Kaiserreich世界の年表

ページ名:Kaiserreich世界の年表

目次

世界大戦(The Weltkrieg)[]

1914年[]
  • 6月28日、サラエボを訪問中であったハプスブルク家皇太子、フランツ・フェルディナント大公とその妻ゾフィーが大セルビア主義結社に参加していた青年、ガヴリロ・プリンツィプに射殺される。これを受けてオーストリア=ハンガリー帝国セルビア王国に対し、内政干渉を示唆した十か条の最後通牒を送りつけた。セルビアがロシア帝国とモンテネグロ王国からの支援を受ける一方、ドイツの支援を取り付けたオーストリアはセルビアに対して宣戦布告を告げる。ロシアの同盟国であったフランスを撃破するため、8月3日にドイツ帝国フランス共和国に対して宣戦布告を行った。
  • 対仏侵攻計画、「シュリーフェン・プラン」の修正案に基づき、ドイツ軍がルクセンブルク大公国に進駐し、中立状態であったベルギー王国に宣戦布告した。これに対しベルギーを独立保障していた大英帝国がドイツに宣戦布告を行い、フランス領内に海外派遣軍(BEF)を送り出した。一時はドイツ軍がフランスの首都パリ目前にまで迫るが、マルヌの戦いにおけるフランス軍の反攻によって後退させられた。その次に発生した「海岸への競争」として知られる一連の延翼行為の末、ドイツ軍によるベルギー領イープルへの再攻勢も不成功に終わり、スイス国境から英仏海峡まで800kmにも及ぶ長大な塹壕線が構築され、これ以降、1919年まで西部戦線は長い膠着状態を呈することとなる。
  • ドイツ帝国の東部では、東プロイセンに侵攻したロシア軍をドイツ第八軍が撃退し、マズリア湖沼およびタンネンベルクの戦いを経て、傷ついたロシア軍は後退させられた。一連の戦役で第八軍を指揮した、軍司令官パウル・フォン・ヒンデンブルクと参謀長ルーデンドルフの2人は、大戦全体における中央同盟国側の勝利に重要な役割を果たすこととなる。
  • 開戦直後、建造中であり支払いも終えてあった二隻の超弩級戦艦を、英国政府が一方的に接収したことによって、イスタンブールに逃れていたドイツ地中海艦隊をオスマン帝国がかくまい、11月頃中央同盟国側に立って参戦した。
  • この年の終わりまでに、ドイツ領東アフリカを除くドイツの植民地ほぼ全てが占領された。ただし、東アフリカではフォン・レットウ=フォルベック大佐による指揮の下、ドイツ駐屯軍は終戦まで粘り強く戦闘を継続し続けた。
  • 大日本帝国が8月末に参戦し、青島の攻略と太平洋のドイツ領植民地に進駐を行った。
1915年[]
  • 西部戦線で膠着状態が続いていた中、4月22日、塩素ガスの使用が初めて「第二次イープルの戦い」において行われた。これを機に、双方で化学兵器を用いた塹壕戦が展開される。
  • 東部戦線においてロシア軍は、西部戦線から転進したドイツ軍の攻勢に悩まされ、大規模な戦線の後退を余儀なくされた。しかしながら、前年に獲得していたガリツィアは維持し続け、また決定的な損害を被ることなく反攻への余力を保ち続けた。
  • オーストリアによる数度の攻勢を退けていたセルビアであったが、ブルガリア帝国が旧領奪還を掲げて中央同盟国側に立って参戦、セルビア軍は挟撃される形となり、救援に駆け付けた英仏軍が展開する前にセルビア全土が占領された。翌年にはモンテネグロも国土を占領され、セルビア軍が進駐していたアルバニア領内に、オーストリア軍が代わって進駐して軍政を布いた。
  • 5月23日、「未回収のイタリア」奪還を旗印にイタリア王国が協商国側に立って参戦、オーストリア領内に向けて侵攻した。しかしまだ両軍共に山岳戦に対応した装備や戦術が伴わず、山岳地帯に塹壕線が築かれることによって1917年に至るまでこの戦線は膠着し続けることとなった。
  • ロシアとの連絡線を確立するべく、英仏軍がダーダネルス海峡のガリポリ近郊地帯に上陸して「ガリポリ戦線」が形成された。しかし上陸部隊は急遽駆け付けたオスマン帝国軍の抵抗に遭い、塹壕戦にもつれ込んで、その翌年までには上陸部隊はこの場から撤退した。またメソポタミアに上陸していた英印軍は、バグダードを前に撃退され、撤退先のクート市内においてオスマン軍により包囲されてしまう。
  • ドイツのUボートが客船ルシタニア号を撃沈し、これに対してアメリカ合州国内では反ドイツ感情が高まった。この時期までのドイツ軍首脳部では、イギリスを屈服させるために無制限潜水艦作戦は止む無しとされていたが、この事件を受けてこの計画は一時的に破棄された。
1916年[]
