松平康忠 - 日本通信百科事典
久(張忠)[1]の子、忠高の父。天文9年(1540年)の『安祥の戦い』で戦死を遂げた。松平康忠 (長沢松平家) : 通称は源七郎、法号は源斎入道。長沢松平家の当主の松平正忠の子、親良(ちかなが、兵庫介)の兄、康直・直隆・直宗・直之の父。惣領家の徳川家康の族子で、、従弟(松平広忠(
久(張忠)[1]の子、忠高の父。天文9年(1540年)の『安祥の戦い』で戦死を遂げた。松平康忠 (長沢松平家) : 通称は源七郎、法号は源斎入道。長沢松平家の当主の松平正忠の子、親良(ちかなが、兵庫介)の兄、康直・直隆・直宗・直之の父。惣領家の徳川家康の族子で、、従弟(松平広忠(
田冠者(『尊卑分脈』)こと義光(三郎)の末裔・経広の子。↑大舘氏一門の氏宗の子。↑ 『徳川家譜』(『好古類纂』所収)より。↑ 諱は義忠。道念入道こと石川新兵衛(宗忠/義助)の嫡子で、源義時の末裔とされ、伯耆守数正の祖。↑ 政満の娘は在原姓荒尾氏族の荒尾宗顕の系統である平手秀家に嫁
れも宗仲の子。↑ 家教の子。↑ 通称は又太郎/源七郎。南北朝時代に足利尊氏に従軍して、諏訪頼重を壊滅する功績を挙げた。↑ 晩年の家村は、禅翁入道と号した(『寛政重脩諸家譜』)。↑ 大石為重の婿養子。↑ 中原兼遠の子、落合兼行・巴御前の兄。↑ 現在の長野県木曽郡木曽町福島大字周辺↑
義光流世良田氏(上野源氏)流松平氏(徳川氏・三河源氏)一門の武将。約数名ほど存在する。松平信之 (藤井松平家) : 通称は彦四郎、法号は道高入道。藤井松平家の第4代目の当主の松平忠国の子、信久の弟、信重・忠栄の兄、忠之・信通の父。内藤信之 : 内藤松平家一門の武将。約2名ほど存在
人と再会する。ガスコン(CV:小林修)かつてエリオスに所属していた歴戦の勇士。「銀河の虎」という異名を持つ豪快な男で、剣人とはお互いに「タコ入道」「小童」と悪態を付き合いながらも良き友人となる。☆ザール星間帝国クロッペン(CV:市川治)ザール星間帝国の地球侵略部隊総司令官。常に不
くなっており、口にもヘビの牙や舌が備わる。天井下り白蛇のSMILE。口に関しては濡れ女と同じだが、こちらは下半身がヘビのものとなっている。輪入道パグのSMILE。首から下が完全にパグそのものとなっており、もはや人面犬のような風貌となってしまっている。ブラックマリアの武器に組み込ま
・定行・定綱・定実・定房・定政の父。徳川家康の異父弟でもある。依田康元 : 別名は康貞(康真)/加藤康寛/芦田幸政、通称は新六郎、法名は宗月入道。河内源氏頼季流依田氏の当主の依田信蕃(のぶしげ)[7]の子、康国(芦田康国/松平康国)の弟、公康(きみやす/ともやす/まさやす/たかや
三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門および、松平姓を与えられた人物。約4名ほど存在する。松平忠正 (桜井松平家) : 通称は与一郎、法号は道春入道。桜井松平家の当主の松平家次の子、忠吉(ただとみ)の兄、家広の父。松平忠正 (三木松平家) : 三木松平家の祖の松平信孝(徳川家康の大叔
巣郡長屋郷(現在の岐阜県本巣市長屋町)を拠点とした。↑ 長屋国景の孫、信寿の子、信濃森氏(信濃源氏)一門の若槻氏の当主の若槻頼継(頼長(覚三入道)の子、宗光の父、宗清の祖父、氏朝の曾祖父、清尚の高祖父、清継・隆季(尚託/高秀斎)の6世の祖、久俊(隆季の子)の7世の祖)の女婿。↑
利政に反感を持って攻撃した頼芸の弟の揖斐光親[7]とその家臣である長屋景興[8]を滅ぼした。まもなく、利政は秀龍と改名し、晩年は出家して道三入道と号した[1]。しかし、道三は実父の存在を疎ましく思い、抹消を試みていたらしく、自らは京で北面の武士をつとめた松波基宗(左近将監)[9]
oon)金有増蔵(クレヨンしんちゃん 超時空!嵐を呼ぶオラの花嫁)赤ん平、吸血鬼ラ・セーヌ、白山坊、海座頭、悪魔ベリアル、皿小僧、おりたたみ入道、ひでり神、天邪鬼、天狐、邪魅、ぬりかべ 他(ゲゲゲの鬼太郎(第1作))ゾッド(剣風伝奇ベルセルク)両津勘吉(こちら葛飾区亀有公園前派出
