オスマン帝国

ページ名:オスマン帝国
オスマン帝国
Ottoman Flag
オスマン帝国旗
正式名称オスマン帝国
一般名オスマン
標語永遠の国家(دولت ابد مدت)
国歌アブデュルメジト2世行進曲(عبد المجيد اول)
公用語トルコ語、アラビア語
首都イスタンブール
政治体制立憲君主制
国家元首アブデュルメジド2世
首相ムスタファ・ケマル・アタテュルク
通貨オスマン・リラ
建国1299年
面積(本土)2,280,000 km²
人口(本土のみ)約2,900万人

オスマン帝国、正式には「崇高なるオスマン帝国 (Sublime Ottoman State)」。オスマン帝国は中東にある長大な歴史を持った国であり、オリエント世界の主導者であると共に、全世界のイスラム教徒の守護者であると見なされている。この国はかつてヨーロッパとアフリカを含む3っつの大陸にまたがり、何十万もの多民族・多宗教の住民を支配した大帝国であったが、18世紀後半に衰退を始め、20世紀初頭には「瀕死の病人」と呼ばれるようになった。工業化の失敗、諸外国からの内政干渉、あまりに広大な領土の統治への苦労の為、オスマン帝国は1876年には再び欧州列強に後れを取るようになった。オスマン帝国は改革を開始し、地方レベルの些細な問題や地方官僚の汚職問題がありながらも光は見えてきた。マフムト2世によって19世紀初頭に行われ、新オスマン人によってさらなる推進が求められた改革運動は、帝国に大胆な変革をもたらした。地主の見直し、イェニチェリの廃止、モスルやアハサーと言った地域における行政区域の再設定、憲法制定が行われた。これらの改革を実行した人々は、オスマン主義に基づき、地方を含めた全国民に共通のアイデンティティを持たせようとしていた。しかし、それは十分でなかった。1876年にアブデュルハミト2世の台頭により、別の変化がもたらされる。露土戦争を口実とし、憲法は廃止され議会は閉鎖された。アブデュルハミト2世による専制のなかで、スルタン・カリフの元への中央集権化が急速に進んだ。キリスト教勢力による絶え間ない脅威にさらされる中で、スルタンはカリフの地位の威信に基づく汎イスラム主義を志向しだした。ムスリムからは非常に歓迎された一方、領土の縮小を早めるだけであった。加えて、彼の専制は西欧の近代教育を受けた人々の反感を買った。抵抗勢力は「統一と進歩委員会(CUP)」を作った。1908年のクーデターにより、スルタンの専制下にあったオスマン帝国の政治体制に終止符が打たれた。何十もの政党が再開された議会の議席を巡って争い、オスマン帝国の衰退は遂に終わりを迎えたかに見えた。しかしながら、民主派勢力の共闘は長くは続かず、中央集権化に対する賛否で分裂することになる。混沌とした5年間、両勢力は権力を巡り争い続け、多大なる犠牲を払って手に入れた民主主義の理想と思想の自由は脇に追いやられた。1913年の血まみれのクーデターにより権力闘争は終わった。タラート、エンヴェル、ジェマル率いる中央集権派の三頭は、残存するCUP内の地方分権派を撲滅し、自らの理想とする国を築いた。また、ロシア帝国、イギリス、フランスの脅威のため、アブデュルハミト2世時代に築かれたドイツ帝国との関係をより一層強化した。

