左メニュー
左メニューサンプル左メニューはヘッダーメニューの【編集】>【左メニューを編集する】をクリックすると編集できます。ご自由に編集してください。掲示板雑談・質問・相談掲示板更新履歴最近のコメントカウン...
テンプレート:内容過剰中平 康(なかひら こう、大正15年(1926年)1月3日 - 昭和53年(1978年)9月11日)は、映画監督。父は洋画家の高橋虎之助。娘は作家の中平まみ。増村保造、岡本喜八、市川崑、沢島忠、鈴木清順らと共にモダン派と称され、映画テクニックを駆使したスピーディーなテンポと洗練されたタッチの技巧派監督として知られる。映画をあくまでも純粋視覚芸術のように捉え、題材として何を描くかではなく、どのように描くかという映画の本質たる「スタイル」と「テクニック」で見せる演出を信条とした。石原裕次郎の『狂った果実』、加賀まりこの『月曜日のユカ』が有名。しかし本来の持ち味はルネ・クレール風の『街燈』、娯楽サスペンス『紅の翼』のような作品である。
大正15年(1926年)1月3日、東京市滝野川区に生まれる。父は洋画家の高橋虎之助。一人娘だった母方の中平姓を継ぐ。音楽学校を出た祖母もヴァイオリンを教えていたなどして芸術家になることを奨励されるような家庭で育つ。中学時代より映画に熱中し、好きだったルネ・クレール監督作品など同じ作品を10回くらいずつ繰り返し観るなどして研究を重ねる。高等学校を出て浪人中に、雑誌「人間喜劇」の諷刺シナリオの公募に出品して佳作5本の中に入選(題名は「ミスター・ゴエモン」)。昭和23年(1948年)、東京大学文学部美術科入学。所属した映画研究会には荻昌弘、渡辺祐介、若林栄二郎がいた。
助監督時代 - 昭和23年(1948年)~[]昭和23年(1948年)、東京大学を中退し、川島雄三監督に憧れ松竹大船撮影所の戦後第1回助監督募集に応募、1500人中8人(鈴木清順、松山善三、斉藤武市、井上和男、生駒千里、今井雄五郎、有本正)の内に撰ばれ、松竹入社。川島雄三、佐々木康、木下惠介、大庭秀雄、原研吉、渋谷実、黒澤明等の助監督を務める。黒いベレー帽にポケットだらけのツナギ服をスタイリッシュに着用し、体中に七つ道具をつめ込み撮影所を走りまわる彼の姿は周囲の注目を集め、黒いベレー帽は彼の生涯のトレードマークとなった。大変有能な助監督として知られ、特に自ら志願して就いた黒澤明と川島雄三には可愛がられた。多くの助監督が後輩を指導する際、脚本を勉強することを第一とするのが通常であったのに対し、その他に中平は編集の技術も身に付けることを強く主張するなど、助監督時代から既に後の映画テクニックへの執着を見せる。彼がチーフ助監督として川島雄三監督の『真実一路』の予告編を演出した際、その予告編を見た新米助監督だった篠田正浩と高橋治は中平の突出した才能に愕然とし、篠田は、なぜ会社はこんなに才能のある人を早く監督にしないのか、と思ったという。一日も早く監督に昇進したいと強く希望していた中平は、西河克己からの誘いもあり、昭和29年(1954年)、映画製作を再開した日活に移籍。日活では新藤兼人、田坂具隆、西河克己、滝沢英輔、山村聡らの助監督を務める。
監督昇進後・初期作品 - 昭和31年(1956年)~[]昭和31年(1956年)、プロデューサーの水の江滝子に才能を見出され、助監督身分のまま、殺人事件の舞台となる銀座裏通りを丸ごとオープンセットで作って撮った『狙われた男』を監督(公開は『狂った果実』の後)、新人監督らしからぬ中編スリラーとなる。妥協を許さぬ「うるさ型」の監督として知られ、同年の『太陽の季節』(古川卓己監督)のヒットを受け、わずか17日間で撮影された二作目の『狂った果実』がスピーディーなテンポ、斬新なカッティング、センセーショナルな題材とで、フランソワ・トリュフォーらヌーヴェルヴァーグの作家たちに絶賛され、素人同然だった石原裕次郎をスターダムに押し上げる。ルネ・クレール、ビリー・ワイルダーに心酔。