フランドル=ワロニア

ページ名:フランドル=ワロニア
歴史ゲーム


フランドル=ワロニア
フランドル=ワロニア
フランドル=ワロニア国旗
正式名称フランドル=ワロニア王国
一般名フランドル=ワロニア
標語団結は強さを与える

(Eendracht maakt machtL'union fait la forceEinigkeit gibt Stärke)

国歌「星屑の海(Star Grêle De La Mer)」
公用語オランダ語、フランス語、ドイツ語(いずれも公用語として)
首都ブリュッセル
政治体制議会君主制
国家元首アーダルベルト1世
首相パウル・ファン・ゼーラント
通貨フラマン-ワロニアフラン
建国1922年
面積(本土)30,700 km²
人口(本土のみ)約800万人


フランドル=ワロニアは西ヨーロッパの国であり、その国境は北をオランダ、東をドイツ、南西をフランス・コミューンと接している。

大戦の勃発以前はベルギー王国が存在し、ザクセン・コーブルク・ゴータ家のアルベール1世が治めていたが、ヴェルサイユ条約によりドイツの下で新たにフランドル=ワロニアが成立した。


目次

歴史[]

世界大戦が勃発した当初ベルギー王国は中立を表明していたにも関わらず、ドイツ帝国によるシュリーフェン・プランにより侵攻を受け、このことは大英帝国によるドイツへの宣戦布告をもたらした。その後の西部戦線における戦闘は膠着状態に至った。大戦中を通して、アルベール王自ら指揮するベルギー軍はドイツ軍を相手に戦い、英仏軍と共に戦線を構成していた。国内ではドイツ軍に対する抵抗や攻撃が行われ、ドイツ軍による報復行為が発生した。

ドイツ帝国は相次ぐ住民からの抵抗を軽減するため、占領地をフランドル人とワロニア人が居住する地域に分割し、両民族が団結して抵抗運動を起こすことを防ごうとした。これはワロニア人政治家であるジュール・デストレなどの提案を採用した結果であり、デストレたちはこれを通じてワロニア人に自治が与えられることを期待していたが、ドイツ帝国は当初この二つの占領地の管理をフランドル人官僚に託した。

1916年、フランドル人の官僚たちは独自にゲント大学のフランス語講座を廃止し、フランドル内のワロニア人に対して一連のフランドル化政策を行った。17年にフランドル人はドイツ帝国への支持を行うことを決意し、代わりにドイツの庇護下でフランドル人議会が成立した。これらの事を受けて言語に基づく境界線が両区域に新たに設けられ、ドイツは新たにワロニア人代表に対しワロニア占領地を委託し、両管理委員会を将来的な両民族の政府とすることを決定した。

パリが陥落し、ベルギー王国の首脳部はイギリスに亡命した。しかしながらベルギー軍兵士の多くはフランス軍と共に降伏し、その後母国へ帰還した。ベルギーは1919年11月11日、フランス臨時政府の代表と共にヴェルサイユ条約に調印し、ドイツからの要求を飲んだ。

  • ベルギーとの国境沿いに存在するフランスの要塞を全て破壊すること。
  • ルクセンブルク大公国はドイツ帝国内の一領邦として編入されること。
  • ワロニア南部をドイツ帝国の租借地とし、ルクセンブルク政府の管轄下に置くこと。
  • ベルギー領アーロンをルクセンブルク大公国が併合すること。
  • ドイツ軍がベルギー領内を自由に移動が可能とすること。アントウェルペン港をドイツ艦隊が利用可能にすること。
  • ベルギー王国を解体し、フランドル・ワロニア両民族の王としてドイツ皇室から新たな国王を迎えること。
  • ベルギー領コンゴを全てドイツの植民地とし、中部アフリカの管轄下におくこと。

新たにピーター・タックが初の首相となり、カイザーの三男、アーダルベルト・フォン・ホーエンツォレルンが王に決まった。しかし戴冠を前にして王の称号についての議論が生じ、3つの案が提出された。

  1. フランドルとワロニア両地域の王(領土に基づく称号)
  2. フランドル人とワロニア人の王(かつてのベルギー国王の称号と同じ内容であり、国民からの支持も大きかった)
  3. フランドル人の王にしてワロニア人の王(二つの王位を持つことになることから、ドイツ側からの支持が大きかった)