ヨーロッパにおいて世界大戦が始まると、オスマン帝国はドイツ帝国と条約を結び、中央同盟側として参戦することになる。初戦は快進撃を続けたが、1918年までにイギリス軍の攻撃によりオスマン帝国軍は壊走を始め、アナトリア半島まで追い込まれることになる。しかし、西部戦線におけるドイツ帝国軍の攻勢により、戦況は変わり、ムスタファ・ケマル・アタテュルク指揮下のマラシュでの戦いにおいて多くの損害を出しながらも決定的勝利を収め、イギリス軍の進撃を止めることになる。最終的にフランスの降伏と後の1919年にコペンハーゲンで結ばれた条約により、オスマン帝国は分岐点を迎える。アルメニア人虐殺や山岳レバノン・ムタサッリファテの恐怖は世界に震撼を与えたものの、多くの犠牲を払いつつ、平和が訪れた。しかし、敗戦国にもかかわらず、大英帝国はオスマン帝国にいくつか要求をのませた。タラート・パシャとアーサー・バルフォアによるユダヤ人のパレスチナへの帰郷を勧める宣言のため、アレンビー線からシナイ半島にかけて国際管理地域が設置されたのだ。オスマン帝国国民、特にパレスチナ人から激しい抵抗があったが、その抵抗は殆ど実行できなかった。次なる屈辱は瞬く間に訪れた。虐殺により甚大なる被害を受けたアッシリア人が大英帝国の庇護下に入り、再びイラク南部へ定住しだしたため、バスラ州全土がイギリスの勢力下に入ったのだ。1921年の最終的和平において、オスマン帝国は、エーゲ海諸島、カルス、アルダハン、一時的に成立したアルメニア人国家の領土を獲得した。加えて、トリポタニアはイタリア軍の占領下から離れオスマン帝国の傀儡国となった。しかし、最大の功績は1919年に公式に破棄された降伏文書草案通りになったことである。オスマン帝国は、絶望の淵からは救い出されたのだ。

オスマン帝国の北西にはブルガリア、北東にグルジア、東にペルシア、南にジャバル・シャルマンとナジュド、帝国の傀儡国であるイエメンが存在し、南西にはドイツ領スエズ運河地帯を挟んでエジプトと国境を接する。また、傀儡国トリポタニアを通じてフランス共和国と、半自治国アルメニアを通じてアゼルバイジャンとも国境を接している。


目次

歴史[]

世界大戦中[]

オスマン帝国が正式に世界大戦に参戦したのはヴィルヘルム・スションが巡洋戦艦ゲーベンと軽巡洋艦ブレスラウと共に来航しオスマン帝国へ売却後、オスマン帝国旗下でオデッサ砲撃を開始した1914年10月29日だが、1914年8月2日には秘密裏にオスマン帝国とドイツ帝国は同盟の調印、批准を行っていた。大戦初期の数年においてガリポリの戦いやクートの戦い等いくつかの大戦功を収めたものの、ロシア帝国とのコーカサス戦線などでは撤退もあった。戦況の悪化はハーシム家とイギリスのエドムンド・アレンビー将軍によるアラブ反乱から始まった。オスマン軍はメソポタニア、シリア方面の対応のために割かれた。続く1918年初頭のパレスチナにおける大敗北により、オスマン帝国は大幅な撤退を余儀なくされる。エルサレム、ダマスカス、アレッポが次々に陥落し、第6軍指揮官のアナトリア半島の山岳地帯まで撤退するという決断により、ようやく一連の攻撃を泊めることに成功した。アンテプ、マラシュにおける大きな損害を受けつつも勝利を収めたことにより、アレンビー将軍の進撃も直ちに止まることとなった。戦いは再び消耗戦になった。

その時点において、オスマン帝国を取り巻く状況は急変しており、勝利には多大なる犠牲が伴うことに気付いた。加えて、変化は王宮内でも起こっていた。CUPの傀儡であったメフメト5世が崩御し、我の極めて強いメフメト6世が即位した。帝国のあらゆる面における惨状を目の当たりにし、その責任はCUPによる政府にあると感じたメフメト6世は協力者であるFAPへと権力を移そうと試みた。足下に置いて運動が加熱していくに従い、タラート・パシャはシリアから戻ってきたばかりのジェマル・パシャに対し、スルタンの幽閉を持ちかけた。ドイツ帝国軍がウクライナからの穀物の供給を断ったことによるイスタンブールでの深刻な食糧不足、コーカサス戦線における裏切り、スルタン幽閉未遂、第6軍指揮官と戦争省との対立の噂は状況を一変させた。反ドイツ、反戦感情が沸き立ち、タラート・パシャ内閣は総辞職し、スルタンへと権力を譲り渡すことになった。

