スッタニパータより八偈品和訳 SN766-813
ページ名:八偈品和訳
経集
- 経集
- スッタニパータ(パーリ語:Sutta Nipāta)。初期仏典。史的ブッダの直説が含まれているという。第4章(八偈品)と第5章は現存する仏典の中でも最古の部分と考えられる。
第4章 八偈品
欲経
766 | 欲望を叶えたいと望んでいる人が、それを成就させたとしましょう。かれは死すべきもの--つまり人間--が欲するものを得たわけです。ですから、その心には喜びが起こります。 | |
767 | その欲望を叶えようとして欲の生じた人が、次から次に欲望を叶えることができなかったとしましょう。かれは矢に射られたように悩み、壊れていくのです。 | |
768 | さまざまな欲望を避ける人は、蛇の頭を足で踏むのを避けるように、世間において良く気がついて、この執着を乗り越えていきます。 | |
769 | 田畑、宅地、黄金、牛や馬、奴婢、傭い人、女たち、親族たち、その他のいろいろな欲望を貪る人であれば、 | |
770 | さまざまな弱いもの--つまり執着--がかれを征服し、さまざまな危機がかれを踏みつけます。 そして、かれには苦しみがつき従っていきます。まるで、壊れた舟に水が浸入するように。 | |
771 | ですから、人は常に気づきをもって、さまざまな欲望を避けていくのが良いのです。 さまざまな弱いもの--つまり執着--を捨てて、激流を渡りなさい。舟の水を汲み出して、向こう岸に到達しなさい。 | |
| 欲経を終わる。 | |
洞窟の八偈経
※ここでの洞窟は(人間の)身体をさす。
772 | 洞窟の中にとらわれて多くのものに覆われて住んでいる人は、迷わせるものの中に沈没しているのです。 このような人は、遠離--すなわち、心身を含むあらゆる制約を厭うこと--から遠ざかっています。実に、この世のさまざまな欲が、捨てやすいものではないからです。 | |
773 | 欲求によって生存の快楽に縛られている人々は、解脱することが難しいのです。なぜなら、他のものや他の人が解脱させてくれることはないからです。 かれらは前後--つまり過去と未来--を思いながら、現在の欲望、あるいは過去と未来の欲望を貪り求めたので、解脱することが難しいのです。 | |
774 | さまざまな欲に対して貪り、熱中して溺れています。かれらにはケチな性質があり、「自分だけは特別だ」という不平等に固執しています。 死ぬ時に、かれらは苦しみに陥って嘆き悲しむのです。「これから死んで、私たちはいったいどうなるのだろうか?」と。 | |
775 | ですから、ここでこそ人は学びましょう。世間で不平等と言われるものが何であっても、不平等だと分かっているならば、欲望のために不平等な行いをしないようにしましょう。なぜなら、賢者たちが「人の命は短い」と説いているからです。 | |
776 | これら世間の人々が、さまざまな生存に対する渇愛にとらわれて、震え慄いているのを私は見るのです。劣った人々は、さまざまな生存に対する渇愛を離れることなく、死に直面して嘆き悲しみます。 | |
777 | 何かについて「これは私のものだ」と執着して動揺している人々を見なさい。ひからびて水の少ない川の中にいる魚のようなものです。このことを見て、「これは私のものではない」として行うようにしなさい。生存に対して執着しないようにしながら。 | |
778 | 両極端に対する欲を慎むようにしなさい。触れること、すなわち触をあまねく知って貪欲を持たず、自責の念にかられるようなことは行わないようにし、見たこと聞いたことによって汚されることのない人、それが賢者です。 | cf.中道 |
779 | 想をあまねく知り、激流を乗り越えて渡りましょう。聖者は、掴み取ることに対する執着がなく、矢を抜いて怠らずに行じて、この世もかの世も求めることがありません。 | |
| 洞窟の八偈経を終わる。 | |
悪いことの八偈経
780 | 激しい怒りの心で他人を誹る人々がいます。また、真理だと心に思って他人を誹る人々もいます。 聖者は、生じた議論に近づくことはありません。ですから、どんな場合にも聖者は心が荒れることがありません。 | |
781 | 欲に導かれて心にとらわれているなら、どうして自分の見解を超えていけるでしょうか。 自らは完成したのだと思いなしています。かれは知るとおりに語るのでしょう。 | |
