世良田義隆 - 日本通信百科事典
祖父、満家の曾祖父、経家の高祖父、経徳の5世の祖、宗基の6世の祖、義業の7世の祖、義風の8世の祖。世良田義隆 (義季流) : 江戸時代末期の信濃国上田藩の上級藩士。義亮[2]の父。おそらく義季流世良田氏の末裔と思われる。脚注[]↑松平親氏・泰親の末弟。↑ 明治時代の軍人(海軍少将
祖父、満家の曾祖父、経家の高祖父、経徳の5世の祖、宗基の6世の祖、義業の7世の祖、義風の8世の祖。世良田義隆 (義季流) : 江戸時代末期の信濃国上田藩の上級藩士。義亮[2]の父。おそらく義季流世良田氏の末裔と思われる。脚注[]↑松平親氏・泰親の末弟。↑ 明治時代の軍人(海軍少将
野源蔵(信景)の『浪合記』および『鎌倉大草紙』によると、1385年12月に経広の子・有親が同族の世良田政季(修理進)・政満兄弟[2]とともに信濃国下伊那郡浪合村(現在の長野県下伊那郡阿智村)で、同族の足利氏(下野源氏)一門の一色・吉良の連合軍と戦って、政季とともに戦死した(『浪合
12月に同族の世良田政義(左衛門少尉)[10]とその子の世良田政季(修理進)・政満(蔵人/万徳丸)兄弟[11]と同族の大舘氏親[12]ともに信濃国下伊那郡浪合村(現在の長野県下伊那郡阿智村)で足利氏一門の一色・吉良の連合軍と戦って、政季とともに戦死した(『浪合の戦い』)[13]。
と、父の定明は弟の定衡(定政の叔父)と内訌を起こした。それに乗じて、定衡は兄の定明を殺害する事変が起こして[2]、さらに御嵩城主の小栗教久(信濃守)[3]の攻撃を受けて落城し、定衡は火を放って自害した。まだ、3歳であった定明の遺児である幼い愛菊丸(定政)は一族とともに家臣に護衛さ
堀江家)とも呼ばれる。陽成源氏(河内源氏)流の堀江頼純(塩谷冠者)を祖とする下野源氏。源姓鎌倉氏(源家/相模源氏)の庶家、同族に源姓木曾氏(信濃源氏)・源姓吉見氏(武蔵源氏/能登源氏/石見源氏)・阿野鎌倉家(駿河源氏)・下野中村氏(下野源氏)があった。本貫は摂津国東成郡堀江郷[1
れは後世の地名で該当しないとされる(『木曾義仲の挙兵と市原・横田河原の合戦』(菱沼一憲/『群馬歴史民俗』25号/(改題)『木曾義仲の挙兵と東信濃・西上野地域社会』/2004年)と『中世地域社会と将軍権力』(菱沼一憲/汲古書院/2011年)の1部第二章1節による)。↑ 父の義清も義
弱であったことから、父の信昌に疎まれて、次子の油川信恵を後継者にする動向が見られた。さらに信縄の生母は、父の信昌の宿敵である同族の小笠原氏(信濃源氏)一門の跡部氏の娘であり、信昌の父の信守が病没してから幼少の信昌の正室として、強引に跡部氏一族が押し付けてきた政略的婚姻関係であった
小笠原 長隆(おがさわら ながたか)とは、河内源氏義光流甲斐源氏の系統の小笠原氏(信濃源氏)一門の武将。約6名ほど存在する。小笠原長隆 (深志小笠原家) : 通称は又次郎。小笠原氏惣領家の深志小笠原家(府中小笠原家)の当主の小笠原長時の子、貞次・貞慶(さだのり)[1]の兄、三次正
たる親族関係による。↑ 貞盛の孫、維将の子、維時の弟。↑盛忠・宗盛・貞度の弟。↑ 文永4年(1267年)に、北条得宗家の命で、阿波小笠原氏(信濃源氏)の初代当主である阿波国守護の小笠原長房によって、討ち取られた。この記事は 『平維基』 のための曖昧さ回避ページです。下記は同じタイ