  • フランス軍を消耗させることで、西部戦線における防衛の負担を軽減することを企図し、「ヴェルダンの戦い」をドイツ軍は開始した。両軍ともに多大な損害を出したこの戦いは、最終的に目立った戦果を挙げることには繋がらなかった。英仏軍はロシア、イタリアと計画して、同盟軍に対する3つの戦線で同時攻勢を行うことを企画した。ヴェルダンでの損害が大きかったため、フランス軍に代わってイギリス軍がソンム川での攻勢作戦を実施するが、この攻勢によって大きく戦線が変化することはなかった。一方でこのソンムの戦いにおいて、歴史上初めて戦車という兵器が使用されることとなった。
  • 東部戦線にてロシア軍はついに大規模な反攻作戦を決行し、「ブルシーロフ攻勢」が開始された。その目標はドイツ軍のポーランドからの一掃と、オーストリア軍の戦線脱落であった。攻勢の開始当初は、多大な成功を収めて同盟軍は大損害を被るが、結果としていずれの目標も達せられない不満の残る形でこの作戦は終結した。以後ロシアでは同盟軍に対するより打撃能力を高めた攻勢を企画するが、ロシア軍によるこの遠望な攻勢作戦は翌年に実施不可能な状況に貶められることとなる。
  • 前年に包囲されたクートの英印軍が降伏勧告を受諾し、イギリス本国ではこの事件に対し猛非難が起きた。一方で、優勢なロシア軍に対して敗走続きであったオスマン帝国軍は、コーカサス、アルメニアから撤退することとなり、大きくオスマン領内にロシア軍が食い込む形となった。同時期にメッカの太守(シャリーフ)であるフサイン・イブン・アリーによって、オスマン帝国に対するアラブ人の大規模な反乱が開始された。
  • ドイツの大洋艦隊が北海に進出、スカパー・フローより出港したイギリスの大艦隊との間で「第一次ユトランド沖海戦」が発生した。ドイツ艦隊は戦術的な勝利を収めるものの、依然としてロイヤル・ネイビーによる海上封鎖は存在し続け、これ以降も1918年の終わりまで大洋艦隊が出撃を行うことはなかった。
  • 両陣営から参戦要請の声がかかっていたルーマニア王国がブルシーロフ攻勢でのロシア軍の成功をみて、オーストリア領トランシルヴァニアを奪取するために参戦を決意した。しかしフォン・ファルケンハイン率いるドイツ軍が援軍としてカルパティアに到着、南部ではフォン・マッケンゼン指揮下のドイツ・ブルガリア合同軍がドナウ川沿いに展開した。同盟国軍による反攻の末にルーマニア軍の戦線は後退し、同年中にマッケンゼン率いる部隊がルーマニアの首都ブカレストを占領した。バルカン戦線ではセルビア人義勇軍を含む連合軍がテッサロニキに撤退して以後、ブルガリア軍と塹壕越しに対峙し続けていた。
1917年[]
  • 1月8日、カイザーは軍首脳部から無制限潜水艦作戦の再開を打診されるが、最終的にカイザー自身の意向でこれを棄却した。これ以降、Kaiserreich世界は独自の歴史を歩み始める。
  • 帝国宰相フォン・ベートマン・ホルヴェークが辞任し、ゲオルク・ミヒャエリスが代わって宰相に就任した。彼はヒンデンブルクとルーデンドルフといった軍事指導者からの要請により、議会場の各政党から総力戦への支持を勝ち得ることに奔走したが、効果的な成果は見られなかった。ミヒャエリスはルーデンドルフの信任を失い、宰相にはゲオルグ・フォン・ヘルトリングが新たに就任した。しかしながら、余りに高齢なヘルトリングは政治的な能力を発揮できず、ルーデンドルフらによる戦争遂行上の各種独断を招くことととなった。
  • 西部戦線でのフランス軍による二ヴェール攻勢、第二次エーヌ会戦は攻勢側に大きな損害が生じ、フランス軍兵士らは継戦拒否を主張、軍内における大規模なストライキが勃発した。この事件への対処に追われた英仏軍首脳部は、この年の終わりまでに大規模な攻勢を実施する機会を失うこととなる。この間に同盟軍はブルシーロフ攻勢によって被った損害を回復し、さらに軍の再建と前線の整理に成功した。
  • 激しい寒波により全国のインフラが凍結したことを受けて、3月(ユリウス暦では2月に当たる)に首都ペトログラードで発生した婦人ストライキにペトログラード守備隊が同調したことによって、ロシアのツァーリ、ニコライ2世が退位することとなった。この革命騒動を受けてアレクサンドル・ケレンスキーを中心に臨時政府が組織されるが、革命政権に対して兵役義務を顧みず脱走する兵士が抑制不可能な数にまで達し、17年夏の初めに行われたケレンスキー主導の攻勢は致命的な敗北に終わった。さらに本国に帰還した復員兵士の支持を受けて、レーニン率いるボルシェヴィキが労兵評議会(ソヴィエト)内で台頭、11月(ユリウス暦10月)に再び起きた革命によってボルシェビキ政権が誕生し、ロシアの正当な政府としての地位をめぐってロシア内戦が勃発した。