アフメット・テヴフィク・パシャは大宰相に任命され、スルタンの支持を得ているFAPと王宮を除く全ての施設を支配しているCUPの合併を夢見て挙国一致政府の結成を託された。CUPが権力を手放すことをよしとしなかったため、交渉は失敗、アフメット・テヴフィク・パシャは辞任し、アフメト・イッゼト・パシャが代わりに任命された。メフメト・ジャヴィット・ベイ、アーメド・フェトヒ・パシャ、メフメト・エミン・ラウフ・パシャからなる政府ができ、CUPの勢力は殆ど衰えていないことが明らかになった。しかしながら、ムスタファ・ケマル・アタテュルクからの圧力により、アフメト・イッゼト・パシャは戦争省を手放さざるを得なくなり、小さいながらも亀裂が生じだした。

ギリシャの降伏とイギリス保護国のエジプトにおける革命の危険のため、アレンビー将軍は戦略の再考と一部軍の撤退を余儀なくされた。1919年下旬にフランスが降伏し、世界大戦は終わりが近づいてきた。西部戦線においてオーストリア軍がイタリアへ、ドイツ帝国軍がフランスとベルギーへと進撃しているのに対し、オスマン帝国はこの重大な局面においてなお、領土の半分以上が占領下にあり、一向に引く気配のないイギリス軍相手に立ち往生していた。イギリスが中東における態度を変えようとしている中、メフメト6世は領土の回復を求めイギリスとの交渉を開始した。翌年に結ばれた、協商国軍の速やかな中央同盟軍領土からの撤兵を求めるコペンハーゲン停戦条約において、東方問題の速やかな解決が必須であった。エジプト、アフガニスタン、イラクにおいてより深刻な問題を抱えていたイギリスは調印するほかなく、撤兵が行われた。少数民族の権利保護を口実に、イラクにおけるインドの拠点及びスエズ近郊の確保を目的として、ヤン・スマッツ、レオ・アメリーの強い要求により、パレスチナとバスラ州のみ占領が続いた。オスマン帝国の政情が不安定であり、アルメニア人虐殺に対する処罰が全くもって行われそうにないことから、同盟国を含めた国際社会から孤立することとなった。1920年の夏に2つの自治州を作ることで合意が成されたが、トルコ人とアラビア人の両方から裏切り以外の何物でもないと大きい怒りを買った。エルサレム・ムタサッリファテがアレンビー線から紅海にかけて設立された。法令上はオスマン帝国のものであるこの土地は、ドイツ帝国、大英帝国、オーストリア、アメリカ合衆国、オスマン帝国からなる国際評議会によって統治されることになっていた。オスマン軍の進入が禁止され、多国籍軍が治安維持を担当するはずだった。バラス州には、ニネヴェ及びレザーイエ湖からの大移動の末、敵愾心を持つイランの中で難民となっているアッシリア人の故郷が設けられることになった。

代償を伴う平和(1920-1925)[]

1921年に正式に平和が訪れ、オスマン帝国の国境は殆ど変わらなかった。エレバンと共にカルスとアルダハンが領土に復帰し、エーゲ海においてはイタリア人がドデカネス諸島から出て行った。CUP、特にジェマル・パシャの活動により、強制移住や飢饉により人がいなくなった東アナトリアや山岳レバノンにおけるトルコ人とアラビア人の緊張は最高潮に達しており、帝国が受けた傷は甚大であった。小アジアに住むギリシャ人は大戦初期に全員帝国からの移住を余儀なくされた一方、アルメニア人はエレバンの小さな集落に住むことになった。トルコ人の人口減少は深刻であり、過疎化とオスマン帝国の経済を支える農業生産の大幅な減少を招いた。医者、起業家、技術者、その他知識人も大きく人数を減らし、帝国経済全体が崩壊した。

アラブ反乱は完全な失敗に終わったものの、ファハリ・パシャの努力のおかげで多くの地域において改革の必要性が認識された。1913年の初めてのアラブ会議の要求に応える形で、アラビア語がオスマン帝国の第二言語として、そしてマシュリク地域においては公用語として認められた。

世界大戦後(1920-1936)[]

