「南北朝」を含むwiki一覧 - 6ページ

水沢氏 - 日本通信百科事典

近江源氏)一門の佐々木直綱の玄孫の信綱[2]に嗣子がなく、信綱の娘が水沢某に嫁いで、その間に儲けた子が母方の佐々木氏と改称したという[3]。南北朝時代末期から秩父姓奥州葛西氏の家老となった。庶家に奥州板垣氏[4]があった[5]。戦国時代に豊臣秀吉に刃向かったために、主君の奥州葛西

武蔵源氏 - 日本通信百科事典

妹)が、畠山義純(足利義兼の庶長子)と再婚して、嫡子の泰国を儲けて、畠山氏と称したことから始まる家系である。親類の北条得宗家からも優遇され、南北朝時代~室町時代にも足利氏一門として、勢力を持った。庶家に岩松氏・下野田中氏・能登松波氏・美濃畠山氏・二本松氏(奥州源氏)[2]・河内渋

水野氏 - 日本通信百科事典

定住して、清房と改名して、水野家と称したことからはじまる。経村(清房)の子の雅経は尾張国の国司となり、尾張国知多郡阿久比郷[4]を統治して、南北朝時代前後の正房の代まで在続したという。正房は土岐氏(美濃源氏)一門の土岐直氏(ただうじ)[5]と戦って、子の信業とともに戦死を遂げた。

河内氏_(武蔵国) - 日本通信百科事典

を賜り、備前国の頭職として勲功を賞されている。また、正平19年(1364年)にも戦功によって備前国岩部郷を賜っている。正中9年(1392年)南北朝の統一があったが、その後も南朝方は北朝方と戦った。正長元年(1428年)12月に、伊勢国の国司の北畠満雅は小倉宮・実仁親王を奉じて伊勢

江田氏 - 日本通信百科事典

。江田氏 (備後国) : 備後江田氏とも呼ばれる。藤原北家秀郷流と称した備後広沢氏(備後広澤氏)一門。備後国三谿郡江田郷[4]を拠点とした。南北朝時代に江田泰氏(源八郎)が、庶家の美作江田氏一門で、近代から現在におよぶ日本社会党の書記長の江田三郎・五月父子および、立憲民主党の江田

平氏_(皇別) - 日本通信百科事典

命した池禅尼こと藤原宗子(清盛の継母)の子で清盛の異母弟・平頼盛の系統は許され、池氏の祖となり、伊勢平氏の嫡流として御家人として頼朝に仕え、南北朝時代~室町時代初期まで在続した。↑ その庶家に北条伊勢家が出た。↑ 貞盛流と繁盛流の2系統があり、庶家に伊豆山木氏がある。↑ 平姓小松

岡田氏_(美濃国) - 日本通信百科事典

御家人として仕えたという。『岡田系図』によると、重忠の曾孫の泰親の代にその子の時親が、上記の美濃国大野郡岡田郷を拠点として、岡田氏と称した。南北朝時代の元弘・建武年間には、時親の子の重綱が後醍醐天皇を中心とした宮方に属して戦功が挙げた。後に室町幕府を開いた遠縁筋の足利氏(下野源氏

甲斐源氏 - 日本通信百科事典

。教来石氏 : 源姓多田氏国頼流美濃馬場氏(美濃源氏)の庶家[2]。同国巨摩郡教来石郷(現在の同県北杜市白洲町上教来石大字)を本拠地とした。南北朝時代末期に教来石信明(駿河守)が甲斐国守護の武田信重の女婿となった。戦国時代に、一門の教来石信保(虎貞[3])の子の信房(後の馬場信春

劉弘 - 日本通信百科事典

鎮北将軍の劉靖(劉静)の子、劉熙の弟、劉璠の父、劉伶の族弟[6][7]。晋(西晋)の荊州刺史をつとめた。劉弘 (教祖) : 五胡十六国時代(南北朝時代)の宗教指導者。涼州で反乱を起こした。320年没。劉弘 (隋) : 字は仲遠。北斉から隋代の人物。591年戦没。脚注[]↑ 異母兄

世良田有親 - 日本通信百科事典

をご覧ください。世良田有親像世良田 有親(せらだ ありちか、1332年(元弘2年/正慶元年)? - 1385年正月(元中2年12月)?)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての武将。通称は三郎あるいは次郎三郎。官職は左京亮。陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)の一族で、義光流

