ラップっつうか、リズムよく読める感じに。
あれね、ちゃんとした訳文は八偈品和訳を読んでね。
経集
第4章 八偈品
欲経
766 | 「欲望を、叶えてぇ!」そいつが欲望叶えたぜ。そいつは欲しい物を得た。当然そいつは喜ぶぜ。 | |
767 | 「欲望を、叶えてぇ!」だけど全然叶わねぇ。そいつは悩み、壊れていくぜ。弓矢で刺されたみたいだぜ。 | |
768 | 欲望を、避ける人は、いつでも注意をしているぜ。森の中、蛇がうじゃうじゃそんな世の中。蛇の頭を踏まないように。そうやって、執着を、乗り越えていく Do you understand? | |
769 | 「俺は不動産王になる!お金も家畜も奴隷も欲しい。女や家族も離さねぇ!」他にも色んな欲望を、貪って生きるその人は、 | |
770 | まだ弱い執着に、征服されてしまうのさ。いろんなDanger、そいつを踏むんじゃ。 そいつは苦しみを離さねぇ。壊れた船に水が入る。そんな風に執着は、そいつの心に染みるんじゃ。 | |
771 | だから人は、いつもしっかり気付いてろ。あらゆる欲望、避けていけ。 執着が、弱い内に、気付いてそれを捨てなさい。そうやって、渡りきれ!苦に満ちた世を渡りきれ!舟の水を汲み出して、向こう岸に辿り着けYeah! | |
欲経を終わったぜ。 | 今日はここまでDo you understand? |
洞窟の八偈経
※ここでの洞窟は(人間の)身体をさす。
772 | 洞窟の中にとらわれて多くのものに覆われて住んでいる人は、迷わせるものの中に沈没しているのです。 このような人は、遠離--すなわち、心身を含むあらゆる制約を厭うこと--から遠ざかっています。実に、この世のさまざまな欲が、捨てやすいものではないからです。 | |
773 | 欲求によって生存の快楽に縛られている人々は、解脱することが難しいのです。なぜなら、他のものや他の人が解脱させてくれることはないからです。 かれらは前後--つまり過去と未来--を思いながら、現在の欲望、あるいは過去と未来の欲望を貪り求めたので、解脱することが難しいのです。 | |
774 | さまざまな欲に対して貪り、熱中して溺れています。かれらにはケチな性質があり、「自分だけは特別だ」という不平等に固執しています。 死ぬ時に、かれらは苦しみに陥って嘆き悲しむのです。「これから死んで、私たちはいったいどうなるのだろうか?」と。 | |
775 | ですから、ここでこそ人は学びましょう。世間で不平等と言われるものが何であっても、不平等だと分かっているならば、欲望のために不平等な行いをしないようにしましょう。なぜなら、賢者たちが「人の命は短い」と説いているからです。 | |
776 | これら世間の人々が、さまざまな生存に対する渇愛にとらわれて、震え慄いているのを私は見るのです。劣った人々は、さまざまな生存に対する渇愛を離れることなく、死に直面して嘆き悲しみます。 | |
777 | 何かについて「これは私のものだ」と執着して動揺している人々を見なさい。ひからびて水の少ない川の中にいる魚のようなものです。このことを見て、「これは私のものではない」として行うようにしなさい。生存に対して執着しないようにしながら。 | |
778 | 両極端に対する欲を慎むようにしなさい。触れること、すなわち触をあまねく知って貪欲を持たず、自責の念にかられるようなことは行わないようにし、見たこと聞いたことによって汚されることのない人、それが賢者です。 | cf.中道 |
779 | 想をあまねく知り、激流を乗り越えて渡りましょう。聖者は、掴み取ることに対する執着がなく、矢を抜いて怠らずに行じて、この世もかの世も求めることがありません。 | |
洞窟の八偈経を終わる。 |
悪いことの八偈経
780 | 激しい怒りの心で他人を誹る人々がいます。また、真理だと心に思って他人を誹る人々もいます。 聖者は、生じた議論に近づくことはありません。ですから、どんな場合にも聖者は心が荒れることがありません。 | |
781 | 欲に導かれて心にとらわれているなら、どうして自分の見解を超えていけるでしょうか。 自らは完成したのだと思いなしています。かれは知るとおりに語るのでしょう。 | |
782 | 人から問われもしないのに、自分の戒律や道徳を他の人々に語っている人、かれは、自分で自分のことを語る人ですが、善き人々はそのような人を「聖ならざる法である」というのです。 | |