才能のポテンシャルとしては同世代のモダン派として並び称された岡本喜八、増村保造らをも上回るといわれ、日本では珍しいスラップスティックとパロディで傑作といわれる『牛乳屋フランキー』、映画監督として「自分はあくまでもソフィスケイトを目指す」と語っていたように「最も中平康らしい作品」といわれる、森英恵による衣装も絢爛たるルネ・クレール風の『街燈』、若き前衛芸術家達の青春群像を描いたコメディ『誘惑』、ビリー・ワイルダータッチを狙った風俗喜劇『才女気質』等のスピーディーで軽妙洒脱な作品に力量を発揮した他、ハヤカワ・ポケット・ミステリを愛した中平らしい『殺したのは誰だ』、『紅の翼』、『その壁を砕け』、『密会』等のサスペンスやミステリーと、あらゆるジャンルに抜群の冴えを見せた。昭和35年(1960年)の『学生野郎と娘たち』では、主人公を一人に限定せず登場人物を等価に描くという中平流群像劇の方法論を結実させた快作となった。しかし「反・荘重深刻派」、「日本軽佻浮薄派」を自任し、テーマ性や社会性がある題材よりも洗練を好み映画テクニックで臨む彼の作風は日本映画界にあっては異端であり、自身の思惑とは裏腹に、当時は理解されなかった。エッセイや映画評論にも辣腕なところを見せ、映画賞でテーマ性や社会性のある作品ばかりが安易にベストテン入りする状況を厳しく批判し、映画を原作や素材によって評価するのではなく、その素材をどのように映像化したかをこそ評価すべきだと繰り返し訴えた。その歯に衣着せぬ物言いに映画評論家を敵に廻すことも少なくなかった。
スターシステム定着後 - 昭和35年(1960年)~[]後に日活のスターシステムが確立し定着すると共にプログラムピクチャーを量産。スター中心の映画製作であっても、あくまでも「まず映画ありき」の姿勢で臨み、吉永小百合は後に「一番恐い監督でした」と語るなど、その演出姿勢は変わらず厳しいものであったとされる。昭和35年(1960年)、『学生野郎と娘たち』の次に撮った『地図のない町』は橋本忍に納得の行くまで脚本の書き直しを依頼し石原裕次郎主演作として自ら企画したが、裕次郎のスターイメージを損なうとして会社側に却下されて、結局、葉山良二主演で映画化されたが力の入った異色の社会派ミステリーとなる。同年、石原裕次郎の『あした晴れるか』では清純派・芦川いづみに黒ぶち眼鏡を掛けさせ、早口で喋りまくり裕次郎に迫るという珍妙な才女を演じさせ和製スクリューボール・コメディとなった。また昭和35年(1960年)には中平最大のヒット作となった石原裕次郎の『あいつと私』、昭和37年(1962年)には後のテレビアニメ『ルパン三世』を彷彿とさせる早過ぎた宍戸錠のアクション・コメディ『危いことなら銭になる』、昭和38年(1963年)、後に韓国でリメイクされるなど吉永小百合、浜田光夫の純愛路線を代表した歴史的傑作となる『泥だらけの純情』、同年のシニカルでモダンで中平らしい『現代っ子』、それに吉永、高峰三枝子、田中絹代、森雅之らが競演する『光る海』は中平流群像劇の総仕上げ的な作品となる。昭和35年(1960年)には近年特に有名となったフォトジェニックな加賀まりこの『月曜日のユカ』、性愛にのめり込んで行く中年男性を仲谷昇主演で描く戸川昌子原作『猟人日記』、映画化不可能とまでいわれた吉行淳之介原作『砂の上の植物郡』、同じ仲谷・稲野和子コンビの『おんなの渦と渕と流れ』と立て続けに撮った実験的異色作にも並々ならぬ才気を見せるが、彼の作品は常に時代を先取りした感があり、群を抜いた演出力を持ちながら映画賞にはまるで縁がなかった。「ヒッチコックだって賞なんかもらってやしない」と周囲に洩らすこともあったという。しかし岡本・増村、同じ日活の今村昌平や浦山桐郎が名声を高めていく中で取り残された焦りからか生活を荒れさせ、撮影現場で飲酒することすらあったと伝えられる。