  • イタリア軍と対峙していたドイツ・オーストリアは、東部戦線で試された塹壕突破戦術をこの戦線で用いることを計画し、「カポレットの戦い」で大成功を収めた。山岳地帯に築かれていたイタリアの堅固な塹壕線は突破され、イタリア軍はヴェネツィア近郊のピアーヴェ川にまで大きく後退を強いられた。
  • オスマン帝国軍はパレスチナとメソポタミア両戦線で敗北を重ね、イェルサレムとバグダッドの両都市はイギリス軍の手に落ちた。オスマン軍はそれぞれ北部パレスチナ、モスルで防衛の構えを示し、さらなる増援を待つことにした。
  • 英潜水艦がアメリカからドイツに向けた貨物船を攻撃し、これを撃沈した。アメリカではドイツ系、アイルランド系移民を中心に海上封鎖の部分的解除を求める運動が発生、イギリス政府はこの圧力を受けて一時的に海上封鎖を解いた。結果としてこの時、中部ヨーロッパの食糧難が部分的ながらも解消された。
1918年[]
  • ロシアで内戦が勃発してロシア国内でさらなる動揺が走る中、2月に行われた独墺両軍による「ファウストシュラーク作戦」は、最大限の進出を果たし、3月初頭に、ボルシェヴィキの代表とドイツ軍との間でブレスト・リトフスク条約が締結、ロシアは正式にこの大戦から脱落した。また同盟軍はバルト諸国、フィンランド、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナに軍を進駐させ、各地で独自に成立していたソビエト政権を解体させた。
  • 東部戦線から来援が予測されるドイツ軍の到着前に、敵塹壕線を突破するべく、協商国軍による3月中頃の春季攻勢が開始された。しかしこの攻勢は分厚いドイツの塹壕線を後退させることはできたものの、それ以上の攻勢を不可能にするほどの損害を出し、18年内におけるさらなる攻勢を行う余力は残されていなかった。
  • 5月にルーマニアと中央同盟国との間で、ブカレスト条約が締結された。東部戦線での戦闘はこれをもって終結した。
  • 6月の初めにバトゥーミ条約が締結され、南カフカース諸国が中央同盟国によって独立が承認された。
  • 協商国側に立って参戦した、ギリシャ王国を降伏させるため、ドイツ・ブルガリア・オーストリア合同で「トイトブルク作戦」が発動された。同盟軍はロシア・イタリアで実践されていた、突撃部隊(Stoßtruppen)と呼ばれる特殊部隊を用いた「浸透戦術」を活用し、テッサロニキの防衛陣地を迂回、後方のギリシャ領を制圧して、6月3日にギリシャの首都アテネを陥落させた。テッサロニキに存在した英仏軍は一部捕虜となり、多くは海上輸送により撤退した。
  • 大戦時にロシア陸軍参謀総長であったミハイル・アレクセーエフの呼応により、ロストフ地域で旧帝制時の軍人が集結してボルシェビキへの反乱を計画したが、赤軍の攻撃により南方のエカテリノダールにむけての逃避行が開始された。2月から3月にかけて、ラーヴル・コルニーロフ将軍率いる白軍勢力の一つ、「義勇軍」(後に白軍側の主力となる南ロシア軍の前身)は、凍結したクバン地方のステップを経由してロストフから撤退することに成功する。この「氷上の進軍」として名高い戦役の中、エカテリノダール攻略時の戦いで義勇軍司令部に砲弾が直撃するという事態が発生したが、コルニーロフは無傷で生還することができた。しかしロストフ一帯の陥落により、白軍側は重要な根拠地であったロストフを喪失することとなる。
  • イギリスのアレンビー将軍率いるパレスチナ方面軍が、協商国側にとって最後の勝利となる「メギドの戦い」が行われた。オスマン帝国軍主力はイギリス軍に撃滅、包囲され、さらにイギリス軍はダマスカスからアレッポに至るまで進出した。しかし、ムスタファ・ケマル・パシャ率いるオスマン第七軍は「マラシュの奇跡(マラシュ州またはドゥルカディル州)」での活躍により、アナトリアへの侵攻はあと一歩のところで阻まれる。
  • ボルシェヴィキの指導者ヴラジーミル・レーニンが、社会革命党のファーニャ・カプランに銃撃され、危篤状態に陥った。これにはボルシェビキによるドイツへの領土割譲や権力の独占体制に対して反発し、後にボルシェビキが弾圧した社会革命党左派や、かつての臨時政府の一員であり今は白軍に身を投じているボリス・サビンコフの思惑が絡んでいた。この事件を受けて、最古参党員であるレフ・カーメネフによりレーニンの地位は引き継がれたが、この事件はボルシェヴィキの指導体制にとって大打撃となる。