CUPにおける派閥争いの激化と多くの軍人の急速な台頭により国内の政党政治は安定性を失うこととなる。同盟国ドイツによるパレスチナでの裏切りは反ドイツ派の勢力を強めた。しかしながら、政党は連携を保ち、FAPが権力を握るのを阻止した。政党に対する世論の評価が厳しくなるにつれ、CUPは名前を“Teceddüt”に変え、公然と独裁的な重鎮を追い出した。ジェマル・パシャは追放され、タラート・パシャの影響力も大幅に衰えた。

戦争大臣として、ムスタファ・ケマル・アタテュルクはドイツ帝国の軍事顧問団を追い出し、野心的な軍隊再建を盟友のフェヴズィ・チャクマクと共に開始した。これには国民も賛同し、ムスタファ・ケマル・アタテュルクは後の権力の基盤を築いた。エンヴェル・パシャを恐れ、党の上級委員会はメフメト・ジャヴィット・ベイを次期リーダーに決めた。彼は公然とムスタファ・ケマル・アタテュルクを批判することができなかったため、1925年、ムスタファ・ケマル・アタテュルクが権力への切符を手にしたとき、この決定は失敗であったと分かった。また、再びオスマン人民党(OPP)へと名前を変えた。指導部の体制への不満のため、裕福な党員は離党し、新たな政党を作った。

1926年の選挙はOPPの勝利に終わったが、多くの民衆はすぐにこの勝利がOPP自身の力によるものでなく、どちらかというと特に地方において議席を巡る争いを続けていて、対抗勢力に統一感がなかったことによるものだと気付いた。新たに任命された大宰相は自らの大きな野望を隠しきれず、次々と改革が行われる中で、国を自らの理想のものへと変えようとした。教育、経済復興、宗教において大規模な改革が行われた。しかしながら、権威主義的な大宰相のやり方は、盟友であるキャーズム・カラベキルが離党しオスマン防衛党(ODF)を設立したことで、党をさらなる分裂へ導くことになる。

政府による急速な中央集権化の進展に対する恐怖と、保守派からのOPPが伝統を壊そうとしているのではないかという懸念のため、1931年の選挙において初めてOPPは敗れることになる。Haqqi al-Azm率いるオスマン帝国行政分権化党が勝利を収め、勢力を増す中央集権派に対する戦線をFAPとODFと共に結成した。しかしながら、この共闘は多くの政党が反OPPの政策をとっていたため、絶え間ない攻撃にさらされることになる。緊張は1932年に限界に達し、FAPとOPPの意見の相違が原因でHaqqi al-Azmの政権が倒れることになった。FAPの下で新政権が樹立されたが、少数党政府のため公約である分権と自由化を達成できなかった。

連立も失敗続きで、そのためOPPの評判は回復し、1935年の選挙では堂々たる第一党となった。ムスタファ・ケマル・アタテュルク大宰相が2回目の任期を務める中で、オスマン帝国下院による閉塞感の打開とカリフを通じた保守派団体の懐柔をしようとしている兆しが見え始めた.



特に記載のない限り、コミュニティのコンテンツはCC BY-SAライセンスの下で利用可能です。

シェアボタン: このページをSNSに投稿するのに便利です。


最近更新されたページ

英国革命

英国革命と暴動が勃発する決定的瞬間は、今なお秘密に覆われ不明瞭なままである。確実なのは、南ウェールズのタレニー炭鉱での一連の騒動によって、その後のゼネストが急速に広まっていったということだ。ゼネスト宣...

練習用ページ

歴史ゲーム.下書き用ページでございます。どうぞ、ご自由にお使いくださいませ。練習用ページさいたま埼玉旗正式名称北武蔵および神聖なる風が吹く埼玉帝国一般名埼玉標語神は我らと共に(Gott mit Uns...

白ロシア

白ロシアWhite Ruthenia Flag白ルーシ王国旗正式名称白ルーシ王国Königreich WeißruthenienКаралеўства Беларусь(Karalieŭstva Bi...