昭和40年(1965年)、小林旭の賭博師シリーズでは中平の初登板した第6作『黒い賭博師』にて、従来の哀愁や情念の要素を抜き去った、モダンで007映画風のタッチで華麗に路線変更。翌昭和40年(1965年)、シリーズ最終作となる『黒い賭博師 悪魔の左手』でも度が過ぎるほどの荒唐無稽さと映画テクニックで見せるなど健闘を続ける。昭和42年(1967年)以降、香港のショウ・ブラザーズに招かれ、自身の『野郎に国境はない』、『狂った果実』、『猟人日記』をそれぞれリメイクした他、渡辺祐介脚本(ノンクレジット)の『飛天女郎』を監督。日本と香港を往来しつつ、日本でも映画を撮るが、日活が勢いを失っていく中、撮影時の飲酒を咎められるなどもあり、昭和43年(1968年)『ザ・スパイダースの大進撃』を持って日活を解雇される。
独立プロ時代 - 昭和46年(1971年)~昭和53年(1978年)[]昭和46年(1971年)には、中平プロダクションを設立。中平作品の脚本を度々担当し、助監督時代から信頼していた新藤兼人に脚本を依頼して製作した『闇の中の魑魅魍魎』が第24回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に撰ばれ好評を博したが、これに洩れた大島渚監督が選考経緯不明瞭としてカンヌ国際映画祭事務当局に強く抗議、騒動となった(日本映画製作者連盟が正式出品作は1国につき1作品の規定にも関わらず、中平・大島両監督の作品を送り、カンヌ国際映画祭事務当局によって『闇の中の魑魅魍魎』が正式出品作として選ばれたという経緯があった)。これに対して後に中平も「フランスの主催する映画祭なのですから文句をつけるものでもなく、抗議は筋違い」と大島監督を批判しているが、結果的に『闇の中の魑魅魍魎』は受賞を逃す。その翌年の昭和48年(1972年)には新藤の率いる近代映画協会に招かれ、中平作品としては意外の『混血児リカ』、さらに翌年にも『混血児リカ ひとりゆくさすらい旅』という2本のズベ公アクションを撮り上げ、本当にあらゆるジャンルが撮れるという腕の確かさを証明した。昭和49年(1974年)、韓国の申フィルムに招かれ、『青春不時着』にて自身の『紅の翼』をリメイク(脚本・共同監督)。昭和51年(1976年)にATGで撮ったデカダンス描写にこだわりを見せたオールフランスロケの意欲作『変奏曲』では、人間の目に最も好ましいとされる画面・ゴールデン・セクション・サイズ(1:1、618)を、映画としては世界で初めて導入する。この時のクランクイン後まで続いた金銭トラブルや諸々の問題は中平をかなり疲弊させたとの見解もある。その後、酒と睡眠薬の乱用も災いしてか身体が衰弱。以後、映画界からは遠ざかり数本のテレビ用2時間ドラマを演出するが、そのほとんどが映画テクニックが要となるサスペンス物であり、中平康らしかったと言えよう。その中には彼が好んだウィリアム・アイリッシュ原作の作品もあった。胃癌の末期であることが分かり、胃癌であることは本人には直接には伝えられていなかったともいわれるが、結局、点滴を射ち担架に寝ながら演出に挑んだオードリー・ヘップバーン主演のサスペンス『暗くなるまで待って』をリメイクしたテレビ用2時間ドラマ『土曜ワイド劇場 涙・暗くなるまで待って』が遺作となる。これら晩年のテレビの仕事は、彼を助監督から監督に昇進させ、最後まで彼の才能を買っていた水の江滝子によって与えられた仕事であった。昭和53年]](1978年)9月11日、胃癌のため52歳の若さで死去。葬儀には黒澤明、渋谷実らの姿も見られ、「彼ほど映画が好きだったやつはいない」と語る映画関係者もいたと伝えられる。若過ぎる死にその才能を惜しむ声は今も少なくない。晩年は、オードリー・ヘプバーン&ビリー・ワイルダーの『昼下がりの情事』のような映画をジュディ・オング主演で映画にしたいと口にしたり、モームの『月と六ペンス』や、シュテファン・ツヴァイクによる伝記小説『バルザック』等の映画化を希望していたという。評論家の田山力哉、娘の中平まみによる評伝がある。