  • 連合軍による対Uボート対策の成功とロイヤル・ネイビーによる海上封鎖に対し、ドイツの大洋艦隊はヒッパー提督の下、それまでの現存艦隊主義を捨てて再び出撃することを決意した。こうして行われた第二次ユトランド沖海戦は再び痛み分けに終わったが、打撃を受けたロイヤル・ネイビーは海上封鎖の解除を余儀なくされた。海上封鎖の阻止とウクライナからの穀物の流入により、中部ヨーロッパにおける食糧難がついに解消された。
  • オーストリア=ハンガリー皇帝となっていたカール1世は、前線での消耗につれて国内情勢が悪化し、ロシアでの革命を受けて帝国内の革命気運が膨張していることを案じて、新たに「民族宣言(Völkermanifest)」を発表した。これは大戦における勝利の暁には、帝国内における各民族に向けて民族自決を約束するものであった。同年10月末、ハンガリー側に与えられる代償内容が確定しなかったにも関わらず、墺洪両君主国によりクロアチアにおける民族自決の実現が同意され、戦後にクロアチア王国はハンガリー王国と同等の地位を手にすることが約束された。
  • ウファ市内において、オムスク立憲議会(コムーチ)とシベリア臨時政府の間で両者の統合を巡る交渉がなされていたが、この交渉が1か月以上続いて終わりが見えなかったため、痺れを切らしたアレクサンドル・コルチャーク提督とヴラジーミル・カッペリ将軍が、イギリスの支援を受けてクーデターを行った。しかしコルニーロフの下から派遣されていたボリス・サヴィンコフによってコルチャークへの説得がなされ、土地改革や拘禁されていた社会革命党議員の解放という社会革命党側の要求をコルチャークは受け入れた。こうして複数に分かれていたシベリアの白軍勢力はコルチャークの下に統合されたものの、彼の権限は依然軍事指導のみであり続けた。またフランスに亡命していたケレンスキーがこれを機会にとコルチャークと合流した。
  • フォン・ヘルトリングが12月に宰相を辞任し、パウル・フォン・ヒンデンブルクとその職務を交代した。
1919年[]
  • 1月の初め頃、ドイツ帝国の支援が開始され、イースター蜂起後に鎮静していたアイルランド独立戦争が再燃した。
  • 3月2日、西部戦線のヴェルダン南部において、ドイツ軍による大攻勢「ミヒャエル作戦」が発動された。これまでの実績によりその効果が裏打ちされていた「浸透戦術」を用い、さらに航空部隊の集中運用を生かして2週間後にはナンシーが陥落した。フランス軍は防衛線の再編を図ったが、26日、ランスへの攻勢を受けてその兵力は分断され、同日にアミアンも陥落した。ドイツ軍のシャトー・ティエリへの攻撃によって、フランス軍のマルヌ川に向けた退却も不可能となり、分断されていたフランス軍は南に向けて撤退、側面攻撃を気にしなくてすむようになったドイツ軍は、すかさずパリを包囲した。ドイツ軍による「大春季攻勢」は成功を収め、西部戦線における長い膠着状態の打破を達成した。
  • 3月11日、同様の攻勢がイタリアでも、ラドヴィッツ作戦として開始された。ドイツ・オーストリア軍は、17年末に進出していたピアーヴェ川方面からではなく、予想を裏切るトレント方面からの攻勢を行った。24日までにヴィチェンツァ、ヴェローナが陥落、4月10日には独墺両軍によってヴェネツィアが包囲された。6月にヴェネツィアが陥落した段階で、イタリア軍はその戦闘能力を喪失しており、8月5日にイタリア政府は中央同盟国に無条件降伏した。
  • イタリアの崩壊に伴い、女帝ザウディツが治めるエチオピア帝国がイタリアに宣戦布告、イタリア領ソマリでデルヴィシュ運動の指導者であったサイイド・アル・ハサンが反乱を組織した。これにより相次いでイタリア領植民地は占領され、この一連の動きは、欧州諸国の植民地化に対してアフリカ諸国が初めて成功させた抵抗運動となった。
  • 西部戦線における協商国軍の敗走に伴い、パレスチナ戦線のアレンビー将軍は指揮下の軍と共に西部戦線に移された。後任となったウィリアム・マーシャル将軍は、兵力の不足からパレスチナ方面軍の撤退を余儀なくされる。
  • フランス軍の後退に伴い、英海外派遣軍は大陸からの撤退を決意する。イギリス軍は6月にディエップへ後退し、フランス軍は単独での防衛を余儀なくされた。敗戦が避けられない状況が明らかとなり、パリの陥落直後、CGTによるゼネスト運動が発生した。11月6日、フランスの降伏によって全ての欧州戦線が終結し、ヴェルサイユにおいて両交戦国は休戦協定を締結した。