782 | 人から問われもしないのに、自分の戒律や道徳を他の人々に語っている人、かれは、自分で自分のことを語る人ですが、善き人々はそのような人を「聖ならざる法である」というのです。 | |
783 | 寂静となった比丘が、自ら寂滅していて、戒律について「私はこのようにしている」と語ることがないのであれば、その人にとって、この世のどこにも高ぶりはないのです。だから、善き人々は、そのようなかれを「聖なる法である」と言うのです。 | |
784 | 分別構想して作り出された様々な事柄ーーそれらは清らかではないのですがーーそういった事柄を重視している人が、自分の中で利益があるとみるならば、その人は、「動揺するものに頼る寂静」に執着しているのです。 | |
785 | 「見解を持つという住まい」を超え出ることは簡単ではないのです。様々なものごとの中で決定を下して選択をしていきます。だから人は、これらの住まいの中で、ものごとを捨てたり取ったりするのです。 | |
786 | 浄められた人には、世間のどこにも「さまざまな生存についての分別構想された見解」というのは存在しないのです。まやかしと高慢とを捨てて、かれは何を頼りにして行くのでしょうか。かれは近づくものーーつまり執着ーーがありません。 | |
787 | 様々な事柄に近づく人は、議論に近づいていきます。近づくことのない人に対して、いったどのようにして議論を起こせるのでしょうか。得たものも捨てたものもーーつまり自己ということも自己のないこともーーかれにはないからです。かれは、この世の中で、あらゆる見解をぬぐい去りました。 | |
| 悪いことの八偈経を終わる。 | |
清らかなことの八偈経
788 | 「私は、清らかで最高であって病のないものを見ます。人は見たものによって清らかとなるのです」と、このように理解しながら「最上である」であると知って、清らかなものを観ずる人は、「見たものによって最上の境地に達する」という知識を頼りにしています。 | |
789 | もし、人が見たものによって清らかとなるのであれば、あるいは、知識によって苦しみを捨てられるのであれば、生存の基礎をもつ人である彼は、他の方法によっても清らかになります。見解を持つ人とは、このように語っているかれのことをいうのですから。 | |
790 | 修行を完成した人は「他のものによって清らかになる」とは説かないのです。たとえば、見たことや聞いたことによっても、戒律や道徳においても、思索することによっても清らかになるとは説きません。 かれは功徳と罪悪に染まらず、自己を捨て、この世において生存の基礎を作ることがないのです。 | |
791 | 古いもの、例えば以前の師匠などを捨てて他のものに依り、ゆれ動く欲望にしたがう人々は、執着を超えることがありません。かれは、取っては捨てます。まるで、猿が枝をつかんでは放すように。 | |
792 | 人は、自ら誓った様々な行法や戒めを受持したあと、想に執着して、あれやこれやの言行に至ります。 知恵豊かな人は、ヴェーダ、すなわち様々な実践的な認識によって法を知って、広い知恵をもち、あれやこれやの言行に至ることがありません。 | |
793 | かれは、一切の事柄に対して無敵となっています。見たり聞いたり考えたりしたどんなことでも、それをそのままに観て、覆われることなく振る舞います。この世の中で、そのような知恵豊かな人をいったい何によって分別させることができるでしょうか。 | |
794 | かれらは、分別をなすことがなく、何物かを重んずることもありません。また、「究極の清らかさがある」と語ることもありません。しばられている執着の束縛を捨て去って、世間のどこにあっても、願望を起こすことはありません。 | |
795 | 修行を完成した人は、境界を越えています。かれは、何かを知った後にも、何かを見た後にも、囚われるようなものがありません。欲を貪ることもなく、また、欲をなくそうという願望にひたることもありません。かれには、「この世ではこれが最高である」と囚われるようなものはないのです。 | |
| 清らかなことの八偈経を終わる。 | |
最高のことの八偈経
796 | 様々な見解に住みついていて、『世間において人が「より上である」とするもの』を『最高だ』としている人は、その他のもの全てを『劣っている』と言います。そのために、かれは様々な論争を超えることがありません。 | |
797 | 見たもの、聞いたもの、戒律や道徳・行法、あるいは考えたことにおいて、自己の内に利益を見る人は、そこでその戒律や道徳・行法にのみ執着して、他の全てを劣っていると見なしています。 | |