評価[]昭和31年(1956年)の『牛乳屋フランキー』や昭和35年(1960年)の『地図のない町』等で封切り当時から中平作品を高く評価していた小林信彦(中原弓彦)が、昭和46年(1971年)に「笑殺の美学―映像における笑いとは何か」(大光社)の中で、『牛乳屋フランキー』について「日本映画史に残る傑作」と書き、劇中でフランキー堺が見せる、白いツナギ服にガンベルトを装着した二挺拳銃式牛乳配達(中平の助監督時代のスタイルを思わせる)など伝説となったが、『牛乳屋フランキー』は公開後、35ミリ原版の一部が欠落しており、「幻の傑作」といわれてきた。ところが16ミリ化された全長版が神奈川県湯ヶ原町の図書館で見つかり、平成4年(1992年)、にっかつ(現・日活)から「復元版」としてレーザーディスク化され、若い世代にも中平の名が知られるところとなった。その後も小林信彦によって「川島雄三と中平康の主要作品は今でも前衛なのだ」等と評価されて、今日ある再評価への足掛かりとなる。中平の死後20年近く経った平成10年(1998年)には映画評論家・ミルクマン斉藤による中平康を再評価する動きが見え始め、平成11年(1999年)には中平まみ著『ブラックシープ 映画監督「中平康」伝』(ワイズ出版)刊行記念「中平康レトロスペクティヴ」と題して映画8作品が渋谷ユーロスペース他、全国で上映され、一気に再評価の気運が高まる。さらに平成15年(2003年)には第16回・東京国際映画祭協賛企画「映画をデザインした先駆的監督・中平康レトロスペクティヴ」として『闇の中の魑魅魍魎』と『変奏曲』を除く国内の映画全作品に加えて、日本初公開となる『狂恋詩』、『猟人』の2本の香港作品まで上映させるという大規模な回顧上映が渋谷ユーロスペース他、全国で開催され多くの注目を集めた。ユーロスペースでは、軽妙洒脱な持ち味が出た『誘惑』上映後に、その新鮮な驚きと感動で場内に拍手が上がったほどであった。この回顧上映時には『猟人日記』に準主演するなどして中平作品とも関わりのあった戸川昌子が主催する文化サロン「青い部屋」にてミルクマン斉藤と戸川による中平康トークイベントも開催され、こちらも若い映画ファンを中心に賑わいを見せた。またユーロスペースでは『月曜日のユカ』上映に併せて加賀まりこがトークショーのゲストとして来館、つめかけた若い観客達に向かって「(『月曜日のユカ』は)巨匠の作品ってカンジじゃないでしょう? そこが良かったんじゃない」とコメントした。石原裕次郎の『狂った果実』は古くから名作として知られるところであったが、フォトジェニック極まりない『月曜日のユカ』もまた多くの若い観客達によって現在では最も有名な中平作品となっている。そして現在の目で見ると中平康の自伝のようにも見えるといわれる後期作品『闇の中の魑魅魍魎』と、日本映画の枠からの脱却を計った『変奏曲』は過去にビデオ化されており比較的鑑賞が容易な作品であるが、評価については賛否が分かれている(荻昌弘は『変奏曲』をその年のキネマ旬報ベストテンのベスト3にあげている)。一時期、すっかり陳腐化した60年代作品が多く再上映され、映画ファンに見下げられてしまった不運もある。対して、傑作揃いともいわれる初期作品は一部で極めて高い評価を得ているにも関わらず、鑑賞の機会が多いとは言えず、中平が本領を存分に発揮していた初期作品については、まだまだ今後の再評価が待たれる。「20年早かった監督」と言われたり、思想よりも洗練とテクニックを重んじる中平の作品は、現在の観客にこそ受け入れられるのではないかという声もある。平成17年(2005年)には韓国の釜山国際映画祭にて成瀬巳喜男監督『浮雲』、今村昌平監督『神々の深き欲望』、鈴木清順監督『ツィゴイネルワイゼン』等と共に『狂った果実』も紹介、上映された。また韓国でも「中平康レトロスペクティヴ」が開催され、芦川いづみの可憐さと共に『あいつと私』等、話題となった。2008年4月23日、Rock Chipper Record社から、日活時代の中平作品の音楽だけを集めたCD「日活映画音楽集~監督シリーズ~中平康」が発売された。