。断絶。脚注[]↑ 現在の山梨県西山梨郡里垣村板垣大字↑一条忠頼の後裔、甘利信宗の子、曾雌虎忠(そし まさただ)の兄、信益・信忠(昌忠/晴吉入道)・信康の父、信頼(信忠の子)の祖父。↑ 3.03.1 信方の従弟(信方の叔母の子)の於曾昌安(源八郎)の子、三枝守勝(三枝虎吉(栄富斎
)父子と斯波氏一門の高水寺氏の家老の梁田詮泰(奥州梁田氏)などが出たという。脚注[]↑ 足利氏一門の今川氏(駿河源氏)の当主の今川貞世(了俊入道)の『難太平記』によると、義兼は又従兄の源為朝の庶子と記されている。↑ 簗田御厨とも呼ばれる。↑ 生年は、1127年(大治2年)の説もあ
の兄。生母は三河国の山中城主の碓井姓鎌倉氏流相模長江氏の系統の美濃長屋氏の庶家の三河西郷氏一門の西郷稠頼(つぐより/ちかより/しげより、清海入道)[2]の娘。嗣子がなく、弟の信貞が後を継いだ。松平親貞 (挙母松平家) : 初名は定宗、通称は甚次郎。松平氏の庶宗家である挙母松平家の
だけ蘇生可能な回数も減少する。果実はピンク色のパイナップルのような形状で、ヘタ部分にヘビの首のような8つの房がある。ヒトヒトの実:モデル“大入道”能力者:“おいはぎ僧兵”オニ丸『幻獣種』。大入道に変形できるようになる。獣型では4mを超える大男となり、二刀流のゾロ相手に互角に戦える
名ほど存在する。松平親長 (岩津松平家) : 松平氏惣領家の当主の松平親忠の次子、乗元の弟、超誉存牛(僧侶)・長親(忠次/長忠)・親房(宗安入道)・家久(張忠)[1]・親光・長家・乗清[2]らの兄、忠勝[3]の父、親足(ちかたり)・小栗忠吉(ただとみ、三河小栗氏(小栗松平家)の祖
も呼ばれる↑世良田義季(得川義秀)・頼氏父子の末裔。↑大舘氏一門の大舘氏宗の子。↑ 『徳川家譜』(『好古類纂』所収)より。↑ 諱は義忠。道念入道こと石川新兵衛(宗忠/義助)の嫡子で、源義時の末裔とされ、伯耆守数正の祖とする。↑ 政満の娘は在原姓荒尾氏族の荒尾宗顕の系統である平手秀
松平忠高 (松平深津家) : 松平深津家の当主の松平忠政の子、忠朋の父。松平忠高 (松平大河内家) : 通称は弥次郎/九郎右衛門、法号は慧忠入道。松平大河内家の当主の正久の曾孫、正武[2]の孫、忠正の子。脚注[]↑ 読みは「ひらただ」。↑ 正貞・松平正佐(正任)・正方の弟。この記
登録日:2020/03/01 Sun 21:14:12更新日:2024/05/16 Thu 12:49:24NEW!所要時間:約 15 分で読めます▽タグ一覧『狼男(英:werewolf)』とは、欧州の広範な地域と国にて古くから伝えられる、人間が狼へと姿を変えるとされる変身譚。及
の祖父、長久の曾祖父、久行の高祖父。松平正久 (大草松平家) : 別称は親光[2]、通称は七郎。法号は昌久斎。大草松平家の祖の松平光重(栄金入道)の孫、信貞(正安)[3]の子、正光の父、正親の祖父、康安の曾祖父。永禄6年(1563年)の『三河一向一揆』で、三河吉良氏一門の吉良義昭
職は頼母。徳川家康の玄孫、福井松平家の祖の松平秀康(結城秀朝)の曾孫、直正(朝日直政)の孫、綱隆の子、大学頭・弁松・小次郎・綱通(綱親/綱周入道(こうしゅうにゅうどう))の弟、宣維の父、宗衍(むねのぶ)の祖父。出雲国松江藩の第4代目藩主となった。脚注[]↑ 松平乗元の子、乗正・乗
0人。不景気が続く今日の日本映画界では決してできない絵作りである。内容も爆発の中を徳川家康が逃げ回るという謎のシーンと、坊主のはずの三好清海入道が女になってる点を除けば不可思議な点はなく、かなり正統派の時代劇である…かのように見える。で、完成した映画を見てみると。いきなり2001
次・康俊・康兼・康斉(やすなり)・康末(やすまつ)・康行の父、康兆(やすとき、康兼の子)の祖父、康永の曾祖父。↑ 原田種之の父。↑正親(正周入道)の兄。この記事は 『松平親次』 のための曖昧さ回避ページです。下記は同じタイトルを共有しているページへのリンク一覧です。下記の曖昧さ回
頼久の子)の祖父、益宣の曾祖父、宣重の高祖父、重頼の6世の祖、和宣の7世の祖。明智光重 (兵庫頭) : 別称は頼宣、通称は彦六郎、法号は玄宣入道。明智頼重(頼助)[1]の玄孫、頼秀の曾孫、頼高の孫、光高(頼久)の子、政宣の父[2]。脚注[]↑長山頼基の子。↑ 鈴木眞年著『百家系図