1922年2月17日、アーダルベルトはフランドル=ワロニア王国の王として即位し、国民からの意向を受けてカトリックに改宗した。王の即位により一時的にフランドル・ワロニア間での対立は抑え込まれたかのように思われたが、30年代に入りフランドル人の間で王国とオランダとの統合を謳う主張が現れ、ワロニア人の中にはワロニアの分離独立を掲げてフランス・コミューンから支援を仰ぎ、民族主義とサンディカリズムを結合させた新たな政治的立場が出現している。


政治[]

フランドル=ワロニアは連邦制であるため、フランドル地域とワロニア地域には高度な自治権が付与されている。各地域は課税、予算などに主権を持ち、それぞれに警察を持つ。国防、外交、制作などは連邦政府と国王が決定する。

憲法上、フランドル=ワロニアは立憲君主国であるが、実際は議会の力は極めて弱い。

反乱勢力[]

すべての政党はホーエンツォレルン王家による統治、Mitteleuropaのメンバーであることなど、大戦後の現状を受け入れる場合のみ選挙に参加することができる。この制限によって対立野党のほとんどは無力化されている。

しかしながら、地下組織として違法な反乱勢力が存在していて、警察と治安機関が弾劾を続けているが、完全な摘発には至っていない。

主に2つの反乱勢力が存在する。

  • ベルギー国民党とベルギー君主党をはじめとした、ナショナリスト達は1914年の国境に戻すことと、大戦前の王であるアルバート王を復位させることが目的である。
  • フランス・コミューンを模倣した労働者革命を目指すサンディカリスト達はデモ、抗議、ストライキを定期的に行い、政府側から流血もいとわないほどの残酷な抑制を受けている。

サンディカリスト達はメーデーとフランスコミューンの成立記念日に通りを、禁じられた「インターナショナル」を歌いながら行進し、ナショナリスト達は同じく禁じられた「ブラバントの歌」(1914年以前の国歌)を、1830年のベルギー革命記念日と亡命したアルバート王の誕生日に歌うなど、両勢力ともども活発に活動している。両勢力はワロニア地域(ドイツ占領地を含む)のほうが活発に活動していて、フランドル地域はこれを防止する方法を考えている。

ナショナリストを正確に区分すると、1914年以前の憲法に戻すことが目的の立憲主義者と、解放されたベルギーを連邦国家にすることが目的の連邦主義者に分けられる。

サンディカリスト達は革命が成就した後、ベルギーにコミューンを立てるのか、フランス・コミューンに参加するのかで意見が分かれているが、ベルギー国内の資本主義者が駆逐された後に人々によって決定されるとして、結論を先延ばしにしている。

この2つの勢力は互いに相いれないものだが、政治犯の収容の条件緩和への働きかけを共に行うなど、時々協力することがある。

フランドル評議会[]

1917年のベルギー政策の一環として、ドイツ政府はフランドル人の支持を得るためRaad van Vlaanderen (フランドル評議会)を設置した。それと同時に、ベルギー国内を言語の違いによって、行政的に区分した。

名誉の平和により、フランドル評議会はフランドル=ワロニアの主要議会となりブリュッセルのワロン人やフランス語圏の住人が不満を募らせないよう参加させた。

閣僚[]

フランドル=ワロニア王:アーダルベルト1世

首相:パウル・ファン・ゼーラント

外務大臣:チャールズ・アスプレモント・リンデン

経済大臣:アレクサンドル・ガロピン

法務大臣:エミール・ティエール

情報大臣:ロヴァート・ド・フォイ

防衛大臣:アダルベルト

軍事[]

フランドル=ワロニアの軍隊はドイツの管轄下にあり、ドイツが防衛を担っている。

陸軍[]

連邦陸軍は3つの歩兵師団、1つの騎兵師団、Chausseurs Ardennaisと呼ばれる自転車師団で構成されている。

海軍と空軍[]

連邦空軍は存在せず、ドイツの防空軍がフランドル=ワロニア空域の防空を担当している。

連邦海軍は戦前のドイツの超弩級戦艦2隻、1隻の巡洋艦、6隻の駆逐艦で構成されている。

外交関係[]

フランドル=ワロニアはドイツによって政治、経済、軍事が管理されており、ドイツ部隊の通行券を許可している。これはフランドル=ワロニアがMitteleuropaのメンバーであり、バルト連合公国と同じように戦争時の前線国家として機能させるためである。

ドイツおよび帝国協定と友好な関係を築いていて、オーストリア、ハンガリー、デンマークなど近隣国および元中央同盟国とも友好状態である。

しかしながら西のフランス・コミューンとは敵対している。



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