恩顧で保っていた後白河法皇はかえって平氏の勢力を不快感を示し、1180年に平氏によって圧迫された源氏が勢いを盛り返して、伊豆国にいた源頼朝や信濃国にいた木曾義仲(頼朝の従弟)をはじめ下野国の源姓足利氏(下野源氏)や常陸国の源姓佐竹氏(常陸源氏)や、その一族である甲斐国の武田氏(甲
: 伊勢関氏の一門の人物。約2名ほど存在する。脚注[]↑盛忠・宗盛・貞度の弟。↑ 文永4年(1267年)に、北条得宗家の命で、阿波小笠原氏(信濃源氏)の初代当主である阿波国守護の小笠原長房によって、討ち取られた。この記事は 『平貞基』 のための曖昧さ回避ページです。下記は同じタイ
小笠原 長晁(おがさわら ながあき)とは、河内源氏義光流甲斐源氏の系統の小笠原氏(信濃源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。小笠原長晁 (幡豆小笠原家) : 通称は五郎三郎/源次郎/七右衛門、法号は日原斎。三河国の幡豆小笠原家の当主の小笠原定政の8世の孫、広政[1]の7世の孫、広
(下野源氏)一門)とともに、宗良親王(むねながしんのう、後醍醐天皇の皇子)の子の尹良王(ゆきながおう)を上野国寺尾中城で迎える。1385年に信濃国下伊那郡浪合村[4]で、子の政季と族兄の世良田有親と同族の大舘氏親[5]とともに戦死を遂げたという(『浪合の戦い』)。大井田政義 :
『平治の乱』で義朝が没落すると平家(六波羅氏)に接近している。1180年8月に、伊豆国蛭ヶ小島[10]に流罪となっていた義朝の嫡子の頼朝が、信濃国木曽谷[11]では義賢の次子の木曾義仲らが京都の平家政権に対して挙兵し、『治承・寿永の乱』となる。しかし、平家に属して京に滞在していた
、天方道綱が代わって介錯したとの話も残る。道綱は家康が嘆き悲しむのを見て出家したと言われる。家康も信康の死をいたく悲しみ、『関ヶ原の戦い』で信濃国上田城で真田昌幸・信繁(幸村)父子に手こずってしまった3男の秀忠が遅参したときに、「三郎(信康)がおれば、こんな思いをしなくて済んだ」
いては「平賀氏」をご覧ください。平賀氏(ひらがし)とは、陽成源氏(河内源氏)流の氏族。約数系統が存在する。源姓平賀氏とも呼ばれる。平賀氏 (信濃国) : 義光流の信濃源氏。約2系統が存在する。源氏 (平賀流) : 同じく義時流の有義を祖とする。この系統は「平賀氏」と称せず、源姓の
小笠原 長義(おがさわら ながよし)とは、河内源氏義光流甲斐源氏の系統の小笠原氏(信濃源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。小笠原長義 (石見小笠原氏) : 通称は彦太郎。石見小笠原氏(石見源氏)の当主の小笠原長氏の子、氏義の兄、長教・西長助・長谷長慶・上村長辰の父。小笠原長義
小笠原 長政(おがさわら ながまさ)とは、河内源氏義光流甲斐源氏の系統の小笠原氏(信濃源氏)一門の武将。約4名ほど存在する。小笠原長政 (深志小笠原家) : 小笠原氏惣領家の深志小笠原家(府中小笠原家)の当主の小笠原長忠の子、長氏の父、宗長の祖父、貞宗・貞長の祖父。小笠原長政 (