798 | 『人が、あるものを拠り所として他を劣っていると見なすならば、それもまた束縛である。』と善き人々は語ります。ですから、比丘は見たこと、聞いたこと、考えたこと、また、戒律や道徳・行法に依存しないようにしましょう。 | |
799 | 知識によるとしても、あるいは戒律や道徳・行法によるとしても、世の中において見解を構想してはなりません。自己を他と「等しい」と見なしてはなりません。あるいは「劣っている」とも「勝れている」とも考えてはなりません。 | |
800 | 得たものーーつまり自己ーーを捨てて、執着していない人は、知識についても拠り所とすることがありません。様々な異論のある中で、党派に与することはありません。かれは、いかなる見解にも頼ることがありません。 | |
801 | この世で両極端において願うことなく、様々な生存に対してこの世もかの世も願うことのない人には、あらゆる事柄について決定を下して執着するような、どのような住まいもありません。 | |
802 | この世において見たこと、聞いたこと、考えたことにおいて、どんなわずかな想も分別されることはありません。見解に執着していないそのバラモンーーすなわち修行の完成者ーーに、この世でいったいどうやって分別を起こさせることができるでしょうか。 | |
803 | かれらは、分別をなすことがなく、何か一つの見解を重んずるということもありません。また、かれらは、いかなる教義も受け入れるということがありません。バラモンは、戒律や道徳・行法によって導かれることもないでしょう。このような人は、彼岸に達して、もはや戻ってくることはありません。 | |
| 最高のことの八偈経を終わる。 |
老い経
洞窟の八偈経を引き継いだ内容となっている。
804 | 実に、短いのはこの命です。百歳にも達することなく死んでいきます。 たとえそれよりも長く生きる人でも、老いることによって死んでいくのです。 | |
805 | 人々は、「これは自分のものだ」と執着したものに対して悲しむのです。なぜなら、所有したものは永遠ではないからです。「これはただ別れ離れていくだけである」と見て、家にとどまってはなりません。 | |
806 | 人が「これは私のものだ」と考えているものも、死ぬことによって失われてしまいます。 賢い人であればこのように知りましょう。そして、教えなどを自分のものだとする人は、その観念に向かってはいけません。 | |
807 | 夢の中で出会った人でも、眠りから覚めると見ることができません。 同じように、愛した人であっても、その人が亡くなって命を終えたならば、見ることはできません。 | |
808 | その名前はこれこれであると言われた人々も、かつては見られもしたし、聞かれもしましたが、亡くなってしまった人について語ることができるのは、ただ名前が残っているからなのです。 | |
809 | 「自分のものだ」と執着しているものを貪る人々は、憂いと悲しみとケチな性質を捨てることがありません。だから聖者たちは、所有しているものを捨てて、安らぎ--すなわち涅槃を見て、行じたのです。 | |
810 | 独り退いて行じ、遠離した心に親しんで近づいている修行者にとって、これが、かれにとっての和合であるといわれます。かれは、迷いの生存のエリアに自分を現さないでしょう。 | |
811 | 聖者は、あらゆるところに頼る先がなく、愛することもなく、愛さないこともありません。 蓮の葉において水が染み込まないように、かれにおいて悲しみやケチな思いが染み込むことはありません。 | |
812 | 蓮の葉の上にある水滴のように、また、蓮華の上にある水が染み込まないないように、そのように聖者は、見たもの、聞いたもの、あるいは考えた様々な事柄に染められることがありません。 | |
813 | 浄められた人は、見たことや聞いたこと、あるいは考えた様々な事柄をもとにして思いめぐらすことがありません。他のものによって清らかになろうとは望みません。かれは、貪ることもないし、貪りを離れていることもありません。 | |
| 「老い経」を終わる。 | |
ティッサ・メッティヤ経
※悪しきことの八偈経の内容を受け継いでいる。淫欲がテーマ。
814 | 尊者ティッサ・メッティヤはこのように言いました。「淫らな欲の交わりに染まる人の害を説いてください、わが師よ。あなたの教えを聞いて、私たちも遠離--つまり心身を含むあらゆる制約を厭うこと--を学びましょう。 | |