強い調子の画面を狙い、全編パンフォーカスに挑んだ社会派サスペンス。撮影は姫田真左久。ラスト近くで汽車の中で車窓の風景を眺めている渡辺美佐子の顔のアップでは、スクリーン・プロセスを使い車窓の風景を渡辺の瞳の中に反射させて映り込ませた。小林旭のビリヤード・シーンではドリーをふんだんに使い4日間も掛けて撮影し、クライマックスの自動車衝突シーンの撮影では13日間の徹夜となり100カットも使ったという。東京のど真ん中の交差点の中央でカメラが360度パンし交差点の全ての方向から芝居のタイミングに合わせて必要な劇用車が来るなど、映画テクニックへの執着としては、ある意味、最高潮に達した作品であると思われ、二度と出来ない壮絶な撮影現場だったと伝えられる。尚、小林旭は本作について「これで映画の芝居を覚えた」と語っているという。
「映画をデザインした先駆的監督・中平康レトロスペクティヴ」で上映時に拍手も上がった中平の軽妙洒脱路線の名作。一流好みで銀座が好きだった中平は、美術の松山崇と組んで、銀座通りの向かい合ったビルの家並みを本建築で作った。そして銀座のバーのマダムやホステスは、実際に中平の行きつけの店にいた本物をセットに連れて来て出演させた。二階建てのビルは上下ガラス張りで人物の動きが見えるようにするなどして凝り、こちら側のビルと向かい側のビルとで展開するドラマをクレーンを使用した撮影と絶妙なカッティングで繋いでみせた。安井昌二と踊っている轟夕起子が彼の肩にシラミを発見するシーンでは、当時で一番長かった100ミリの望遠レンズで、シラミを相手に一時間かけて撮ったと伝えられる。また本作ではキュートでモダンな左幸子を見ることが出来る。
巻頭の一人称カメラ、幾何学模様のような螺旋階段、そして風船が空に舞い上がり主人公の飛行機へと繋がるオープニングから冴え渡る、傑作とする声も多い航空サスペンス。前半、セスナ機が滑走路に出て離陸する迄の数分間を執拗なまでにリアルタイムで追い続け、離陸の瞬間を盛り上げた。このシーンでは、あまり細かくカットを割ったので編集者の辻井正則が音を上げたというエピソードも。夜明けとともに石原裕次郎、中原早苗らが犯人のピストルに監視されつつ不時着したセスナ機に乗り込もうとするシーンでは、徐々に夜が明けてくる状態をリアルに表現するため、まず飛行場の空き地に巨大な半円状のホリゾントを建設、夜明け直前の空を描かせた。何カットか撮った後、ホリゾントの色を少し明るく塗り変えてから再び撮影をする、という作業を繰り返し、それを二日間も続けて夜明け直前から夜明け迄のシーンを完成させた。このような方法を取らずに、現実の空を使って役者の芝居、カット数もある夜明けシーンを撮ろうとしても、一瞬で空は明るくなってしまうため現実問題として不可能である。しかしだからといって中平の行ったような手間暇のかかる常軌を逸した撮影方法は行わないのが常識であるが、中平は会社側の「ハリウッドでやれ」という反対を押し切って実行した。
冤罪を題材にした傑作ミステリー。中平が本編部分を撮影している間、当時チーフ助監督だった西村昭五郎に第二班を編成させ(第二班の撮影は間宮義雄)、凝りに凝ったタイトルバックを撮影させた。東京~新潟間を疾走する小高雄二の運転するワゴン車にクレジットタイトルが被るものだが、運転する小高の主観ショットから、そのまま右に180度パンして運転する小高を捉えるショット。木々の間から覗く太陽を追う太陽移動ショットから、そのままパンダウンして運転席からの小高の主観ショットへ。ワゴン車内のカーラジオ付近のアップから後部座席へドリーアウトして小高の背後から車の進行方向を映すショット。運転席の小高を真横で並行して走る車から捉えてナメるように対向移動していくショット。