劉氏 - 日本通信百科事典

光武帝の同母長兄)の末裔[14]の庶家出身である劉備が烈祖[15]穆帝[16](繆帝)と称したことによる。その他の劉氏[]漢王朝の滅亡後も、南北朝時代の宋漢(劉宋)の劉裕が楚の元王の劉交(劉邦の従弟、荊湣王の劉賈の異母弟)の末裔と自称したほか、趙漢を建てたトルコ系匈奴屠各(屠客)

劉茂 - 日本通信百科事典

現在の湖北省襄陽市棗陽県↑ 現在の江蘇省徐州市↑ 字は游。高祖・劉邦の従弟で、荊湣王の劉賈の異母弟。↑ 6.06.1中華民国の唐長孺の『魏晋南北朝史論拾遺』が引く晋(東晋)王敦の言より。↑ 『晋書』45巻の侯史光の経歴書によると、劉夏は東莱郡掖県(現在の山東省煙台市莱州県)の人と

世良田氏_(義季流) - 日本通信百科事典

氏が無位無官ながらに取り返している。教氏の孫の満義(家時(家持)の子)は、一族の得川氏の当主の得川家久(宗氏の子)・義政と世良田経広とともに南北朝時代の1333年に惣領家の新田義貞(政氏の曾孫)の『鎌倉攻め』に従い、稲村ヶ崎にて安東重保(聖秀入道、新田義顕(義貞の庶長子)の外祖父

加茂氏 - 日本通信百科事典

動』で一族の重房(重氏)が連座されて滅ぼされたことなどから、加茂氏は次第に北条得宗家による鎌倉幕府への不満を強めていくことになった。そして、南北朝時代の元亨4年9月(1324年10月)の後醍醐天皇による討幕の計画である『正中の変』で日野資朝・俊基の招きに応じた6代目の貞親(重成/

六角氏 - 日本通信百科事典

近江大原氏・近江高島氏[3]・播磨毛利氏(鯰江氏)[4]・長門伊佐氏・近江西條氏(近江西条氏)・八幡山氏などがある。近江国南部を拠点とした。南北朝時代以降から、佐々木姓から六角姓を主に用いるようになった。六角家 : 藤原北家の系統。約2系統が存在する。脚注[]↑ 現在の京都府京都

佐竹義高 - 日本通信百科事典

富田林市宮甲田町周辺)を拠点とした百済系の渡来人の末裔で、『承久の乱』で北条得宗家を錯乱させた挙句に、鎌倉幕府方の佐野入道兄弟に捕獲された。南北朝時代に、後裔の俊政(義継)が輩出した。↑ 族父の額田義教の娘を娶った。↑ 寿命寺が所蔵する「佐竹系図」より。関連項目[]源義高この記事

南部政光 - 日本通信百科事典

する。南部政光 (鎌倉時代) : 別名は政元。第3代目の当主の南部時実の子、政行・宗実・実政・宗継(宗経)・義元の兄、時光の父。南部政光 (南北朝時代) : 南部政長の孫、信政の子、信光の弟、行信の父。関連項目[]源政光この記事は 『南部政光』 のための曖昧さ回避ページです。下記

久留野氏 - 日本通信百科事典

立を保った。しかし、おなじく同族の河内源氏嫡流の源家(鎌倉氏)の棟梁の源頼朝が伊豆国で蜂起すると、一族の宇野氏・福原氏とともにこれに応じた。南北朝時代には、後醍醐天皇を中心とする南朝方に属して、遠縁筋である新田氏(上野源氏)の惣領家の新田義貞とともにおなじく遠縁筋の足利氏(下野源

中村氏_(下野国) - 日本通信百科事典

戒を受けて、領土を没収されて義理の叔父にあたる伊佐為家(朝宗の子)の預かりの身となり、鎌倉に軟禁状態のままで、その波乱に満ちた生涯を閉じた。南北朝時代~室町時代の経長の代に同族である足利氏(下野源氏)の当主の足利尊氏(高氏)の傘下として活躍して、父祖代々の念願であった領土を北条得

佐々木氏 - 日本通信百科事典

近江西条氏)[3]・八幡山氏[3]・石見松山氏(石見河上氏)(石見源氏)・出雲山中氏(出雲源氏)[8]・宍道氏(出雲源氏)[8]などがある。南北朝時代~戦国時代になると、佐々木姓を用いることは少なくなり、その直系である六角氏とその庶家の京極氏を氏名として、用いることが多くなった。

