狂歌百物語(追加) - いにしえwiki
果はてさへ 飯めし炊かしぎ 身には味噌持つ 蟹ぞあやしき(京 楳廼門花兄)003.旗色の 赤きをしのぶ 平家蟹 しろ泡ふきて など飯や炊く(遠江見附 草廼屋)004.有りし世を 忍ぶなるらん 平家蟹 身には刃物を 離さゞりけり(讃岐黒渕 玉露園秋光)005.紅くれなゐの 簇そうの
果はてさへ 飯めし炊かしぎ 身には味噌持つ 蟹ぞあやしき(京 楳廼門花兄)003.旗色の 赤きをしのぶ 平家蟹 しろ泡ふきて など飯や炊く(遠江見附 草廼屋)004.有りし世を 忍ぶなるらん 平家蟹 身には刃物を 離さゞりけり(讃岐黒渕 玉露園秋光)005.紅くれなゐの 簇そうの
曖昧さ回避この項目では、遠江国の氏族について記述しています。その他の氏族については「奥山氏」をご覧ください。奥山氏(おくやまし)とは、遠江国の氏族で、約2系統ほど存在する。「遠江奥山氏」とも呼ばれる。奥山氏 (三浦氏) : 「三浦奥山氏」とも呼ばれる。碓井貞光の系統である三浦氏(
堀江藩(ほりえはん)は、明治維新期の短期間、遠江国に存在した藩。藩庁は遠江国敷知郡の堀江陣屋(現在の浜松市西区舘山寺町)。もともと高家旗本大沢家の知行地(堀江領)であったが、大政奉還後の明治元年(1868年)に実高が1万石以上あると届け出、明治政府から藩として認められた。明治4年
、江戸幕府の初代征夷大将軍となった。または、貿易を奨励したので、「貿易将軍」とも呼ばれた。目次1 概要2 生涯2.1 幼少時代2.2 独立・遠江国攻略2.3 武田氏との戦い2.4 『長篠の戦い』2.5 武田氏滅亡2.6 本能寺の変2.7 『小牧長久手の戦い』2.8 秀吉に臣属2.
房らの異母兄、長松(家秀)[1]・徳川家光・徳川忠長[2]・保科正之(松平光綱)[3]らの父。生涯[]出生から後継者争い[]家康の三男として遠江国浜松に誕生した。はじめは長松だったが、父・家康の後継者となると、長兄の信康の幼名でもあった「竹千代」と改名した。生母は側室の於愛の方(
F%BC%BD_%E5%BE%A1%E5%AC%A2.png[改壱]の画像を表示する/隠すボイス[]声:伊藤静自己紹介私は、井伊氏発祥の地、遠江国井伊谷城にございます。多くの者たちが私を居城としてきましたが、やはり直虎様との思い出が私の中に強い輝きとして残っていますね。そんな名高
下総関宿藩5万石に移封)牧野成春:8万石、1705年 - 1712年(日向延岡藩8万石に移封)松平信祝:7万石、1712年 - 1729年(遠江浜松藩7万石に移封)松平資訓:7万石、1729年 - 1749年(遠江浜松藩7万石に移封)大河内松平家:7万石、1749年 - 1871
清洲同盟』が成立する。1567年6月、信長の娘である五徳を娶り、当時は9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らすことになる。同年7月に父・家康は遠江国の浜松城(静岡県浜松市中区)に移り、岡崎城を譲られた。翌8月に元服して、岳父の信長より偏諱の「信」の字を、父・家康から「康」の字をそれ
種がある。近畿式は大和・河内・摂津で生産され、三遠式は濃尾平野で生産されたものであろうと推定されている。近畿式は、近畿一帯を中心として、東は遠江、西は四国東半、北は山陰地方に、三遠式は、東は信濃・遠江、西は濃尾平野を一応の限界とし、例外的に伊勢湾東部・琵琶湖東岸・京都府北部の日本
A. 遠江久野藩は、遠州(現在の静岡県袋井市鷲巣上末本)に存在した藩です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E6%B1%9F%E4%B9%85%E9%87%8E%E8%97%A9
A. 遠江国は、現在の静岡県の大部分と愛知県東部、岐阜県の一部、三重県の一部を含む令制国です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E6%B1%9F%E5%9B%BD
シリーズ』の登場人物。CV.雪野五月(現.ゆきのさつき)怪異の専門家であり忍野メメ、貝木泥舟、影縫余弦の大学の先輩でオカルト研究会所属。神原遠江(旧姓:臥煙遠江)の妹であり、神原駿河の叔母に当たる。実年齢は30を超えているはずだが、外見は10代にしか見えない。様相もSサイズの体格
