大戦(Weltkrieg)

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世界大戦とは、1914年の夏に開戦したヨーロッパを中心とした大規模な戦争である。実質的に戦闘は1919年の11月に集結したが、公式に終戦が宣言されたのはその2年後のことである。この戦争には世界中の列強が2つの陣営、三国協商を中心とする協商国と、中央同盟に分かれて参戦した。6,100万人のヨーロッパ人を含む7,100万人もの兵士が動員された史上最大の戦争となった。機動性の向上を越えた火力の大幅な技術進歩もあり、1,000万人以上の兵士が戦死し、死者数も過去最大となった。

1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー二重帝国次期皇位継承者のフランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステが暗殺により、この大戦の火蓋が切られた。一方で、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー二重帝国、オスマン帝国、ロシア帝国、大英帝国、フランス、イタリア王国など欧州列強の帝国主義的外交政策も遠因となった。セルビア人民族主義者による皇位継承者暗殺に伴い、二重帝国はセルビア王国に最後通牒を発した。ここ数十年で締結された数々の同盟に従って、数週間のうちに列強が参戦し、各国の植民地を通して戦闘は世界中で起こることになる。

目次

歴史[]

19世紀、列強各国はヨーロッパにおけるパワーバランスを保つべく、最大限の努力を払い、結果として1914年までに欧州全土に複雑な政治的、軍事的同盟関係が築かれた。普仏戦争の後、ドイツ帝国が慎重な計画の下、“鉄血宰相”オットー・フォン・ビスマルクの努力によりその他欧州各国と結ばれた条約によりヨーロッパでの戦争は避けられた。ビスマルクは2正面作戦を避けるべく、特にロシア帝国との関係を重視した。ヴィルヘルム2世が皇帝に即位すると、ビスマルク外交は次第に重要視されなくなった。例えば、ヴィルヘルム2世はロシア帝国との再保障条約の更新を拒否した。その2年後、三国同盟に対抗すべく仏露同盟が結ばれた。1904年には、英仏協商が締結され、両国は同盟関係になり、1907年にはイギリスとロシア帝国が英露協商に調印した。これらの条約が組み合わさり、三国協商ができたのである。

ドイツの工業力と経済力は、ドイツ民族の統一と1870年のドイツ帝国形成以来、大きく成長していた。ヴィルヘルム2世はこれを基盤とし、イギリスのロイヤルネイビーに対抗すべく、アルフレート・フォン・ティルピッツの下ドイツ帝国海軍を設立した。結果として英独両国は互いに競って戦艦を次々と建造した。1906年に戦艦ドレッドノートが就役し、大英帝国はドイツ帝国に対し、一挙に優位に立つことができた。この英独感の軍拡競争は他の欧州諸国にも波及し、列強各国は工業力をヨーロッパ全土での戦争に必要な武器や装備の生産に当てるようになったのである。1908年から1913年の間でヨーロッパ列強の軍事費は50%も増大した。

1914年6月28日、ボスニア系セルビア人の学生で、青年ボスニア の一員であるガヴリロ・プリンツィプが二重帝国次期皇位継承者を暗殺した。これにより、7月危機と呼ばれるオーストリア、ドイツ帝国、ロシア帝国、フランス、イギリスの間での外交上の駆け引きが始まった。今後一切のセルビアによるボスニアへの干渉を終わらせたかったオーストリアは10個の一連の要求からなる最後通牒をセルビアに送ったが、愚かにもセルビアはこれを受諾しなかった。セルビアが最後通牒の10個の要求のうち8個しか受諾しなかったので、オーストリアは同盟国ドイツ帝国の支援の下、1914年7月28日にセルビアに宣戦布告した。セルビア支援のためロシア帝国が介入し、フランスも参戦、ハーバート・ヘンリー・アスキスとエドワード・グレイはドイツのベルギーへと侵攻したことを口実にイギリスを参戦させた。

1914[]

中央同盟国の戦略は意思疎通の問題により苦難を迎えることになる。ドイツ帝国はオーストリア=ハンガリー二重帝国のセルビア侵攻の支援を約束したが、両国でこのことへの解釈は違っていた。事前に計画された展開計画は1914年に別のものへと置き換えられたが、実行されることはなかった。二重帝国の指導者はドイツ帝国軍がロシア帝国との北方戦線をカバーしてくれるものと思っていた。しかしながら、ドイツ帝国はフランスと戦っている間、二重帝国がロシア戦線に軍の大部分を派遣することを期待していた。この行き違いにより二重帝国は軍をロシア戦線とセルビア戦線の2つに分けることになる。

セルビア軍は8月12日に始まったツェルの戦いにおいて侵攻してきた二重帝国軍と戦い、ドリナ川、サバ川南岸の防衛陣の占領に成功する。続く2週間の二重帝国による攻勢において、オーストリア軍は大損害を出して敗北し、協商国側の初めての勝利となった。オーストリア=ハンガリー二重帝国の早期勝利の希望は打ち砕かれたのだ。結果として、オーストリア軍の多くがセルビア戦線に縛られることになり、ロシア戦線の兵力を弱めることになった。