佐竹義篤 - 日本通信百科事典

と藤姓佐竹氏の2名ほどが存在する。佐竹義篤 (源氏) : 法号は春山浄喜。陽成源氏(河内源氏)義光流源姓佐竹氏(常陸源氏)の第9代目の当主。南北朝時代の第10代目の当主の佐竹貞義の子、月山周枢(僧侶)・小瀬義春・義資・義直・義冬・山入師義の兄、義宣・小場義躬・石塚宗義・乙王丸・大

佐竹義宣 - 日本通信百科事典

氏の2名ほどが存在する。佐竹義宣 (源氏) : 陽成源氏(河内源氏)義光流源姓佐竹氏(常陸源氏)の第10代目の当主。初名は義香(よしたか)。南北朝時代の第10代目の当主の佐竹義篤の子、小場義躬・石塚宗義・乙王丸・大山義孝・藤井義貫(義実)の兄、義盛・義有の父。佐竹義宣 (藤原氏)

北畠家 - 日本通信百科事典

宕郡北畠庄[1]を拠点とした。伊勢国を統治したために、公家としてさかえて伊勢源氏とも呼ばれた。北畠家 (雅家流) : 中院雅家を家祖とする。南北朝時代には南朝に仕えた北畠親房・顕家父子はこの系統である。戦国時代の具教の代に織田信長に滅ぼされた。一部は高家旗本として存続した。庶家に

南部政行 - 日本通信百科事典

行 (鎌倉時代) : 第3代目の当主の南部時実の子、政光の弟、宗実・実政・宗継(宗経)・義元の兄、時長(時季)・師行・政長の父。南部政行 (南北朝時代) : 甲斐南部氏の初代の南部義行の孫、信長の子、守行(盛行)の父、義政(政信)・久慈威信の祖父、家信の曾祖父、元信の高祖父。関連

山田氏_(美濃国) - 日本通信百科事典

を過ごした。兼継の弟の重親が兄の後を継いだ。しかし、尾張国山田郡は北条得宗家の処置によって、尾張山田氏が取り戻していた。しかし、美濃山田氏は南北朝時代~室町時代前期になるころには男系がなく、断絶した。庶家の美濃岡田氏は江戸時代以降も、直参旗本として在続した。歴代当主[]山田重直山

大草家 - 日本通信百科事典

2]があった。目次1 概要2 歴代当主3 脚注4 関連項目概要[]三郎左衛門尉公経の父祖は不詳であるが[1]、弟に公茂がおり、鎌倉時代末期~南北朝時代に朝廷の命で、北畠家と同様に公家として三河国に下向してその地頭となった。後に足利尊氏(高氏)に従い、武家に転じた。公経は1348年

宇野氏_(源氏) - 日本通信百科事典

王(後白河法皇の第2皇子)の挙兵の際は、息子たちを同族の源頼政に派遣させた。その後は、同族の福原氏と庶家の大和越智氏に気圧されて、鎌倉時代~南北朝時代~戦国時代~江戸時代はひっそりと存在したようである。江戸時代初期に遠縁筋の徳川家康により、高家(高家旗本)に課せられて、明治時代に

太田氏 - 日本通信百科事典

: 備後太田氏とも呼ばれる。鎌倉幕府問注所執事の三善康信の子の康連[2]・康有父子を祖とする氏族。備後国世羅郡太田郷[3]を本拠地とした。南北朝時代に、周防国玖珂郡椙杜郷[4]を賜り、椙杜氏と改称した。太田氏 (陸奥国) : 奥州太田氏とも呼ばれる。丹姓秩父氏流畠山氏一門の浄法

宮原氏 - 日本通信百科事典

氏・薩摩鶴田氏・入来院氏・薩摩高城氏があった。薩摩国川辺郡加世田郷宮原村[11]を拠点とした。通字は「景」。秦姓惟宗氏流島津氏の家老となり、南北朝時代の楡井(仁礼)頼仲が著名である。後世に文徳源氏と仮冒した。宮原氏 (日向国) : 日向宮原氏とも呼ばれる。上記の薩摩宮原氏の庶家。

大和氏 - 日本通信百科事典

に継がれた。その一方、光平の庶長兄の宗平は父祖の地である相模国にとどまって大和氏と称して、子の政平・行平とともに相模国東部で勢力を拡大した。南北朝時代になると、遠縁筋の足利尊氏(高氏)に従った、行平の玄孫の氏政は尊氏から、諞の一字を賜った。以後、大和氏は室町幕府に仕えて奉公衆とな