野大徳寺町の大徳寺官位従五位下、従四位下、因幡守幕府江戸幕府 書院番頭、大番頭、大坂城代主君徳川家光、家綱藩信濃小諸藩主、摂津国・河内国内、遠江浜松藩主氏族青山氏父母青山忠俊、大久保忠佐娘兄弟宗俊、宗祐、忠栄、正俊、滝川正利正室、寿松院、川口正信室、中根正次室妻石橋氏、大河原氏子
が広い。丸太を削いで角材にするための道具で、薪割りには不適。日本で戦斧が多く使われ出したのは南北朝期からの事であり、文献では『太平記』で長山遠江守が赤松氏範との一騎討ちで大鉞おおまさかりを使用している。基本的に戦場での斧は武器よりも兵站の建設、あるいは城門の破壊が主な用途だった。
A. 遠江一宮駅は、静岡県周智郡森町一宮にある天竜浜名湖鉄道天竜浜名湖線の駅です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E6%B1%9F%E4%B8%80%E5%AE%AE%E9%A7%85
A. 相良藩は、遠江国榛原郡相良(現在の静岡県牧之原市相良)周辺を領した藩で、1601年に遠江国榛原郡のうち相良・三福・小笠・大須賀の四村を領して成立しました。その後、1607年に相良城が築城され、1619年には相良藩主が交代しました。1634年に、相良藩は幕府から改易処分を受け
食わされて満身創痍となった山姥が川へ飛び込んだ後、急に大雨が降り出して七日七夜の大洪水になったという記録もある(『白髪の洪水』)。後述する『遠江国風土記伝』の山姥は水神に転化した(山姥権現として祀られた)とも言われており、息子の白髯童子は雨乞いの神として祠に祀られている。その山姥
へば 見ぬさかひなる 霞をも やどながらしる 春は来にけり(有馬重広)035.山里は 軒端つづきに 峯の松 今日立ばなの 門にもてなす(小堀遠江守宗甫)036.東雲の いま一こゑの 郭公 よし山の端に 月は入とも(諏訪周防守忠治)037.浦人の 汐くむ袖も 朽ちぬらん 磯のとまや
第71話 海道の覇者 ~遠江~[]迂回しつつ慎重に、決戦の地へと侵攻を続ける殿一行。絶え間なき緊張に心労を重ねる中、巨大兜の高笑いが響き渡る。前半柳之丸ふぅ……ようやく遠江国に到着、か……。那古野城敵の軍勢を避けて、迂回の連続。こんなに慎重に進んでちゃ、何日掛かるか分かったもんじ
同時に、同じく駿府城主であった頼宣の補佐を命じられた。大坂の陣に際しては頼宣の軍を実質率いつつ、家康の幕下にて全軍の指揮をも担当した。戦後、遠江掛川城主となる。元和5年(1619年)の頼宣の紀州藩転封にも付随し、同年7月19日田辺城3万8,000石を与えられた。以降、一族や紀州藩
。公家として成立した。家紋は茶の実紋。堀江氏 (越前国) : 藤原北家利仁流河合斎藤家一門。越前国坂北郡堀江郷[1]を拠点とした。堀江氏 (遠江国) : 藤原南家工藤氏流伊東氏一門。遠江国周智郡堀江郷[2]を拠点とした。脚注[]↑ 現在の福井県あわら市堀江大字↑ 現在の静岡県浜松
心を 異国の はてのはてまで しらせけるかな (日下部与助元五)093.越えぬべき 山路をいかに ふる雪の みなれし鎧 袖おもるなり (金上遠江盛備)094.名にしおふ 長門の海を 来てみれば あはれをそふる 春の浦波 (佐々陸奥守成政)095.みな人は わたりはてぬる 世の中は
た。繁清(繁貞の子)・維貞(繁清の子)・繁賢(維貞の子)・実繁(繁賢の子)・度繁(実繁の子)と続いたが、度繁に嗣子がなく断絶した。奥山氏 (遠江国) : 遠江国の氏族で、約2系統ほど存在する。奥山氏 (陸奥国) : 「奥州奥山氏」とも呼ばれる。相馬氏(坂東八氏千葉氏の庶家)の流れ
し・ほりごえし)とは、源姓足利氏(下野源氏)一門の氏族。約2系統が存在する。前者は「ほりこしし」、後者は「ほりごえし」と呼ばれる。堀越氏 (遠江国) : 三河吉良氏(三河源氏)流今川氏(駿河源氏)一門。遠江国堀越郡[1]を拠点とした。庶家に瀬名氏・三河関口氏があり、同族に小鹿氏・