世界大戦の開戦に伴い、西部7孤軍からなるドイツ軍は、中立国ベルギーを通ってフランスに侵攻しドイツ国境のフランス軍を包囲するという修正版シュリーフェンプランを実行した。この計画に基づき、ドイツ軍は右翼の軍をパリへと向け進軍させ、当初のうち、特に8月14日から24日にかけて行われたフロンティアの戦いにおいて成功を収めた。しかしながら、イギリス軍の支援を受けたフランス軍が9月5日から12日にかけての第一次マルヌの戦いにおいてドイツ軍のパリ東部への進撃を止めることに成功した。この戦いの最終日において、西部戦線が膠着状態に入ったことが示された。8月7日に始まった、フランス軍の攻勢に伴うミュルーズの戦いでは、限られた戦果しか得られなかった。

東部戦線において、東プロイセンの防衛に当たっていたのは1個軍のみであり、ロシア軍がこの地域への攻勢を開始したとき、ドイツ軍は西部戦線への配置転換を進めていた。8月17日から9月2日にかけての一連の第一次タンネンベルクの戦いとして知られる戦いにおいてドイツ帝国はロシア帝国を打ち負かしたが、この配置転換によりプロイセン参謀本部の予期していなかった鉄道の延伸問題を悪化させた。その為、中央同盟は早期勝利を諦めざるを得なくなり、2つの戦線を抱えることとなった。ドイツ陸軍は頑強なフランス領内の防御陣へと突撃し、一時的にこの突撃におけるドイツ軍の損失を上回る23万人の英仏軍の無力化した。ヨーロッパの外ではアフリカ、太平洋での戦闘があり、ニューギニア島におけるわずかながらの抵抗を除いて、トーゴラント及びドイツの太平洋の領土は占領された。

1915[]

ドイツ帝国はここに置いて戦略の変更を決定し、西部戦線では守勢に、東部戦線では攻勢に出てロシア帝国の早期降伏を目指すことにした。一方で協商国は各方面における戦局の打開を企図していた。セルビアにおいてもオーストリアの近代化された軍により圧力が強まっていた。イギリスはボスポラス海峡を勢力下におくことを目的としてコンスタンティノープルへの攻撃を計画していた。1915年4月22日、第二次イーペルの戦いにおいてドイツ帝国軍はハーグ陸戦条約違反である塩素ガスの使用を初めて西部戦線で行った。ガス攻撃が開始されるとアルジェリア軍は撤退を開始し、協商国側は6kmに渡り戦線に穴を開けることとなった。ドイツ軍はこの隙を利用しキッチナーズウッドを占領した。西部戦線で攻勢を仕掛けているものの、英仏軍は殆ど戦果を上げられなかったことに加え、ドイツ軍を上回る何十万人もの犠牲者に苦しんでいた。ガリポリの戦いも失敗に終わり、ウィンストン・チャーチルは辞任した。一方で東部戦線において中央同盟は続々と戦果を上げており、ロシア帝国軍をベラルーシまで撤退させた。ロシア帝国の人的資源、工業力、陸軍は依然として強大なままであったが、犠牲者は膨大であった。

1916[]

1916年は両陣営が計画していた攻勢と共に幕を開けた。ドイツ軍はフランスの人的資源をそぎ落とすため、ヴェルダン要塞での守勢を強い、多大なる損害を出させた一方、協商国はソンムへの進撃を試みた。東部戦線においてはロシア帝国軍が攻勢を仕掛けたものの、ドイツ軍は撤退しなかった。5月31日の第一次ユトランド沖海戦ではイギリスとドイツの艦隊が戦闘を行ったが、両者ともに明確な勝利は得られなかった。ブルシーロフ攻勢ではオーストリア軍が崩壊するなど当初は成功を収め、西部戦線ではソンムの戦いが幕を開けた。

ソンムの戦いにおいては、初めて戦車が配備されたにもかかわらず、非常に多くの犠牲を出した。ソンムの戦いとヴェルダンの戦いで両陣営はあまり戦果を得られなかったにもかかわらずそれぞれ約100万人の人命を失った。また、同年、ドイツ領カメルーンと南西アフリカが陥落し、ヨーロッパ外にあるドイツ帝国の軍は東アフリカのパウル・フォン・レットウ=フォルベックの軍を残すのみとなった。

1917[]

1917年の始まりは、イギリスを飢えさせるためにドイツ海軍内で無制限潜水艦作戦を呼びかけることだった。後々考えると、その作戦は成功したかも知れないが、その代償としてアメリカの参戦を呼ぶこととなっただろう。しかし、テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークはアメリカを中立に保つようカイザーに進言した。したがって、この年のほとんどは戦争初期を象徴した北海での小競り合いと同じようなことが起こっていた。同時に、アメリカ内でのドイツの諜報員による工作は、妨害活動から、プロパガンダへと変わり、アイルランド系アメリカ人と、在米ドイツ人の反戦活動を促した。

年始の時点では、双方ともに戦略的な立場にあまり自信を持っていなかった。ドイツでは、イギリスによる封鎖が強化され、物資不足が悪化することで、内部での不安が広がることとなった。パウル・フォン・ヒンデンブルクは、首相に対して「これ以上軍の状態が現在より悪くなることはないだろう」と伝えた。1916年の幸運なロシアの復活は、東部戦線において多くのドイツ軍が拘束されて、西部戦線が危険なほど脆弱な状態であることを意味した。ソンムの戦いではドイツ軍の戦線を長大なままにして脆弱なままであり、オーストリアはブルシーロフ攻勢に領域全体での民族主義者の不穏に悩まされていた。




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