783 | 寂静となった比丘が、自ら寂滅していて、戒律について「私はこのようにしている」と語ることがないのであれば、その人にとって、この世のどこにも高ぶりはないのです。だから、善き人々は、そのようなかれを「聖なる法である」と言うのです。 | |
784 | 分別構想して作り出された様々な事柄ーーそれらは清らかではないのですがーーそういった事柄を重視している人が、自分の中で利益があるとみるならば、その人は、「動揺するものに頼る寂静」に執着しているのです。 | |
785 | 「見解を持つという住まい」を超え出ることは簡単ではないのです。様々なものごとの中で決定を下して選択をしていきます。だから人は、これらの住まいの中で、ものごとを捨てたり取ったりするのです。 | |
786 | 浄められた人には、世間のどこにも「さまざまな生存についての分別構想された見解」というのは存在しないのです。まやかしと高慢とを捨てて、かれは何を頼りにして行くのでしょうか。かれは近づくものーーつまり執着ーーがありません。 | |
787 | 様々な事柄に近づく人は、議論に近づいていきます。近づくことのない人に対して、いったどのようにして議論を起こせるのでしょうか。得たものも捨てたものもーーつまり自己ということも自己のないこともーーかれにはないからです。かれは、この世の中で、あらゆる見解をぬぐい去りました。 | |
悪いことの八偈経を終わる。 |
清らかなことの八偈経
788 | 「私は、清らかで最高であって病のないものを見ます。人は見たものによって清らかとなるのです」と、このように理解しながら「最上である」であると知って、清らかなものを観ずる人は、「見たものによって最上の境地に達する」という知識を頼りにしています。 | |
789 | もし、人が見たものによって清らかとなるのであれば、あるいは、知識によって苦しみを捨てられるのであれば、生存の基礎をもつ人である彼は、他の方法によっても清らかになります。見解を持つ人とは、このように語っているかれのことをいうのですから。 | |
790 | 修行を完成した人は「他のものによって清らかになる」とは説かないのです。たとえば、見たことや聞いたことによっても、戒律や道徳においても、思索することによっても清らかになるとは説きません。 かれは功徳と罪悪に染まらず、自己を捨て、この世において生存の基礎を作ることがないのです。 | |
791 | 古いもの、例えば以前の師匠などを捨てて他のものに依り、ゆれ動く欲望にしたがう人々は、執着を超えることがありません。かれは、取っては捨てます。まるで、猿が枝をつかんでは放すように。 | |
792 | 人は、自ら誓った様々な行法や戒めを受持したあと、想に執着して、あれやこれやの言行に至ります。 知恵豊かな人は、ヴェーダ、すなわち様々な実践的な認識によって法を知って、広い知恵をもち、あれやこれやの言行に至ることがありません。 | |
793 | かれは、一切の事柄に対して無敵となっています。見たり聞いたり考えたりしたどんなことでも、それをそのままに観て、覆われることなく振る舞います。この世の中で、そのような知恵豊かな人をいったい何によって分別させることができるでしょうか。 | |
794 | かれらは、分別をなすことがなく、何物かを重んずることもありません。また、「究極の清らかさがある」と語ることもありません。しばられている執着の束縛を捨て去って、世間のどこにあっても、願望を起こすことはありません。 | |
795 | 修行を完成した人は、境界を越えています。かれは、何かを知った後にも、何かを見た後にも、囚われるようなものがありません。欲を貪ることもなく、また、欲をなくそうという願望にひたることもありません。かれには、「この世ではこれが最高である」と囚われるようなものはないのです。 | |
清らかなことの八偈経を終わる。 |
最高のことの八偈経
796 | 様々な見解に住みついていて、『世間において人が「より上である」とするもの』を『最高だ』としている人は、その他のもの全てを『劣っている』と言います。そのために、かれは様々な論争を超えることがありません。 | |