ヴェルサイユ条約[]
  • フランス、ロシア、イタリア、そしてバルカン諸国の降伏により、協商参加国はイギリス、日本、ポルトガルの3か国のみとなる。そしてこの3か国はいずれもドイツと直接の交戦を経験していない国家であった。そして英独間の交戦状態は、この後もアイルランドなどを介して実質2年にわたり継続することとなる。
  • セルビア は北部マケドニアおよびニシェをブルガリアに割譲、オーストリアの監視下で外交と内政が行われることが決まり、決定事項がある際はオーストリアの同意を求めることが要求された。アルバニアも同様の条件を認めさせられ、モンテネグロはセルビアにより併合された。
  • ギリシャ は南部マケドニア、テッサロニキをブルガリアに割譲することが決まった。
  • ルーマニア はドブルジャを含むドナウ川以南の領土をブルガリアに、ルーマニア領カルパチアの一部をハンガリーに割譲した。一方交換条件として、旧ロシア領ベッサラビアを併合することを許された。そして、ルーマニア国内において少数カトリック教徒の権利が拡大され、中央同盟国による採油権を含む経済的介入を許すこととなった。
  • イタリア は親墺的なイタリア連邦として各領邦に分権化され、ハプスブルク家の軍人、ヨーゼフ・フェルディナント大公が連邦議会監督に就任、連邦の監視を行うことを認めさせた。
  • リビア は、戦時においてイタリア王国への反乱を主導したサヌーシー教団の指導者を王とする、キレナイカ王国とトリポリニタとフェザーンのオスマン自治領になり、なおかつキレナイカはオスマン帝国の保護国となった。
  • フランス はダホメー、コートジボワール、マダガスカル、そしてチャド湖以南の全ての赤道アフリカ、さらにポンディシェリー、インドシナ全域、太平洋植民地、加えてパ・ド・カレーからロレーヌにかけての領域をドイツ帝国に割譲することが定められた。しかし革命の影響によって、フランスから割譲された大陸領土はロレーヌのみとなった。
  • ベルギー はフランドル=ワロニア王国として再編され、カイザーの息子であるアーダルベルトが新たな国王となった。一方でベルギー領コンゴはドイツに割譲され、ワロニア南東部はドイツが半永続的に租借することが決まった。結果として、工業地帯であったワロニアはドイツの管理下におかれることとなる。またルクセンブルク大公国はドイツ帝国の一領邦として組み込まれた。
  • 東欧では、ブレスト・リトフスク条約における割譲地域全域において、ドイツの傀儡国が成立した。エストニアとラトビアがバルト連合公国に統合され、アドルフ・フリードリヒ・フォン・メクレンベルクが初代大公に即位した。ベラルーシには白ロシア共和国が成立し、ポーランドフィンランドの両国では、ドイツの保護下で独立国が成立し、フリードリヒ・カール・フォン・ヘッセン=カッセルがフィンランド王に即位した。リトアニアもまた独立を達成し、ヴィルヘルム・フォン・ウラッハがミンダウガス2世として国王に即位した。ウクライナでもヘーチマンが決定し、ウクライナとドイツとの間で新たに同盟が成立した。
名誉ある平和(1921年)[]
  • 英独間において、さらなる戦争継続がいずれの側にとっても不可能であることが明確となり、ルーデンドルフ将軍によって協商国との間で「名誉ある平和」が提案された。協商各国との間でも植民地の現状維持が確認され、占領されていたドイツ領植民地が返還、1921年11月11日、午前11時に正式に講和条約が成立した。ここに7年に及ぶ世界大戦が終結することとなった。

戦後の世界[]

1919年[]
  • ドイツ軍による春季攻勢の最中、フランスの熱狂的アナーキスト、エミール・プジェを筆頭とする公安委員会の指導で、フランス労働総同盟(CGT)がゼネストを宣言した。その目的はCGTが共和政府にとって代わり、フランスへ即座に戦争終結をもたらすことであった。一方でパリ陥落に伴い、ジョルジュ・クレマンソー内閣が崩壊したことを受けて、ブリアンによる臨時政府がドイツとの交渉に当たった。
  • トハチェフスキー率いる赤軍によって白軍側がウラル地方で打撃を受けていたため、南ロシア軍は友軍救援のための一大攻勢を行い、ここにロシア内戦最大の「ヴォルガ戦役」が開始された。攻勢開始後すぐさまヴラーンゲリ将軍の部隊がサラトフを攻略するが、サマーラにおいてトロツキー指揮下の赤軍の抵抗により戦線は一時膠着する。しかし態勢を取り戻したコルチャーク率いるシベリア軍によって、赤軍への反攻が行われ、6月までに赤軍は後退、孤立したサマーラは白軍側に降伏した。この一連の戦いを経て、白軍側はついに長大な2つの戦線を一つに統合することに成功した。
