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マキノ 雅弘(まきの まさひろ、1908年2月29日 - 1993年10月29日)は、日本を代表する映画監督であり、脚本家、映画プロデューサー、録音技師、俳優、実業家である。京都市出身。本名は牧野 正唯(まきの まさちか)。父は「日本映画の父」牧野省三である。父の没後のマキノ・プロダクション撮影部長、松竹太秦撮影所長などを歴任した。野村芳亭、池永浩久、高松豊次郎、根岸寛一、城戸四郎ら映画人との父の代からの交流があった。
1908年(明治41年)2月29日、京都に生まれる。父の牧野省三(マキノ省三)が映画製作を始めた年であった。
父が撮影所長を務めていた日活で子役として働いていたが、父に反発して京都市立第一商業学校(現在の京都市立西京高等学校)に進学した。しばらくは一商のラグビー選手として活躍、この当時の友人にのちの映画監督の久保為義、山中貞雄がいる。17歳のとき、赤痢にかかり、病床に伏したことを機に高校を退学、父が所長を務める東亜キネマ等持院撮影所で、今度は助監督として駆り出されるようになる。やがて父の興した「マキノ・プロダクション」で、18歳のとき、富沢進郎の名前を借りて『青い眼の人形』で監督デビューを果たす。以後、山上伊太郎の脚本による『浪人街 第一話・美しき獲物』は1928年のキネマ旬報ベストテン第1位に輝き、『崇禅寺馬場』が4位、『蹴合鶏』が7位を勝ち取った。翌1929年(昭和4年)には『首の座』で2年連続第1位、『浪人街 第三話・憑かれた人々』も3位に入選した。ところが、正博(当時)の監督した作品は評論家や左翼青年には高い評価を得たものの興行的には惨敗で、父は37万円の負債を負ったまま死去する。
正博は、マキノグループの借金を返済すべく、自らが陣頭指揮を執っていた「マキノ・プロダクション」を引き払い、ひとまずは日活に入社。間もなく馘首され、3年のトーキー研究の雌伏の時期を経て、安価で良質なトーキー映画を供給するため、1935年(昭和10年)、マキノトーキー製作所を設立した。同社では全作、正博が録音技師として責任を持った。この間、日活に所属していたスター、阪東妻三郎、片岡千恵蔵、月形龍之介らの主演作を休む暇もなくスピーディに撮りつづけ、『鴛鴦道中』を28時間で撮り上げるという超人的な離れ業もやってのけた。借金は完済し、女優・轟夕起子と結婚した。正博の手元に残ったのは、渡辺邦男もうなるほどの「早撮りの名人」の称号だった。
人形浄瑠璃を学び、自ら演技をしてみせる女優の演出で知られ、その演技は女優よりずっとうまいといわれた。1940年頃、当時十代の藤間紫が踊る日本舞踊に感銘を受けてからは、もっぱら日本舞踊を研究し、その所作を女優の演出に生かすようになる。
戦後はヒロポン中毒に苦しんだこともあったが、黒澤明脚本による『殺陣師段平』、村上元三原作の「次郎長三国志」シリーズ(東宝で9部作、東映で4部作)、東映では仁侠映画の走りとなった「日本侠客伝」シリーズなど傑作の数々を生み出し、高倉健らをスーパースターにするのに一役買った。藤純子を自宅に住ませ女優としての所作を一から叩き込み、東映史上随一の女優に育てた。日活でも演出をし、梶芽衣子の名付け親でもある。1972年(昭和47年)、東映オールスター映画『藤純子引退記念映画 関東緋桜一家』は大ヒットしたものの質は評価されず、最後の劇場用映画となった。生涯に監督した劇場用映画は計261本。その後はTVドラマの監督や監修を務めた。
1993年(平成5年)10月29日死去。テンプレート:享年。死の直前は、サッカー日本代表のワールド・カップ予選の対イラン戦(「ドーハの悲劇」の試合)をテレビで観戦しており、試合途中で「日本代表の勝利を確信して」亡くなった。
生涯、大きくは5回改名している。
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fr:Masahiro Makino
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