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平良文(良忠)像
平 良文・良忠(たいら の よしぶみ/よしただ、886年4月29日(仁和2年3月18日)[1] - 953年1月11日(天暦6年12月18日)[1])は、平安時代中期の武将。通称は村岡五郎。官位は従六位下・奥州少目(目代)。
父は丹姓平氏の平直良、生母は高望王の末妹で、その5男(末子)である。異母兄は良兼と良広、同母兄は良将がいる。甥の将門(良将の次子)とは年齢が近かったと伝わる。
父の直良が年を取り、生母の高望王の妹が40歳前後の高齢で出産して誕生したという。良文自身は優しい風貌の勇将で、将兵に人望があったあったと伝わる。
898年(昌泰元年)に母方の伯父で岳父でもある高望王が上総介に任じられると、高望王の長子である従兄の良望(国香王)が、上総国の目代として坂東地方に赴任したときに、20歳余ほど近くも年が離れていた同母兄の良将と異母兄の良兼は良望に随伴した。
当時の良文はまだ4歳だったために、京にとどまった。良文が成長すると、母方の従兄の良望は常陸大掾となっており、次兄の良将の招きで坂東地方に赴いて、下総国結城郡村岡郷[2]にある居館を与えられた。後に武蔵国大里郡熊谷郷[3]に出向した。
923年(延長元年)に、時の主上の醍醐天皇から「相模国で反旗した逆賊を討伐せよ」との勅命を受けて、良文は相模国鎌倉郡藤沢郷[4]に下向して、国を乱した反徒を滅ぼした。
良文は母方の従兄・良望と異母兄・良兼とは仲が悪く、同母兄の良将とともに抗争を続けていた。数年後に兄の良将が逝去して、京にいた甥の将門が任官期が切れたため坂東地方に帰途中に武蔵国の渋谷川[5]で、良望と良兼の襲撃を受けたときに、良文は救援に駆けつけて窮地に陥った甥の将門に加勢した[6]。
935年3月14日(承平5年2月4日)に、母方の従兄の良望が甥の将門に大敗して、自邸に火を放って自害したときも、甥の将門について異母兄の良兼と戦っていた。以降も将門のために戦いを続けていた。
939年5月27日(天慶2年4月17日)、良文は勅命で出羽国に下向した。現地で俘囚[7]の各酋長と秋田城介・源嘉生(ひろなり、源氏一門)の軍勢が衝突したため、良文はこれを鎮圧したのである。翌940年6月(天慶3年5月)、良文は坂東地方に帰還した。
しかし、すでに同年3月25日(天慶3年2月14日)に「新皇」と称した甥の将門が良望の子である貞盛・繁盛・良正(良盛/兼任)兄弟と、兄弟の母方の叔父である藤原秀郷(藤原北家魚名流)、その従兄弟の藤原為憲(藤原南家)らに討たれて『平将門の乱』[8]が終焉していた。すると、良文は逸早く将門の嫡子で、従孫でもある将国を奉じて、彼を「二代新皇」として、常陸国浮島[9]まで送り出して、藤原国豊(藤原北家山蔭流浮島氏の祖)とともにこれを匿った。後に将国の子・文国は篠田氏の祖となった。
同時に、良文は外従子の貞盛兄弟と和睦を結んで、抗争を終焉させた。そのために良文は朝廷から、亡き甥の将門の旧領である下総国相馬郡[10]を与えられて、同時に奥州少目(目代)に任命されている。
晩年の良文は下総国海上郡[11]に、さらに同国阿玉郡[12]へ移り、953年1月11日(天暦6年12月18日)に68歳で没した[13]。
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