を得ず氏経は越後国へと帰っていった。その後、氏経は義貞の子の義宗を擁立し、城砦を築きあくまでも南朝方を貫こうとした。これに対して、室町幕府は信濃国守護の小笠原貞宗(信濃源氏)に軍令を発し、同じころに関東管領上杉憲顕も坂東八ヶ国の麾下に出撃の下知を下し、みずからも大軍を率いて鎌倉を
。↑ 『扶桑略記』↑ 摂津国豊島郡(現在の大阪府池田市/箕面市/豊中市など)を本拠地とした。↑ 現在の奈良県宇陀市野長瀬大字関連項目[]源氏信濃源氏美濃源氏三河源氏常陸源氏上野源氏甲斐源氏因幡源氏安芸源氏この記事は 『大和源氏』 のための曖昧さ回避ページです。下記は同じタイトルを
られ、満信の曾孫の尚氏(重信/常興入道)は内談衆となり、足利将軍家の側近として重きをなし、武家故実にも精通し、義光流甲斐源氏一門の小笠原氏(信濃源氏)と伊勢氏(桓武平氏流伊勢平氏一門)とともに並ぶ故実家でもあり、『大舘常興日記』・『大舘常興書札抄』を著した。尚氏は80余歳の長寿を
い。大和氏の家紋(亀甲の内剣片喰)大和氏(やまとし)は、桓武平氏貞衡流[1]桑名氏一門と称した[2]氏族。実際は陽成源氏(河内源氏)の盛義流信濃平賀氏(信濃源氏)の系統である源姓小早川氏(安芸源氏)一門の備後杉原氏の庶家(相模源氏)である[3]。同族に備後鷲尾氏・木梨氏・高洲氏な
氏と戦うが、光広(別称は信繁、元繁の孫、光和の甥、繁清の子)の代に滅ぼされた。安国寺恵瓊(辰王丸/瑶甫恵瓊)は光広の子である。小早川氏 : 信濃平賀氏(信濃源氏)の当主の平賀義信の末子の小早川景平を祖とする。戦国時代の興景の代に嗣子がなく、毛利氏から隆景(毛利元就の三男)を養子に
千徳氏・奥州今井氏・奥州西氏・奥州東氏・奥州北氏・奥州南氏・一戸氏・二戸氏・三戸氏・四戸氏・五戸氏・六戸氏・七戸氏・八戸氏・九戸氏・十戸氏・信濃青柳氏[1]などがある。斯波氏 : 足利氏(下野源氏)一門。陸奥国紫波郡斯波郷(現在の岩手県盛岡市斯波大字)を拠点とした。嫡流に尾張武衛
越中土肥氏)の祖となり、在続した。同族に播磨肥田氏があった。小早川氏 (安芸国) : 源姓小早川氏とも呼ばれる。陽成源氏(河内源氏)義光流の信濃平賀氏(信濃源氏)の当主である平賀義信の5男(末子)の小早川景平を祖とする。上記の遠平の婿養子となった景平は、後に安芸国沼田荘(現在の広
小笠原 長慶(おがさわら ながのり)とは、河内源氏義光流甲斐源氏の系統の小笠原氏(信濃源氏)一門の武将。約3名ほど存在する。小笠原長慶 (高天神小笠原家) : 高天神小笠原家の当主の小笠原長忠(氏儀入道/信興/氏義/氏助)の子。官職は民部。父が遠縁筋の徳川家康に誅殺されると、生母
小笠原 長忠(おがさわら ながただ)とは、河内源氏義光流甲斐源氏の系統の小笠原氏(信濃源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。小笠原長忠 (松尾冠者) : 法名は乗蓮入道、通称は松尾冠者。小笠原長経の子、長村の弟、長房・赤沢清経の兄、長政の父。生母は同族の黒坂朝信の娘である。小笠原
小笠原 長光(おがさわら ながみつ)とは、河内源氏義光流甲斐源氏の系統の小笠原氏(信濃源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。八代長光 : 小笠原長清の子、長経の弟、小田清家・伴野時長・大井朝光・教意(僧侶)・大倉為長・藤崎行長・鳴海清時・大蔵清家・長澄(長隆)・八代長文・行正(僧