走るワゴン車のボディ後方右に張り出しで取り付けられた固定されたカメラからのショットかと思いきや、意表を突いて横・左方向にスライドしてカメラが車内に入るような形となり、そこに「監督 中平康」のクレジットが出るショットなど、見事な導入部を作り上げた。特にミステリーやサスペンスでは、これから起こる出来事を暗示させるような、こうした描写は重要であり、そのためには手間を惜しまなかった。尚、このタイトルバックは、新藤兼人によるオリジナルの脚本上では「ワゴン車、風を切って走る。タイトル―音楽」、「町へ突入するワゴン車」、「通り抜けるワゴン車」等と書かれているのみである。また本作では効果音や音響面でのこだわりも見せた。
身分違いという設定の吉永小百合と浜田光夫が結ばれない恋をする純愛物だが、作品によって常に演出や映像のトーンを変える中平は、本作ではフィルムの増感処理の方法を変えてソフトな画面を作っており、色彩も薄く滲んだ独特のトーンになっている(ただし劇場の映写されたスクリーンで観なければ識別できない微妙な効果のため、テレビやビデオ鑑賞では判りにくい)。楽しげに雪を投げ合う雪遊びのシーンのモンタージュも名場面。
中平康は、主演格のスターよりも、西村晃、滝沢修、仲谷昇、小池朝雄といった俳優を使い「脇の味」を出すことを得意とし、その独特なキャスティングのセンスと遊び心で「意外なところに意外な人物を出す天才」といわれた。『誘惑』には岡本太郎と東郷青児が本人役で特別出演。『紅の翼』では原作者の菊村到が新聞社の編集長役で出演。『泥だらけの純情』では実際に中平が通っていた銀座のバーで馴染みだったホステスを、浜田光夫に脇毛を抜かせようとするホステス役として起用した他、新聞勧誘員の役で登場する野呂圭介も中平ならではの絶妙な味であった。『現代っ子』ではミッキー安川が悪徳教師役で出演し、渥美清がTVタレント役、水の江瀧子がTVプロデューサー役でそれぞれカメオ出演した他、物語のスジとはあまり関係なく出てくる渚エリも絶品。『光る海』では山本嘉次郎が大学の卒業式で卒業証書を渡す校長としてカメオ出演。『黒い賭博師』では漫画家の加藤芳郎が汽車の中のギャンブラー役で出演。『野郎に国境はない』では冨士眞奈美が旅客機の乗客として小林旭の隣に乗り合わせる美女としてワンシーン出演。『黒い賭博師 悪魔の左手』では戸川昌子がパンドラ王国の第一王妃役でカメオ出演、原泉は凄腕のギャンブラー役、ジュディ・オングは凄腕の「少年」ギャンブラー役で出演。『変奏曲』では二谷英明がスチル写真(止め画)とセリフのみで出演した。また、自身の監督作品である『街燈』では駅弁の販売員の役で、『喜劇 大風呂敷』では船上の客として中平自身が出演している。
中平は映画界に入る前から川島作品には注目しており、その後も親交が続いた。中平はマジメなことが嫌いで「日本軽佻浮薄派」と自任していたが、これは川島の影響も少なからずともあるようである。
中平は黒澤明にも心酔していた。黒澤が松竹で撮った『醜聞』、『白痴』の時には、自ら志願して助監督に就き、その縦横無尽な働きぶりに黒澤に気に入られ、その後も親交が続いた。その親交については後に中平がエッセイに書き残している。黒澤からは、中平が監督に昇進したら脚本を一本書いて提供するとまで言われていたという。黒澤は中平の葬儀にも出席した(中平まみ著『ブラックシープ 映画監督「中平康」伝』 ワイズ出版)。
なぜか中平とは馬が合い、中平邸に遊びに行ったことのある数少ないスター女優。『泥だらけの純情』で吉永小百合が浜田光夫に言うナゾナゾは、中平に頼まれて和泉が考えたものであると伝えられる。中平に高島屋で売っているアメリカ製のお人形を買ってくれと駄々をこねたら買ってきてくれたこともあったそうだ。中平の映画も全て観に行ったと語っており、特に『危いことなら銭になる』は四番館、五番館まで観に行ったという。また和泉は事ある毎に中平のことを、ハリウッドに行っても通用したくらいの才能ある「天才」、「ド天才」等と称して、彼を尊敬していると語る。また和泉としても中平の頭の中は感覚的に体で分かっちゃう、という発言もしている。こうした和泉の発言は様々な文献の中で散見されるが、特に『KAWADE夢ムック 総特集 鈴木清順』(河出書房出版)のインタビューにおいて、鈴木清順の本であるにも関わらず中平の話で盛り上がってしまっている、というのが面白い。
