希少価値を生んだため興行成績は良好であった。しかし1942年(昭和17年)4月

寿々喜多呂九平 - 映画ペディア

」等で公開された。翌1931年(昭和6年)、帝国キネマが新興キネマに改組されてからも含めて、1939年までに34本を監督したが、1940年(昭和15年)7月25日に公開された大友柳太郎主演の『花婿五千石』からは本名の神脇榮満(えいみつ)に似た「神脇満」名で翌1941年(昭和16年

新妻鏡 - 映画ペディア

/ 作曲:古賀政男 / 歌:霧島昇、二葉あき子『目ン無い千鳥』作詞:サトウハチロー / 作曲:古賀政男 / 歌:霧島昇、松原操1940年(昭和15年)4月10日コロムビアレコードから発売。1956年版[]1956年9月26日公開。新東宝配給。キャスト[]七里文代:池内淳子醍醐博

麻生 太郎 - ureumonoのうぃき

府特命担当大臣(金融)、デフレ脱却担当 大臣 (第92代内閣総理大臣) 選挙区 福岡県第8区 生年月日 昭和15年(1940年)09月20日生まれ 政治理念 HP 麻生太郎オフィシャルサイト You

陸軍中野学校 - 映画ペディア

活躍した。これは後に岩畔機関に引き継がれ、チャンドラ・ボースを首班とする自由インド仮政府がシンガポールにて樹立されることになる。ビルマでは、昭和15年より、中野学校出身者らで構成された南機関が、ビルマの青年志士らによって編成された独立義勇軍と行動を共にし、日本軍との共同作戦を成功

青柳信雄 - 映画ペディア

36年(1903年)生まれ。明治大学を卒業後、新劇の舞台演出を手がけていたが、昭和12年(1937年)、34歳の時に東宝へ制作者として入社。昭和15年(1940年)に演出部へ移り、第1回作品として当時人気のあった浪曲師広沢虎造主演の『虎造の荒神山』を撮る。戦後、東宝争議により新東

萩原遼_(映画監督) - 映画ペディア

萩原の次回作、9本目の監督作はふたたび東京撮影所に呼ばれて撮った、大河内主演の『新篇 丹下左膳 恋車の巻』であった。同作は東宝の1940年(昭和15年)正月第2弾として公開されたが、「丹下左膳」は大河内のもっとも得意とする役であり、山中版「左膳」は、萩原がチーフ助監督についたもの

西河克己 - 映画ペディア

- 上京(東京都大森へ)昭和11年 - 私立高輪中学校 卒業昭和14年 - 日本大学芸術科 卒業昭和14年12月 - 松竹大船撮影所、入社昭和15年9月 - 出征(東南アジア・中国)昭和21年7月 - 復員後、松竹に復職昭和27年 - 『伊豆の艶歌師』で初監督昭和29年 - 日

笑の大学 - 映画ペディア

演3.2 キャスト3.3 スタッフ4 映画版4.1 キャスト4.2 スタッフ4.3 製作・配給5 関連項目6 外部リンクストーリー[]舞台は昭和15年。日本は戦争への道を歩み始めていた。国民の娯楽である演劇は規制され、警察で台本の検閲を受けなければ上演できない。そんな時代に、生ま

木下惠介 - 映画ペディア

に入り島津保次郎監督の撮影助手となり、翌1934年(昭和9年)には新たに作られた松竹大船撮影所に移り、島津監督の下助監督となる。1940年(昭和15年)に徴兵され中国を転戦も翌年、戦傷の為内地送還され帰国。 1943年(昭和18年)に監督になり『花咲く港』で山中貞雄賞を受賞し、華

母べえ - 映画ペディア

、2008年1月26日(正月第2弾)公開の日本映画。目次1 ストーリー2 キャスト3 スタッフ4 ロケ地5 備考6 外部リンクストーリー[]昭和15年、野上家では母親のことを「母べえ」父親のことを「父べえ」と呼んでいた。娘の初子と照美は、そのふたりの大きな愛に包まれて育ち、家庭に

男はつらいよ_寅次郎かもめ歌 - 映画ペディア

た。この回では、さくら夫婦がローンで念願の一戸建てのマイホームを購入。夜学に入学する際の寅次郎の履歴書から、寅次郎の生年月日が、1940年(昭和15年)11月29日と判明する。附則であるが、履歴書から判った事は、好きな学科は音楽と国語、得意なスポーツは競馬、競輪であるらしい。キャ

稲葉蛟児 - 映画ペディア

収合併となった。同社にいた土肥正幹こと鈴木桃作、助監督の御代荘輔とともに東宝映画京都撮影所に入社した[4]。その後、大陸に渡り、1940年(昭和15年)の東宝と華北電影の合作映画『熱砂の誓ひ』前・後篇では、森田信義プロデュースのもと、本名の「稲葉義信」名義で製作主任をつとめている