経集から中道思想へ

ページ名:経集から中道思想へ

スッタニパータにおける、中道思想の萌芽

八偈品において

778 両極端に対する欲を慎むようにしなさい。触れること、すなわち触をあまねく知って貪欲を持たず、自責の念にかられるようなことは行わないようにし、見たこと聞いたことによって汚されることのない人、それが賢者です。


中道思想の起原がここに見られる。そうしてこれはジャイナ教と共通である。...(中村元・ブッダのことば)


(ここでの両極端はに相当するものは)前の偈から探しますと、「わがもの」と「わがものではない」というのが二つの欲にならないでしょうか。(中略)すでに述べたことは自明のこととして扱われるのがブッダの教示です。…(石飛道子・サンガ スッタニパータと大乗への道)


801 この世で両極端において願うことなく、様々な生存に対してこの世もかの世も願うことのない人には、あらゆる事柄について決定を下して執着するような、どのような住まいもありません。


「両極端」とはこの場合、何のことを言うのか? パーリ文註解によると、いろいろの説を挙げている。どの説でもよいのである。何ごとでもよいから、両極端を離れよ、というのである。...(中村元・同)


811 聖者は、あらゆるところに頼る先がなく、愛することもなく、愛さないこともありません。蓮の葉において水が染み込まないように、かれにおいて悲しみやケチな思いが染み込むことはありません。


肯定表現と否定表現がともに否定される、このような中道においては、もはや、「愛すること」という表現そのものが捨てられてなくなっていることを示しています。...(石飛道子・同)


→さらに、813偈を示しつつ、839偈における否定表現を中道の形している。


813 浄められた人は、見たことや聞いたこと、あるいは考えた様々な事柄をもとにして思いめぐらすことがありません。他のものによって清らかになろうとは望みません。かれは、貪ることもないし、貪りを離れていることもありません。


839 尊師は言いました。「『見解によっても、聞法によっても、知識によっても、戒や禁制によっても、清らかになることはない』と(かれは)言います。マーガンディヤよ、しかしまた、『見解によらずに、聞法によらずに、知識によらずに、戒にもよらずに、禁制によらずに、清らかとなることもない』と言います。それだから、これらを捨てて、執ることなく、寂静となって、よりどころをもつことなく、生存を求めないようにするとよいでしょう。」


スッタニパータにおける上記以外の関連箇所

中村元(岩波ブッダのことば)によると以下の通り。


1040 ティッサ・メッティヤさんがたずねた、「この世で満足している人は誰ですか? 動揺することがないのは誰ですか? 両極端を知りつくして、よく考えて、(両極端にも)中間にも汚されない、聡明な人は誰ですか? あなたは誰を<偉大な人>と呼ばれますか? この世で縫う女(妄執)を超えた人は誰ですか?」


このような見解は中道思想を内含するとも考えられるが、しかしジャイナ教では「中道」の観念を発達させなかった。


1041 師(ブッダ)は答えた、「メッティヤよ。諸々の欲望に関しては清らかな行いをまもり、妄執を離れて、つねに気をつけ、究め明らめて、安らいに帰した修行者--かれには動揺は存在しない。


1042 かれは両極端を知りつくして、よく考えて、(両極端にも)中間にも汚されない。かれを、わたしは<偉大な人>と呼ぶ。かれはこの世で縫う女(妄執)を超えている。」

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