て、腹心の跡部勝資と長坂光堅(長閑斎/釣閑斎)の進言により、1574年(天正3年)、ついに『三河遠征』を行なった。父の信玄すら果たせなかった遠江国高天神城を落城させるなど、連戦連勝の勢いだった。しかし、1575年5月19日の『長篠の戦い』で、織田信長・徳川家康の連合軍に挑んで、鉄
も木も わが大君の 国なれば いづくか鬼の 住家なるへき (紀朝雄)005.わかれても 又めぐりくる 春ごとに 花の都を おもひおこせよ (遠江守為憲)006.あはれとも きみだにいはば 恋わびて しなん命も をしからなくに (六孫王経基)007.よそにても 風のたよりに 我ぞと
第68話 怨嗟の鳴動 ~但馬~7 第69話 如何なる運命でも ~播磨~8 第70話 古より人を化かす者 ~三河~9 第71話 海道の覇者 ~遠江~10 第72話 おわりはじまり ~尾張~6章 継承編[]第64話 群島に忍ぶ ~隠岐~[]中国地方の乱れを治めてから、数週間。兜の影を
豆国造の系統である値宿禰の後裔が伊豆国田方郡肥田郷[6]を拠点とした。幕末から明治時代初期に幕臣・官僚の肥田為良(浜五郎)が出た。肥田氏 (遠江国) : 遠江肥田氏、または藤姓肥田氏とも呼ばれる。藤原北家利仁流伊勢加藤氏一門の遠山氏の庶家。発祥地は不詳だが、惣領家の遠山氏が美濃国
A. 遠江森町の舞楽は、静岡県周智郡森町に伝わる3つの民俗芸能の舞楽の総称です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E6%B1%9F%E6%A3%AE%E7%94%BA%E3%81%AE%E8%88%9E%E6%A5%BD
晋也との系譜関係は明瞭ではないが、肥後上田氏は、肥後国球磨郡(現 熊本県人吉市)を本拠とする、藤原為憲流の相良氏の一族。相良氏は、藤原周頼が遠江国相良(現 静岡県牧之原市相良)を領して相良氏を称したのに始まる。相良氏は鎌倉幕府の御家人となり、肥後国多良木の地を与えられて肥後国に転
A. 角避比古神社は、遠江国浜名郡にあった神社です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E9%81%BF%E6%AF%94%E5%8F%A4%E7%A5%9E%E7%A4%BE
出身の旗本。松平信正 (松平大河内家) : 三河国の土豪である三河大河内氏[3]の系統である三河国吉田藩主・松平信復(松平大河内家)の4男。遠江国浜松藩第2代藩主。脚注[]↑ 信有(信朋(信邦の父、信智の祖父、信義の曾祖父)・諏訪頼均・信安(族父の信治の養子、信就の父、信幅の祖父
平忠明 (松平川勝家) : 官職は民部少輔・志摩守。川勝広有の子、御油松平家[1]の当主松平忠益の婿養子となる。松平川勝家の祖となり、石高は遠江国志都呂陣屋5500石。大番頭を務めた。脚注[]↑ 同族に深溝松平家があった。この記事は 『松平忠明』 のための曖昧さ回避ページです。下
(小平太)の子、忠長・康勝の兄、忠次の父。外祖父の大須賀康高の養子となる。徳川家康より松平姓(松平大須賀家)を賜った。上総国久留里藩主、後に遠江国横須賀藩の初代藩主。子の忠次は榊原姓に復した。奥平忠政 : 加納藩初代藩主・奥平信昌(貞昌)の子、家昌・松平家治の弟、松平忠明の兄、忠
の兄弟を警戒した頼朝によって、所領の経営について違勅の罪を問われ、文治5年(1189年)・建久元年(1190年)と相次いで、駿河国大津御厨と遠江国榛原郡双侶荘の地頭職を解任され、隠岐国に流罪され、彼自身は当地で生涯を閉じたという。長男の頼時(四郎)は常陸国に流罪されたが、次男の頼
れを滅ぼした(『東勝寺の戦い』)。今まで北条得宗家から冷遇された義貞は感無量になった。だが、千寿王丸を奉じた岩松政経・経家父子らが、三河国~遠江国から鎌倉にやって来た足利氏一門の細川和氏・頼春・師氏兄弟[37]らとともに「これにより、鎌倉を統治する名義は千寿王丸さまである。義貞ど
りに忠直(主計助)というが存在していたことが確認されて、後裔に『寛政譜』における旗本・榊原経定が該当されると伝わる。榊原氏 (三国氏) : 遠江榊原氏とも呼ばれる。遠江国の豪族の井伊氏一門の遠江奥山氏の当主の奥山行直の後裔の篠瀬吉次(作右衛門)の次男・直政(作大夫)が榊原氏と称し