小笠原 貞政(おがさわら さだまさ)とは、河内源氏義光流甲斐源氏の系統の小笠原氏(信濃源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。小笠原秀政 : 初名は貞政、幼名は幸松丸。小笠原長時の孫、貞慶(さだのり)[1]の子、忠脩(ただなが)・忠真・忠知・松平重直[2]・忠慶・長俊・溝口政房・原
いるお米って 玄米 日本のカラオケで一番歌われた曲って なんだっけ カラオケで一番歌われた曲って よっしゃあ漢歌信濃の国 日本で一番ファンの多いAIキャラって だれ 日本で一番ファンの多いAIキャラって ネンネンだよ
士貴智志しぐにゃんしげの秀一重野なおきしげまつ貴子宍倉ユキオ宍戸左行(『スピード太郎』で記述)しでん晶しとうきねお紫堂恭子市東亮子志名坂高次信濃川日出雄しなま篠崎佳久子篠崎司篠崎まことしのぎけい篠塚ひろむ東雲太郎東雲萌黄篠原健太篠原千絵しのはら勉篠原哲生篠原とおる忍篠房六郎志野靖
の名前がとても嫌い。ただもう流石に呼ぶ相手はほとんどいない。中高時代の得意科目は現代社会と英語。苦手科目は音楽。きょうだいの中で親しい相手は信濃。苦手な相手は錦。暗い茶髪に丸っこい黒目。一人称は僕。二人称はあんた、君、お前など。家族の呼び方は母さん、父さん、弟妹は呼び捨て。
柳亭種彦 頁一〇五向岡閑話 大田南畝 頁二一一撈海一得 鈴木煥卿 (鈴木澶州) 頁三〇三松陰随筆 鈴木基之 頁三五一槻の落葉信濃漫録 荒木田久老 頁三六五蒹葭堂雑録 暁鐘成 撰 木村孔恭 (木村蒹葭堂) 稿 頁四〇一文会雑記 湯淺常山 頁五五一閑窓瑣談後篇 佐々木
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柳亭種彦 著 頁一〇七向岡閑話 大田南畝 著 頁二二五撈海一得 鈴木澶州 著 頁三二五松陰随筆 鈴木基之 著 頁三八三槻の落葉信濃漫録 荒木田久老 著 頁四〇一第十四巻蒹葭堂雑録 暁晴翁 (暁鐘成) 撰 頁一文会雑記 湯淺常山 著 頁一六三閑窓瑣談後篇 佐々木貞高
うじやうせること)第十八 如意寺の僧増祐、徃生語(わうじやうせること)第十九 陸奥の國の小松寺の僧玄海、徃生語(わうじやうせること)第二十 信濃の國の如法寺の僧藥連、徃生語(わうじやうせること)第廾一 大日寺の僧廣道、徃生語(わうじやうせること)第廾二 始雲林院菩提講(うりんヰん
見夢(ゆめをみて)出家せる語第九 依小児(ちひさきちごちいたみて)、破硯(すずりをわりし)侍出家せる語第十 春宮の蔵人宗正出家せる語第十一 信濃の國の王藤観音出家せる語第十二 於鎭西武蔵寺(ちんぜいむざうじにして)翁出家せる語第十三 越前の守藤原の孝忠の侍出家せる語第十四 讃岐國
各話タイトル第一 為救无空律師(むくうりつしをすくはむがために)枇杷の大臣 寫法花語(ほくヱをうつせること)第二 信濃の國、為蛇鼠寫法花救苦語(くちなはとねずみとのためにほくヱをうつしてくをすくへること)第三 紀伊の國の道成寺の僧、寫法花救蛇語(ほくヱをうつしてじやをすくへること
