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世良田有親像
世良田 有親(せらだ ありちか、1332年(元弘2年/正慶元年)? - 1385年正月(元中2年12月)?)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての武将。通称は三郎あるいは次郎三郎。官職は左京亮。陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)の一族で、義光流[1]世良田氏の当主である。惣領家の新田氏の宗教である浄土門(浄土教)を信仰していた。
父は世良田経広で、生母は一族の朝谷義秋の娘である。子は三河松平氏(徳川氏/三河源氏)の祖である松平親氏(親季/家氏/信氏)・泰親(政親/義英/益氏)[2]・宗親ら。
有親の前半生は不詳である。ただ、『新田氏根本史料』(千々和実/国書刊行会/1974年)が引用する鑁阿寺所蔵の『新田足利両家系図』[3]によれば、父の経広が南朝方の武将だったので、左京亮を賜った記録が残っている。同時に同族の足利氏(下野源氏)一門の鎌倉公方の足利氏満の被官として従ったという。
さらに、江戸時代中期の尾張国の学者・天野源蔵(信景)の『浪合記』および『鎌倉大草紙』によると、1385年正月(元中2年12月)に、有親はおなじ新田氏一門で族兄弟でもある義季流世良田氏の当主の世良田政義(左衛門少尉)[4]・政季(修理進)父子とおなじく大舘氏一門の大舘氏親[5]とともに信濃国下伊那郡浪合村(現在の長野県下伊那郡阿智村)での『浪合の戦い』で、将軍方の足利氏一門の源姓一色氏・三河吉良氏(三河源氏)の軍勢に敗れて、有親は政義・政季父子と氏親とともに戦死を遂げた[6][7]。
有親の子の親氏・泰親・宗親(信親の父)兄弟とその配下・石川孫三郎[8]らは族父であり、政季の弟の蔵人・政満(政義の次子、幼名は万徳丸)とともに下伊那郡浪合村から三河国碧海郡酒井郷あるいは幡豆郡坂井郷を経て、命からがらに奥三河の賀茂郡松元郷こと松平郷(現在の愛知県豊田市)へ逃亡した。
松元郷(松平郷)に到着し、親氏・泰親・宗親兄弟とともに潜伏状態で過ごした政満は、翌1386年(元中3年)に娘[9]を遺して逝去した。親氏・泰親兄弟は浄土宗の教徒で、まもなく、出家して兄の親氏は「徳阿弥」(悳阿弥)、弟の泰親は「長阿弥」と名乗った[10]。
松元郷の統治者である葛城姓賀茂氏流松元氏(三河賀茂氏)の当主の松元信重(太左衛門)は親氏を評価し、彼が和歌に通じた教養と武勇の優れた勇猛果敢だったので、その娘を娶らせて婿養子として松元郷(松平郷)を継承させた。またその弟の泰親にも一族の娘を娶らせた。ともに「松元氏」と称した。
後に親氏・泰親兄弟は還俗した(宗親は不詳)。特に親氏は信重の娘との間に信広(広親)[11]と信光[12]らを儲けた。
一方、親氏の末弟の宗親の場合は、「松元氏」と称せず、宗親は子の信親とともに故郷の上野国に帰郷して、父の後を継いで依然と「世良田氏」と称し続けて、義隆の代を経て、江戸時代前期に義業・義風父子の代に嗣子がなく、ついに義光流世良田氏の嫡流は断絶したという[13]。
叔父の泰親の後を継いだ信光は野武士・山賊・樵らを配下として勢力を拡大し三河平野に進出して、本姓の世良田氏をそのままにして、「松元から、三河国全域を平定する松平と改称する![14]」と称し、名字を「松元」から「松平」に改めた[15]。
彼は将軍・足利義教に仕えて、同じく三河国の土豪・戸田宗光(信光の女婿)とともに義教の政所執事である伊勢貞親(桓武平氏貞盛流伊勢氏当主)の被官および国人となり、徳川氏(悳川氏)の祖となった。彼の末裔が徳川家康である。
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