815 | 尊師は言いました。「淫らな欲の交わりに染まっている人は、教えをまったく忘れてしまいます。そして、かれは謝って道を進みます。これが、かれにおける聖ならざることです。 | |
816 | かつては独りで行じていたのに、淫らな交わりを行うようになるならば、それは象や馬などの乗り物が暴走するようなものです。世の中の人々は、かれを劣った凡夫であると呼びます。 | |
817 | かつてあった名声や称賛は、すべて失われてしまいます。 このことを見て、淫らな交わりを捨てるために学びましょう。 | |
818 | 様々な思いにとらわれて、かれは困りきっている人のように考え込みます。 他の人々からの非難をの声を聞いて、恥じ入ってしまうのです。 | |
819 | さらにまた、他人の言葉に責め立てられて、かれは自らを傷つけるという、悪い行いに及ぶのです。まさに、これはかれにとっての洞穴です。妄言に沈んでいくことになるからです。 | 772「迷わせるもの」は淫欲においは妄言の因となる |
820 | 賢者であると認められている人で、独り行ずることを決意していても、淫らな交わりにかかわってしまうなら、愚か者のように悩むのです。 | |
821 | 聖者は、この世には前にも後ろにもこのリスクがあることを知って、独りしっかりと修行しなさい。 淫らな交わりに関わらないようにしなさい。 | |
822 | 世俗から遠離することを学びましょう。これは、聖者たちの中で最上のことがらです。しかし、そのことだけで、「自分は最上なのだ」と思わないようにしましょう。かれは、ただ涅槃--つまり安らぎ--の近くにいるにすぎません。 | 他にどうすれば?→768を参照 |
823 | すっかり欲を捨てて空っぽになった聖者は、修行をしながら、様々な欲望を求めることがありません。 激流を渡り終えた人を、様々な欲望にとらわれた人々はうらやむのです。 | |
| 「ティッサ・メッティヤ経」を終わる。 | |
パスーラ経
※清らかなことの八偈経の応用編的な内容。以下はパスーラへのブッダによる言葉。
824 | かれらは、「ここにこそ清らかさがある」と説いて、他の様々な教えは清らかではないと説きます。「自らが拠り所としているそこだけが清らかである」と語っている人々は、それぞれが別々の固有の真理に執着しています。 | |
825 | かれらは、議論を望んで集会に突入し、お互いに敵対して、相手を愚か者だと決めつけるのです。 かれらは人々からの称賛を望んで、自分が正しいと語りながら、他の何か--つまり教団や教義など--をよりどころとして議論を起こします。 | |
826 | 集会の中で議論に関わった人は、称賛を望みながらも敗北におびえています。そして、実際に敗北した時にはうろたえます。かれは、非難に対して怒り、相手の欠点を探し求めます。 | |
827 | 議論の審判者たちが、「かれの論が負けたのだ。かれが破れたのだ」と言うならば、負けた人は嘆き悲しみ「相手は私の上をいった」と泣くのです。 | |
828 | これらの論争が修行者たちの間で起こると、これらの人々には勝利と敗北とがあります。 このことを見て、議論を離れましょう。称賛を得る以外には、何の役にも立たないからです。 | |
829 | あるいはまた、集会の中で持論を述べて、それが称賛されると、かれは思っていた通りの利益を得るわけです。そのことでかれは喜んで、舞い上がります。 | |
830 | 心の高ぶりというのは、かれにとっては破滅の場所なのです。かれは、慢心や高慢の言葉を語ります。これを見て、論争をしないようにしなさい。「これによって清らかになる」とは、善き人々は言わないのだから。 | |
831 | 王様に養われてきた勇者は、敵の勇者を求めながら雄叫びを挙げて進みます。そのように、勇者よ、見解を交える相手のところに向かっていきなさい。相手として戦うべきものは、最初から存在しないのですから。 | |
832 | 自分の見解にこだわって論争し、「これだけが真理である」と語る人々、あなたはかれに言いなさい。 --「議論が生じても、あなたに敵対するする人は、ここにはいない」と。 | |
833 | 無敵になって修行をしている人々は、ある見解を他の様々な見解と対立させはしないのです。「この世で最高である」ととらえられるもの存在しません。パスーラよ、そこであたなは一体何を得ようとしているのですか。 | |