兼山町森地区)を本拠地とした。庶家に美濃戸田氏(三河戸田氏)・美濃上野氏・笠合氏があり、同族に板取氏・大畑氏[3]・美濃延友氏・三河西郷氏・遠江植村氏・桑良氏・美濃石谷氏・美濃高山氏・三河島田氏(三河嶋田氏)があった。戦国時代に、可光の玄孫で織田信長の武将である森可成(与満/三左
本多利綱肖像本多 利綱(ほんだ としつな、? - 元亀元年(1570年))は、戦国時代の武将。官職は遠江守。葛城姓賀茂氏流三河本多氏一門の水野本多家(尾張本多氏)の祖。利元(太郎左衛門)の父、利久(利忠)・杉俊氏(与左衛門)兄弟の祖父、俊政(利正/利朝)・光吉(新太郎・外記)兄弟
足利公方家(鎌倉足利家)の当主である足利基氏(尊氏の末子)が一族の関東管領の畠山国清(源姓畠山氏一門)に命じて、武将の竹沢右京亮と江戸高重(遠江守忠重)[5]に武蔵国で迎え撃たせた。両人は少将局という美女を義興に与えて巧みに取り入れて、これを討ち取ろうとしたが失敗に終わった。焦っ
日(1521年12月21日)?/天文5年(1536年)?)は、戦国時代の武将。通称は兵庫介・上総介・常陸介・越前守ともされるが明確ではない。遠江国高天神城(土方城)の城主であったといわれている。目次1 出自2 概要2.1 今川氏家臣説2.1.1 1521年没説2.1.2 1536
嗣子がなく、ついに大井田氏は断絶した[7]。歴代当主[]大井田氏継 : 大島義継の子、時継[8]・篠原時氏[9]の兄。大井田義隆大井田経隆(遠江守)大井田氏経 : 経兼[10]の弟、羽田経世[11]の兄。大井田経景 : 大岡経重(越後大岡氏の祖)[12]の兄。大井田経貞大井田氏満
公重 : 前名は土佐貞国、通称は孫次郎、法号は休賀斎/音寿斎/定国入道。土佐貞雄(貞勝)の子、公唯(孫左衛門)の父。奥山新陰流の開祖。正室が遠江奥山氏の娘で、その婿養子となったという。一説に松平忠輝の武芸の師という。奥平貞国 (久兵衛) : 通称は三郎兵衛/久兵衛。直参旗本の服部
こと義同(右馬助)[3]とともに女婿でもある惣領家の新田義興(義貞の次子)に従い、1358年に武蔵国矢野口の多摩川付近で、足利方の江戸高重(遠江守忠重)[4]の甥で、義興の武将であった江戸高良と蒲田忠武の裏切りによって、ともに騙し討ちにされた。義高の子の義世は足利義持(義満の子)
春義(春儀入道/長氏/春茂)の孫、氏興(氏清)[1]の子、長慶(ながのり)の父。妻は相模平氏の相模北条氏(北条伊勢家)の当主の北条氏康の娘。遠江国の高天神城主で、遠縁筋の徳川家康が派遣した軍監である三河大河内氏一門の大河内政局(まさちか、源三郎)を強引に幽閉して、同族である武田勝
(大井田景国)[2]室の父。嗣子の景能に家督を譲って、隠居したが、景能が父よりも先立ったために、氏景の弟の義房が甥の後を継いだ。新田氏景 (遠江守) : 佐田氏景とも呼ばれる。九州宇都宮氏流城井氏一門の九州新田氏の当主の新田能光の後裔で[3]、筑後国三潴郡新田郷[4]を拠点とした
。高経の玄孫の義建の代で嗣子がなく、義建の族弟で斯波氏一門の越前大野氏の嗣子の義敏を養子に迎え、以降は血筋的には大野斯波家となった。越前国・遠江国守護も兼ねた義敏の子の義寛(大野義良)の代に尾張国守護になったことではじまる。その後裔に中で尾張国守護になった者がいた。しかし、尾張国
樋口氏(ひぐちし)とは、日本の氏族。約4系統が存在する。陸奥国・下野国・駿河国・遠江国・近江国・山城国・摂津国・備前国・伯耆国・安芸国・築前国・日向国・豊後国などの異流も多い。樋口氏 (古代) : 大和樋口氏とも呼ばれる。曾根連を祖とする古代の大和国の氏族。大和国広瀬郡樋口郷[1
。高経の玄孫の義建の代で嗣子がなく、義建の族弟で斯波氏一門の越前大野氏の嗣子の義敏を養子に迎え、以降は血筋的には大野斯波家となった。越前国・遠江国守護も兼ねた義敏の子の義寛(大野義良)の代に尾張国守護になったことではじまる。しかし、尾張国守護代の織田氏(藤原北家利仁流)の勃興によ
一門が吉良氏を称した。しかし、この系統も江戸時代初期に惣領家の長曾我部氏の滅亡とともに断絶した。脚注[]↑ 庶家に源姓品川氏(品川今川家)・遠江堀越氏(庶家に瀬名氏・三河関口氏がある)・小鹿氏・三河長澤氏(三河長沢氏)・三河品川氏(品川堀越家)・蒲原今川家・持永今川家(肥前今川氏