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『レヒフェルトの戦い』で戦死を遂げたコンラート赤毛公
コンラート1世赤毛公(独語:Konrad I der Rote、921年/922年 - 955年8月10日)は、中世ドイツのザーリアー朝の2代目の当主であり、ナーエガウ伯・ヴォルムスガウ(ヴォームスガウ)伯・シュパイアーガウ伯・フランケン公・ロートリンゲン公(在位:944年 - 953年)でもあった。
ヴェルナー5世とドイツ王・コンラート1世若王の娘のヒッカ[1]との間の息子であり、兄のヴェルナー6世(夭折)と姉妹がいた。妻はリウドルフィング朝(ザクセン朝)のオットー1世大帝[2]の娘・ロイガルト[3]であり、その間にひとり息子のオットー1世老公(もしくはオットー2世)を儲けた。
935年に父のヴェルナー5世は37歳の若さで逝去した。その子のコンラート赤毛公はまだ弱冠15歳で、フランケン公を相続した。941年に成長したコンラート赤毛公は、亡父の遺志を継いで、自身の外祖父でもある亡きドイツ王・コンラート1世若王と対立したリウドルフィング家(ザクセン朝)のオットー1世大帝の娘・ロイガルトを娶った。939年、ロートリンゲン公のギゼルベルト(レーニエ家)は、オットー大帝の弟のハインリヒ1世[4]を擁立し、反乱を起こしたが、オットー大帝に敗れた。そこで弟のハインリヒ1世をロートリンゲン公とした。やがてハインリヒ1世がバイエルン公になると、フェアドゥン家(Verdun)のオットーがロートリンゲン公となった。しかし、オットーが嗣子がないままいなく断絶したために、944年に岳父・オットー大帝の命でコンラート赤毛公がロートリンゲン公を兼ねるようになった。彼は英傑だったために、ますます勢力が拡大された。
しかし、951年にオットー大帝が、太子であるシュヴァーベン公・ロイドルフ[5]が、父に無断でイタリア遠征を実施したために、自らがイタリア遠征に向かわざるを得なかった。その後、コンラート赤毛公はイタリア王のベレンガーリオ2世を岳父にとりなす交渉をした結果、ベレンガーリオ2世・アダルベルト2世父子は改めてイタリア王位として認められ、コンラート赤毛公はベレンガーリオとの交渉を成果を得る直前であったが、このことに対してオットー1世の弟のバイエルン公のハインリヒ1世が割り込んだため、コンラート赤毛公はハインリヒ1世によって手柄を奪われて、面目をつぶされてしまった。
そのために、953年にコンラート赤毛公は、父・オットー大帝の処遇に不満を持ったために、ドイツ諸侯と結託した義弟のシュヴァーベン公・ロイドルフとともに反乱を起こした。それは昨年の952年のクリスマスの記念祭で、ロイドルフとコンラート赤毛公が多くの有力諸侯を招いて、これを味方に加えたことで反乱が表面化したのである。このためオットー1世は、以前にコンラート赤毛公の交渉の成果を横取りした弟のバイエルン公・ハインリヒ1世とともに、太子の反乱で窮地に陥った。だが、翌954年にハンガリーから当時は自然崇拝の異教徒であったアジア系遊牧民族であるウゴル系のマジャール人(ハンガリー人)を率いたアールパード朝のハンガリー公&大酋長(ジュラ)のタクショニュ(アールパードの孫)がドイツに侵入して来たのであった。この状況を捉えた大帝の弟のハインリヒ1世は「異教徒たちは太子のロイドルフらによって国内に導きいれられたものであり、反乱に加担すれば国の領土を分け与えようという提案を売国奴たちから受けている」という情報を太子に味方した有力諸侯に流した。これが効果を導くことになり、多くの有力諸侯は離反して、孤立した太子のロイドルフとコンラート赤毛公はオットー大帝の軍勢によって攻撃を受けて、ドイツ南東部のレーゲンスブルクに追い詰められた。両人は無実を訴えつつ、レーゲンスブルク城で籠城を続けていたが、突然の飢饉が起こったためやむなくオットー大帝に降伏した。
太子のロイドルフ(リウドルフ)と女婿のコンラート赤毛公を鎮圧したオットー大帝は、長男のロイドルフを廃嫡し、末子のオットー2世をシュヴァーベン公に封じて、同時に太子とした。女婿のコンラート赤毛公はロートリンゲン公およびフランケン公を剥奪され、ロートリンゲン公はオットー大帝の末弟のケルン大司教のブルーノに与えられた。コンラート赤毛公はヴォルムスガウ(ヴォームスガウ)伯&シュパイアーガウ伯のみとされ、蟄居謹慎を受けた。
955年、謹慎中のコンラート赤毛公は、再びアジア系遊牧民族であるマジャール人を率いたアールパード朝のハンガリー公のタクショニュがバイエルン地方を占領したため、岳父・オットー大帝が親征した。だが、アウクスブルク付近のドナウ川支流レヒ川(Lech)川流域にあるレヒフェルト(Lechfeld)で、タクショニュ率いる多勢のマジャール人の騎馬隊の挟撃のために窮地に陥った岳父のオットー大帝の情報を聞いて、自ら逸早く岳父の援助に駆けつけた。コンラート赤毛公は奮戦中に35歳の若さで壮絶な戦死を遂げたが、この戦いでオットー1世(大帝)はタクショニュ率いるマジャール人を撃退した(『レヒフェルトの戦い』)。岳父のオットー大帝は、自らを救助した女婿の戦死を非常に悼み、領地のヴォルムスガウ(ヴォームスガウ)に丁重に葬らせた[6]。
彼の死後、子のオットー1世老公は守成型の君主であり、父の戦死後はまだ8歳だったが、亡父の功績により外祖父のオットー1世大帝の計らいで、ヴォルムスガウ(ヴォームスガウ)伯&シュパイアーガウ伯のみではなく、フランケン公としての世襲を許された。
先代:オットー(フェアドゥン家) | ロートリンゲン公944年 - 953年 | 次代:ケルン大司教・ブルーノ |
先代:ヴェルナー5世 | フランケン公935年? - 953年 | 次代:オットー1世老公 |
先代:ヴェルナー5世 | ヴォルムスガウ伯935年? - 955年 | 次代:オットー1世老公 |
先代:ヴェルナー5世 | シュパイアーガウ伯935年? - 955年 | 次代:オットー1世老公 |
先代:ヴェルナー5世 | ナーエガウ伯935年? - 955年 | 次代:オットー1世老公 |
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