797 | 見たもの、聞いたもの、戒律や道徳・行法、あるいは考えたことにおいて、自己の内に利益を見る人は、そこでその戒律や道徳・行法にのみ執着して、他の全てを劣っていると見なしています。 | |
798 | 『人が、あるものを拠り所として他を劣っていると見なすならば、それもまた束縛である。』と善き人々は語ります。ですから、比丘は見たこと、聞いたこと、考えたこと、また、戒律や道徳・行法に依存しないようにしましょう。 | |
799 | 知識によるとしても、あるいは戒律や道徳・行法によるとしても、世の中において見解を構想してはなりません。自己を他と「等しい」と見なしてはなりません。あるいは「劣っている」とも「勝れている」とも考えてはなりません。 | |
800 | 得たものーーつまり自己ーーを捨てて、執着していない人は、知識についても拠り所とすることがありません。様々な異論のある中で、党派に与することはありません。かれは、いかなる見解にも頼ることがありません。 | |
801 | この世で両極端において願うことなく、様々な生存に対してこの世もかの世も願うことのない人には、あらゆる事柄について決定を下して執着するような、どのような住まいもありません。 | |
802 | この世において見たこと、聞いたこと、考えたことにおいて、どんなわずかな想も分別されることはありません。見解に執着していないそのバラモンーーすなわち修行の完成者ーーに、この世でいったいどうやって分別を起こさせることができるでしょうか。 | |
803 | かれらは、分別をなすことがなく、何か一つの見解を重んずるということもありません。また、かれらは、いかなる教義も受け入れるということがありません。バラモンは、戒律や道徳・行法によって導かれることもないでしょう。このような人は、彼岸に達して、もはや戻ってくることはありません。 | |
最高のことの八偈経を終わる。 |
老い経
804 | 実に、短いのはこの命です。百歳にも達することなく死んでいきます。 たとえそれよりも長く生きる人でも、老いることによって死んでいくのです。 | |
805 | 人々は、「これは自分のものだ」と執着したものに対して悲しむのです。なぜなら、所有したものは永遠ではないからです。「これはただ別れ離れていくだけである」と見て、家にとどまってはなりません。 | |
806 | 人が「これは私のものだ」と考えているものも、死ぬことによって失われてしまいます。 賢い人であればこのように知りましょう。そして、教えなどを自分のものだとする人は、その観念に向かってはいけません。 | |
807 | 夢の中で出会った人でも、眠りから覚めると見ることができません。 同じように、愛した人であっても、その人が亡くなって命を終えたならば、見ることはできません。 | |
808 | その名前はこれこれであると言われた人々も、かつては見られもしたし、聞かれもしましたが、亡くなってしまった人について語ることができるのは、ただ名前が残っているからなのです。 | |
809 | 「自分のものだ」と執着しているものを貪る人々は、憂いと悲しみとケチな性質を捨てることがありません。だから聖者たちは、所有しているものを捨てて、安らぎ--すなわち涅槃を見て、行じたのです。 | |
810 | 独り退いて行じ、遠離した心に親しんで近づいている修行者にとって、これが、かれにとっての和合であるといわれます。かれは、迷いの生存のエリアに自分を現さないでしょう。 | |
811 | 聖者は、あらゆるところに頼る先がなく、愛することもなく、愛さないこともありません。 蓮の葉において水が染み込まないように、かれにおいて悲しみやケチな思いが染み込むことはありません。 | |
812 | 蓮の葉の上にある水滴のように、また、蓮華の上にある水が染み込まないないように、そのように聖者は、見たもの、聞いたもの、あるいは考えた様々な事柄に染められることがありません。 | |
813 | 浄められた人は、見たことや聞いたこと、あるいは考えた様々な事柄をもとにして思いめぐらすことがありません。他のものによって清らかになろうとは望みません。かれは、貪ることもないし、貪りを離れていることもありません。 | |
「老い経」を終わる。 |
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