郎)・長山元頼(小里基頼)・万喜頼房(萱津六郎)の兄、頼武(政頼/頼建)[3]・頼芸[4]・江戸崎治頼[5]・光高・揖斐光親・鷲巣光敦(光蓮入道)・島田頼満(嶋田頼満)・頼香・光武(光建)の父。佐良木政房 : 大桑頼名の玄孫、佐良木光俊の曾孫、兼頼(兼慶)[6]の孫、頼政(慶政)
の挙兵と反乱のきっかけとなった。史実においては1333年~中先代の乱の頃に国司を務めた公家「清原真人某」及びそれと同一人物とされる「左近少将入道某」と思われる。この時期は国勢が不安定だったため、国司がコロコロ変わっていたのだが*2、彼については名前すらロクに伝わっていない。そのた
953 撰集抄雑部 954 閑居友雑部 956 蕉窓夜話雑部 957 蠡測集雑部 958 戴恩記雑部 959 貞徳翁筆記雑部 959 寒川入道筆記雑部 960 月刈藻集雑部 962 鹿島問答(破邪顕正義)雑部 963 旅宿問答雑部 964 後鳥羽院御霊託記雑部 964 大織冠像
うこう)上西門院兵衛(じょうさいもんいんのひょうえ)祥子内親王(しょうしないしんのう)少将内侍(しょうしょうないし)→ 後深草院少将内侍性助入道親王(しょうじょにゅうどうしんのう)成尋阿闍梨母(じょうじんあじゃり の はは)正徹(しょうてつ)上東門院中将(じょうとうもんいんのちゅ
弾正(保科正俊)攻め弾正(真田幸隆)徳大寺左大臣(藤原実能)後徳大寺左大臣(徳大寺実定)法性寺関白(藤原忠通)後法性寺関白(九条兼実)最明寺入道(北条時頼)殺生関白(豊臣秀次)中先代(北条時行)尼将軍(北条政子)日本紀の御局(紫式部)千首大輔(殷富門院大輔)浮かれ女(和泉式部)匡
院公泰(とういん きんやす)洞院実雄(とういん さねお)洞院実泰(とういん さねやす)道堅(どうけん)道元(どうげん)道昭(どうしょう)道助入道親王(どうじょにゅうどうしんのう)道命(どうみょう)登蓮(とうれん)十市遠忠(とおいち とおただ)土岐筑波子(とき つくばこ)徳川家康(
戦部 580 長享年後畿内兵乱記合戦部 581 細川政元記合戦部 581 瓦林政頼記合戦部 582 道家祖看記合戦部 582 立入左京亮宗継入道隆佐記合戦部 583 舟岡山軍記合戦部 589 惟任退治記合戦部 589 太閤紀州発向記合戦部 589 太閤四国発向並北国御動座記合戦部
意抄@文永二真蹟あり法華題目抄@文永三真蹟あり念仏者臨終現悪相御書@文永三 星名五郎太郎殿御返事@文永四 安国論御勘由来@文永五真蹟あり宿屋入道許御状@文永五 宿屋入道再御状@文永五真蹟あり北条時宗への御状@文永五 宿屋左衛門光則への御状@文永五 平左衛門尉頼綱への御状@文永五
元良親王集 群書類従20出観集(入道二品親王覚性)群書類従264珍誉集(法印珍誉)続群書類従444北院御室御集(守覚法親王)群書類従265守覚法親王百首高台院和歌集(道助法親王)雅成親王集澄覚法親王集尊円法親王百首瓊玉和歌集(宗尊親王)群書類従230柳葉和歌集(宗尊親王)東関三百
0 小笠原流手綱之秘書武家部 681 三議一統大双紙(当家弓法集)武家部 682 了俊大草紙武家部 683 京極大草紙武家部 684 小笠原入道宗賢記武家部 685 伊勢貞親以来伝書武家部 686 伊勢兵庫頭貞宗記武家部 687 伊勢備後守貞明覚悟記武家部 687 伊勢六郎左衛門
続皇年代略記(平高潔纂)史伝部1 37 本朝歴代法皇外紀(元策撰)史伝部1 38 貴胤碩臣出家標目史伝部1 39 貴胤執政并諸名家入道薙髪目録史伝部1 40 武将家落髪標目史伝部1 41 法皇外記緇門鴻宝史伝部1 42 議奏歴史伝部1 43 伝奏次第史伝部1 4
向115107南無妙法蓮華経113108釈迦仏111109華厳宗111110当世108111出現108112一日108113人師107114入道107115月氏105116無間地獄104117所説104118諸人103119帝釈102120妄語102121弘通101122未来10