教皇領

教皇領ファイル:教会旗,png教皇旗正式名称ローマ教皇庁一般名教皇領標語神を信じる国々に神のご加護があらんことを国歌マルシア・トリオンファーレ(偉大なる凱旋行進曲)公用語ラテン語、イタリア語首都ローマ...

大清帝国

大清帝国Qing Flag黄龍旗正式名称大清帝國(大清帝国)一般名大清帝国清清朝標語天造皇清国歌「鞏金甌」(鞏金甌/Cup of Solid Gold)公用語北京語、満州語、モンゴル語、その他首都北京...

大日本帝国

大日本帝国日章旗日章旗正式名称大日本帝国一般名日本標語五箇条の御誓文 など国歌君が代公用語日本語(事実上)朝鮮語、台湾語など首都東京都政治体制立憲君主制国家元首天皇首相犬養毅通貨日本円台湾銀行券朝鮮銀...

大戦(Weltkrieg)

世界大戦とは、1914年の夏に開戦したヨーロッパを中心とした大規模な戦争である。実質的に戦闘は1919年の11月に集結したが、公式に終戦が宣言されたのはその2年後のことである。この戦争には世界中の列強...

国粋フランス

国粋フランスフランスフランス共和国旗正式名称フランス共和国一般名国粋フランス標語自由、平等、団結(Liberté, Égalité, Fraternité)国歌ラ・マルセイエーズ(La Marseil...

国家

目次1 アジア2 中華3 インド4 中東5 ヨーロッパ6 アフリカ7 北アメリカ8 中央アメリカ9 南アメリカ10 オセアニアアジア[]アフガニスタンシャム王国大日本帝国トランスアムール(傀儡国)トル...

名誉の平和

名誉の平和とは、1921年に中央同盟と協商国の間で結ばれた公式な世界大戦の講和条約である。停戦期間[]世界大戦における殆どの戦闘は厳密には1919年の停戦条約により終結したが、アイルライド内戦のような...

南アフリカ

歴史ゲーム南アフリカ南アフリカ南アフリカ国旗正式名称南アフリカ連邦一般名南アフリカ標語団結は力なり(Ex Unitate Vires)国歌「南アフリカの呼び声(Die Stem van Suid-Af...

八省連合

八省連合 (英:League of Eight Provinces)もしくは南直系軍閥(英:Southern Zhili Clique)とは、孫伝芳を盟主として1925年に結成された、中国における軍閥...

両シチリア王国

両シチリア王国Two Sicilies両シチリア王国旗正式名称Regno delle Due Sicilie(両シチリア王国)一般名シチリアナポリ両シチリア国歌「国王への賛歌」(Inno al Re/...

ロシア共和国

歴史ゲームロシア共和国Russian Repロシア共和国旗正式名称ロシア共和国一般名ロシア国歌自由ロシアの歌(Гимн Свободной России)公用語ロシア語首都ペトログラード政治体制半大統...

ルーマニア王国

歴史ゲームルーマニア王国Iron Guard三色旗と共に併用される軍団旗正式名称ルーマニア王国一般名ルーマニア標語神無くして何ものも存在しない国歌「国王万歳!」(Long Live the King!...

リベリア

歴史ゲームリベリアリベリアリベリア国旗正式名称リベリア共和国一般名リベリア標語自由への熱愛が我々をここに導いた(The Love Of Liberty Brought Us Here)国歌万歳、リベリ...

リトアニア

歴史ゲームリトアニアリトアニア王国リトアニア王国旗正式名称リトアニア王国一般名リトアニア標語国家の強さは団結にあり!(Tautos jėga vienybėje)国歌「国民賛歌(Tautiška gi...

メインページ/テーマ

Wikiテーマ用画像[]このページでは、Wikiのテーマとして使われる画像が特別:使われていないファイルに表示されないようにしています。File:Wiki.pngFile:Wiki.png特に記載のな...

ポーランド

歴史ゲームポーランドポーランド王国ポーランド王国旗正式名称ポーランド王国一般名ポーランド国歌「神よ、ポーランドを救いたまえ(Boże, coś Polskę)」公用語ポーランド語首都ワルシャワ政治体制...