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趙雲の肖像
趙雲(ちょううん、? - 229年)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の部将。字は子龍、父兄の名は不詳(後述)。子は趙統、趙広、関平夫人[1]ら。身の丈八尺[2]あり、立派な容貌をもち、堂々とした体格だった。
常山郡真定県[3]の人。彼に関する事項は非常に少なく、『蜀書』「趙雲伝」が引く『趙雲別伝』にもとづいて記述する。
191年ころ、彼の家は旧家だったので、常山郡から孝廉に推挙されて官吏となった。彼は義勇軍を率いて北平郡太守・公孫瓚に仕官した。同時に公孫瓚の学友の劉備も公孫瓚の推挙で平原郡の尉となっていて、劉備をはじめ関羽・張飛・簡雍(耿雍)・田豫(田予)・傅士仁[4]らと交わりを結んだ。特に劉備は趙雲を絶賛した。
193年、曹操が徐州で無差別虐殺を実施したとき、徐州刺史の陶謙は公孫瓚に援軍を要請した、そこで公孫瓚は部将で青州刺史の田楷[5]に命じて、副将を劉備に、趙雲を主騎に命じた。ところが趙雲は兄が亡くなったため、喪に服するため官職を辞して離脱した。同時に田豫も病気となった母を看護すると称して離脱した。そのときの劉備は趙雲と田豫の手をとって「君たちと別れるのはつらい、また再会しようぞ…」と涙を流したという[6]。
200年、劉備が曹操の破れて、袁紹を頼ったとき、すでに公孫瓚は袁紹によって滅ぼされたあとだったので、鄴県で劉備らと再会を果たした。劉備は大いに喜んで厚遇した。
やがて、劉備のために兵を募集してその数は数千人に及んだ。203年の『博望陂の戦い』では、汝南郡の劉辟と結んで、夏侯惇(曹操の従兄弟)の部将・夏侯蘭[7]を捕獲した。この夏侯蘭は趙雲の同郷の竹馬の友で、法律に詳しかった。趙雲は彼を劉備に推挙して、軍正に抜擢させた。以降は私情が絡まないために相互に交わりはしなかった。204年、魏の于禁と李典に敗れた劉備一行とともに荊州牧の劉表を頼った。
208年の『長阪陂の戦い』(『長坂坡の戦い』)では、当陽県で劉備の子・劉公仲と阿斗(劉禅)と阿房(劉永)兄弟とその生母の甘夫人(皇思夫人/昭烈皇后)を護衛した[8]。
209年、劉備が荊州南部を平定したとき、そのうち降伏した桂陽郡太守・趙範[9]が趙雲と遠縁だったので、亡兄の未亡人の樊氏を側室に勧めた。しかし趙雲は「趙範は遠縁とはいえ、その妻子は洛陽付近にいるはず。彼は曹操の部将だから、慌てて降伏したに過ぎない」と言ってこれを断った。かくして趙雲の予想どおりに趙範は隙を見て、曹操のもとに逃亡した[10]。
その功績で、牙門将軍となり、まもなく偏将軍に昇進し、桂陽郡太守に任じられた。
213年、益州討伐をした劉備の援軍として、張飛、諸葛亮らとともに益州に向かい、戦功を立てて、翊軍将軍に昇進した。
219年、漢中攻防戦で、劉備が曹操と戦ったときに、張翼を従え偵察中に魏軍と遭遇し、孤立奮戦した黄忠とその副将の張著を救助して、鮮やかな後退戦を競ったので、劉備から「趙子龍の身は全て胆なり!」と絶賛された。その功績で、虎威将軍に昇進した。
221年、呉によって敗死した関羽の仇打ちする漢の皇帝の劉備を「漢の国賊は魏であり、呉ではありません」と諌めたが、聞き容れられず、江州[11]に駐屯を命じられて、遠征に従軍させなかった。翌年、劉備が、秭帰で陸遜に敗れると(『夷陵の戦い』)、その報を聞いた趙雲は副将の馬忠を従えて急遽に劉備を救助して、魚復(永安)県まで護衛したが、呉はすでに引き揚げていた。
223年、劉備が崩御し、太子の劉禅が即位すると、中護軍・征南将軍に昇進した。翌年に永昌侯・鎮東将軍に昇進した。
228年、諸葛亮が北伐で祁山に駐屯したとき、鄧芝を率いて箕谷で陽動作戦[12]を実施したが、魏の曹真[13]と戦って敗れた。
また、街亭の戦いで、張郃に敗れた馬謖が処刑され、諸葛亮は撤退を命じた。そのとき趙雲が鄧芝と帰陣した。諸葛亮は不思議に思って趙雲に訊いた。「わが軍は魏によって多くの将兵を失った。ところが趙将軍のその損害が少なく、兵糧も無事である。それをお伺いしたい」と言った。鄧芝が代わって「撤退するときに趙将軍ご自身が殿軍として指揮をとったので、ご無事だったのです」と言った。そこで諸葛亮は趙雲の軍勢の将兵に軍需品の絹を褒美として与えようとした。しかし、趙雲は「それがしは敗戦したのです。何故、必要がありましょう。それよりも今は秋です、いづれ冬が襲来したときに、冬の日常品として支給していただければ幸いです」といった。諸葛亮はこれに感嘆した。
229年、趙雲は逝去した。謚は順平侯である。後主(劉禅)と諸葛亮はその訃報を聞いたときに涙を流したという。
趙雲の長男の趙統が家督を継ぎ、弟・趙広とともに、守備兵を率いて亡父の陵墓がある錦屏山を守護した。官職は虎賁中郎将・督行領軍まで至った。次男の趙広は牙門将となり、263年に上将軍・姜維の副将として従軍した。前線で指揮をとって、沓中県で戦死を遂げた。
余談として、趙統・趙広兄弟の息子たちの名は未詳だが、蜀漢滅亡後に他の貴族の子弟と同様に河東郡に強制的移住されたと思われる。
彼は場合によっては、徳川家康を補佐しつつ人を批評するのを好み、頑固一徹で忠実な榊原康政(小平太)と比較される人物である。
『東観漢記』・『元本』[14]・林国賛の『三国志裴注述』を総合した本田透『ろくでなし三国志』をもとにして下記のように推測検証をしてみる。
結論
趙雲は戦国時代の趙の君主の血を引く、没落貴族だったと思われる。
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