僧光日、讀誦法花語(ほくヱをどくじゆせること)第十七 雲浄持経者、誦法花免蛇難語(ほくヱをじゆしてくちなはのなんをまぬかれたること)第十八 信濃の國の盲(めしひたる)僧、誦法花開両眼語(ほくヱをじゆしてふたつのまなこをひらきたること)第十九 平願寺経者、誦法花経免死語(ほくヱきや
【市河家】市河双葉 市河海陽市河旭 市河錦 市河信濃 市河雄和 市河燕 市河舞鶴【舞鶴の護衛】カズ ギーグ ケイ アンドリュー【親族】市河八雲 妙子市河七瀬 由紀子 六樹 三津希市河千鶴 与志男 響之進 律歌 謡介市河十真 ヴェルナー・クライン富樫美郷(藤原) 秀昭【友人】青滝龍
み (源満仲)010.かた/゛\の 親のおやどち いはふめり この子の千代を おもひこそやれ (藤原保昌)011.中/\に いひもはなたで 信濃なる 木曽路のはしの かけたるやなぞ (源頼光)012.いつまでも 世にありあけの かひなくて 月も入べき かぎりこそあれ (相馬太郎良
示★★★★★ クズネツォフ フォード ニミッツ(期間限定セール) ジョージ・ワシントン(期間限定セール) マラド(イベントで獲得) スーパー信濃(イベントで獲得) エイブラハム・リンカーン(イベントで獲得) エンタープライズ(イベントで獲得) クイーンエリザベス(イベントで獲得)
北安曇郡 白馬村 8929 上伊那郡 宮田村 8821 上水内郡 信濃町 8469 東筑摩郡 山形村 8395 諏訪郡 原村 756
長野県 (ながのけん)は、本州内陸部に位置する日本の行政区画及び地方公共団体。令制国名の信濃国に因み「信州」とも呼ばれている。海に面していないいわゆる内陸県であり、大規模な山岳地があるため可住地面積率は小さい。県庁所在地及び最大の都市は長野市。善光寺の門前町として発展し第18回冬
新参 参入 名前 備考 1話 巴形薙刀 審神者の逆切れ鍛刀により顕現 信濃藤四郎 大阪城産 城外 登場 名前 備考 21話 数珠丸ホームセンター恒次 現在改案委に勤
成る語第五 身貧男去妻成摂津守妻語第六 大和國の人、人の娘を得る語第七 右近少將??、鎮西に行く語第八 大納言の娘、内舎人に取らるる語第九 信濃國の姨母棄山の語第十 住下野國去妻後返棲語第十一 品不賎人去妻後返棲語第十二 住丹波國者妻讀和歌語第十三 夫死女人後不嫁他夫語第十四 人
と いづれかさきに おきふしの床 (野上の班女)020.玉手箱 中にかけごの なかりせば ふたみにそへて 何かあふべき (加茂侍従)021.信濃なる 木曽路にかけし 丸木橋 ふみゝしときは あやふかりけり (都の綾)022.露ふかき 浅茅が原に 迷ふ身の いとゞやみ路に 入るぞか
鼎町上郷町上村南信濃村浪合村清内路村
.木曽川の 音に落ちてや 雷の けものは落ちし 雲の懸橋(宝市亭)012.雷らいよけの 経紙食はみて 杉戸まで かぎ裂く三井の 荒れ鼠かも(信濃飯田 尚友子清因)013.さりとては 聞えぬ雷の けだものぞ 辺りの人の 耳を潰して(星の屋)014.雷の けもの狩りして 儲けんと 山
にも見しか けゝれなく 殺せし跡に 夜毎鳴く石(青梅 六柿園衛門)011.甲斐かひが嶺ねも 見分かぬ闇の 中山に 横ほり臥せる 夜鳴石かな(信濃新井 泰因)012.素裸にて 鳴きぬる石は 小夜中に 緑の林 衣はきけむ(駿府 芝人)013.何といふ 声かは知らず 夜鳴石 其の名のひ