  • バルト地域において白軍側は、ユデーニチ将軍率いる北西軍によって攻勢を開始した。赤軍は数で勝るものの、この攻撃を受けてすぐさまペトログラードへ後退し、北西軍によるペトログラード包囲がなされた。
  • 白軍により再確保されたウファ市内において、南ロシア軍とシベリア軍の両指導部の間で会談が行われ、両政権が一つに統合、新たに臨時全ロシア政府が結成された。シベリア軍軍事指導者であるコルチャークが、全白軍の最高司令官として正式に認められ、臨時政府の首相にサゾーノフが就任した。一方でシベリア軍は南方軍と同様、協商国との関係を断つことで中央同盟からの支持を得ることに合意した。
  • ウファ会談と同時期、包囲されていたペトログラード市内で、赤軍司令官ジノビエフの意志により降伏が受諾されたが、クロンシュタット島に赤軍部隊と水兵が継戦を主張して籠城、引き続きクロンシュタットの戦いが行われる。
  • フランスにおいて、急進的なジャコバン派による政府機関と公共施設への攻撃が行われだす。またこの頃、CGTと臨時政府間での妥協が不可能なことが明らかとなった。さらに敗戦直後の部隊は武力鎮圧もままならず、逆に復員された兵士とゼネストの合流という事態を招いた。これを受けてCGTは臨時政府を打倒することを決意し、パリ市内を武力でもって掌握した。こうして勃発したフランス内戦は最終的にCGT側の勝利に終わり、正式にフランス・コミューンという新国家が成立することとなった。
  • フランス第三共和国の臨時政府はアルジェに逃れ、フェルディナン・フォッシュ元帥を筆頭とする亡命政権が樹立された。
  • フランスで内戦が勃発している間に、スイスがフランス領オート・サボワを占領した。
  • 敗北的講和条約とその条約を締結した王家に対して、北イタリア全土で共和主義者と国粋主義者、復員兵士たちが蜂起し、イタリア連邦とオーストリア守備兵を相手に苛烈な戦闘を行った。11月までに反乱軍は中部イタリアを掌握し、その勢力はローマ、アブルッツォ州にまで達する。
  • 不幸にもこの反乱軍は左派と右派の二つに分裂し、北部イタリアにおいて互いに交戦状態に陥った。ヴェネト、ラツィオ間において両派による戦闘が行われ、戦闘が激化する中で社会主義者はフランス・コミューンに、国粋派はオーストリアに支援を仰ぎ、最終的にヴェネト周辺で戦線は膠着した。戦火が全土に拡大する一方、北部で反乱軍による内紛が発生したおかげで、イタリア南部では分離主義者や反社会主義者の支持によって両シチリア王国が再建された。サボイア王室は反乱軍によってサルデーニャ島に逃れ、サボイア家を支持する王党派もこれに続いてサルデーニャで合流した。
  • アラビア半島のハーシム家率いる反乱軍が、サウジ家とオスマン軍の武力の前に降伏した。
  • ウンゲルン・シュテルンベルク率いる白軍の野獣師団がモンゴルの首都ウルガを攻略し、ボグド・ハーンを傀儡に据え、ウンゲルンがモンゴルの軍事指導者として君臨した。
  • ウルグアイで国政委員会が成立し、長年にわたる国内の政治的緊張が解かれた。
1920年[]
  • 1月22日、前年の11月から行れていたモスクワ包囲戦が終結、白軍はついに念願のモスクワへ入場した。赤軍は無条件降伏を宣言し、白軍の勝利によってロシア内戦が終結する。
  • 臨時全ロシア政府はドイツ帝国に対しコルチャーク、サゾーノフ、ケレンスキーら代表団を派遣、ブレスト・リトフスク条約の更新をミンスクで批准した。新ロシア共和国は、大戦と内紛により国土が荒廃し、著しく疲弊した存在であったため、ドイツによる過酷な賠償要求を飲まざるを得なかった。
  • アメリカにおいてマカドゥーが大統領に、パルマーが副大統領にとそれぞれ就任した。
  • オーストリアと共和派の奮闘により、社会主義者たちによるポー川への攻勢は阻止された。この戦いは「ポー川の奇跡」として称えられることとなり、結果としてこれを機にイタリア内戦は事実上終結した。共和主義者たちはロンバルディ・ヴェネチア共和国を成立させ、正式にイタリア連邦へ加盟した。
1921年[]
  • オーストリア=ハンガリー皇帝、カール1世が帝国議会を開催、引き続いて帝国内における民族自決の実現にむけての意志を告げた。
  • 将来を期待されていたアメリカの政治家、フランクリン・ローズヴェルトがポリオを発症したことにより、その政治生命に終わりを告げた。
1922年[]