834 | さて、あなたは、「自分こそ勝利を得るだろう」と思いをめぐらせて、心の中に色々な見解を考えながら、浄められた人(ブッダ)と議論を進めようとしました。しかし、あなたは進んでいくことはできないでしょう。 | |
| 「パスーラ経」を終わる。 | |
マーガンディヤ経
※中道的な表現があり、最終偈において解脱した人と固執した人々を対比している。大乗仏教の芽に見える。
※開始場面:バラモンであるマーガンディヤが、自分の娘をブッダに妻として差し上げたいと提案したところ。
835 | (ブッダの言葉) 「タンハーつまり渇愛と、アラティーつまり不快と、ラーガーつまり貪りという三人の魔女を見たときも、淫らな交わりの欲は怒らなかったのです。糞尿に満たされたこの女性が、いったい何なのでしょうか。わたしは、それに足で触れることも望まないのです。 | |
836 | (マーガンディヤの言葉) 「多くの王が求めた女性、この宝のような娘が欲しくないというのですね。それだけご立派なあなたは、どのような見解をもつことを説くのですか。また、どのような戒律や道徳・行法、生活法を説くのですか。あるいは、そんなご立派なあなたは、どのような生存状態に生まれかわることを説くというのですか。 | |
837 | 尊師は言いました。「マーガンディヤよ。様々な物事の中で決定を下して執着したものを、様々な見解の中で見ながらも、それらを採用することなく、内面の寂静を見極めている人--その人には、『私は、これこれを説きます』ということがありません。そのように私は見ました。 | cf.785/801 内面の寂静→cf.783 |
838 | マーガンディヤは言いました。「聖者さんよ、『決定を下して分別した様々なことを採用することなく』とあなたは言いましたね。では、『内面の寂静』というの言葉はどういう意味なのですか。そんなに賢い人たちは、どのように教えているのですか。(この『内面の寂静』だって、誰かから教わった『見解』ですよねぇ?)」 | |
839 | 尊師は言いました。「『見解によっても、聞法によっても、知識によっても、さらに戒律や道徳・行法よっても、清らかになることはない』と、かれは言います。しかし、マーガンディヤよ。『見解によらずに、聞法によらずに、知識によらずに、戒律によらずに、道徳・行法によらずに、清らかとなることもない』と言います。だから、こういったものを捨てて、固執せず、寂静となりましょう。依存する先をもつことなく、生存を求めないようにするのが良いでしょう。 | かれ=自分(ブッダ)。すでに法となっていることを示し、"私"とは言わない→cf.782,783 cf.中道思想 |
840 | マーガンディヤは言いました。「『見解によっても、聞法によっても、知識によっても、さらに戒律や道徳・行法によっても、清らかになることはない』と言い、また、『見解がないことによっても、聞法がないことによっても、知識がないことによっても、戒律がないことによっても、道徳・行法がないことによっても、清らかになるのではない』と言うのであれば、わたしは、まったくわけの分からない法であると思います。ある人々は、見解によって清らかになると理解しています。」 | ブッダは全てを否定形で語るため、マーガンディヤは見解を見いだせずにいる。 |
841 | 尊師は言いました。「見解に依存して質問している人は、マーガンディヤよ、執着した様々な事柄においてわけがわからなくなってしまうのです。これにより、ほんのわずかでも、内部の寂静の想いをいだくことがなかったのです。だからあなたは、わけがわからないと決めつけるのです。 | |
842 | 『等しい』とか『勝れている』とか『劣っている』とか考える者は、これによって論争することにもなるでしょう。これら三つの中にあって動揺しない人--かれには『等しい』も『勝れている』も『劣っている』もありません。 | |
843 | 『自分の教えは真理である』とそのバラモンはどうして言うでしょうか。あるいは『おまえの説は嘘である』とどうして論争するでしょうか。『平等である』ということも『不平等である』ということもない人が、どうして議論をおこすでしょうか。 | |
844 | 家を捨てて、家なき者となっている聖者は、村で親しく交流することはありません。 様々な欲望を捨てて、世俗に重きをおくことがなくなっている人は、人々に異論を立てて論争しないのが良いのです。 | |
