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家康の異母弟・信成像
内藤 信成(ないとう のぶなり、天文14年5月5日(1545年6月13日) - 慶長17年7月24日(1612年8月20日))は、日本の室町時代末期(戦国時代)から江戸時代初期の武将。通称は三郎左衛門(三左衛門)。官職は豊前守。「松平信成」とも呼ばれる。内藤松平家の祖。
松平氏(徳川氏/三河源氏)本家の岡崎城主・松平広忠の次庶子、生母は松平氏一門の大給松平家の当主の松平乗勝(1482年 - 1541年)の娘・於久の方(妙琳院/妙淋院)、徳川家康の異母弟、信康・秀康・秀忠・忠輝らの叔父である。母方の叔父に松平清成(樵暗恵最)がいる。妻は粟生筑前守長勝の娘、子は信正・信広・井出正信室・遠藤俊春室・丹羽定明室のち樅山貞正室ら。
松平家の家臣である内藤清長の臣下である島田景信(嶋田久右衛門)の家にて誕生した。
生母の於久の方が広忠の側室で、当時40歳前後の高齢出産・難産だったということもあり、これを忌み嫌った父・広忠から、子と認められず、実子がいなかった清長[1]の養子となった。しかし、家臣の間では「広忠の子」として黙認されていたという。生母の於久の方は夫・広忠が26歳の若さで[2]家臣の岩松八弥に暗殺された後に、岡崎を離れて近郊にある化粧田の額田郡桑谷村(岡崎近郊)にある建立したばかりの瑞雲山広忠寺(こうちゅうじ)に移り、出家して尼僧となり「妙淋院」と称して、ひっそり暮らして晩年の余生を過ごしたという。
弘治3年(1557年)に13歳で異母兄の松平元信あるいは元康(後の徳川家康)に会見して、松平家の一族として認められて、兄の「元信」と母方の叔父の「清成」などのそれぞれの一字を与えられ元服して「信成」と称し、その近侍となった。永禄元年(1558年)に三河国広瀬城攻略に養父・清長とともに従軍し、また三河一向一揆平定の後、その軍功により三河国中島に600石の采地を与えられた。
その後、養父・清長は実子・家長(1546年生)を儲け、成人したのでこれを後継ぎに定めたため、信成は清長との養子縁組を解消して、「内藤松平家」を興して、その初代当主となった。
元亀3年(1572年)12月の『三方ヶ原の戦い』で、兄・家康にかわって殿軍を務め、天正3年(1575年)5月の『長篠の戦い』では、先陣として見事に遠縁筋の武田氏(甲斐源氏)の当主の武田勝頼の軍勢を撃破した。信成の戦いぶりを見た織田信長は、「まことに先駈の猛将奇異の勇士なり」と、その功績を賞賛された[3]。
その後も天正9年(1581年)3月に『高天神城の戦い』を経て、翌年の天正10年(1582年)3月には兄・家康の命で東三河先方の軍勢を率いて甲斐国に攻め込み、武田氏一門の穴山信君(梅雪)と内通して、信長の武将の滝川一益とともに武田勝頼を滅ぼした。
天正12年(1584年)の『小牧・長久手の戦い』でも戦功を挙げた。天正17年(1589年)に6千石を加増されて、甲斐国常光寺城の城主となる。天正18年(1590年)の『小田原征伐』に参陣したとき、豊臣秀吉がその「武備を感じた」ために[3]目通りを許され、まもなく北条氏直(家康の女婿)の降伏を受けて、小田原城に入城した。兄・家康の関東入国の後に伊豆国1万石を与えられて韮山城の城主となり、以前に兄・家康から預けられていた与力数十人のうち10人余を家臣とすることを許可された。兄・家康の信頼が篤く、慶長5年(1600年)の『関ヶ原の戦い』では、駿河国沼津の三枚橋城の守将となった。慶長6年(1601年)に駿府城を与えられ、駿河国において4万石の領主となる。慶長8年(1603年)に、従五位下豊前守に任ぜられた。慶長11年(1606年)には上方の警衛のため、近江国長浜4万石に移転し、坂田・浅井・伊香などの三郡の内に移され、長浜城を居所とした。これは大坂城の豊臣氏(羽柴氏)と北陸のおさえのための配置であったという。慶長17年(1612年)7月24日、長浜城において68歳で病没した[4]。法名は法善院殿陽竹宗賢大居士あるいは法善院大誉陽竹宗賢と号された。
信成の嫡子・信正は徳川氏の準々親藩として摂津国高槻に移封され、最後の伏見城代、最初の大坂城代をつとめるなど、本宗家の徳川将軍家の厚遇を受けていた。
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