  • 1月1日、1916年のイースター蜂起以来、5年にわたり継続していたイギリス・アイルランド間の抗争が終結した。代わりに大英帝国内でエール自由国が成立したが、一方でアルスターの一部は依然大英帝国領にとどまった。
  • 中央アフリカにおけるドイツの勢力拡大を意識し、南ローデシアが南アフリカに編入された。
  • ポルトガルにおいてエンリケ・コウセイロによるクーデターが発生し、再び君主制が復活する。
1923年[]
  • 破産したユンカー救済のための公的資金を横領したということが発覚し、その責任を問われてルーデンドルフが失脚した。このことによりドイツにおいて議会政治が復活、新たにフォン・ティルピッツが帝国宰相に就任した。
  • オーストラリアのヴィクトリア州において、州警察によるストライキが発生。メルボルン・コミューンの成立が宣言されたが、英国王ジョージ5世は緊急議案を制定、臨時に戒厳令が布かれ、英国政府はコミューン弾圧に乗り出した。
1924年[]
  • アメリアにおいてマカドゥー大統領が再選。
  • ロシアにおいてドイツに対する賠償条約破棄を掲げ、旧白軍将校が中心となりクーデターが決行された。クーデターからの要求を受けて、コルチャークは臨時独裁官への就任を宣言したが、ロシア当局によってクーデター勢力は鎮圧される。このためコルチャークは、日英といった旧協商国からの支援を受けてトランスアムールに新たな「ロシア共和国」を建国した。
  • 合併法によりオーストラリアとニュージーランドが統合され、オーストララシア連合が新たに成立した。しかし連合内の選挙は停止され、新自治領には引き続き戒厳令が布かれた。
1925年[]
  • 孫文の死に伴い、武漢の中国国民党内部で権力争いが勃発。汪兆銘ら左派が政治的主導権を握り、蒋介石ら右派は国民党軍の指揮権を与えられることで妥協がなされた。
  • ウェールズの炭鉱で発生した発砲事件を受け、ゼネストが英国全土に拡大、英陸海軍が反乱軍に加わり、英国政府と王室はカナダに亡命した。全英労働組合会議(TUC)が政権を握り、ジョン・マクレーンの下でイギリス連合が成立した。
  • マイケル・コリンズがアイルランド軍を英領アルスターに進駐させ、エール自由国とアルスター自治領を廃止、大統領にコリンズがなる形で新たにアイルランド共和国が成立した。
  • 大英帝国の崩壊に伴い、イギリスは以下の海外領土を喪失した。
    • ジブラルタルがスペインに統合された。
    • フォークランド諸島にアルゼンチン軍が進駐した。
    • エジプトが大英帝国から独立し、英領スーダンを併合した。
    • ナジドがイギリスの保護下にあったトルーシャル首長国(史実現代におけるアラブ首長国連邦)に侵攻し、ジャバル・シャンマルがクウェートを征服した。
    • オスマン帝国がキプロスの領有権を回復し、アデン保護領はイエメン王国に統合された。
    • ドイツ帝国が南大西洋の島々やマルタ、スエズ、ベルベラ、セイロン、海峡植民地、ブルネイ、サラワクなどを占領した。
  • ニューギニアとフィジーにオーストララシアで展開していた英軍が進駐し、その後オーストララシアの管轄内に置かれた。
  • インド帝国が正式に自治領へ昇格されたが、以前独立が許されないことに反発したインド国民議会により、インド東部でバーラティア・コミューンが樹立、南部では藩王(ラ―ジャ)たちの政治的連合体、諸侯連邦が成立した。大英帝国はインド北西部のみにその影響力を残しインド自治領が成立した。またこの機をついて、インドからビルマ共和国が新たに独立した。
  • 英領ソマリランドが解体され、旧伊領ソマリランドと共に統合されたソマリア王国が建国、マフムート・アリーがスルタンに即位した。
  • 南アフリカが英領ベチュアナランドに進駐し、宗主国に無断でこれを併合した。一方で英国革命を受け、親協商派のスマッツと独立派のヘルツォークの間でより対立が鮮明化した。
  • ロイヤル・ネイビー傘下のカリブ海艦隊が周辺のイギリス領植民地を保護した。革命後、亡命政府は旧仏領植民地を加えて新たに西インド連邦を成立させた。
  • カナダ議会の上院が本国の貴族院によって置き換えられた。
  • 英国の香港からの撤退に伴い、香港総督セヴァーンがドイツに香港の保護を求めた。これに伴い、日独間で上海騒乱が発生した。
  • オーストリア領南部で汎スラヴ主義を掲げた反乱が勃発。皇帝カール1世はクロアチア人勢力と交渉し、クロアチア人主導の汎スラヴ国家、イリュリア王国を新設した。依然、民族自決を巡ってハンガリーとの交渉が続く中、一方的なクロアチア独立はハンガリー側を動揺させた。