く世の席に あそふかな 我のむ酒に しみそめの袖 (酒大僧正自慢)096.はなさせぬ たらしの意気の 君ならて ふりうく物は 徳利也けり (入道酒太上戸大臣)097.来ぬ客を まつぼの茶だす お数寄屋に やする火ばしの 身もこかれつゝ (御忠功茶道)098.風いとひ まるのおかわ
A. 秋田県男鹿市にある県道参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E7%94%B0%E7%9C%8C%E9%81%9355%E5%8F%B7%E5%85%A5%E9%81%93%E5%B4%8E%E5%AF%92%E9%A2%
A. 見越し入道は、日本の妖怪の一種で、山道や峠道などで出現するとされています。その姿は、人の背丈ほどもある大きな入道(僧)で、顔は長く、目は一つ、口は大きく裂け、手には数珠を持っていると言われています。また、見越し入道は、夜になると出現し、人々を驚かせることもあったとされていま
A. 覚深入道親王の諱(いみな)参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%AF%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
A. 朝仁親王とは、後鳥羽天皇の皇子で後の天台座主・道覚入道親王のことです。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
A. 後鳥羽天皇の皇子で、道助入道親王とも呼ばれる。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
名詞-普通名詞-一般110徳名詞-普通名詞-一般109勝れ動詞-一般109先名詞-普通名詞-副詞可能108始め名詞-普通名詞-副詞可能108入道名詞-普通名詞-サ変可能108阿含名詞-普通名詞-一般108帝釈名詞-固有名詞-一般108もつ動詞-一般108時名詞-普通名詞-助数詞可
云。式の懸とは櫻柳松蛙手といふ。是兒女士の說也。また說。櫻柳松かへでと云へり。此說に付て。宗敎卿于時殿上人。去安貞二年四月廿四日將軍家大納言入道今御所也。南庭に切立の事有き。下官相共に奉行を承る。然に彼の所行をみむがために。一向彼卿に打任せて一義をも不出。前修理權大夫時房朝臣。む
入木抄 495 本朝書籍目録 495 仙洞御文書目録 495 倭片仮字反切義解 495 通憲入道蔵書目録 495 諸家点図 496 桂林遺芳抄 497 新撰字鏡 498 中正子
のたびはいかゞあるベきなど殿へたづね申させ給ひしかば。はした色はめづらしかるべきよしを申させ給へるとなん。後鳥羽院〔八十二代〕の御時。松殿の入道關白殿〔基房〕のはからひ申させ給ひしより。御まりに御さしぬきをめさるゝことにはなりにたり。はれの御まりにくれなゐの御はかまにくゝりをあけ
、打ち出し満尾のシヤギリまで、人魂の呼ぶ糸引きも切らす仕掛け、焰硝の立ち消えせず、ドロドロの大入疑ひなしと、まづ蓋あけた初日から、先を見越の入道に代つて、其の為口上述ぶる者は、何廼舎のあるじ香以山人。竜斎道人書く玉櫛笥、箱根向ふより仕入れ持参し、お化の荷物、蓋あけわたる天道星、て
探る大手も ためばかりなり(青梅)015.見る人も 肝より先に 目の玉の 潰れて凄き 大坐頭の坊(語吉窓喜樽)016.肩揃ふ 友は見越しの 入道に 道は大きな 坐頭の□□(筬丸)017.三国の 一名をとりし 大座頭 富士の山をも 見越し入道(浜松)タグ一覧: カウンターページ全体
大字御所→吉見町大字御所現在の地名:吉見町大字御所※ 本リストは作成中です。情報が不完全な場合がありますが、ご了承ください。稲荷前入道塚和田谷重円坊(十円坊)参考文献・ 吉見の地名と方言
弘法大師詠歌弘法大師和歌集清玉集拾遺愚草俟後抄二組御詠吟集逍遥院瑶樹抄宗誾集入道侍従中納言殿詠歌集政宗公御自筆御草稿大猷院殿御詠歌政宗卿光宗卿詠歌小堀遠江守政一詠草霊台院和歌雅章卿富士詠歌直矩公御詠歌天祐公和歌肯山公集暁月集自詠愚草集同追加獅山君御点詠草留圭璋集(伊達村胤)岩間草