三高山砲台跡 - 呉市周辺の遺構まとめ
三高山三高山は江田島北西部にある山ここには明治33年に陸軍が外国艦隊迎撃のために築いた広島湾要塞の1つ、三高山砲台跡があります。三高山砲台は広島湾要塞の要として江田島と宮島の間にある那沙美瀬戸防衛ために作られました。明治34年に三高山の標高385mの尾根に着工し、総面積約6万坪の
三高山三高山は江田島北西部にある山ここには明治33年に陸軍が外国艦隊迎撃のために築いた広島湾要塞の1つ、三高山砲台跡があります。三高山砲台は広島湾要塞の要として江田島と宮島の間にある那沙美瀬戸防衛ために作られました。明治34年に三高山の標高385mの尾根に着工し、総面積約6万坪の
一つ『安芸の宮島』有名な厳島神社の南東(島の反対側)に標高194mの鷹ノ巣山があります。ここには明治33年に陸軍が外国艦隊迎撃のために築いた広島湾要塞の1つ、鷹ノ巣山砲台がありました。鷹ノ巣山砲台は宮島と大那沙美島の間にある那沙美瀬戸防衛のために建設され、明治30年に着工し明治3
島市と呉市を防衛するために陸軍の要塞砲台が各所に築かれました。その要塞群を管理する司令部として明治33年に広島要塞砲兵連隊が設置されました。広島湾要塞は「広島湾にある4つの海峡音戸瀬戸(本州-倉橋島間)・早瀬瀬戸(倉橋島-江田島間)・那沙美瀬戸(江田島-大奈佐美島-宮島間)・大野
一つ『安芸の宮島』有名な厳島神社の南東(島の反対側)に標高194mの鷹ノ巣山があります。ここには明治33年に陸軍が外国艦隊迎撃のために築いた広島湾要塞の1つ、鷹ノ巣山砲台がありました。鷹ノ巣山砲台は宮島と大那沙美島の間にある那沙美瀬戸防衛のために建設され、明治30年に着工し明治3
上ありますが、大野瀬戸の水深は約1m程度しかなく海峡というよりも水路に近いイメージです。ここには明治33年に陸軍が外国艦隊迎撃のために築いた広島湾要塞の1つ、室浜砲台がありました。室浜砲台は広島湾要塞の前身の呉要塞時代の明治31年に着工し、翌32年に竣工しました。当初は他の広島湾
休石砲台跡休石砲台は明治時代に陸軍が広島湾要塞の1つとして音戸の瀬戸に作った砲台音戸の瀬戸に作られた砲台としては観光地として有名な高鳥砲台がありますが、休石砲台も高鳥砲台と同じく外国艦隊から音戸の瀬戸を防衛するため明治34年に建設されました。その後も同じく大正15年に廃止されまし
明治時代は『大那沙美島』という表記でしたが、現在は大奈佐美島と表記されるのが一般的です。ここには明治33年に陸軍が外国艦隊迎撃のために築いた広島湾要塞の1つ、大那沙美島砲台がありました。大奈佐美島は宮島と江田島の間にある那沙美瀬戸にある島で、北の宮島(鷹ノ巣山/鷹ノ巣浦)・南の江
大空山公園(大空山砲台跡)安芸阿賀駅の北にある標高205mの大空山ここには明治36年に陸軍が呉防衛のために作った広島湾要塞の1つ、大空山砲台があります。広島湾要塞の砲台は侵攻してくる外国艦隊を迎撃するために作られたものが多いですが、大空山砲台は上陸して背後から攻めてくる敵から呉を
戸の跡当時は登山道に入ると最初に監視所がありました。境界標石地蔵橋の近くにある陸軍の境界標石これは大野鉱山とは関係なく明治30年代に作られた広島湾要塞の境界標石です。境界標石とは民間地と軍用地の境界を示す石で日本各地に点在します。戦前戦中は要塞地帯の中で測量・撮影・模写などを禁止
台公園ここには明治時代から太平洋戦争終戦までの砲台跡があります。高烏台公園には大きく分けて2種類の砲台跡があります。1つは明治34年に陸軍が広島湾要塞の1つとして築いた『高烏台砲台』。もう1つは陸軍砲台廃止後に海軍呉鎮守府が昭和16年に呉防衛のために転用構築した『高烏台防空砲台』
雷隊』といい呉鎮守府開庁翌年の明治23年に創設されました。その後、明治29年に呉水雷団へ改称しました。また、明治33年に外国艦隊迎撃のために広島湾要塞が設置されると広島湾の防備も行うようになり、呉水雷団所属の水雷砲台が広島湾に建設されました。呉水雷団のとなりには呉海兵団があり、堺
が残っています。貯水槽跡大型の貯水槽跡が2つ残っています。兵舎跡待避豪や管制機から一段下がった場所にあります。貯水槽跡風呂場跡便所跡こちらは広島湾要塞時代の砲台によくあるレンガ造りの四角い便所です。炊事場跡炊事場跡です。水回りを一か所に集めているのが山中の砲台によくある造りです。