松元信重

ページ名:松元信重

松元信重像

松元 信重(まつもと のぶしげ、? - 1392年3月12日(明徳3年2月18日)?)は、室町時代前期~中期にかけての三河国の松元郷(松平郷)の領主(あるいは国人)。通称は太左衛門[1]

松元氏三河賀茂氏)は、京の賀茂神社の神官の一族(葛城姓賀茂氏一門)で、三河国に土着した豪族で、本多氏とは同族である。子は信武[2]・海東忠広こと酒井親清[2]室・松平親氏(親季/家氏/信氏)室ら。

曾祖父は賀茂在盛、祖父は在信[3]、父は信盛[4]で、また叔父は在久、従弟は在近[5]。妻は山窩出身といわれる。

目次

概要[]

松元氏は『松平村誌』にある『松平氏由緒書』では賀茂氏あるいは鈴木氏の一族とされ、また前述の在原姓・荒尾宗顕の後裔の説もあるため、松元信重は在原氏(平城天皇の系統)とする説もある。

松元氏は、三河国中で代々弓馬や和歌に秀でた家柄として知られており、京の賀茂一門が司る賀茂神社の庶家のうち有徳・富貴に恵まれていたという。

後宇多天皇に宮仕えした曾祖父の在盛は1240年代生まれ、造酒司という官職に就いてた祖父の在信は1280年代生まれ、父の信盛(信頼)は1300年代生まれ、叔父の在久は1310年生まれと言われる[6]

1360年(延文5年)に父の死後に家督を継いだ。1367年(貞治6年)に、曾祖父・賀茂在盛の菩提所寂静寺(現在の高月院)を縁戚の足助氏(三河平氏[7]の援助で、寛立を開山に開基した。

従弟の在近および、子の信武が嗣子がなく、父よりも先立ち、ついに松元氏の血筋は途絶えたため、信重は婿養子の親氏・泰親兄弟に松元郷を譲って、逝去した。

松元氏と松平氏の関連性[]

江戸時代中期の尾張国の学者・天野源蔵(信景)の『浪合記』および『鎌倉大草紙』によると、1385年(元中2年)に、陽成源氏(河内源氏)流新田氏上野源氏)一門の義季流世良田氏の当主世良田政義(左衛門少尉)[8]・政季(修理進)父子は、族兄である義光流世良田氏の当主でもある左京亮・世良田三郎有親[9]と同族の大舘氏親[10]とともに信濃国下伊那郡浪合村(現在の長野県下伊那郡阿智村)での『浪合の戦い』で、同族の足利氏下野源氏)一門の一色吉良の軍勢に敗れて戦死した[11]

政季の弟である蔵人・政満(政義の次子、幼名は万徳丸)はその族子で有親の子・世良田親氏(親季/家氏/信氏)・泰親(政親/義英/益氏)・宗親(信親の父)兄弟とその配下・石川孫三郎[12]らは浪合村から三河国碧海郡酒井郷(現在の愛知県刈谷市東境町)あるいは幡豆郡坂井郷(現在の愛知県幡豆郡吉良町)を経て、命からがらに奥三河の賀茂郡松元郷こと松平郷(現在の愛知県豊田市挙母町)へ逃亡した。

松元郷(松平郷)に到着し、潜伏状態で過ごした政満は、翌1386年(元中3年)に足利義満の厳命を受けた幕府方の捜索で、政満は捕らわれて、京都に連行されて出家することで許されて、晩年に四国にわたって、1466年10月に老齢のために逝去したという。政季には嗣子がなく、ついに義季流世良田氏は断絶した[13]

その一方、幕府方の捜索を巧みに逃れた親氏・泰親兄弟は浄土宗の教徒で、まもなく出家して兄の親氏は「徳阿弥」(悳阿弥)、弟の泰親は「長阿弥」と名乗った[14]

信重は親氏を評価し、彼が和歌に通じた教養と武勇の優れた勇猛果敢だったので、その娘の於水の方(おみなのかた)を娶らせて婿養子として松元郷(松平郷)を継承させた。またその弟の泰親にも一族の娘を娶らせた。ともに「松元氏」と称した。