845 | 世間で独り遍歴している人は。様々な物事から離れています。それらの物事に固執して語ることのないのが、龍--すなわち修行の完成者−−なのです。茎にトゲのある睡蓮は、水の中に生じます。そして、水にも泥にも汚されません。それと同じように、聖者は寂静を説く人であり、貪らず、欲望にも世間にも汚されないのです。 | 龍=特に、寂静を説く聖者を指す。cf.龍樹,ディグナーガ |
846 | ヴェーダに通ずる人--智慧の手段を様々に駆使できる人は、見解によっても、意見によっても、慢心に向かうことがありません。なぜなら、かれは慢心を基礎とするものではないからです。儀礼によっても、聞法によっても導かれることはありません。かれは、どのような住まいにも引き込まれていないのです。 | ヴェーダに通ずる→cf.792、住まい→cf.785 |
847 | サンニャーすなわち想を離れた人にとって、様々な束縛がありません。智慧によって解脱した人には、無知はありません。想いと見解に固執した人々は、互いに対立しながら、世の中を歩きまわります。」 | |
| 「マーガンディヤ経」を終わる。 | |
壊れる前経
848 | 尊師は言いました。「身体が壊れる前に渇愛を離れ、過去にこだわらず、現在においてもするべきことがないならば、その人は先を見積もって思いわずらうこともありません。」 | |
849 | かの聖者は、怒ることなく、恐れることもなく、誇ることもなく、あとで後悔するような悪い行いもせず、聖なる言葉を唱える人で、心がうわつくこともなく、ことばを慎むものです。 | |
850 | 未来にも過去にも執着することなく、嘆いたりすることもありません。 様々な触--つまり触れることにおいて遠ざかり離れることを見て、様々な見解において引き寄せられることもありません。 | |
852 | 一人離れて、偽ることなく、貪り求めることなく、中傷することもしないのです。 | |
853 | 好ましいものに愛着せず、高慢になることもありません。そして、柔和であって、弁舌に勝れ、自ら確かめたことの他を信じることもなく、貪りから離れているのでもありません。 | 「貪りから…」に注目。禁欲しろとは言っていない。 |
854 | 利益を望んで学ぶのではないし、利益が得られなくても怒ることがありません。 渇愛のために矛盾が生ずることもなく、美味しい味にふけることもありません。 | |
855 | 捨てる心をいだいて、常によく気づいています。世間の中で「他と等しい」と思わず、「自分がより勝れている」とも「より劣っている」とも思いません。その人には、何であれ増してくるものはありません。 | |
856 | 依存するということのない人にとっては、法を知ってもそれに依存することはありません。生存に対しても、生存から離れることに対しても、その人に強い執着はありません。 | |
857 | 様々な欲望に何も期待することのない人、そのような人を「寂滅している」と私は語ります。 その人に、束縛というものは存在しません。その人は、執着を渡り終えたのです。 | |
858 | その人には、自分の子も、子孫もなく、田畑も不動産もありません。 また、かれにおいては、得たもの--すなわち自己ということも認められません。あるいは、捨てたもの--すなわち自己がないということも認められないのです。 | |
859 | ふつうの人々や修行者・バラモンたちが、その人を非難したとしても、その人は特に気にしません。ですから、様々な議論をされても、動揺することはありません。 | |
860 | 聖者は、貪りもなく、物惜しみもせず、「自分は勝れている」とも語りません。また、同じであるとも、劣っているとも語りません。分別に向かうことなく、分別のない人となっています。 | ※分別(kappa)は「劫=非常に長い時間」も意味する。分別がなければ時もないので、どちらにも取っても問題はない。 |
861 | 世間において「自分のもの」というのがない人、その人は所有するものがないからといって、嘆くことはありません。様々な物事に向かっていくこともありません。その人は、実に「静寂なる人」と呼ばれるのです。 | |
「壊れる前経」を終わる。 | | |
闘諍経
小さな荘厳経
大きな荘厳経
迅速経
武器を執ること経
サーリプッタ経
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