トルコ系民族 - 日本通信百科事典

返していた。五胡十六国時代、鮮卑の衰退後はモンゴル高原に進出し、一部の丁零は中国に移住して翟魏を建てた。高車[]モンゴル高原に進出した丁零は南北朝時代に北漢民族(鮮卑拓跋部政権の北魏の支配下の民族)から高車と呼ばれるようになる。これは彼らが移動に使った車両の車輪が高大であったため

大島義政 - 日本通信百科事典

しています。その他の一族については「里見義政」をご覧ください。大島義政の肖像大島 義政(おおしま よしまさ、1305年 - 1344年)は、南北朝時代の武将。別名は義昌。新田氏(上野源氏)流源姓里見氏一門の上野大島氏の当主の大島盛義の孫、義貞(義員)の子、糸井義賢・糸井経政[1]

大井田氏経 - 日本通信百科事典

その他の一族については「里見氏経」をご覧ください。大井田氏経の肖像(菊池容斎『前賢故実』)大井田 氏経(おおいだ うじつね、生没年不詳)は、南北朝時代の武将。大井田氏(越後源氏)の当主の大井田経隆の子、経兼[1]の弟、羽田経世[2]の兄、経景・大岡経重(越後大岡氏の祖)の父。概要

合土義澄 - 日本通信百科事典

野国新田郡内に本貫がある上野長岡氏・鶴生田氏・上野庄田氏[2](鶴生田氏の庶家)・粕川氏(糟川氏とも、上野長岡氏の庶家)などの庶家があった。南北朝時代に、義澄(経義)の後裔の為綱が、新田氏惣領家の新田義貞に忠実に従った。脚注[]↑ 『尊卑分脈』、『長楽寺草写本源氏系図』(『長楽寺

和賀氏 - 日本通信百科事典

、奥大道に夜盗が蜂起したため、北条得宗家の命を受けて奥州の地頭人らは警護を命じられたが、その中に和賀三郎兵衛尉と同五郎右衛尉がみえる[8]。南北朝時代に、暦応3年(1340年)には、和賀氏は南朝・北朝側にそれぞれ一族が分かれて、庶家の中でも有力な鬼柳氏らとともに足利氏(下野源氏)

吉田家 - 日本通信百科事典

寺家の嫡流。吉田光房(甘露寺光房)を祖とする。庶家に葉室家[2]・勧修寺家[3]・万里小路家・清閑寺家[4]・中御門家[5]・堤家があった。南北朝時代に吉田定房(甘露寺定房)を輩出した。吉田家 (卜部氏) : 卜部姓一門。吉田兼煕を祖とする。庶家に萩原家[6]・藤井家がある。脚注

土岐秀光 - 日本通信百科事典

に仕えた僧侶。脚注[]↑ 『大僧正天海』(須藤光暉/富山房/1916年)より。関連項目[]明智光秀三宅秀満(弥平次/秀俊) : 光秀の女婿、南北朝時代の備前国児島郡常山郷の国人で悪党出身で南朝方の児島高徳(小島法師/志純入道)の後裔で、三河国広瀬城主・三宅高貞の孫、徳置(秀朝/長

一条光遠 - 日本通信百科事典

一門について記述しています。その他の同族については「源光遠」をご覧ください。一条光遠の肖像一条 光遠(いちじょう みつとお、生没年不詳)は、南北朝時代末期から室町時代後期にかけての武将。武田氏(甲斐源氏)流甲斐一条氏の当主の一条常光(経光)の玄孫、信連[1]の曾孫、貞義の孫、義遠

大井田氏 - 日本通信百科事典

氏経・経世を伴って、2,000騎の軍勢を率いて駆け付けて、新田氏一門の中核として鎌倉攻めに加わり、北条得宗家を攻め滅ぼした(『元弘の乱』)。南北朝時代の建武親政からは経隆の次男の氏経(式部大夫・弾正少弼)が義貞配下の将として勇戦し、『湊川の戦い』での義貞の敗北の後、越前国に向かっ

ラーティアオ(キュイディメ) - 千花模様 ~金雀枝のめも帳~

たところ、それは瞬く間に市場を席巻し、小学生の間で最も人気の食品となった。現代のスナックではあるが、主な材料の生麩は中国では古い歴史があり、南北朝時代に生まれた。生麩は精進物だが高タンパクで、肉に近い食感があるため、多くの中華料理の材料となっている万能食材である。  ラーティ

