榊原氏

ページ名:榊原氏

榊原氏(さかきばらし)とは、日本の氏族。約6つの系統に分かれている。

  1. 榊原氏 (源氏) : 源姓榊原氏(伊勢源氏)とも呼ばれる。足利氏下野源氏)一門の仁木氏(三河源氏)の庶家。伊勢国壱志郡榊原郷[1]を拠点とした。室町時代前期に伊勢国守護であった仁木義長の7世の孫・利長[2]が、榊原氏と称したことにはじまる。利長の子・勝長は村上源氏流である公家の北畠家(伊勢源氏)に仕えて、勝長の子・清長(刑部少輔)、清長の子・氏経(三左衛門尉/一徳斎)まで代々が榊原城を根拠とした。戦国時代の天正4年(1576年)に、北畠家が織田信長によって滅ぼされた後に、氏経は信長に仕えた。天正12年(1584年)には織田信包(信長の弟)に仕えており、同国奄芸郡中山郷[3]に移ったといわれる。後に氏経は大和国で子の刑部少輔と孫の三左衛門尉とともに戦死を遂げ、後継ぎがなかったために、下記にある義理の叔父(叔母の夫)の賀茂和徳の子で、外従兄弟である清政(康政の兄)が榊原氏の後を継いだ。
  2. 榊原氏 (三河国) : 三河榊原氏とも呼ばれる。上記の伊勢榊原氏の当主である榊原勝長の娘[4]三河賀茂氏の一門である賀茂和徳に嫁いで、和徳が勝長の婿養子となり、榊原長政と改称した[5]。その子の清政は外従兄弟である上記の氏経が嗣子がないまま戦死を遂げたため、その後を継いで、その家祖になったという。徳川家康に仕えた康政(小平太)は長政の子で、清政の弟である。この榊原氏は譜代大名として、江戸時代には繁栄した。嫡流は松平榊原家と称し、庶家に駿河榊原氏・三河落合氏[6]がある。
  3. 榊原氏 (藤原氏) : 藤姓榊原氏とも呼ばれる。藤原北家秀郷流の佐藤公光の後裔の基重(主計允)が、上記の伊勢国壱志郡榊原郷村を拠点として、その次男の基氏(藤次郎)が榊原氏と称したという。上記の北畠家、ついでに松平親氏に仕えた。永正15年(1518年)ごろに三河松平氏の奉行人のひとりに忠直(主計助)というが存在していたことが確認されて、後裔に『寛政譜』における旗本・榊原経定が該当されると伝わる。
  4. 榊原氏 (三国氏) : 遠江榊原氏とも呼ばれる。遠江国の豪族の井伊氏一門の遠江奥山氏の当主の奥山行直の後裔の篠瀬吉次(作右衛門)の次男・直政(作大夫)が榊原氏と称したことからはじまる。
  5. 榊原氏 (児島氏) : 備前榊原氏とも呼ばれる。備前国の豪族である備前児島氏一門の花房職秀の次男の職直が徳川家康の命で、榊原氏と称したことからはじまる。
  6. 榊原氏 (度会氏) : 伊勢国外宮の社家である度会氏一門。上記の伊勢国壱志郡榊原郷を拠点として、豪族として存在した。

脚注[]

  1. 現在の三重県津市榊原町
  2. 仁木尚将(貞長)の子、高長・高将の弟。
  3. 現在の三重県いなべ市北勢町中山大字
  4. 生母は道家氏。
  5. 「按ずるに、清長の二子を長政という。その子康政・実に徳川氏四天王の一たり。今藩翰譜、諸家系図によるに、一志郡榊原の住人七郎右衛門清長・三河に移る。康政は天文17年(1548年)、同地に生まると記す。しかれども北畠国永家集に『長政・永禄8年(1565年)没す……』と載す。また遺響(勢陽五鈴遺響)に『長政の弟を左京進とす。その子八左衛門あり。左京は富田氏に、八左は藤堂氏に仕ふ』と記す。よりて考うるに、清長の三河に移る年月日疑いなきに非ず。あるいは康政のごとき、本州に生まれしには非ざるか、しばらく此に付記す」(『伊勢名勝志』一志郡榊原城条)
  6. 榊原清次(小平次)の次男の左平次道次(物部姓十市氏流信濃中原氏の後裔の落合道久の婿養子)を祖とする。

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