中平は、思ったことをズバズバ言う辛辣さと演出時の厳しい要求とで周囲に毛嫌いされることが多く、俳優陣にもあまり人気がなかったようであるが、女優では、月丘夢路、北原三枝、冨士眞奈美、稲野和子、加賀まりこ、和泉雅子、峯品子などと馬が合ったようで作品にも数本出演している。中原早苗、渡辺美佐子の演技を賞賛し、その他にも細川ちか子、岸輝子なども好んで作品によく出演させていた。中でも早口でセリフを言える中原早苗の演技を特に気に入っていたようで、中平作品に11本も出演して最多出演俳優となった。中原自身も他界した中平について「お父様には可愛がられた。語るのはつらい」と後年、『ブラックシープ 映画監督「中平康」伝』(ワイズ出版)の為の中平まみからのインタビューを断っている。男優では二谷英明が中平に理解を示していたようで、多数の作品に出演していた他、中平最後の映画となった『変奏曲』においてもスチル写真(止め画)とセリフのみの出演をしている。スタッフでは中平作品に15本就いたスクリプターの堀北昌子が可愛がらたといわれ、中平作品に就いた当時助監督の西村昭五郎、加藤彰、小栗謙一らも、中平のプライベートにまで付き合いがあって不満半分なのかもしれないが、慕っているようではある。また『俺の背中に陽が当る』に就いた当時助監督の小原宏裕は中平のことを、よく初期作品ばかりが褒められるが、むしろ『危いことなら銭になる』や『黒い賭博師 悪魔の左手』など、映画を面白く見せるカンにおいてマキノ雅弘に匹敵する超一流の職人、と言っている。また中平がある程度、我侭な映画作りが出来たのは、プロデューサーの大塚和の存在も大きかったといわれる。逆に、親交ではないが、浦山桐郎とは犬猿の仲だったことは有名。
石坂洋次郎、柴田錬三郎など各界の芸術家、小説家などに交友関係があり、『砂の上の植物群』の原作者でもある吉行淳之介とは呑み友達であったと伝えられる。
平成16年(2004年)『弟』(テレビ朝日系)。石原裕次郎の生涯を豪華キャスト競演でドラマ化。『狂った果実』を演出するシーンがあり、石原裕次郎(徳重聡)に厳しい演出で無理難題を押し付けるが、逆に裕次郎から監督に「ダメ出し」をされて一触即発の状態となり、北原三枝(仲間由紀恵)が止めに入るという一幕も描かれた。完成試写では石原慎太郎(長瀬智也)から自分の演出に対して意見され、激昂して試写室を立ち去った。
fr:Kô Nakahira
Smallwikipedialogo.png | このページには、クリエイティブ・コモンズでライセンスされたウィキペディアの記事が使用され、それをもとに編集がなされています。使用された記事は中平康にあり、その著作権者のリストはページの履歴に記録されています。 |
シェアボタン: このページをSNSに投稿するのに便利です。
左メニューサンプル左メニューはヘッダーメニューの【編集】>【左メニューを編集する】をクリックすると編集できます。ご自由に編集してください。掲示板雑談・質問・相談掲示板更新履歴最近のコメントカウン...
ニュース ...
龍村 仁(たつむら・じん、1940年-)はドキュメンタリー監督、元NHKディレクター。有限会社龍村仁事務所代表。目次1 経歴2 作品2.1 ドキュメンタリー2.2 CM2.3 その他3 参考文献4 外...
テンプレート:統合文字『龍の牙-DRAGON FANG-』とは、2007年11月22日にDVDが発売される日本の映画。監督は久保田誠二。製作は株式会社クリエイティブ・ホールディングス。目次1 概要2 ...
