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新藤 兼人(しんどう かねと、本名:新藤 兼登(読み方同じ)、1912年4月22日 - )は日本の映画監督、脚本家である。日本のインディペンデント映画の先駆者である。近代映画協会会長。広島県名誉県民。孫の新藤風は映画監督、新藤力也はDDTプロレスリングのリング・アナウンサー。
広島県佐伯郡石内村(現・広島市佐伯区五日市町)に生まれる。石内村は広島市内から一山越えた農村で豪農の家に生まれるが、父が借金の連帯保証人になったことで破産し、14歳の頃に一家は離散。活動写真に惹かれ、山向こうの広島市内へ足繁く通い夜遅く提灯を下げて帰宅した。1933年、尾道の兄宅に居候中に見た山中貞雄の映画『盤獄の一生』に感激し映画を志す。1年半の自転車問屋の臨時雇いで金を貯め、刑事をしていた兄の紹介で京都府警の刑事の伝手を頼りに1934年、京都へ出る。志望していた映画助監督への道は狭く、さらに1年ほどたった後、入ることが出来たのは新興キネマ現像部でフィルム乾燥の雑役から映画キャリアをスタートさせる。満州国が帝制に移行した年であった。目指す創造する世界とはかけ離れた長靴を履き辛い水仕事を1年ほどする。撮影所の便所で落とし紙にされたシナリオを発見、初めて映画がシナリオから出来ているものと知る。
新興キネマ現像部の東京移転に同行し美術部門に潜り込む。美術監督であり美術部長である水谷浩に師事。美術助手として美術デザインを担当[1]。仲間からは酷評されても暇を見つけてシナリオを書き続け投稿し賞を得るが、映画化はされなかった。家が近所だった落合吉人が監督に昇進し、脚本部に推薦され『南進女性』で脚本家デビュー。
1941年、溝口健二の『元禄忠臣蔵』の建築監督として1年間京都に出向。溝口は俳優から演技を聞かれても「反射してください」というばかりで何も俳優に教えないため、他の俳優・スタッフ同様に新藤も反発していた。しかし出来上がった作品を見ると感銘を受けた。伝手を頼り溝口の内弟子になることになり、シナリオを1本書いて溝口に提出するが、「これはシナリオではありません、ストーリーです」と酷評され、自殺を考える程の大きなショックを受ける。スクリプターをしていた内妻の励ましで奮起し劇作集を読みあさり再出発を誓う。この内妻は結核に罹るが、貧しさのためろくに栄養をつけることができず死去。このことは後の初監督作品『愛妻物語』で描かれる。
1942年、情報局の国民映画脚本の公募に応募、佳作に終わる。当選は東宝の助監督・黒澤明の『静かなり』であった。翌年『強風』が当選。これを知った溝口監督から連絡があり生涯ただ1度だけ祇園で御馳走にあずかる。
1944年、所属していた興亜映画が松竹大船撮影所に吸収され脚本部へ移籍。同年4月、脚本を1本も書かないうちに召集され二等兵として呉海兵団に入団。既に32歳ながら年下の上等兵の若者に扱き使われ、彼らの身の周りの世話をする。上官にはクズと呼ばれ、木の棒で気が遠くなる程叩かれ続けた。兵隊は叩けば叩くほど強くなると信じられていた時代だった。同期の若者は大半が前線に送られた。
1945年、宝塚海軍航空隊で終戦。宝塚歌劇団の図書館で戯曲集を全部読み終え松竹大船に復帰。同年秋書いた『待帆荘』がマキノ正博によって映画化され1947年のキネマ旬報ベストテン4位となり初めて実力が認められた。溝口のために溝口の戦後第1作『女性の勝利』(1946年)と『わが恋は燃えぬ』(1949年)を書く。1947年、吉村公三郎と組んで『安城家の舞踏会』を発表。大ヒットしベストテン1位も獲得、シナリオライターとしての地位を固めた。 その後は吉村とのドル箱コンビでヒットを連発。木下惠介にも『結婚』、『お嬢さん乾杯』を書く。
1949年、『森の石松』の興行的失敗等で松竹首脳らが「新藤のシナリオは社会性が強くて暗い」とクレームをつけるに及び、自らの作家性を貫くため1950年、松竹を退社して独立プロダクションの先駈けとなる近代映画協会を吉村、殿山泰司らと設立。
1951年、『愛妻物語』で39歳にして宿願の監督デビューを果たす。この自伝的な内容の脚本はどうしても他人にやらせたくなかったと告白している。この脚本を読んだ大映のスター乙羽信子がどうしても妻の役をやりたいと願い出てくる。同作品に主演したがこれをきっかけに近代映画協会へ参加する。また大映に持ち込んだ『偽れる盛装』が1951年大ヒット、新藤=吉村コンビの最高傑作となった。