後に親氏・泰親兄弟は還俗した(宗親は不詳)。特に親氏は信重の娘との間に信広広親[2]信光[15]らを儲けた。

一方、親氏の末弟の宗親の場合は、「松元氏」と称せず、宗親は子の信親とともに故郷の上野国に帰郷して、父の後を継いで依然と「世良田氏」と称し続けて、義隆の代を経て、江戸時代前期に義業義久(義風)父子の代に嗣子がなく、ついに断絶したという。

叔父の泰親の後を継いだ信光は野武士・山賊・樵らを配下として勢力を拡大し三河平野に進出して、本姓の世良田氏をそのままにして、「松元から、三河国全域を平定する松平と改称する![16]」と称し、名字を「松元」から「松平」に改めた[17]

彼は将軍・足利義教に仕えて、同じく三河国の土豪・戸田宗光(信光の女婿)とともに義教の政所執事である伊勢貞親(桓武平氏貞盛流伊勢氏当主)の被官および国人となり、徳川氏(悳川氏)の祖となった。彼の末裔が徳川家康である。

ちなみに信光の3男の親忠の庶子である長忠[18]は「矢田松平家」の当主となるが、子がなく断絶した。

脚注[]

  1. あるいは太郎左衛門、文献によっては「松平信重」「松平太郎左衛門少尉」とも呼ばれる。
  2. 2.02.12.2 『三河 松平一族』(平野明夫/新人物往来社/2002年)が引用する『松平氏由緒書』によると、信重の息子・信武は土師姓大江氏流の海東氏一門の海東忠則(通称は与四郎、忠明の孫、忠時(大舘氏一門の大舘氏親の娘を娶る)の子)の娘を娶り、信重の長女が忠広(忠則の弟)に嫁いで、彼は海東忠広から酒井親清と改称して、三河国碧海郡酒井郷の三河酒井氏の祖となり、その子の親時(通称は五郎、氏忠(親忠)・家忠・親重らの父)を産んだため、松元氏(松平氏)の親戚となった。同時に広親自身は、酒井親時の娘を娶り挙母松平家(松平氏庶宗家)の祖となる(通説での広親は酒井親清の娘を娶り、酒井広親と改称して三河酒井氏の祖となったと述べている)。
  3. 陰陽寮下司系図 - 加茂系図』(鈴木真年『百家系図稿』所載)では、信盛の父親は賀茂在信とする。
  4. または信頼、『古代氏族系譜集成』(宝賀寿男/古代氏族研究会/1986年)では、信盛を尾張国の豪族である在原性・荒尾持頼(宗顕の子、泰隆の兄弟)と同一人物とし、母方の叔父・信頼(信盛)の養子になり、松元氏の祖となったとする。
  5. 在久の子で、在周/在幾/在局(=ありちか)とも呼ばれ、近信の父でもある。
  6. それが事実であれば、信重は1320年~1340年代生まれの可能性が高い。
  7. 丹姓良兼流長田氏尾張平氏)の庶家で、同族に・葦敷氏(尾張岡田氏)・尾張山田氏尾張木田氏・小河氏・浦野氏・水野氏・毛受氏・永井氏・大浜氏などがある。坂東八氏房総平氏)こと千葉氏とは同族である。
  8. 世良田義季頼氏父子の後裔。
  9. 新田冠者(『尊卑分脈』)こと義光(三郎)の末裔・経広の子。
  10. 大舘氏一門の氏宗の子。
  11. 『徳川家譜』(『好古類纂』所収)より。
  12. 諱は義忠。道念入道こと石川新兵衛(宗忠/義助)の嫡子で、源義時の末裔とされ、伯耆守数正の祖。
  13. 政満の娘は在原姓荒尾氏族の荒尾宗顕の系統である平手秀家に嫁いで、子の英秀・秀定を産み、その末裔が平手政秀という。
  14. ただし、「長阿弥」は父・有親の法名とする説もあり(『藤沢寺記』・『称名寺略記』・『遊行・藤沢両上人御歴代系譜』など)、末弟の宗親の法名は不詳である。
  15. 幼名は竹千代、次郎三郎、法号は和泉斎、官職は左京亮。
  16. 「松平氏」の由来は現在の豊田市にある矢作川の上流の巴川付近にある山間の高台にある「松の木がある平地」を省略したものとする。
  17. 『名字でここまでわかる おもしろ祖先史』(丹羽基二/青春出版社/1990年)、頁74~77より。
  18. 平仮名表記は「ながただ」、別称は忠次、「張忠」は誤りとする。

関連項目[]



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