1926年[]
  • 中国国民党は中原の多くを支配する直隷派の打倒を試み、大規模な北伐が開始された。国民党はフランス・コミューンからの支援を受け、対するドイツ帝国は国民党に包囲されていた武昌へ「配送品」と称して支援物資を送り続けた。国民党軍による「配送品」への攻撃を口実に、ドイツは国民党の本拠地である広州への攻撃を開始した。
  • 日本が満州に基盤を置いていた張作霖を支援し、中国東北部に奉天政府の成立が宣言された。
  • 次期大統領とみなされていたサンパウロ市長ワシントンの暗殺をきっかけに、大統領職をめぐってブラジル内戦が勃発した。
1927年[]
  • ドイツの支援を受けた直隷派の孫伝芳軍と国民党軍との間で、金華の戦いが行われる。本拠地の失陥により士気を喪失していた国民党軍は決定的敗北を喫し、指揮官であった蒋介石は暗殺され、汪兆銘はフランスへと亡命した。国民党軍の残党の多くが雲南へ撤退、一部は華南各地に潜伏した。
  • 第3次直隷・奉天戦争が発生、ドイツの支援を受けた直隷派が北京を獲保した。ドイツからの要求により、呉佩孚は宣統帝溥儀の復位を承認した。
1928年[]
  • 第4次直隷・奉天戦争が再度勃発、日独間における代理戦争へと発展した。上海への移住者を載せた鉄道が軍閥に捕獲された際、日本軍が非公式に救出を試みたことでドイツ軍や現地の直隷軍との衝突が発生するが、米の仲介で戦闘拡大は回避された。上海議会は奉天を除く軍閥と清国政府を承認し、各国の租借地のが統合され条約都市となった。これらの領域では直隷軍の侵入が禁止され、所属国家すべての交易機会の平等が決定された。
  • 共和党のフーヴァーがニューヨーク市長スミスを破り大統領に就任する。中西部の一部でノーマン・トーマス率いる社会党が勝利、ジャック・リードがニューヨークで上院議員に選出された。ヒューイ・ロングはルイジアナ州知事となった。
  • 新生ブラジル共和国において初の選挙が行われ、ジョアン・ペソア率いる共和党が勝利した。
  • 軍隊の支持を失ったベネズエラの独裁者、フアン・ゴメスが失脚した。
1929年[]
  • ボリビアがグランチャコの帰属を巡り、パラグアイ軍陣地を攻撃。両国間でチャコ戦争が勃発した。
  • ロンバルディ・ヴェネチア共和国首相がイタリア連邦議会を廃止し、新たにイタリア共和国を成立させた。このためオーストリアによる共和国への影響が削がれた。
1930年[]
  • 3月6日、帝国宰相ティルピッツが死去。後任としてクーノ・フォン・ヴェスタープが、カイザーにより指名された。
1931年[]
  • オーストリアにおける最大の銀行、クレジット・アンシュタルトがスキャンダルにより倒産寸前に陥る。犯行者としてキリスト教社会党(CS)の政治家の名が挙がった。
  • 破産とそれに続く政情不安の中、チリで海軍によるクーデターが発生し、彼らの要求によってサンディカリスト政権が誕生した。これを受けてアルトゥーロ・プーガがチリの最高指導者となった。
  • チリがアルゼンチン領パタゴニアでのサンディカリズム運動を支援し始める。
1932年[]
  • 社会党の圧倒的優位の中、下院において共和党のフーヴァーが再選。民主党における指名を拒否したロングは、新たにアメリカ統一党を結成した。
  • 中国で国民党党員による上海蜂起が発生した。反乱そのものはすぐさま鎮圧されたものの、この事件は清中央政府と八州同盟、条約都市たちに動揺を与えた。一時的とはいえドイツ政府は中国への介入を検討し、在中ドイツ人を保護するよう中国への強い要求を行った。
  • 南アフリカでヘルツォークが選出され、南アフリカ共和国が成立し、協商国を脱退した。
  • オクタヴィオ・マンガベイラがブラジル大統領に就任する。
1933年[]
  • チャコ戦争においてパラグアイによる勝利が決まり、両国間で講和が成立した。ボリビアでは敗戦を受けて、共和制が崩壊し独裁制が布かれた。
  • ルーマニア国王カロル2世により政権を譲渡されていた、大天使ミカエル団の指導者コルネリウ・ゼラ・コドレアヌが総選挙で大勝し、国王ならず国民からの後援も獲得した。
1934年[]1935年[]
  • マルマデューク・グローブがチリ・サンディカリスト共和国の第2代主席に就任した。
  • クリスマス蜂起により、アルゼンチンでLPAが政権を獲得した。


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