1952年、戦後に初めて原爆を直接取り上げた映画『原爆の子』を発表。新藤には妻子がいたが、この頃より主演の乙羽を愛人にするようになる。「(籍を入れない)日陰の身でもかまわない」と言う乙羽は売り出してもらった大映を辞め、新藤のいる近代映画協会入りすることになる。翌1953年、カンヌ国際映画祭に出品。米国がこの作品に圧力をかけ、受賞妨害に外務省が工作を試みた。また西ドイツでは反戦映画として軍当局に没収されるなど、各国で物議を醸したが"原爆許すまじ"という世界の声に合致し各国で大きな反響を呼んだ。チェコ国際映画祭平和賞、英国フィルムアカデミー国連賞、ポーランドジャーナリスト協会名誉賞など多くの賞を受け、世界に於いても反核映画の第1号となった。現在もこの映画はヨーロッパでよく上映されている 。
以降は自作のシナリオを自らの資金繰りで監督する独立映画作家となり、劇団民藝の協力やカンパなどを得て数多くの作品を発表。しかし芸術性と商業性との矛盾に悩み失敗と試行錯誤を繰り返した。
この頃、同時期に日本映画に衰退の陰りが見え大きな映画会社の経営が困難になり始めた。しかし、産業としての映画の衰退は社会派映画や前衛芸術映画の躍進のチャンスでもあった。大映画会社による映画館の独占支配体制が緩み、小さな独立系プロの製作する映画にも上映の機会を得ることができるようになった。
1960年に撮った台詞のない無言の映画詩『裸の島』は資金がなく、近代映画協会の解散記念作品にとキャスト2人・スタッフ11人で瀬戸内海ロケを敢行。撮影期間1ヶ月でこの映画をわずか550万円の予算で作り上げた。これにより、限られた観客を相手に、極端に低い製作費で優れた作品を撮ることが可能であることを示し、大会社の資本制約から離れる事で自由な映画表現と制作ができる事を証明した。作品はモスクワ国際映画祭でグランプリを獲り、新藤は世界の映画作家として認められた。また、モスクワ国際映画祭の際には、各国の映画バイヤーから次々に買い入れの申し入れがあり、最終的に世界62ヶ国に作品の上映権を売ることで、それまでの借金を返済した。
なお、『裸の島』の製作手法(オール地方ロケ。出演者及びスタッフがロケ地で合宿体制を組む。スタッフ全員参加のミーティングを行い、本来の持ち場を越えて意見を交換する。等)は、その後の邦画界におけるインディペンデント映画の製作に、多大な影響を与えたとされる。
以降は放射能を題材とした『第五福竜丸』、『さくら隊散る』、連続拳銃発砲事件の永山則夫を題材にした『裸の十九才』、家庭内暴力に材を取った『絞殺』、死と不能をテーマにした『性の起源』、老いをテーマとした『午後の遺言状』など社会に問題提起を投げかける作品を発表。また「頼まれた仕事は断らない」を信条に、近代映画協会における自作の映画制作と平行し、大手映画会社の企画作品の脚本をも多数手がけた。中には映画史に残る名作、話題作や評価の低い作品も色々あるが、「優れた芸術家は多作である」という観点からいくとこれも秀でた才能といえる。妻を亡くした後、1978年に愛人であり同士であった乙羽信子と結婚。
評価の高い作品には川島雄三監督/『しとやかな獣』(1962年)、鈴木清順監督/『けんかえれじい』(1966年)、神山征二郎監督/『ハチ公物語』(1987年)などがある。娯楽怪作としては江戸川乱歩の原作をミュージカル仕立てにした『黒蜥蜴』(1962年)などがある。TVドラマ、演劇作品も含めると手がけた脚本は370本にも及び、多くの賞を受賞した。「ドラマも人生も、発端・葛藤・終結の3段階で構成される」というのが持論である。
現在も現役で活躍、70年の映画キャリアを誇り、世界最長老の映像作家のひとりである事で知られる。2007年には自らの戦争体験を脚本化した『陸に上った軍艦』(山本保博監督)で、95歳にして映画初主演を果たした。また池広一夫、神山征二郎、千葉茂樹、松井稔、金佑宣、田代廣孝、田渕久美子ら多くの門下生を出した。尚、近代映画協会は1960年代に100近く有った独立プロのうち唯一成功し現在も存続、映画作品を送り出している。長年の映画製作に対して1997年に文化功労者を、2002年に文化勲章を授与された。3度グランプリを受賞したモスクワ国際映画祭では、2003年に特別賞を受賞している。また、映画を通じて平和を訴え続けた功績により2005年に谷本清平和賞を受賞。
1996年、日本のインディペンデント映画の先駆者である新藤の業績を讃え、独立プロ58社によって組織される日本映画製作者協会に所属する現役プロデューサーのみがその年度で最も優れた新人監督を選ぶ新藤兼人賞を新たに創設した。
de:Shindō Kanetofr:Kaneto Shindōhu:Shindô Kanetoka:სინდო კანეტო
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