『龍が如く 劇場版』(りゅうがごとく げきじょうばん)は、PS2のゲームソフト「龍が如く」を、『着信アリ』『妖怪大戦争』などを手掛けた映画監督の三池崇史が実写映像化した作品。2007年3月3日から東映...
『龍が如く 〜序章〜』(りゅうがごとく じょしょう)は、PS2のゲームソフト「龍が如く」を、「着信アリ」「妖怪大戦争」などを手掛けた映画監督の三池崇史が実写映像化した作品。2006年3月24日にDVD...
齋藤 武市(さいとう ぶいち、1925年1月27日 - )は日本の映画監督。埼玉県秩父市出身。早稲田大学文学部卒。1948年、松竹大船撮影所に助監督として入社。小津安二郎に師事する。1954年、先輩の...
テンプレート:Otheruses黛 りんたろう(まゆずみ りんたろう、1953年 -)は、NHKのドラマ番組ディレクター、演出家、映画監督。目次1 来歴・人物2 手掛けたドラマ3 劇場公開作品4 著書...
テンプレート:予定黒部の太陽(くろべのたいよう)は、木本正次による小説作品、ならびにこれを原作とする日本の映画作品。1968年公開。当時、世紀の難工事と言われた黒部ダム建設の苦闘を描いている。目次1 ...
テンプレート:文学『黒蜥蜴』(くろとかげ)は小説。江戸川乱歩の代表作の一つである。宝石等の財宝を盗む女賊と名探偵明智小五郎が対決する推理小説である。初出は連載小説として雑誌『日の出』に1934年1月号...
黒田 義之(くろだ よしゆき、1928年3月4日 - )は、映画監督。目次1 経歴・人物2 主な監督作品(特技監督・助監督含む)3 主なテレビ監督4 主な脚本作品経歴・人物[]1928年、愛媛県松山市...
黒田 秀樹(くろだ ひでき、1958年4月30日 - )は、日本のCMディレクター、映画監督。大阪府出身。黒田秀樹事務所代表。目次1 プロフィール2 主な作品2.1 CM2.2 映画2.3 PV3 関...
黒田 昌郎(くろだ よしお、1936年 - )は日本のアニメーション演出家。東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。東映動画で「狼少年ケン」、「おばけ嫌い」、「ジャングル最大の作戦」、「タイガーマスク...
くろさわ あきら黒澤 明ファイル:Akira Kurosawa.jpg生年月日1910年3月23日没年月日テンプレート:死亡年月日と没年齢出生地日本の旗 東京府荏原郡大井町職業映画監督家族長男・黒澤久...
テンプレート:Otheruses黒沢 清(くろさわ きよし、1955年7月19日 - )は、日本の映画監督、脚本家。東京藝術大学大学院映像研究科教授。兵庫県神戸市出身。六甲中学校・高等学校を経て、立教...
ののっぺらぼう鏡あべこべの世界絶対ムリ行きたない怖顔合わせおうちで暗い一番怖がりとしてもお願い申し上げください一緒よろしくね↓未来おうちで暗い見たい行きたです特に記載のない限り、コミュニティのコンテン...
黒木 和雄(くろき かずお, 1930年11月10日 - 2006年4月12日 )は、映画監督。宮崎県えびの市生まれ。宮崎県立小林中学校(旧制)、宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校、同志社大学法学部卒業。少年...
黒土三男(くろつち みつお、1947年(昭和22年)3月3日 - )は、日本の脚本家・映画監督。熊本県熊本市出身。目次1 経歴2 作品2.1 TVドラマ脚本2.2 映画監督・脚本3 関連項目4 外部リ...
黒い雨監督今村昌平脚本今村昌平石堂淑朗原作井伏鱒二製作飯野久出演者田中好子北村和夫市原悦子三木のり平音楽武満徹撮影川又昂編集岡安肇配給東映公開日本の旗1989年5月13日1989年9月17日上映時間1...
テンプレート:Otheruses黒い雨(くろいあめ)とは、原子爆弾炸裂時の泥やほこり、すすなどを含んだ重油のような粘り気のある大粒の雨で、放射性降下物(フォールアウト)の一種である。主に広島市北西部を...