貞治二年御鞠記 - いにしえwiki

貞治二年御鞠記一名衣かつきの日記後晋光園攝政良基公貞治二のとしさ月中の十日。四の海浪しづまり。万國風おさまれるころ。春の杪は名ごりなくしげりはてゝ。夏木だちおりえがほなるに。紫の庭砌いさぎよく。玉の砂のうへすゞしきゆふべ。卯月の事しげかりし神わざも過ぬれば。百敷のあたりいとさう/

鶴の湯温泉_(東京都) - Gravity Wiki

完成までは現在の湖底に温泉街(湯治場)があった。現在では、タンクローリーによる配湯を受けている旅館がダムの近くに複数存在する。歴史[]開湯は南北朝時代の延文年間とされる。温泉名の由来は、鶴がこの温泉で傷を癒していたところを発見したことによる。ダム竣工時に温泉(湯治場)は水没したが

大高坂山城 - 御城プロジェクト:RE Wiki

お料理を作ってるところだから、ちょっとだけ待っててね。御城柄の服装が、似合ってる?わーい!ほめられると、ますますやる気が出ちゃうな!さてと、南北朝時代の御城築城時から伝わるこの包丁で、カツオを一匹、丸ごとかっさばいてっと……。とりゃ!えいっ!やあっ!……なかなか手強いなぁ。そうい

杣山城 - 御城プロジェクト:RE Wiki

て呆れた顔をしてるんだよ?籠城戦にでもなってみろ、食料ほど大事なもんはないんだぜ?……あたしは金ヶ崎城攻防戦で、それを思い知ったんだ。あれは南北朝の時代だったか。金ヶ崎城に、新田義貞率いる南朝方の軍勢が入って、北朝方の斯波高経と戦ったんだ。けど、南朝方は劣勢になっちまってな……。

山形城 - 御城プロジェクト:RE Wiki

って道に迷ってしまったじゃと?無理もない。この山形城はまたの名を「霞城(かじょう)」とも言うからのう。天守はよく霞で隠されるのじゃ。山形城は南北朝時代に斯波(しば)氏が築城したのが始まりじゃが三の丸からは奈良・平安時代のものと推定される竪穴式住居が見つかっておる。古来より町が栄え

松倉城 - 御城プロジェクト:RE Wiki

まったく、お前は気が利かぬのう。少しくらい、さばを読んでもよいではないか。今度妾に恥をかかせたら、金山送りにしてやろうぞ。とにかく、松倉城は南北朝時代の終わり頃には、椎名氏が治めていたようじゃ。椎名氏は越中国の守護代として、神保氏と勢力を二分しておった。神保長職(ながもと)に圧迫

乙女城 - 御城プロジェクト:RE Wiki

[]乙女城殿、この前はあまり話せなくてごめんなさい。今日は、頑張って御城の紹介をします……。乙女城を築城した大井氏は……鎌倉以来の名門です。南北朝時代では足利尊氏に味方したことにより、信濃国の守護代として、勢力を広げていきました……。ですが……戦国時代に入ると、北信濃の豪族、村上

根城 - 御城プロジェクト:RE Wiki

E3%83%83%E3%83%88_%E5%9B%B3%E9%91%91.gifボイス[]声:森谷里美自己紹介あたしが根城だて。歴には古く、南北朝時代、1334年、南部師行さんによって作られましたぁー。南朝方の根本となる城という願いをこめてなづけてくれたんだよ。安土桃山時代まで近

群書類従(帝王部) - いにしえwiki

従の帝王部には、15巻35種の文献が収録されている。 巻 資料 読み 時代 人物 029 神皇正統記 じんのうしょうとうき 南北朝時代 030 続神皇正統記 ぞくじんのうしょうとうき 文明 030 椿葉記 ちんようき 室町時代 031 皇

中村舘 - 御城プロジェクト:RE Wiki

?まあ、確かに先代のようにじっとしてるのは苦手だな。少し私について殿に知ってもらった方がいいのかもな。うん、そうだ、そうしよう!中村舘はな、南北朝時代の一三三七年に中村朝高が阿武隈山地から伸びる小丘陵に築いたんだ。縄張りは丘陵最高所に本丸を置いていて、北、西、東にそれぞれ二の丸を